FEATURE特集
⑯松本隆|南佳孝『冒険王』|作詞家名鑑・歌詞を味わう名盤
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私が好きな「歌詞」と「作詞家」
1. 沢田研二「勝手にしやがれ」(1977年) 作詞:阿久悠 作曲:大野克夫 2. 堀江淳「メモリーグラス」(1981年) 作詞・作曲:堀江淳 3. 松山千春「恋」(1980年) 作詞・作曲:松山千春 &header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">スペシャル
私が好きな「歌詞」と「作詞家」
1. 沢田研二「勝手にしやがれ」(1977年) 作詞:阿久悠 作曲:大野克夫 2. 堀江淳「メモリーグラス」(1981年) 作詞・作曲:堀江淳 3. 松山千春「恋」(1980年) 作詞・作曲:松山千春 &header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">49 件公開
歌の世界というフィクションを介し、愛を身の上事として打ち明け続けた生涯
&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">プレイリスト
歌の世界というフィクションを介し、愛を身の上事として打ち明け続けた生涯
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この世に存在し得ない人物の人生、心の機微、世界を立体化して魅せる歌の設計士
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この世に存在し得ない人物の人生、心の機微、世界を立体化して魅せる歌の設計士
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作詞家の詞について考えることで、自分のルーツに山上路夫さんの詞があったんだと思い起こさせてくれた
――小西康陽さんが、名作詞家たちの作品を語っていただくインタビュー、最終回は「放送作家、コピーライター、マルチタレント」という枠です。日本のポップスの最初期である50年代、まだレコード会社の専属作詞家が活躍していた時期から、放送作家出身の方が多く作詞を手掛けることがありました。まず、その時代の代表格でもある永六輔さんです。 小西康陽 坂本九さんの「上を向いて歩こう」(’61年)、水原弘さんの「黒い花びら」(’59年)、北島三郎さんの「帰ろかな」(’65年)と3曲選びました。 ――放送作家やコピーライターの方って、企画・コンセプトありきで作詞されることが多い印象がありますが、永六輔さんの詞、ことに挙げていただいた3曲は、そういう企画性が全く感じられない詞ですね。 小西康陽 うん、そうですよね。その意味では、永六輔さんも「詩人」であったのかもしれないですね。 ――3曲とも、中村八大さんの作曲で、いわゆる「六・八コンビ」と呼ばれる組み合わせです。 小西康陽 永六輔さんと中村八大さんって、たまたま銀座の往来でばったり出会って、明日までに10曲を書き下ろさなくてはならなくて、困り果てていた八大さんが、永さんにその場でお願いして徹夜で作ったうちの1曲が「黒い花びら」だそうですね。そんな偶然って本当にすごいことだと思う。水原弘 「黒い花びら」 1959年7月発売
――しかも「上を向いて歩こう」と「黒い花びら」は、世界観は全然違うのにどちらもスタンダードになってしまった。 小西康陽 永六輔さんは、「いい湯だな」(’66年)をはじめ、いずみたくさんと組まれた「にほんのうた」シリーズも全部好きです。ただ、北島三郎さんの「帰ろかな」ですが、この曲に関しては、作家の方から売り込んだのか、レコード会社の方から六・八コンビに依頼したのか、どっちなんでしょうね、すごく不思議です。 ――「帰ろかな」は、「上を向いて歩こう」と同様に、NHKの『夢であいましょう』の「今月のうた」として作られた曲だそうです。 小西康陽 ああ、そうだとしたら、北島三郎さんに歌わせたのは大正解ですね。 ――この曲、三橋美智也さんが得意だった望郷演歌、集団就職の世界ですよね。永六輔さんと並ぶこの時代の放送作家の方では、やはり青島幸男さん。まずハナ肇とクレージーキャッツの「ホンダラ行進曲」(’63年)。歌詞をあらためて読んでみたのですが、リズムからの発想なのか、意味のない言葉を、思いつきのフレーズだけでパッと作っちゃったような…。 小西康陽 そのテキトーさがすごいですよね。でもすごく印象に残る。いや、これは本当にクレージーキャッツのベストワンだと思います。そもそも「ホンダラ」ってどういう意味なんだ?ってことを、人に考えさせない。さらに坂本九さんが、ダニー飯田とパラダイスキング在籍時に出した「九ちゃんのズンタタッタ(聞いちゃいけないよ)」(’61年)。これは作曲も青島さんがやっているので、よりメロディーと言葉が一体化している。あとはやっぱり坂本九さんの「明日があるさ」(’63年)。これは逆に、えっ、これも青島さんの作詞だったんだ!という驚きがありました。ハナ肇とクレージーキャッツ 「ホンダラ行進曲」 1963年4月20日発売
――ストレートな人生讃歌ですから、ナンセンスな「ホンダラ行進曲」とは随分と違う作風です。永さんにしても青島さんにしても、この時代の放送作家の方って、今はあまりいないタイプかもしれませんね。この時代は他にも野坂昭如さんや五木寛之さんたちもCMソングの作詞を始めています。他に、今回お名前が出てこなかった作詞家の方で、印象に残った方、エピソードのある方、あるいはもっと世代が後の方ではどなたかいらっしゃいますか。 小西康陽 「音楽家」の枠になるんですが、つんく♂さんが作る曲は、やっぱり言葉が入ってきますよね。僕は天才だと思う。モーニング娘。の「LOVEマシーン」(’99年)を聴いた時は感動しました。「日本の未来は」っていう箇所が特に好きです。他にもいい作詞家さんはたくさんいますが、特に僕が取り上げなくてもいいかな…という方たちでしょうか。エピソードで言えば僕、ビクターのスタジオで、康珍化さんが目の前で作詞をしているのを見たことがあるんです。亀井登志夫さんの曲に詞をつけて、その曲に僕がアレンジを頼まれていたんですが、その場で何度も書き換えて、最初に来た詞と全然違う、真逆の内容になっていてびっくりした記憶があります。本当に、20分ぐらいで書き直されていました。作詞家の人ってみんな書くのが早いです。あれは僕にはできないな、と思った。モーニング娘。 「LOVEマシーン」 1999年9月9日発売
――小西さんは、通常、詞を書かれる場合、どのくらいかかるのでしょうか。 小西康陽 自分で曲も書く場合は、もう一瞬ですけれど、例えば田島貴男さんの曲に詞をつけた時などは、2日で1曲みたいな感じだったかなあ。コーラスを入れてから歌詞を直したりして、エンジニアに怒られたり。 ――小西さんが、これまで好きな詞として挙げていただいた作品には、ご自身で歌われたり、アレンジされてカヴァーした作品が多いですが、実際に歌ってみて新たな発見があった、ということはありますか。 小西康陽 歌って発見したといえば、昨年、パラダイスガラージの豊田道倫さんと名古屋でライブをやったんですよ。名古屋でやるなら、と思って僕の大好きないとうたかおさんの「あしたはきっと」(’72年)をカヴァーしたんです。いとうたかお 「あしたはきっと」 1972年05月1日発売
――いとうさんは名古屋のフォークシーンの第一人者ですね。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">インタビュー
作詞家の詞について考えることで、自分のルーツに山上路夫さんの詞があったんだと思い起こさせてくれた
――小西康陽さんが、名作詞家たちの作品を語っていただくインタビュー、最終回は「放送作家、コピーライター、マルチタレント」という枠です。日本のポップスの最初期である50年代、まだレコード会社の専属作詞家が活躍していた時期から、放送作家出身の方が多く作詞を手掛けることがありました。まず、その時代の代表格でもある永六輔さんです。 小西康陽 坂本九さんの「上を向いて歩こう」(’61年)、水原弘さんの「黒い花びら」(’59年)、北島三郎さんの「帰ろかな」(’65年)と3曲選びました。 ――放送作家やコピーライターの方って、企画・コンセプトありきで作詞されることが多い印象がありますが、永六輔さんの詞、ことに挙げていただいた3曲は、そういう企画性が全く感じられない詞ですね。 小西康陽 うん、そうですよね。その意味では、永六輔さんも「詩人」であったのかもしれないですね。 ――3曲とも、中村八大さんの作曲で、いわゆる「六・八コンビ」と呼ばれる組み合わせです。 小西康陽 永六輔さんと中村八大さんって、たまたま銀座の往来でばったり出会って、明日までに10曲を書き下ろさなくてはならなくて、困り果てていた八大さんが、永さんにその場でお願いして徹夜で作ったうちの1曲が「黒い花びら」だそうですね。そんな偶然って本当にすごいことだと思う。水原弘 「黒い花びら」 1959年7月発売
――しかも「上を向いて歩こう」と「黒い花びら」は、世界観は全然違うのにどちらもスタンダードになってしまった。 小西康陽 永六輔さんは、「いい湯だな」(’66年)をはじめ、いずみたくさんと組まれた「にほんのうた」シリーズも全部好きです。ただ、北島三郎さんの「帰ろかな」ですが、この曲に関しては、作家の方から売り込んだのか、レコード会社の方から六・八コンビに依頼したのか、どっちなんでしょうね、すごく不思議です。 ――「帰ろかな」は、「上を向いて歩こう」と同様に、NHKの『夢であいましょう』の「今月のうた」として作られた曲だそうです。 小西康陽 ああ、そうだとしたら、北島三郎さんに歌わせたのは大正解ですね。 ――この曲、三橋美智也さんが得意だった望郷演歌、集団就職の世界ですよね。永六輔さんと並ぶこの時代の放送作家の方では、やはり青島幸男さん。まずハナ肇とクレージーキャッツの「ホンダラ行進曲」(’63年)。歌詞をあらためて読んでみたのですが、リズムからの発想なのか、意味のない言葉を、思いつきのフレーズだけでパッと作っちゃったような…。 小西康陽 そのテキトーさがすごいですよね。でもすごく印象に残る。いや、これは本当にクレージーキャッツのベストワンだと思います。そもそも「ホンダラ」ってどういう意味なんだ?ってことを、人に考えさせない。さらに坂本九さんが、ダニー飯田とパラダイスキング在籍時に出した「九ちゃんのズンタタッタ(聞いちゃいけないよ)」(’61年)。これは作曲も青島さんがやっているので、よりメロディーと言葉が一体化している。あとはやっぱり坂本九さんの「明日があるさ」(’63年)。これは逆に、えっ、これも青島さんの作詞だったんだ!という驚きがありました。ハナ肇とクレージーキャッツ 「ホンダラ行進曲」 1963年4月20日発売
――ストレートな人生讃歌ですから、ナンセンスな「ホンダラ行進曲」とは随分と違う作風です。永さんにしても青島さんにしても、この時代の放送作家の方って、今はあまりいないタイプかもしれませんね。この時代は他にも野坂昭如さんや五木寛之さんたちもCMソングの作詞を始めています。他に、今回お名前が出てこなかった作詞家の方で、印象に残った方、エピソードのある方、あるいはもっと世代が後の方ではどなたかいらっしゃいますか。 小西康陽 「音楽家」の枠になるんですが、つんく♂さんが作る曲は、やっぱり言葉が入ってきますよね。僕は天才だと思う。モーニング娘。の「LOVEマシーン」(’99年)を聴いた時は感動しました。「日本の未来は」っていう箇所が特に好きです。他にもいい作詞家さんはたくさんいますが、特に僕が取り上げなくてもいいかな…という方たちでしょうか。エピソードで言えば僕、ビクターのスタジオで、康珍化さんが目の前で作詞をしているのを見たことがあるんです。亀井登志夫さんの曲に詞をつけて、その曲に僕がアレンジを頼まれていたんですが、その場で何度も書き換えて、最初に来た詞と全然違う、真逆の内容になっていてびっくりした記憶があります。本当に、20分ぐらいで書き直されていました。作詞家の人ってみんな書くのが早いです。あれは僕にはできないな、と思った。モーニング娘。 「LOVEマシーン」 1999年9月9日発売
――小西さんは、通常、詞を書かれる場合、どのくらいかかるのでしょうか。 小西康陽 自分で曲も書く場合は、もう一瞬ですけれど、例えば田島貴男さんの曲に詞をつけた時などは、2日で1曲みたいな感じだったかなあ。コーラスを入れてから歌詞を直したりして、エンジニアに怒られたり。 ――小西さんが、これまで好きな詞として挙げていただいた作品には、ご自身で歌われたり、アレンジされてカヴァーした作品が多いですが、実際に歌ってみて新たな発見があった、ということはありますか。 小西康陽 歌って発見したといえば、昨年、パラダイスガラージの豊田道倫さんと名古屋でライブをやったんですよ。名古屋でやるなら、と思って僕の大好きないとうたかおさんの「あしたはきっと」(’72年)をカヴァーしたんです。いとうたかお 「あしたはきっと」 1972年05月1日発売
――いとうさんは名古屋のフォークシーンの第一人者ですね。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">49 件公開
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京平先生って作曲家としてはちょっとドSで、結果的に歌手の良いところがしっかりと露呈されていますよね(半田健人)
それで言うと僕はどちらかというとMだから(笑)。だから「来夢来人」も上手くいったのかな(萩田光雄)
(【Part2】からの続き) アレンジャー萩田光雄が自ら選ぶ『筒美京平(作曲)× 萩田光雄(編曲)の10曲』
・南沙織「この街にひとり」(’74) ・太田裕美「雨だれ」(’74) ・太田裕美「木綿のハンカチーフ」(’75) ・小柳ルミ子「来夢来人(ライムライト)」(’80) ・森光子「カーテン・コール」(’95) ・岩崎宏美「二重唱」(’75) ・桑名正博「哀愁トゥナイト」(’77) ・ペドロ&カプリシャス「カリブの夢」(’78) ・太田裕美「海が泣いている」(’78) ・尾関美穂「メコンの憂鬱」(’06) [発売順] ── 続いては、桑名正博さんの「哀愁トゥナイト」。バッキングは、当時サディスティックスの高橋幸宏さん、高中正義さん、後藤次利さんが務められました。 萩田光雄 なぜか僕は女性のシンガーと仕事をすることが多くて、数少ない男性アーティストということで今回、この対談用に選びました。 半田健人 京平さん関連に限らず、山口百恵さんもそうですし、たしかに女性シンガーのほうが圧倒的に多いですね。萩田先生はその理由をご自身で分析されたことはありますか? 萩田光雄 いやぁ、したことはないですね。逆に聞きたいくらいですよ。半田さんなぜだと思いますか?(笑)。 半田健人 サウンドがとてもエレガントだからじゃないですか? 生意気ですが、こう言ってはあれですが、萩田先生のアレンジは必ずしも歌が飛びぬけて上手い方でなくても、きれいに聴かせてくれる職人芸みたいなものがあると思うんです。 萩田光雄 なるほどね。実際そういうことを言われた記憶があります。 半田健人 京平先生自身も誰が聴いても歌唱力がある人より、ちょっと個性的なシンガーを作曲面から助けてあげるみたいなところがありませんか? 萩田光雄 たしかにちょっと頼りない声が好きかもしれませんね。 半田健人 その点、桑名正博さんはもともとロック畑で歌唱力がある方なので、そういう意味でも珍しいケースなのかなと。この曲や「セクシャルバイオレット No.1」などの一連の作品は「ロックと歌謡曲を融合させた」と今では評されている楽曲なんですが、個人的にはロックだと思っては聞いてないんです。 萩田光雄 歌謡曲に聴こえた? 半田健人 えぇ、“ハード歌謡曲”だと思っています。あとはディスコ歌謡という印象ですね。 萩田光雄 桑名さんは本当に歌がうまいですからね。実際になんでも歌える方でした。桑名正博 「哀愁トゥナイト」 作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄 1977年6月5日発売
── サディスティックスのみなさんの演奏はいかがでしたか? それこそ世界に通用するミュージシャンです。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">京平先生って作曲家としてはちょっとドSで、結果的に歌手の良いところがしっかりと露呈されていますよね(半田健人)
それで言うと僕はどちらかというとMだから(笑)。だから「来夢来人」も上手くいったのかな(萩田光雄)
(【Part2】からの続き) アレンジャー萩田光雄が自ら選ぶ『筒美京平(作曲)× 萩田光雄(編曲)の10曲』
・南沙織「この街にひとり」(’74) ・太田裕美「雨だれ」(’74) ・太田裕美「木綿のハンカチーフ」(’75) ・小柳ルミ子「来夢来人(ライムライト)」(’80) ・森光子「カーテン・コール」(’95) ・岩崎宏美「二重唱」(’75) ・桑名正博「哀愁トゥナイト」(’77) ・ペドロ&カプリシャス「カリブの夢」(’78) ・太田裕美「海が泣いている」(’78) ・尾関美穂「メコンの憂鬱」(’06) [発売順] ── 続いては、桑名正博さんの「哀愁トゥナイト」。バッキングは、当時サディスティックスの高橋幸宏さん、高中正義さん、後藤次利さんが務められました。 萩田光雄 なぜか僕は女性のシンガーと仕事をすることが多くて、数少ない男性アーティストということで今回、この対談用に選びました。 半田健人 京平さん関連に限らず、山口百恵さんもそうですし、たしかに女性シンガーのほうが圧倒的に多いですね。萩田先生はその理由をご自身で分析されたことはありますか? 萩田光雄 いやぁ、したことはないですね。逆に聞きたいくらいですよ。半田さんなぜだと思いますか?(笑)。 半田健人 サウンドがとてもエレガントだからじゃないですか? 生意気ですが、こう言ってはあれですが、萩田先生のアレンジは必ずしも歌が飛びぬけて上手い方でなくても、きれいに聴かせてくれる職人芸みたいなものがあると思うんです。 萩田光雄 なるほどね。実際そういうことを言われた記憶があります。 半田健人 京平先生自身も誰が聴いても歌唱力がある人より、ちょっと個性的なシンガーを作曲面から助けてあげるみたいなところがありませんか? 萩田光雄 たしかにちょっと頼りない声が好きかもしれませんね。 半田健人 その点、桑名正博さんはもともとロック畑で歌唱力がある方なので、そういう意味でも珍しいケースなのかなと。この曲や「セクシャルバイオレット No.1」などの一連の作品は「ロックと歌謡曲を融合させた」と今では評されている楽曲なんですが、個人的にはロックだと思っては聞いてないんです。 萩田光雄 歌謡曲に聴こえた? 半田健人 えぇ、“ハード歌謡曲”だと思っています。あとはディスコ歌謡という印象ですね。 萩田光雄 桑名さんは本当に歌がうまいですからね。実際になんでも歌える方でした。桑名正博 「哀愁トゥナイト」 作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄 1977年6月5日発売
── サディスティックスのみなさんの演奏はいかがでしたか? それこそ世界に通用するミュージシャンです。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
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筒美京平 ゴールデン・コンビの系譜~船山基紀
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筒美京平 ゴールデン・コンビの系譜~船山基紀
&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
京平先生は活躍されてきた時代も長いじゃないですか。60年代から2000年代まで。すごくいい曲がB面に入っていたりするんです(半田健人)
それなら京平さんがご自身がおっしゃっていることがいちばん明確ですよ。「ヒットしなかったものは駄作」。それが先生の基準でした(萩田光雄)
(【Part3】からの続き) ── 今回の対談のために萩田光雄さんが選んだ10曲、いよいよ平成の時代に突入しました。次は女優・森光子さんの2枚組アルバム『Mitsuko Mori』からシングルカットされた「カーテンコール」です。 萩田光雄 森光子さんとは「カーテンコール」をきっかけに晩年親しくさせていただきました。私たちは「ミツコとミツオだね」だなんて冗談をおっしゃってね(笑)。そんな森さんとの大切な思い出の1曲です。それからやっぱりディレクター渡辺有三さんとの仕事でもあったので、いろいろな意味でもとても思い出深いです。 半田健人 渡辺さんはキャニオンの方ですから中島みゆきさんもそうですし、萩田さんとのお付き合いはそれこそ最初の高木麻早さんの頃からになりますよね。 萩田光雄 そうです。彼はレコード会社のディレクターとして長く一緒に仕事することが出来た僕のなかでは何本かの指に入る大切な存在でした。 半田健人 改めて聴きましたが、「カーテンコール」もいい歌ですよね。森さんはやっぱり女優さんのイメージが強いので、歌声は新鮮に感じます。 萩田光雄 でも森さんは戦前からキャリアがあって、あまり知られていませんでしたが実は歌える方だったんだよね。終戦の直後には米軍キャンプも回っていたそうですし。森光子 「カーテンコール」 作詞:秋元康/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄
「カーテン・コール」収録アルバム 森光子『Mitsuko Mori』 1995年9月1日発売
── 「カーテンコール」録音の時、森さんはすでに75歳でいらしたそうです。 萩田光雄 そうでしたね。同じ年に安達祐実の「逃げたいときは」のアレンジをして、たしかその時彼女は14歳だったから……75歳から14歳までか(笑)。この年は幅広く仕事をやったなぁという記憶があります。 半田健人 安達さんはたしか僕の3つ上じゃないですかね。ほとんど同じ世代なんですよ。 萩田光雄 ということは、半田さんはまだ30代? 若いよね。僕が選んだ10曲だって半分以上は生まれてない頃の曲でしょう? 僕で言えば、それこそ服部良一さんの音楽について語るようなものかな。 ── 年代だけで言えばそういうことになりますね。 萩田光雄 今は笠置シヅ子さんのことがNHKのドラマになっているし、時代も流れているんだね。僕らが子どもの頃は、学校で歌謡曲を歌ったら廊下に立たせられましたから。「惚〜れ〜て、惚〜れ〜て〜」って、三橋美智也の「哀愁列車」を歌ったら先生に怒られてね。友達はプレスリーの曲を歌ってやっぱり怒られてた。昔はとにかく大人が歌う歌を子供が歌ったら不良扱いでした。『のど自慢』のテレビ番組で、審査員の松田トシさんが歌謡曲を歌った子どもに厳しく「あなたにはもっとふさわしい歌があるでしょ」と言っていたのを憶えてます。 半田健人 あぁ、『スター誕生!』でもトシ先生はそうだったらしいですね。カメラの前でも厳しかったと聞いたことがあります。ここまで萩田先生にお話を伺ってみて思うのですが、僕らはつい、「新人歌手のデビュー曲を手がけるにあたってはどうでした?」とか、「この曲のこのアレンジの手ごたえは?」とか、そういう音楽的な話題を探りたくなってしまうんですけど、萩田先生的にはディレクターやミュージシャンがどういう人だったかとか、そういう人間模様みたいなことのほうが記憶に残るものなのでしょうか。 萩田光雄 どうなんでしょうね。でも本当のところを言うと……音楽について僕はなにも喋りたくない(笑)。「萩田光雄がどういう人か知りたければ、僕のやった音楽を聞いてください。それがすべてです」って言いたいんです。キザに言えば、アレンジの仕事に言葉なんかいらないんだと。ただ、ここ数年で先輩の先生方がずいぶん亡くなって、僕らが昭和の生き証人ということでこうやってメディアにお声がかかることも増えてきて、どこへ行っても最年長で困っちゃうよ(笑)。 半田健人 本当に音楽が全てだと思います。ただ時代を彩られた萩田先生からは、歌謡曲をこよなく愛する者として、もっともっと貴重なお話を伺いたいですね。 萩田光雄 でも、昔のことは当時が忙し過ぎて本当に憶えてないことばかりなんです。こういう取材中にも「この曲、本当に僕がやったの?」なんてこともありますから。ごめんなさい(笑)。尾関美穂 「メコンの憂鬱」 作詞:ちあき哲也/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄 2005年12月7日発売
── そして、最後の選曲は2005年に発売された尾関美穂さんのデビュー・シングル「メコンの憂鬱」です。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">京平先生は活躍されてきた時代も長いじゃないですか。60年代から2000年代まで。すごくいい曲がB面に入っていたりするんです(半田健人)
それなら京平さんがご自身がおっしゃっていることがいちばん明確ですよ。「ヒットしなかったものは駄作」。それが先生の基準でした(萩田光雄)
(【Part3】からの続き) ── 今回の対談のために萩田光雄さんが選んだ10曲、いよいよ平成の時代に突入しました。次は女優・森光子さんの2枚組アルバム『Mitsuko Mori』からシングルカットされた「カーテンコール」です。 萩田光雄 森光子さんとは「カーテンコール」をきっかけに晩年親しくさせていただきました。私たちは「ミツコとミツオだね」だなんて冗談をおっしゃってね(笑)。そんな森さんとの大切な思い出の1曲です。それからやっぱりディレクター渡辺有三さんとの仕事でもあったので、いろいろな意味でもとても思い出深いです。 半田健人 渡辺さんはキャニオンの方ですから中島みゆきさんもそうですし、萩田さんとのお付き合いはそれこそ最初の高木麻早さんの頃からになりますよね。 萩田光雄 そうです。彼はレコード会社のディレクターとして長く一緒に仕事することが出来た僕のなかでは何本かの指に入る大切な存在でした。 半田健人 改めて聴きましたが、「カーテンコール」もいい歌ですよね。森さんはやっぱり女優さんのイメージが強いので、歌声は新鮮に感じます。 萩田光雄 でも森さんは戦前からキャリアがあって、あまり知られていませんでしたが実は歌える方だったんだよね。終戦の直後には米軍キャンプも回っていたそうですし。森光子 「カーテンコール」 作詞:秋元康/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄
「カーテン・コール」収録アルバム 森光子『Mitsuko Mori』 1995年9月1日発売
── 「カーテンコール」録音の時、森さんはすでに75歳でいらしたそうです。 萩田光雄 そうでしたね。同じ年に安達祐実の「逃げたいときは」のアレンジをして、たしかその時彼女は14歳だったから……75歳から14歳までか(笑)。この年は幅広く仕事をやったなぁという記憶があります。 半田健人 安達さんはたしか僕の3つ上じゃないですかね。ほとんど同じ世代なんですよ。 萩田光雄 ということは、半田さんはまだ30代? 若いよね。僕が選んだ10曲だって半分以上は生まれてない頃の曲でしょう? 僕で言えば、それこそ服部良一さんの音楽について語るようなものかな。 ── 年代だけで言えばそういうことになりますね。 萩田光雄 今は笠置シヅ子さんのことがNHKのドラマになっているし、時代も流れているんだね。僕らが子どもの頃は、学校で歌謡曲を歌ったら廊下に立たせられましたから。「惚〜れ〜て、惚〜れ〜て〜」って、三橋美智也の「哀愁列車」を歌ったら先生に怒られてね。友達はプレスリーの曲を歌ってやっぱり怒られてた。昔はとにかく大人が歌う歌を子供が歌ったら不良扱いでした。『のど自慢』のテレビ番組で、審査員の松田トシさんが歌謡曲を歌った子どもに厳しく「あなたにはもっとふさわしい歌があるでしょ」と言っていたのを憶えてます。 半田健人 あぁ、『スター誕生!』でもトシ先生はそうだったらしいですね。カメラの前でも厳しかったと聞いたことがあります。ここまで萩田先生にお話を伺ってみて思うのですが、僕らはつい、「新人歌手のデビュー曲を手がけるにあたってはどうでした?」とか、「この曲のこのアレンジの手ごたえは?」とか、そういう音楽的な話題を探りたくなってしまうんですけど、萩田先生的にはディレクターやミュージシャンがどういう人だったかとか、そういう人間模様みたいなことのほうが記憶に残るものなのでしょうか。 萩田光雄 どうなんでしょうね。でも本当のところを言うと……音楽について僕はなにも喋りたくない(笑)。「萩田光雄がどういう人か知りたければ、僕のやった音楽を聞いてください。それがすべてです」って言いたいんです。キザに言えば、アレンジの仕事に言葉なんかいらないんだと。ただ、ここ数年で先輩の先生方がずいぶん亡くなって、僕らが昭和の生き証人ということでこうやってメディアにお声がかかることも増えてきて、どこへ行っても最年長で困っちゃうよ(笑)。 半田健人 本当に音楽が全てだと思います。ただ時代を彩られた萩田先生からは、歌謡曲をこよなく愛する者として、もっともっと貴重なお話を伺いたいですね。 萩田光雄 でも、昔のことは当時が忙し過ぎて本当に憶えてないことばかりなんです。こういう取材中にも「この曲、本当に僕がやったの?」なんてこともありますから。ごめんなさい(笑)。尾関美穂 「メコンの憂鬱」 作詞:ちあき哲也/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄 2005年12月7日発売
── そして、最後の選曲は2005年に発売された尾関美穂さんのデビュー・シングル「メコンの憂鬱」です。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
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京平さんは終始一貫して、昔の東京人らしい含羞の美学をお持ちだった。すべてにおいて、あからさまな表現や、これ見よがしな生き方をよしとされなかった(近田春夫)
(【Part3】からの続き)近田春夫が選ぶ「筒美京平の10曲」
野口五郎 ➑「グッド・ラック」 作詞:山川啓介/作曲:筒美京平/編曲:高田弘 1978年9月1日発売
―― さて次は8曲目、’78年9月にリリースされた野口五郎の「グッド・ラック」です。これは7曲目「さようならの彼方へ」の3か月後で、筒美さんは38歳。編曲はどちらも高田弘さんが手がけています。 近田春夫 イントロからキラキラ感がすごいよね。乾いたギターの音色といい、弦楽器のシルキーな手触りといい、サウンド的には完全にシティポップとかAORの路線です。高田さんがまた、京平さん好みのフィリー・ソウルっぽい音像にきっちり仕上げている。これ、たしかギタリストは矢島賢さんだっけ? ―― はい。オリジナルのシングルは「ポリドール・オーケストラ」のクレジットのみでしたが、野口さんご本人がインタビューでそう発言されてました。 近田春夫 ここ数年、70年代シティポップを再評価する動きが続いてるじゃない。この頃の野口五郎さんもまさにそうで。アメリカ西海岸まで行って現地の売れっ子ミュージシャンとアルバム作ったりしてるんだよね。「グッド・ラック」はそんなAOR期の中で、俺が一番気に入っている曲。当時、好きでよく聴いてましたね。京平さんが野口さんに書いたシティポップ路線の曲では「女になって出直せよ」(’79年7月)も有名ですけど、俺的にはこの曲が野口さんの声に一番合ってると思うんだ。 ―― ♪ごめんよ~で始まるサビのフレーズとか、かなりキーが高めで。 近田春夫 音域的にかなり際どいよね。それに続く♪終ってしまった、なんて、高音ギリギリのラインを攻めてる。そこがね。またグッとくるのよ(笑)。京平さんはこんなふうに、歌い手にちょっと冒険させるのもうまい。野口さんにはたしかデビュー直後から曲を書いていて付き合いも長かったでしょ。 ―― はい。セカンドシングル「青いリンゴ」(’71年8月)以来、コンスタントに提供されていますね。 近田春夫 それもあって、野口さんの声の美味しいところをよくご存知だったと思うんだよ。アレンジャー高田さんとの呼吸もぴったり合ってる。楽曲としてはいかにもシティポップっぽい、洗練された装いになってるけれど、歌メロだけ取り出すと意外と和風っていうかさ。特にサビ以降の旋律には、歌謡曲的な親しみやすさ、もっと言うと俗っぽさがある。この混ざり具合が快感だし、聴いてて安心するんだよな。 ―― シティポップの時代が到来しても、日本語に馴染むメロディーを追求する姿勢は変わらなかった。 近田春夫 うん。ただね、この時期から微妙に、歌メロの存在感は変わってきた気はする。押し出しの強さがちょっと和らいで、アレンジ全体の中により自然と馴染むようになっていった。これは数値化できる話じゃないけど、俺の感覚ではそうなんだな。要はどんどん、サウンド志向が強まるわけですね。さっき言った「アレンジャーとの呼吸」っていうのもそういう意味で。作曲家として、時代の変化を肌で感じておられたんだと思います。野口さんの「グッド・ラック」は、そんな移り変わりも感じさせる曲。近田春夫が選ぶ「筒美京平の10曲」
小泉今日子 ❾「なんてったってアイドル」 作詞:秋元康/作曲:筒美京平/編曲:鷺巣詩郎 1985年11月21日発売
―― そこから少し時間が空いて、9曲目は小泉今日子「なんてったってアイドル」(’85年11月)。日本が上り調子だった80年代を象徴するアッパーな1曲です。個人的にはこの辺りから、時間の進み方が速くなった感覚がありまして……。 近田春夫 バブル経済も始まるし、世の中に流通する情報量も一気に増えるからね。 ―― 8曲目の「グッド・ラック」と続けて聴くと、その間に広くて深い河が流れている印象すら受けました。 近田春夫 そうかもしんない(笑)。ただ今回の10曲で「グッド・ラック」(’78年)と「なんてったってアイドル」(’85年)の間が空いたのは、たぶん個人的な事情が大きいと思う。この頃の俺は自分の音楽を作ることに夢中でさ。単純にチャートを追いかける余裕がなかったんだよね。あとさ、さっきの「情報量が増えた」って話とも繋がるんだけど、世の中全体が京平さんっぽくなっちゃったっていうか。 ―― プロによる分業制が薄らぎ、業界のあり方自体が変容してきたと? 近田春夫 エピゴーネン(亜流、模倣者)が増えた、とまでは言わないけれど。いわゆる「メタ視点」から歌謡曲を面白がる風潮が、この前後から出てきた気がするんですよね。裏方に徹していた京平さんに関しても、いろんな人がいろんなことを言うようになって。歌謡曲なんて見向きもしなかった連中が、奇妙に持ち上げるようになった。それが若干、食傷気味だったのかもしれません。なにせ天邪鬼な人間なので(笑)。 ―― でも、それでいうと「なんてったってアイドル」なんて、メタ視点の最たる曲ですよね。なぜこの曲を選ばれたんですか?&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">インタビュー
京平さんは終始一貫して、昔の東京人らしい含羞の美学をお持ちだった。すべてにおいて、あからさまな表現や、これ見よがしな生き方をよしとされなかった(近田春夫)
(【Part3】からの続き)近田春夫が選ぶ「筒美京平の10曲」
野口五郎 ➑「グッド・ラック」 作詞:山川啓介/作曲:筒美京平/編曲:高田弘 1978年9月1日発売
―― さて次は8曲目、’78年9月にリリースされた野口五郎の「グッド・ラック」です。これは7曲目「さようならの彼方へ」の3か月後で、筒美さんは38歳。編曲はどちらも高田弘さんが手がけています。 近田春夫 イントロからキラキラ感がすごいよね。乾いたギターの音色といい、弦楽器のシルキーな手触りといい、サウンド的には完全にシティポップとかAORの路線です。高田さんがまた、京平さん好みのフィリー・ソウルっぽい音像にきっちり仕上げている。これ、たしかギタリストは矢島賢さんだっけ? ―― はい。オリジナルのシングルは「ポリドール・オーケストラ」のクレジットのみでしたが、野口さんご本人がインタビューでそう発言されてました。 近田春夫 ここ数年、70年代シティポップを再評価する動きが続いてるじゃない。この頃の野口五郎さんもまさにそうで。アメリカ西海岸まで行って現地の売れっ子ミュージシャンとアルバム作ったりしてるんだよね。「グッド・ラック」はそんなAOR期の中で、俺が一番気に入っている曲。当時、好きでよく聴いてましたね。京平さんが野口さんに書いたシティポップ路線の曲では「女になって出直せよ」(’79年7月)も有名ですけど、俺的にはこの曲が野口さんの声に一番合ってると思うんだ。 ―― ♪ごめんよ~で始まるサビのフレーズとか、かなりキーが高めで。 近田春夫 音域的にかなり際どいよね。それに続く♪終ってしまった、なんて、高音ギリギリのラインを攻めてる。そこがね。またグッとくるのよ(笑)。京平さんはこんなふうに、歌い手にちょっと冒険させるのもうまい。野口さんにはたしかデビュー直後から曲を書いていて付き合いも長かったでしょ。 ―― はい。セカンドシングル「青いリンゴ」(’71年8月)以来、コンスタントに提供されていますね。 近田春夫 それもあって、野口さんの声の美味しいところをよくご存知だったと思うんだよ。アレンジャー高田さんとの呼吸もぴったり合ってる。楽曲としてはいかにもシティポップっぽい、洗練された装いになってるけれど、歌メロだけ取り出すと意外と和風っていうかさ。特にサビ以降の旋律には、歌謡曲的な親しみやすさ、もっと言うと俗っぽさがある。この混ざり具合が快感だし、聴いてて安心するんだよな。 ―― シティポップの時代が到来しても、日本語に馴染むメロディーを追求する姿勢は変わらなかった。 近田春夫 うん。ただね、この時期から微妙に、歌メロの存在感は変わってきた気はする。押し出しの強さがちょっと和らいで、アレンジ全体の中により自然と馴染むようになっていった。これは数値化できる話じゃないけど、俺の感覚ではそうなんだな。要はどんどん、サウンド志向が強まるわけですね。さっき言った「アレンジャーとの呼吸」っていうのもそういう意味で。作曲家として、時代の変化を肌で感じておられたんだと思います。野口さんの「グッド・ラック」は、そんな移り変わりも感じさせる曲。近田春夫が選ぶ「筒美京平の10曲」
小泉今日子 ❾「なんてったってアイドル」 作詞:秋元康/作曲:筒美京平/編曲:鷺巣詩郎 1985年11月21日発売
―― そこから少し時間が空いて、9曲目は小泉今日子「なんてったってアイドル」(’85年11月)。日本が上り調子だった80年代を象徴するアッパーな1曲です。個人的にはこの辺りから、時間の進み方が速くなった感覚がありまして……。 近田春夫 バブル経済も始まるし、世の中に流通する情報量も一気に増えるからね。 ―― 8曲目の「グッド・ラック」と続けて聴くと、その間に広くて深い河が流れている印象すら受けました。 近田春夫 そうかもしんない(笑)。ただ今回の10曲で「グッド・ラック」(’78年)と「なんてったってアイドル」(’85年)の間が空いたのは、たぶん個人的な事情が大きいと思う。この頃の俺は自分の音楽を作ることに夢中でさ。単純にチャートを追いかける余裕がなかったんだよね。あとさ、さっきの「情報量が増えた」って話とも繋がるんだけど、世の中全体が京平さんっぽくなっちゃったっていうか。 ―― プロによる分業制が薄らぎ、業界のあり方自体が変容してきたと? 近田春夫 エピゴーネン(亜流、模倣者)が増えた、とまでは言わないけれど。いわゆる「メタ視点」から歌謡曲を面白がる風潮が、この前後から出てきた気がするんですよね。裏方に徹していた京平さんに関しても、いろんな人がいろんなことを言うようになって。歌謡曲なんて見向きもしなかった連中が、奇妙に持ち上げるようになった。それが若干、食傷気味だったのかもしれません。なにせ天邪鬼な人間なので(笑)。 ―― でも、それでいうと「なんてったってアイドル」なんて、メタ視点の最たる曲ですよね。なぜこの曲を選ばれたんですか?&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
ああ、これこそ自分が探していた光景なんだろうなって思って、その場で「ブルー・ライト・カワサキ」っていうタイトルが浮かんだです……でも、さすがにそれはどうなんだろうかと思って(笑)(橋本淳)
(【Part2】からの続き) ── ご自身ではいつでも辞めたいと思われていた中で、作詞家としてやっていこうみたいな気持ちの切り替えをされた時期はなかったのでしょうか。 橋本淳 それがあんまりなかったんですよ。ブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」が売れた時も続けていこうとは思わなかった。あれは、青山通りの表参道の交番があるところの富士銀行(現・みずほ銀行)の反対側の細い道を入っていくと、美味しい魚を食べさせてくれる店があったんです。京平さんは焼き魚が好きで、そこでよく一緒に食べていたんですけど、僕は魚の匂いがちょっと苦手で、いつも窓を開けて外ばっかり見てて、なんか変わった建物があるなと思ったんです。あれはキャバレーだったのかな、青山ユアーズってスーパーがあったでしょ? あのそばです。気になって見に行ったら「ブルーシャトー」って書いてあって、ほぼそのまま曲のタイトルにしたんです(笑)。それからしばらくして、スウェーデンにいる弟の様子を見てきてくれって家族に頼まれて、ストックホルムに朝方着いて飛行機の窓から外を眺めていたら、小さな湖が森の中にばーっと広がっていたんですよ。そのイメージを「ブルー・シャトー」の詞にしたんです。フィーリングと言いますか、ひらめきっていうか、アバウトというか、いい加減なんですよ(笑)。でもそうやって外国の風景を入れたことで、当時としては珍しい歌になったんじゃないかと思います。 ── グループサウンズの時代を背景にして、すぎやまこういちさん、橋本淳さん、筒美京平さんの曲作りがいよいよ形成されてゆくわけですね。 橋本淳 ブルコメの「青い瞳」が売れてから何作かヒットが続いていた頃に、内田裕也さんが大阪でファニーズっていうバンドを見つけてきて、スギ(やまこういち)さんが「大阪だからザ・タイガースだ」って名付けて売り出した。やっぱり沢田研二さんの存在がズバ抜けていたし、歌声も素晴らしかったですよ。それに前から活動していた才能高き軍団のスパイダースとか、キャラクターが3つも4つも揃ってきて、歌謡曲の世界にあったレコード会社専属制の壁を打ち破り始めるんですね。 そこで京平さんの登場になるんですが、僕よりも京平さんは綿密に計算していたというか、「土台ごと変えていかないと。メロディーとかサウンドで出来上がってるものを壊してゆく」っていうのを感じていたみたいです。あの人、やっぱり天才ですから、歌作りもまずコード進行から固めるんですよ。外国のレコードもいっぱい聴いて吸収してね。自分の気に入ったコードの並びに、サビでも1小節でもエンディングでもいいんだけど、日本的なテイストを必ず入れていく。だからいくらでも曲が作れちゃうんです。 ── それにしても普通はあんなにいい曲を次々に書けないと思うんです。 橋本淳 そこを簡単明瞭に書き分けることが出来るのが天才といわれる所以なわけで。「ブルー・ライト・ヨコハマ」にしても、ビクターからコロムビアへ移籍してきたいしだあゆみさんの曲を頼まれて(コロムビアの)泉(明良)さんから「3曲やってほしい。その中で100万枚超えるやつを必ずどこかで出してよ」とか言われて。まずは初めての女性目線の歌詞で「太陽は泣いている」(’68年)を書いた。少し売れたみたいだけど大きなヒットではなかった。次に、ブラジルでボサノバが流行ってるからやってみようというんで「ふたりだけの城」(’68年)っていうのを作ったけどこっちはさっぱり売れなくて。そうなると引き受けた以上はもうプレッシャーですよ。「3曲」と言われていたし。泉さんにはブルコメでもすごくお世話になってるからなんとかしなくちゃと思って。その頃まではまだ曲先じゃなくて詞先でやってたんですけど、全然浮かばない。 高校の同級生の家が横浜の鶴見の丘の上にあって、横浜港にクイーンエリザベスとかの船が停泊するっていうんでよく見に行っていたことを思い出していました。いしだあゆみさんのコロムビア移籍3曲目はヨーロッパや港みたいなイメージの歌にしたいなと漠然と思っていたんです。横浜へ行って昼間からあっちこっち歩いてみたんですけど一向に言葉が浮かばない。それで夜になってからもう一度歩いてみようと思って、港の見える丘公園まで登って行くんですけど、当時はあたり一面が真っ暗でね。で、公園から遠くを眺めていたら川崎の工業街が見えて、そこが紫色っぽい、ブルーっぽい光が海に照り返っていたんです。ああ、これこそ自分が探していた光景なんだろうなって思って、その場で「ブルー・ライト・カワサキ」っていうタイトルが浮かんだです……でも、さすがにそれはどうなんだろうかと思って(笑)。 ── それで「ブルー・ライト・ヨコハマ」になったわけですね。 橋本淳 はい。次の日がレコーディングでもう時間がないし、とにかくタイトルだけ決めたからって京平さんに横浜から電話したんですよ。そうしたら「今ちょうどメロディーを考えてて、ポール・モーリアのアルバムにイントロイメージが合うものがあるんだよね」とか言っていて、そんなことを横浜のシルクホテル(現シルクセンター)のロビーの赤電話に10円玉を落としながらずっと話していました。それからもういちどあの海岸通りあたりを歩きまわって、これがもう本当に疲れちゃって(笑)。歩いても、歩いても、何も思いつかなかったから……あれ?……歩いても、歩いても、これをサビにしようかなと思って、即興でワンコーラス作って、また京平さんに電話して「もうそれ以上は作れないから、1番だけの歌詞で2ハーフぐらいの曲にして欲しい」とお願いしてようやく帰宅し、次の日のレコーディングに臨んだんです。それで、まあなんとかまにあって、みなさんがよくご存知の「ブルー・ライト・ヨコハマ」のあの形に出来上がったんです。いしだあゆみ 「ブルー・ライト・ヨコハマ」 作詞:橋本淳/作曲・編曲:筒美京平 「明日より永遠に」 作詞:橋本淳/作曲・編曲:筒美京平 1968年12月25日発売
── 結果的に大ヒットして昭和の歌謡ポップスを代表するー曲になりました。これはB面の「明日より永遠に」への思いも強いと伺いましたが。 橋本淳 京平さんにB面用の曲も教えてよって聴かせてもらったら、びっくりしちゃって。これすごい曲だなと思ったんですよ。 なんかプッチーニの「アリア」のような、なんていい曲で、なんていいアレンジなんだろうと思って。改めて京平さんの非凡さを感じましたよ。「ブルー・ライト・ヨコハマ」は約束通りのヒットになったけど、僕自身は「明日より永遠に」の方が好きなんです。あのメロディーと、弦を効かせたアレンジの素晴らしさにただ驚きました。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">インタビュー
ああ、これこそ自分が探していた光景なんだろうなって思って、その場で「ブルー・ライト・カワサキ」っていうタイトルが浮かんだです……でも、さすがにそれはどうなんだろうかと思って(笑)(橋本淳)
(【Part2】からの続き) ── ご自身ではいつでも辞めたいと思われていた中で、作詞家としてやっていこうみたいな気持ちの切り替えをされた時期はなかったのでしょうか。 橋本淳 それがあんまりなかったんですよ。ブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」が売れた時も続けていこうとは思わなかった。あれは、青山通りの表参道の交番があるところの富士銀行(現・みずほ銀行)の反対側の細い道を入っていくと、美味しい魚を食べさせてくれる店があったんです。京平さんは焼き魚が好きで、そこでよく一緒に食べていたんですけど、僕は魚の匂いがちょっと苦手で、いつも窓を開けて外ばっかり見てて、なんか変わった建物があるなと思ったんです。あれはキャバレーだったのかな、青山ユアーズってスーパーがあったでしょ? あのそばです。気になって見に行ったら「ブルーシャトー」って書いてあって、ほぼそのまま曲のタイトルにしたんです(笑)。それからしばらくして、スウェーデンにいる弟の様子を見てきてくれって家族に頼まれて、ストックホルムに朝方着いて飛行機の窓から外を眺めていたら、小さな湖が森の中にばーっと広がっていたんですよ。そのイメージを「ブルー・シャトー」の詞にしたんです。フィーリングと言いますか、ひらめきっていうか、アバウトというか、いい加減なんですよ(笑)。でもそうやって外国の風景を入れたことで、当時としては珍しい歌になったんじゃないかと思います。 ── グループサウンズの時代を背景にして、すぎやまこういちさん、橋本淳さん、筒美京平さんの曲作りがいよいよ形成されてゆくわけですね。 橋本淳 ブルコメの「青い瞳」が売れてから何作かヒットが続いていた頃に、内田裕也さんが大阪でファニーズっていうバンドを見つけてきて、スギ(やまこういち)さんが「大阪だからザ・タイガースだ」って名付けて売り出した。やっぱり沢田研二さんの存在がズバ抜けていたし、歌声も素晴らしかったですよ。それに前から活動していた才能高き軍団のスパイダースとか、キャラクターが3つも4つも揃ってきて、歌謡曲の世界にあったレコード会社専属制の壁を打ち破り始めるんですね。 そこで京平さんの登場になるんですが、僕よりも京平さんは綿密に計算していたというか、「土台ごと変えていかないと。メロディーとかサウンドで出来上がってるものを壊してゆく」っていうのを感じていたみたいです。あの人、やっぱり天才ですから、歌作りもまずコード進行から固めるんですよ。外国のレコードもいっぱい聴いて吸収してね。自分の気に入ったコードの並びに、サビでも1小節でもエンディングでもいいんだけど、日本的なテイストを必ず入れていく。だからいくらでも曲が作れちゃうんです。 ── それにしても普通はあんなにいい曲を次々に書けないと思うんです。 橋本淳 そこを簡単明瞭に書き分けることが出来るのが天才といわれる所以なわけで。「ブルー・ライト・ヨコハマ」にしても、ビクターからコロムビアへ移籍してきたいしだあゆみさんの曲を頼まれて(コロムビアの)泉(明良)さんから「3曲やってほしい。その中で100万枚超えるやつを必ずどこかで出してよ」とか言われて。まずは初めての女性目線の歌詞で「太陽は泣いている」(’68年)を書いた。少し売れたみたいだけど大きなヒットではなかった。次に、ブラジルでボサノバが流行ってるからやってみようというんで「ふたりだけの城」(’68年)っていうのを作ったけどこっちはさっぱり売れなくて。そうなると引き受けた以上はもうプレッシャーですよ。「3曲」と言われていたし。泉さんにはブルコメでもすごくお世話になってるからなんとかしなくちゃと思って。その頃まではまだ曲先じゃなくて詞先でやってたんですけど、全然浮かばない。 高校の同級生の家が横浜の鶴見の丘の上にあって、横浜港にクイーンエリザベスとかの船が停泊するっていうんでよく見に行っていたことを思い出していました。いしだあゆみさんのコロムビア移籍3曲目はヨーロッパや港みたいなイメージの歌にしたいなと漠然と思っていたんです。横浜へ行って昼間からあっちこっち歩いてみたんですけど一向に言葉が浮かばない。それで夜になってからもう一度歩いてみようと思って、港の見える丘公園まで登って行くんですけど、当時はあたり一面が真っ暗でね。で、公園から遠くを眺めていたら川崎の工業街が見えて、そこが紫色っぽい、ブルーっぽい光が海に照り返っていたんです。ああ、これこそ自分が探していた光景なんだろうなって思って、その場で「ブルー・ライト・カワサキ」っていうタイトルが浮かんだです……でも、さすがにそれはどうなんだろうかと思って(笑)。 ── それで「ブルー・ライト・ヨコハマ」になったわけですね。 橋本淳 はい。次の日がレコーディングでもう時間がないし、とにかくタイトルだけ決めたからって京平さんに横浜から電話したんですよ。そうしたら「今ちょうどメロディーを考えてて、ポール・モーリアのアルバムにイントロイメージが合うものがあるんだよね」とか言っていて、そんなことを横浜のシルクホテル(現シルクセンター)のロビーの赤電話に10円玉を落としながらずっと話していました。それからもういちどあの海岸通りあたりを歩きまわって、これがもう本当に疲れちゃって(笑)。歩いても、歩いても、何も思いつかなかったから……あれ?……歩いても、歩いても、これをサビにしようかなと思って、即興でワンコーラス作って、また京平さんに電話して「もうそれ以上は作れないから、1番だけの歌詞で2ハーフぐらいの曲にして欲しい」とお願いしてようやく帰宅し、次の日のレコーディングに臨んだんです。それで、まあなんとかまにあって、みなさんがよくご存知の「ブルー・ライト・ヨコハマ」のあの形に出来上がったんです。いしだあゆみ 「ブルー・ライト・ヨコハマ」 作詞:橋本淳/作曲・編曲:筒美京平 「明日より永遠に」 作詞:橋本淳/作曲・編曲:筒美京平 1968年12月25日発売
── 結果的に大ヒットして昭和の歌謡ポップスを代表するー曲になりました。これはB面の「明日より永遠に」への思いも強いと伺いましたが。 橋本淳 京平さんにB面用の曲も教えてよって聴かせてもらったら、びっくりしちゃって。これすごい曲だなと思ったんですよ。 なんかプッチーニの「アリア」のような、なんていい曲で、なんていいアレンジなんだろうと思って。改めて京平さんの非凡さを感じましたよ。「ブルー・ライト・ヨコハマ」は約束通りのヒットになったけど、僕自身は「明日より永遠に」の方が好きなんです。あのメロディーと、弦を効かせたアレンジの素晴らしさにただ驚きました。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
名編曲家たちにアレンジを委ねたアイドルへの名曲群量産時代
(【Part3】からの続き) 1970年代という新たなディケイドを迎えるや、5年間にわたって猛威を振るったグループサウンズというハリケーンは驚くほどあっさりとしぼみ、雲散霧消してしまう。その座を奪うがごとく歌謡界の中心に居座ったのは、うら若きアイドルたちであった。 ここで、従来の流行歌とは一線を画すアイドル歌謡というジャンルが確立するが、ここで最も大きな役割を果たしたのが、筒美京平であった。 筒美によるアイドルポップスを歌った先駆的存在が、’71年にデビューした南沙織。ファーストシングル「17才」(’71年)は、米国のカントリー系女性シンガー、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」を見事に換骨奪胎。この曲では、まだアメリカ統治下だった頃の沖縄で育った南の洋楽的センスが十全に発揮されている。同時期に並び称された天地真理、小柳ルミ子らは、従来の歌謡曲の系譜に連なるドメスティックな感性を帯びているが、彼女にはその匂いが希薄なのだ。南沙織 「17才」 1971年6月1日発売
その後は’75年まで、アルバート・ハモンドをカバーした「カリフォルニアの青い空」(’73年)を除く14枚にわたり、彼女は有馬三恵子作詞・筒美京平作曲のシングルを発表することになる。それらからは、ヴァン・モリソン、エルトン・ジョン、そしてカーペンターズなど、洗練された洋楽のエッセンスが滲み出ている。そういえば、コラムニストの泉麻人は、当時の都会の先端的な若者たちにとって、アイドルの楽曲を愛聴すると公言することには羞恥心が伴ったが、南沙織だけはなぜか例外だったと語っていた。 翌’72年には、麻丘めぐみがこのシーンに現れる。こちらは、大人びた南沙織とは異なり、お人形さんのようなかわい子ちゃんムードで、最大公約数的アイドルに徹した。そのあり方は、70年代の女性アイドルのモデルとなったであろう。 筒美は、デビュー曲「芽ばえ」(’72年)以来、彼女には締めて10枚のシングルを提供する。南沙織では有馬三恵子と組み続けたが、麻丘めぐみでは、継続して千家和也とコンビを結ぶ。代表曲は「わたしの彼は左きき」(’73年)。キュートな振り付けも相まって、オリコンチャート1位の大ヒットを記録。実際の彼女の地声は低かったが、アイドルらしさを前面に押し出すために高音を強調し、独特の泣き出しそうな歌い方が生まれたのだという。麻丘めぐみ 「わたしの彼は左きき」 1973年7月5日発売
女性アイドルならば、浅田美代子も忘れられない。彼女は、久世光彦が演出・プロデュースを行ったTBSドラマ「時間ですよ」において、舞台となる銭湯のお手伝いさんの役を演じて芸能界デビュー。その劇中で歌う「赤い風船」(’73年)で、歌手としてもキャリアをスタートした。アコースティックギターを弾き語りするというドラマの設定通り、浅田の素朴この上ないヴォーカルを生かした曲調はフォーキーで童謡のごとし。だが、よくよく聴いてみれば職人的なたくらみが散見される。浅田美代子 「赤い風船」 1973年4月21日発売
筒美京平が手がけた男性アイドルといえば、誰よりも先に郷ひろみの名が挙がるはず。ジャニーズ事務所に所属して業界入りした郷は、当初、ジャニーズJr.の一員としてフォーリーブスのバックダンサーを務めていた。ちなみに、フォーリーブスに筒美は「約束」(’71年)、「夏のふれあい」(’72年)という2曲のシングルを授けた。フォーリーブスの存在は、グループサウンズとアイドルの時代の間隙を縫ったという意義でも特筆に値する。GS終焉からしばらくの間、日劇ウエスタンカーニバルは、フォーリーブスが支えていたのだ。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">解説
名編曲家たちにアレンジを委ねたアイドルへの名曲群量産時代
(【Part3】からの続き) 1970年代という新たなディケイドを迎えるや、5年間にわたって猛威を振るったグループサウンズというハリケーンは驚くほどあっさりとしぼみ、雲散霧消してしまう。その座を奪うがごとく歌謡界の中心に居座ったのは、うら若きアイドルたちであった。 ここで、従来の流行歌とは一線を画すアイドル歌謡というジャンルが確立するが、ここで最も大きな役割を果たしたのが、筒美京平であった。 筒美によるアイドルポップスを歌った先駆的存在が、’71年にデビューした南沙織。ファーストシングル「17才」(’71年)は、米国のカントリー系女性シンガー、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」を見事に換骨奪胎。この曲では、まだアメリカ統治下だった頃の沖縄で育った南の洋楽的センスが十全に発揮されている。同時期に並び称された天地真理、小柳ルミ子らは、従来の歌謡曲の系譜に連なるドメスティックな感性を帯びているが、彼女にはその匂いが希薄なのだ。南沙織 「17才」 1971年6月1日発売
その後は’75年まで、アルバート・ハモンドをカバーした「カリフォルニアの青い空」(’73年)を除く14枚にわたり、彼女は有馬三恵子作詞・筒美京平作曲のシングルを発表することになる。それらからは、ヴァン・モリソン、エルトン・ジョン、そしてカーペンターズなど、洗練された洋楽のエッセンスが滲み出ている。そういえば、コラムニストの泉麻人は、当時の都会の先端的な若者たちにとって、アイドルの楽曲を愛聴すると公言することには羞恥心が伴ったが、南沙織だけはなぜか例外だったと語っていた。 翌’72年には、麻丘めぐみがこのシーンに現れる。こちらは、大人びた南沙織とは異なり、お人形さんのようなかわい子ちゃんムードで、最大公約数的アイドルに徹した。そのあり方は、70年代の女性アイドルのモデルとなったであろう。 筒美は、デビュー曲「芽ばえ」(’72年)以来、彼女には締めて10枚のシングルを提供する。南沙織では有馬三恵子と組み続けたが、麻丘めぐみでは、継続して千家和也とコンビを結ぶ。代表曲は「わたしの彼は左きき」(’73年)。キュートな振り付けも相まって、オリコンチャート1位の大ヒットを記録。実際の彼女の地声は低かったが、アイドルらしさを前面に押し出すために高音を強調し、独特の泣き出しそうな歌い方が生まれたのだという。麻丘めぐみ 「わたしの彼は左きき」 1973年7月5日発売
女性アイドルならば、浅田美代子も忘れられない。彼女は、久世光彦が演出・プロデュースを行ったTBSドラマ「時間ですよ」において、舞台となる銭湯のお手伝いさんの役を演じて芸能界デビュー。その劇中で歌う「赤い風船」(’73年)で、歌手としてもキャリアをスタートした。アコースティックギターを弾き語りするというドラマの設定通り、浅田の素朴この上ないヴォーカルを生かした曲調はフォーキーで童謡のごとし。だが、よくよく聴いてみれば職人的なたくらみが散見される。浅田美代子 「赤い風船」 1973年4月21日発売
筒美京平が手がけた男性アイドルといえば、誰よりも先に郷ひろみの名が挙がるはず。ジャニーズ事務所に所属して業界入りした郷は、当初、ジャニーズJr.の一員としてフォーリーブスのバックダンサーを務めていた。ちなみに、フォーリーブスに筒美は「約束」(’71年)、「夏のふれあい」(’72年)という2曲のシングルを授けた。フォーリーブスの存在は、グループサウンズとアイドルの時代の間隙を縫ったという意義でも特筆に値する。GS終焉からしばらくの間、日劇ウエスタンカーニバルは、フォーリーブスが支えていたのだ。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
43 件公開
京平さんのただメロディーを考えるだけでなく、全体のアレンジから作り上げるというやりかたは生涯変わらなかったでしょうね(橋本淳)
(【Part3】からの続き) ── 橋本さんは、筒美京平さんがたくさん手がけられたディスコ系の作品でも組まれていますよね。浅野ゆう子さんですとか。 橋本淳 そうですね。「セクシー・バス・ストップ」は、京平さんが弟さん(音楽プロデューサー・渡辺忠孝氏)のために手がけた仕事なんですよ。オリエンタル・エクスプレスというユニットで、ジャック・ダイアモンドなんていう名前を使って。ソウル・グループのMFSBの日本版を目指したんですね。和楽器で作ってインストゥルメンタルで発表してたんですけど、それに僕が歌詞を後はめしました。これは日音の村上(司)さんのアイデアでもあったと思います。そうしたらその時に珍しく京平さんが「ここの歌詞を変えよう」って言ってきたんですよ。「じゃあ好きに変えていいよ」とか言った記憶があります。浅野ゆう子 「セクシー・バス・ストップ」 作詞:橋本淳/作曲:Jack Diamond(筒美京平)/編曲:高田弘 1976年4月25日発売
&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">インタビュー
京平さんのただメロディーを考えるだけでなく、全体のアレンジから作り上げるというやりかたは生涯変わらなかったでしょうね(橋本淳)
(【Part3】からの続き) ── 橋本さんは、筒美京平さんがたくさん手がけられたディスコ系の作品でも組まれていますよね。浅野ゆう子さんですとか。 橋本淳 そうですね。「セクシー・バス・ストップ」は、京平さんが弟さん(音楽プロデューサー・渡辺忠孝氏)のために手がけた仕事なんですよ。オリエンタル・エクスプレスというユニットで、ジャック・ダイアモンドなんていう名前を使って。ソウル・グループのMFSBの日本版を目指したんですね。和楽器で作ってインストゥルメンタルで発表してたんですけど、それに僕が歌詞を後はめしました。これは日音の村上(司)さんのアイデアでもあったと思います。そうしたらその時に珍しく京平さんが「ここの歌詞を変えよう」って言ってきたんですよ。「じゃあ好きに変えていいよ」とか言った記憶があります。浅野ゆう子 「セクシー・バス・ストップ」 作詞:橋本淳/作曲:Jack Diamond(筒美京平)/編曲:高田弘 1976年4月25日発売
&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
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コンサートでファンの顔を見て、「またね」って言うのが苦しかった
――2作目のアルバム『Face』(’88年)を出したあたりはかなり忙しかったようですね。その合間を縫ってのレコーディングも大変だったでしょう。 谷村有美 デビューより前からテレビやラジオのレギュラー番組を担当させていただき、番組制作のための取材や準備と並行しての曲作り、楽曲毎にレコーディングがスタートし、ソロでのコンサートデビューは’88年10月でした。朝はテレビスタジオから大学、そしてラジオのスタジオ、レコーディングスタジオ、リハーサルスタジオ。撮影スタジオ、リズム録りをして、生放送へ。放送終了後にレコーディングスタジオに戻って、ボーカル録音。メインの歌を入れた後にコーラスの録音。スタジオからスタジオへ!(笑)。忙しかったけれど、楽しくてあっという間でした。レコーディングしては、「ねぇ! こんなの出来たの、聴いて!」って。谷村有美 『Face』 1988年9月1日発売
――そういった慌ただしい日々を送りながら、’89年に3作目の『Hear』を完成させるわけですが、タイトルは“私を聴いてほしい”という意思表明だったのでしょうか。 谷村有美 『Believe In』、『Face』、『Hear』は3部作なんです。デビューという一歩を踏み出すことで“素晴らしい未来や出逢い”と“変わることのない私=自分でいる”決意を込めた『Believe In』。次に“私はこんな人=顔です”を『Face』で表現し、自分の生き方や考え方、世界観を。“そんな私が伝えたいこと”が『Hear』です。テレビやラジオ番組では常に2wayでのやりとりがあったので、“あなたの声も聴きたい、聴かせてね”というなニュアンスも入っています。谷村有美 『Hear』 1989年6月21日発売
――3部作で得た経験や自信が‘90年リリースの傑作『PRISM』につながっていくわけですね。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">インタビュー
コンサートでファンの顔を見て、「またね」って言うのが苦しかった
――2作目のアルバム『Face』(’88年)を出したあたりはかなり忙しかったようですね。その合間を縫ってのレコーディングも大変だったでしょう。 谷村有美 デビューより前からテレビやラジオのレギュラー番組を担当させていただき、番組制作のための取材や準備と並行しての曲作り、楽曲毎にレコーディングがスタートし、ソロでのコンサートデビューは’88年10月でした。朝はテレビスタジオから大学、そしてラジオのスタジオ、レコーディングスタジオ、リハーサルスタジオ。撮影スタジオ、リズム録りをして、生放送へ。放送終了後にレコーディングスタジオに戻って、ボーカル録音。メインの歌を入れた後にコーラスの録音。スタジオからスタジオへ!(笑)。忙しかったけれど、楽しくてあっという間でした。レコーディングしては、「ねぇ! こんなの出来たの、聴いて!」って。谷村有美 『Face』 1988年9月1日発売
――そういった慌ただしい日々を送りながら、’89年に3作目の『Hear』を完成させるわけですが、タイトルは“私を聴いてほしい”という意思表明だったのでしょうか。 谷村有美 『Believe In』、『Face』、『Hear』は3部作なんです。デビューという一歩を踏み出すことで“素晴らしい未来や出逢い”と“変わることのない私=自分でいる”決意を込めた『Believe In』。次に“私はこんな人=顔です”を『Face』で表現し、自分の生き方や考え方、世界観を。“そんな私が伝えたいこと”が『Hear』です。テレビやラジオ番組では常に2wayでのやりとりがあったので、“あなたの声も聴きたい、聴かせてね”というなニュアンスも入っています。谷村有美 『Hear』 1989年6月21日発売
――3部作で得た経験や自信が‘90年リリースの傑作『PRISM』につながっていくわけですね。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">54 件公開
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お世話になった全ての方にご恩返しをし、ヒット曲を出すのが目下の課題
――谷村有美さんはガールポップを代表する存在だとよく言われますよね。ご本人は当時どう思っていたのでしょうか。 谷村有美 ガールポップというのは、私にとって雑誌のタイトルです。それが一人歩きしてムーブメントになり、現在ではジャンルみたいになっている。すごいことですよね。これはソニー・マガジンズの『GiRLPOP』が作り、もたらした功績だと思います。素晴らしいことですし、音楽を志す女性アーティストにとって強い追い風になったのではないでしょうか。私がデビューした当時はアイドルとロックが席捲していました。そんな中、『GiRLPOP』という雑誌はいつも谷村有美を大きく扱ってくださって、しかもツアーやスタジオにも密着、ロケでの撮影も多かった。海外にも行かせてもらったし、『愛は元気です。』と『愛は元気です。2』は単行本から文庫にもなり、さらに写真集『オブリガーダ』はブラジルロケ。『谷村有美でよかった。』は長期間ほぼカメラと一緒に全国ツアーに。本当にありがたかったです。私にとってガールポップは、“谷村有美が出ていける場所”。メイクをきちんとして、いろいろなお洋服を着て、その時感じたこと見た景色を伝える。特にビジュアル面で新進気鋭のクリエイターの皆様と様々な挑戦をさせていただきました。刺激的で恵まれたありがたい経験でした。 ――となると、違和感はあったわけですよね。 谷村有美 デビューのときに「谷村有美はアイドルですか、アーティストですか?」という質問がすごく多かった。今なら、「ありがとうございます。アイドル目指しています」って笑顔で答えちゃいますが、 当時は「どうして?」って。「アイドルってキラキラしたスターでしょ?」と思っていたので私自身とはかけ離れているような違和感がありました。 ――今こうやってガールポップの牽引役としてクローズアップされるのはいかがですか。 谷村有美 牽引役かどうかは別にして、嬉しいですね、ガールポップという響きがとても好きです(笑)。とはいえ、ガールポップって非常に曖昧ですよね。“女流ポップ(な楽曲を作り歌う)アーティスト”ってことなのでしょうか。謎です。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">インタビュー
お世話になった全ての方にご恩返しをし、ヒット曲を出すのが目下の課題
――谷村有美さんはガールポップを代表する存在だとよく言われますよね。ご本人は当時どう思っていたのでしょうか。 谷村有美 ガールポップというのは、私にとって雑誌のタイトルです。それが一人歩きしてムーブメントになり、現在ではジャンルみたいになっている。すごいことですよね。これはソニー・マガジンズの『GiRLPOP』が作り、もたらした功績だと思います。素晴らしいことですし、音楽を志す女性アーティストにとって強い追い風になったのではないでしょうか。私がデビューした当時はアイドルとロックが席捲していました。そんな中、『GiRLPOP』という雑誌はいつも谷村有美を大きく扱ってくださって、しかもツアーやスタジオにも密着、ロケでの撮影も多かった。海外にも行かせてもらったし、『愛は元気です。』と『愛は元気です。2』は単行本から文庫にもなり、さらに写真集『オブリガーダ』はブラジルロケ。『谷村有美でよかった。』は長期間ほぼカメラと一緒に全国ツアーに。本当にありがたかったです。私にとってガールポップは、“谷村有美が出ていける場所”。メイクをきちんとして、いろいろなお洋服を着て、その時感じたこと見た景色を伝える。特にビジュアル面で新進気鋭のクリエイターの皆様と様々な挑戦をさせていただきました。刺激的で恵まれたありがたい経験でした。 ――となると、違和感はあったわけですよね。 谷村有美 デビューのときに「谷村有美はアイドルですか、アーティストですか?」という質問がすごく多かった。今なら、「ありがとうございます。アイドル目指しています」って笑顔で答えちゃいますが、 当時は「どうして?」って。「アイドルってキラキラしたスターでしょ?」と思っていたので私自身とはかけ離れているような違和感がありました。 ――今こうやってガールポップの牽引役としてクローズアップされるのはいかがですか。 谷村有美 牽引役かどうかは別にして、嬉しいですね、ガールポップという響きがとても好きです(笑)。とはいえ、ガールポップって非常に曖昧ですよね。“女流ポップ(な楽曲を作り歌う)アーティスト”ってことなのでしょうか。謎です。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">54 件公開
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西城秀樹 『BIG GAME ’80 HIDEKI JUMPING SUMMER in STADIUM』 2023年11月24日発売(アルバム復刻シリーズ第6弾)
また、『BIG GAME ’80 HIDEKI』では、レコードの1枚目A面に収められた5曲中3曲がレインボーのカヴァーで、しかもリリースから1年も経っていないアルバムから選ばれているんですよ。秀樹さんはフランク・シナトラなど、オールディーズも歌っていますが、一方で洋楽の最新曲ばかり選ぶ傾向がありました。それも洋楽のヘヴィリスナーだったからこそでしょうね。西城秀樹 『BIG GAME ’82 HIDEKI SUMMER in OHMUTA』 2023年11月24日発売(アルバム復刻シリーズ第6弾)
── 先ほどタイトルをあげていましたが、このたび初商品化となった『BIG GAME ’82 HIDEKI SUMMER in OHMUTA』。ここで収録の「オー・プリティ・ウ-マン」もロイ・オービソンではなく、ヴァン・ヘイレンのアルバム『ダイヴァー・ダウン』を耳にしてカヴァーしたような印象を受けました。 クリス松村 ヴァン・ヘイレンの『ダイヴァー・ダウン』のリリースが’82年4月で、その大牟田市でのライヴは同年8月に行われていますが、きっとヴァン・ヘイレンの新作を耳にされてすぐさまカヴァーされたんでしょうね。わずか4か月。すごいですよね。こうした最新洋楽のカヴァーは、ご自身の歌に対する挑戦でもあったと思います。カヴァーをいかに自分の歌にして、歌いこなすかという。それから、ファンのみなさんに良い歌を伝えたいという気持ちもあったんでしょうね。『BIG GAME』シリーズは、まさにそんな秀樹さんの洋楽に対する思いをぶつけた挑戦の連続だったんです。 ── 秀樹さんにとって洋楽のカヴァーを歌いこなすということは乗り越えるべき壁でもあり、その壁を乗り越えることで成長に繋がっていったのでしょうか?&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">西城秀樹 『BIG GAME ’80 HIDEKI JUMPING SUMMER in STADIUM』 2023年11月24日発売(アルバム復刻シリーズ第6弾)
また、『BIG GAME ’80 HIDEKI』では、レコードの1枚目A面に収められた5曲中3曲がレインボーのカヴァーで、しかもリリースから1年も経っていないアルバムから選ばれているんですよ。秀樹さんはフランク・シナトラなど、オールディーズも歌っていますが、一方で洋楽の最新曲ばかり選ぶ傾向がありました。それも洋楽のヘヴィリスナーだったからこそでしょうね。西城秀樹 『BIG GAME ’82 HIDEKI SUMMER in OHMUTA』 2023年11月24日発売(アルバム復刻シリーズ第6弾)
── 先ほどタイトルをあげていましたが、このたび初商品化となった『BIG GAME ’82 HIDEKI SUMMER in OHMUTA』。ここで収録の「オー・プリティ・ウ-マン」もロイ・オービソンではなく、ヴァン・ヘイレンのアルバム『ダイヴァー・ダウン』を耳にしてカヴァーしたような印象を受けました。 クリス松村 ヴァン・ヘイレンの『ダイヴァー・ダウン』のリリースが’82年4月で、その大牟田市でのライヴは同年8月に行われていますが、きっとヴァン・ヘイレンの新作を耳にされてすぐさまカヴァーされたんでしょうね。わずか4か月。すごいですよね。こうした最新洋楽のカヴァーは、ご自身の歌に対する挑戦でもあったと思います。カヴァーをいかに自分の歌にして、歌いこなすかという。それから、ファンのみなさんに良い歌を伝えたいという気持ちもあったんでしょうね。『BIG GAME』シリーズは、まさにそんな秀樹さんの洋楽に対する思いをぶつけた挑戦の連続だったんです。 ── 秀樹さんにとって洋楽のカヴァーを歌いこなすということは乗り越えるべき壁でもあり、その壁を乗り越えることで成長に繋がっていったのでしょうか?&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">64 件公開
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私が好きなURCレコード ベスト3
1. 友部正人「一本道」 from Album 『にんじん』(1973年) 2. 友部正人「君が欲しい」 from Album 『にんじん』(1973年) 3. 加川良「こもりうた」 from Album 『親愛なるQに捧ぐ』(1972年) &header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">私が好きなURCレコード ベスト3
1. 友部正人「一本道」 from Album 『にんじん』(1973年) 2. 友部正人「君が欲しい」 from Album 『にんじん』(1973年) 3. 加川良「こもりうた」 from Album 『親愛なるQに捧ぐ』(1972年) &header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">58 件公開
由紀さおり 「夜明けのスキャット / 夜の果てまで」 1969年3月10日発売
由紀さおりの「夜明けのスキャット」は、1969年最大ヒットの一つで、深夜ラジオのテーマ曲がレコード化された。深夜ラジオから火がついた大ヒットという点では、前年のフォークル「帰って来たヨッパライ」に続くものだ。作曲は、CMソング作曲家出身のいずみたくで、同年の佐良直美「いいじゃないのしあわせならば」、前年のピンキーとキラーズ「恋の季節」と並んで、GS勢とは一線を画しつつ(とはいえタイガースの明治チョコレートのCMはいずみだが)非専属作曲家として大ブレイクしている。60年代後半、「いずみたくの時代」が確実に存在していた。 前年のヒットで恐縮だが、いずみたく門下のピンキラ「恋の季節」のメロディーはラドレミソ(二六抜き)のマイナー・ペンタトニックで書かれていることに注目して、それまでのラシドミファのヨナ抜き旋律と異なり日本の民謡により近い音階は、偽りの西洋化を脱して「民族的」な音感に回帰しつつあることを示している、という説を民族音楽学者の小泉文夫がぶち上げ、この時期それなりに話題になっている。こうした一種の対抗的なルーツ志向は、1970年以降の「ディスカヴァー・ジャパン」系歌謡や、「ド演歌」の「日本の心」化と共通するメンタリティといえるかもしれない。ただ、明らかにセルジオ・メンデス&ブラジル’66を模したピンキラのコンセプトからして、「恋の季節」のラドレミソは「マシュ・ケ・ナダ」(『1969』アルバムにも収録)との連続において理解したほうがよさそうだ。 セルメン、「マシュ・ケ・ナダ」といえば1969年は「イージーリスニング」の年でもあった。『1969』アルバムでも、映画音楽、フォーク、ボサノヴァなど当時日本で親しまれていた外国曲のカヴァーが含まれているが、それらを形容するものとして、1970年版の『現代用語の基礎知識』には、「演歌」と「イージーリスニング」と「ポップカントリー」が音楽関連の新語として掲載されている。西田佐知子 「くれないホテル / 通り過ぎた恋」 1969年4月5日発売
A&Mのハープ・アルパートやセルジオ・メンデス、バート・バカラックなどのサウンドは、もしかしたら当時のロック勢よりも日本の音楽に深く影響を与えたかもしれない。細野晴臣が好んだ筒美京平楽曲(ということを松本隆が筒美京平との初対面時に伝えたところ素っ気なく対応された、というエピソードがしばしば語られる)西田佐知子「くれないホテル」も、言わずとしれた特大ヒットいしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」と同系統の1969年型イージーリスニング歌謡のひとつといえるかもしれない。カルメン・マキ 「時には母のない子のように / あなたが欲しい」 1969年2月21日発売
&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">コラム
由紀さおり 「夜明けのスキャット / 夜の果てまで」 1969年3月10日発売
由紀さおりの「夜明けのスキャット」は、1969年最大ヒットの一つで、深夜ラジオのテーマ曲がレコード化された。深夜ラジオから火がついた大ヒットという点では、前年のフォークル「帰って来たヨッパライ」に続くものだ。作曲は、CMソング作曲家出身のいずみたくで、同年の佐良直美「いいじゃないのしあわせならば」、前年のピンキーとキラーズ「恋の季節」と並んで、GS勢とは一線を画しつつ(とはいえタイガースの明治チョコレートのCMはいずみだが)非専属作曲家として大ブレイクしている。60年代後半、「いずみたくの時代」が確実に存在していた。 前年のヒットで恐縮だが、いずみたく門下のピンキラ「恋の季節」のメロディーはラドレミソ(二六抜き)のマイナー・ペンタトニックで書かれていることに注目して、それまでのラシドミファのヨナ抜き旋律と異なり日本の民謡により近い音階は、偽りの西洋化を脱して「民族的」な音感に回帰しつつあることを示している、という説を民族音楽学者の小泉文夫がぶち上げ、この時期それなりに話題になっている。こうした一種の対抗的なルーツ志向は、1970年以降の「ディスカヴァー・ジャパン」系歌謡や、「ド演歌」の「日本の心」化と共通するメンタリティといえるかもしれない。ただ、明らかにセルジオ・メンデス&ブラジル’66を模したピンキラのコンセプトからして、「恋の季節」のラドレミソは「マシュ・ケ・ナダ」(『1969』アルバムにも収録)との連続において理解したほうがよさそうだ。 セルメン、「マシュ・ケ・ナダ」といえば1969年は「イージーリスニング」の年でもあった。『1969』アルバムでも、映画音楽、フォーク、ボサノヴァなど当時日本で親しまれていた外国曲のカヴァーが含まれているが、それらを形容するものとして、1970年版の『現代用語の基礎知識』には、「演歌」と「イージーリスニング」と「ポップカントリー」が音楽関連の新語として掲載されている。西田佐知子 「くれないホテル / 通り過ぎた恋」 1969年4月5日発売
A&Mのハープ・アルパートやセルジオ・メンデス、バート・バカラックなどのサウンドは、もしかしたら当時のロック勢よりも日本の音楽に深く影響を与えたかもしれない。細野晴臣が好んだ筒美京平楽曲(ということを松本隆が筒美京平との初対面時に伝えたところ素っ気なく対応された、というエピソードがしばしば語られる)西田佐知子「くれないホテル」も、言わずとしれた特大ヒットいしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」と同系統の1969年型イージーリスニング歌謡のひとつといえるかもしれない。カルメン・マキ 「時には母のない子のように / あなたが欲しい」 1969年2月21日発売
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私が好きなはっぴいえんど+URCレコード ベスト3
1. 加川良「教訓1」 from Album 『教訓』(1971年) 2. はっぴいえんど「しんしんしん」 from Album 『はっぴいえんど』(1970年) 3. はっぴいえんど「暗闇坂むささび変化」 from Album 『風街ろまん』(1971年) &header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">スペシャル
私が好きなはっぴいえんど+URCレコード ベスト3
1. 加川良「教訓1」 from Album 『教訓』(1971年) 2. はっぴいえんど「しんしんしん」 from Album 『はっぴいえんど』(1970年) 3. はっぴいえんど「暗闇坂むささび変化」 from Album 『風街ろまん』(1971年) &header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">58 件公開
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解散後もずっとキャンディーズが好きだったから、現在も当時の曲をこだわりなく歌える
―― 7thシングル「その気にさせないで」(’75年9月1日)がリリースされた前後には、マネージャーが大里洋吉さんに交代します。その頃からキャンディーズの活動はどんどんライヴ重視に移行していきました。 伊藤蘭 はい。 ―― 大学生のファンが増え、会場もどんどん大きくなって、ロックコンサートにも似た盛り上がりを見せていきます。急激な変化をどうご覧になっていましたか? 伊藤蘭 3人ともすごく手応えを感じていました。例えば「春一番」(’76年3月1日)を歌うと、会場の温度がバーッと上がるのが肌で感じられるんですね。だったらこの曲をシングルカットしようという提案が、自分たちの側から出てきました。 ―― たしか前の年に出たアルバム(’75年4月21日発売の『年下の男の子』)の収録曲だったんですよね。当時のアイドルポップスでは、シングルはシングルとして制作されるのが当たり前だったので、「春一番」はかなり異例なパターンだったと。 伊藤蘭 そうなんです。キャンディーズのライヴが短期間に充実していったのは、やはりMMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)の存在が大きかったと思う。その前後でライヴの世界観がガラッと変わりましたから。皆さん若く、しかもバリバリのロック系とかファンク系の方々でしょう。そういった硬派なミュージシャンが女性アイドルのバックを支えた例というのは、当時ほとんどなかったんですよ。キャンディーズ 『年下の男の子』 1975年4月21日発売
―― 現在ではごく当たり前の風景ですが、キャンディーズとMMPのコンビはその先駆者だった。 伊藤蘭 かもしれませんね。もちろん皆さん、最初は葛藤があったと思います。私たち3人にも、本気で引き受けてくれるんだろうかという不安があった。お互い、別ジャンルの住人という思い込みがありましたからね。でも、ある時点でぜんぶ受け容れてくれました。MMPとして、この3人のステージを全力で盛り上げるんだと。2つの歯車がカチッと噛み合った瞬間があったような気がします。 ―― 資料によるとMMPとの初共演は’75年8月25日。「日劇ウエスタン・カーニバル 〜キャンディーズ・ショー〜」です。この組み合わせはどういう経緯で始まったのですか? 伊藤蘭 大里さんの発案だったと思います。MMPは最初、あいざき進也さんのバックで演奏していて。リーダーのチャッピーさん(キーボードの渡辺茂樹氏、元ワイルドワンズ)や新田一郎さん(トランペット)は、その前は伊丹幸雄さんのサポートもされていたのかな。どちらも同じ渡辺プロ所属でしたので、MMPも力のあるバンドとして知っていました。で、たまたま大里さんが昔、ワイルドワンズやあいざきさんのマネジメントを担当されていたので。その流れで私たちもやってもらえるようになったはずです。その発想はいいなって思いましたよ。すごく嬉しかった。それまでの私たちは、いわゆるフルバンドをバックに歌っているイメージが強かったと思うんですけど…。 ―― 「8時だョ!全員集合」における、岡本章生とゲイスターズのような。 伊藤蘭 そうです、そうです。ゲスト歌手が入れ替わり立ち替わり前に立って、持ち歌を披露するスタイル。ポップスも演歌も完璧にこなせるプロの集団って言いますか。 ―― でもキャンディーズとMMPの関係は、それとは異質ですよね。残されたライヴ盤3枚を聴くと、歌と演奏が一体となった勢いが凄まじい。間違いなくライヴの場数を踏んでないと出せないグルーヴ。サウンドの組み立ては完全に、女性のメインヴォーカルが3人いるロック/ファンクバンドです。 伊藤蘭 うん、そうですね。 ―― そこまで打ち解けるのに、どのくらいかかりましたか? 伊藤蘭 うーん、どれくらいかなあ。たぶん1回目の蔵前国技館(’75年10月19日開催「キャンディーズ10000人カーニバル」)くらいからですかね。あと、すごくよく覚えているのは日比谷野音(’77年7月17日開催「サマージャック’77オープニング・コンサート)。あれはすごく大きかった気がする。キャンディーズ 『キャンディーズ10,000人カーニバル』 1975年12月21日発売
―― 3人がステージで解散を表明したライヴですね。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">インタビュー
解散後もずっとキャンディーズが好きだったから、現在も当時の曲をこだわりなく歌える
―― 7thシングル「その気にさせないで」(’75年9月1日)がリリースされた前後には、マネージャーが大里洋吉さんに交代します。その頃からキャンディーズの活動はどんどんライヴ重視に移行していきました。 伊藤蘭 はい。 ―― 大学生のファンが増え、会場もどんどん大きくなって、ロックコンサートにも似た盛り上がりを見せていきます。急激な変化をどうご覧になっていましたか? 伊藤蘭 3人ともすごく手応えを感じていました。例えば「春一番」(’76年3月1日)を歌うと、会場の温度がバーッと上がるのが肌で感じられるんですね。だったらこの曲をシングルカットしようという提案が、自分たちの側から出てきました。 ―― たしか前の年に出たアルバム(’75年4月21日発売の『年下の男の子』)の収録曲だったんですよね。当時のアイドルポップスでは、シングルはシングルとして制作されるのが当たり前だったので、「春一番」はかなり異例なパターンだったと。 伊藤蘭 そうなんです。キャンディーズのライヴが短期間に充実していったのは、やはりMMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)の存在が大きかったと思う。その前後でライヴの世界観がガラッと変わりましたから。皆さん若く、しかもバリバリのロック系とかファンク系の方々でしょう。そういった硬派なミュージシャンが女性アイドルのバックを支えた例というのは、当時ほとんどなかったんですよ。キャンディーズ 『年下の男の子』 1975年4月21日発売
―― 現在ではごく当たり前の風景ですが、キャンディーズとMMPのコンビはその先駆者だった。 伊藤蘭 かもしれませんね。もちろん皆さん、最初は葛藤があったと思います。私たち3人にも、本気で引き受けてくれるんだろうかという不安があった。お互い、別ジャンルの住人という思い込みがありましたからね。でも、ある時点でぜんぶ受け容れてくれました。MMPとして、この3人のステージを全力で盛り上げるんだと。2つの歯車がカチッと噛み合った瞬間があったような気がします。 ―― 資料によるとMMPとの初共演は’75年8月25日。「日劇ウエスタン・カーニバル 〜キャンディーズ・ショー〜」です。この組み合わせはどういう経緯で始まったのですか? 伊藤蘭 大里さんの発案だったと思います。MMPは最初、あいざき進也さんのバックで演奏していて。リーダーのチャッピーさん(キーボードの渡辺茂樹氏、元ワイルドワンズ)や新田一郎さん(トランペット)は、その前は伊丹幸雄さんのサポートもされていたのかな。どちらも同じ渡辺プロ所属でしたので、MMPも力のあるバンドとして知っていました。で、たまたま大里さんが昔、ワイルドワンズやあいざきさんのマネジメントを担当されていたので。その流れで私たちもやってもらえるようになったはずです。その発想はいいなって思いましたよ。すごく嬉しかった。それまでの私たちは、いわゆるフルバンドをバックに歌っているイメージが強かったと思うんですけど…。 ―― 「8時だョ!全員集合」における、岡本章生とゲイスターズのような。 伊藤蘭 そうです、そうです。ゲスト歌手が入れ替わり立ち替わり前に立って、持ち歌を披露するスタイル。ポップスも演歌も完璧にこなせるプロの集団って言いますか。 ―― でもキャンディーズとMMPの関係は、それとは異質ですよね。残されたライヴ盤3枚を聴くと、歌と演奏が一体となった勢いが凄まじい。間違いなくライヴの場数を踏んでないと出せないグルーヴ。サウンドの組み立ては完全に、女性のメインヴォーカルが3人いるロック/ファンクバンドです。 伊藤蘭 うん、そうですね。 ―― そこまで打ち解けるのに、どのくらいかかりましたか? 伊藤蘭 うーん、どれくらいかなあ。たぶん1回目の蔵前国技館(’75年10月19日開催「キャンディーズ10000人カーニバル」)くらいからですかね。あと、すごくよく覚えているのは日比谷野音(’77年7月17日開催「サマージャック’77オープニング・コンサート)。あれはすごく大きかった気がする。キャンディーズ 『キャンディーズ10,000人カーニバル』 1975年12月21日発売
―― 3人がステージで解散を表明したライヴですね。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">66 件公開
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「自分の中でのフルスロットルで向かうことを今は目標にしています」
―― 全国ツアーもはじまり、新曲もリリースということで、TMの新しい季節がやってきました。今回、ウツさんと木根さんにもそれぞれ事前に濃いインタビューをしています。それぞれちょっと違う角度から、いろんなお話を伺いました。それこそ3人は、TM NETWORKを結成から40年という長い時間が経過しています。メンバーのふたりについて、小室さんからのお話を聞きたいのですが、まずはウツさんについて、あらためてどんな方なのか? どんなボーカリストなのか? 教えてください。 小室哲哉 出会った10代の頃から現在の60代まで一緒にやってきているけど、僕は歌というものは、人だったら普通に口ずさんだり、自然に歌ったりできる当たり前のものだと思っていたんですよ。それぞれの時代でも歌というものは存在するしね。たとえば幼少期に歌うということは人間誰しもができる当たり前のこと、だったりするでしょ? 10代では、歌がうまい子は歌っていて当然だよねという感じで。それが20代になると、センターというか真ん中でみんなの注目を浴びて声を出すっていう、少しばかり重圧を感じるようになります。30代ではどちらかというと、誤解を恐れずに言えば負というか、大変なことや本当に歌うことの意味を理解することが増えていく。それが40代、50代では、積み重なってくる経験がもっともっと増えていく……。 ―― それは深いですね。 小室哲哉 ……歌は人が発するものだからね。僕自身も自分が今、ライヴで歌うこともあるので、そういうことがわかるようになって。そうやって思い返していくと、TMの曲でウツはよくあそこでブレスしないであそこまで歌ってくれていたなとか、なぜあそこで1小節ブレイクを作ってあげなかったんだろうかとか、なぜあんな転調の前に転調しますよという音を入れてあげなかったのかとか……考えるようになりました。半音上がる転調というのが昔の歌謡曲では普通だったのに、僕はそれを崩したひとりでもあると思うんですね。「My Revolution」で3度、4度転調して、しかも下がる転調というのは調は下がるんだけど、歌は上がってるという……。下に下がっているオクターブ上を歌うという手法なんですけど。それをTMに持ってきちゃった。そして、それを何事もなかったかのようにウツは歌ってくれているんだということが、歳を重ねるごとに、振り返れば振り返るほど、強く感じています。たとえば、「BEYOND THE TIME(メビウスの宇宙を越えて)」のBメロとか、「THE POINT OF LOVERS' NIGHT」のサビから間奏にいくところとか、ありえない転調だと思うんですよ。まあ、その後ね、今のボカロ世代の人たちは特殊ですから、そういうことが当たり前かもしれないけど。 &header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">「自分の中でのフルスロットルで向かうことを今は目標にしています」
―― 全国ツアーもはじまり、新曲もリリースということで、TMの新しい季節がやってきました。今回、ウツさんと木根さんにもそれぞれ事前に濃いインタビューをしています。それぞれちょっと違う角度から、いろんなお話を伺いました。それこそ3人は、TM NETWORKを結成から40年という長い時間が経過しています。メンバーのふたりについて、小室さんからのお話を聞きたいのですが、まずはウツさんについて、あらためてどんな方なのか? どんなボーカリストなのか? 教えてください。 小室哲哉 出会った10代の頃から現在の60代まで一緒にやってきているけど、僕は歌というものは、人だったら普通に口ずさんだり、自然に歌ったりできる当たり前のものだと思っていたんですよ。それぞれの時代でも歌というものは存在するしね。たとえば幼少期に歌うということは人間誰しもができる当たり前のこと、だったりするでしょ? 10代では、歌がうまい子は歌っていて当然だよねという感じで。それが20代になると、センターというか真ん中でみんなの注目を浴びて声を出すっていう、少しばかり重圧を感じるようになります。30代ではどちらかというと、誤解を恐れずに言えば負というか、大変なことや本当に歌うことの意味を理解することが増えていく。それが40代、50代では、積み重なってくる経験がもっともっと増えていく……。 ―― それは深いですね。 小室哲哉 ……歌は人が発するものだからね。僕自身も自分が今、ライヴで歌うこともあるので、そういうことがわかるようになって。そうやって思い返していくと、TMの曲でウツはよくあそこでブレスしないであそこまで歌ってくれていたなとか、なぜあそこで1小節ブレイクを作ってあげなかったんだろうかとか、なぜあんな転調の前に転調しますよという音を入れてあげなかったのかとか……考えるようになりました。半音上がる転調というのが昔の歌謡曲では普通だったのに、僕はそれを崩したひとりでもあると思うんですね。「My Revolution」で3度、4度転調して、しかも下がる転調というのは調は下がるんだけど、歌は上がってるという……。下に下がっているオクターブ上を歌うという手法なんですけど。それをTMに持ってきちゃった。そして、それを何事もなかったかのようにウツは歌ってくれているんだということが、歳を重ねるごとに、振り返れば振り返るほど、強く感じています。たとえば、「BEYOND THE TIME(メビウスの宇宙を越えて)」のBメロとか、「THE POINT OF LOVERS' NIGHT」のサビから間奏にいくところとか、ありえない転調だと思うんですよ。まあ、その後ね、今のボカロ世代の人たちは特殊ですから、そういうことが当たり前かもしれないけど。 &header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
「観に来るというよりは、もうTM NETWORKの一員としてライヴに来てほしいですね」
―― TM関連曲が6曲も起用された、映画『劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)』について伺いたいのですが、TM NETWORKのアーティスト写真のひとつが、『シティーハンター』の世界観へ没入して、3人がアニメーション風にイラスト化されました。 木根尚登 びっくりしたし、カッコいいと思いました。初期の頃から、絵やイラストが得意なファンの方からアニメタッチの3人の絵が送られてくるがあって。少女コミックに出てくるイケメンの男の子たちのような絵で。僕も、イラストだとめっちゃカッコいいんですよ。でも、ちょっと恥ずかしく思っていてね。でも、今回はあの頃のような思いにならなかったですよ。そのくらい年月が経って、客観的に自分たちを見られるようなったのかな。“これ、カッコイイじゃん”って。何十年前だったら、“いや、ちょっとやめてくれ。俺じゃないから”って言っていたかもしれないけど、今は素直にカッコいいなと。あまり自分が載った写真とかを飾ったりするのは恥ずかしいんだけど、これは飾れるなぁって。©北条司/コアミックス・「2023 劇場版シティーハンター」製作委員会 ©2023 Sony Music Labels Inc.
―― TM NETWORKは9月7日から全国ツアー<TM NETWORK 40th FANKS intelligence Days 〜DEVOTION〜>がスタートします。前回のツアーからの物語が続いていると思いつつも、ツアーはどんな感じになりそうですか?&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">「観に来るというよりは、もうTM NETWORKの一員としてライヴに来てほしいですね」
―― TM関連曲が6曲も起用された、映画『劇場版シティーハンター 天使の涙(エンジェルダスト)』について伺いたいのですが、TM NETWORKのアーティスト写真のひとつが、『シティーハンター』の世界観へ没入して、3人がアニメーション風にイラスト化されました。 木根尚登 びっくりしたし、カッコいいと思いました。初期の頃から、絵やイラストが得意なファンの方からアニメタッチの3人の絵が送られてくるがあって。少女コミックに出てくるイケメンの男の子たちのような絵で。僕も、イラストだとめっちゃカッコいいんですよ。でも、ちょっと恥ずかしく思っていてね。でも、今回はあの頃のような思いにならなかったですよ。そのくらい年月が経って、客観的に自分たちを見られるようなったのかな。“これ、カッコイイじゃん”って。何十年前だったら、“いや、ちょっとやめてくれ。俺じゃないから”って言っていたかもしれないけど、今は素直にカッコいいなと。あまり自分が載った写真とかを飾ったりするのは恥ずかしいんだけど、これは飾れるなぁって。©北条司/コアミックス・「2023 劇場版シティーハンター」製作委員会 ©2023 Sony Music Labels Inc.
―― TM NETWORKは9月7日から全国ツアー<TM NETWORK 40th FANKS intelligence Days 〜DEVOTION〜>がスタートします。前回のツアーからの物語が続いていると思いつつも、ツアーはどんな感じになりそうですか?&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
「1年とか2年とか平気で会わないときもあったし。ただ、木根に限らず小室にしても何年ぶりに会ってもそのままというか。そこが不思議で……」
―― ここからは少しパーソナルなお話を。TM NETWORKメンバー、木根さんとの付き合いもとても長くなりましたが、ウツさんにとって木根尚登さんとはどんな存在ですか? 宇都宮隆 えっ、やめてよ、そんな(笑)。えっと、……どんな方と言われても、言えないことの方が多いんじゃない? 面白い話がいっぱいで(苦笑)。小学校や中学時代から一緒にいるけど、やっぱり大人になっていくにつれて世界や生活も変わるし、そうするとそんなに会ってないんですよね。それぞれソロ活動をやっていて、TMとして活動が一緒にならない限り、1年とか2年とか平気で会わないときもあったし。ただ、木根に限らず小室にしても何年ぶりに会ってもそのままというか。そこが不思議で……ファンの人たちからもそう思われているんじゃないかな。 ―― そういえば、今年のソロでの『LIVE UTSU BAR TOUR 2023』の東京 EX THEATER ROPPONGI公演が終わって、楽屋でご挨拶させてもらったときに、小室さんもいらっしゃっていて、ウツさんと仲良さげに会話されていたのがいいなぁと思って遠目から見ていました。小室さんはTMへの復活や、一時期の引退から復帰への流れの中で、待ち続けてくれたウツさんと木根さんへの感謝の気持ちはとても大きいと感じます。そういった中で、また今こうしてTM NETWORKとして一緒に物づくりをされていることは素晴らしいことだと思います。改めて小室哲哉さんとはどんな方ですか? 宇都宮隆 それも言えないことばかりだと思うんですけどね(苦笑)。皆さんご存知だと思うんですけど、一時期引退して、“今、どうしてんの?”という感じでご飯に行ったんですけど。その時はピアノも弾いてないという感じだったので、“いや別に今は弾かなくてもいいんじゃないの”という話をして、その翌年に会ったら、だんだんと自分でも“やっぱり音楽が好きなんだ”ということが分かってきたみたいで……。“じゃあ、別に曲は書かなくてもいいから、ミュージシャンとして何かやればいいんじゃないの?”という話をしました。そうするうちに、だんだん弾くようになってきて。もう付き合いが長いので、ピアノをはじめ鍵盤の前に戻っていくさまが見られて、よかったなと思っていました。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">「1年とか2年とか平気で会わないときもあったし。ただ、木根に限らず小室にしても何年ぶりに会ってもそのままというか。そこが不思議で……」
―― ここからは少しパーソナルなお話を。TM NETWORKメンバー、木根さんとの付き合いもとても長くなりましたが、ウツさんにとって木根尚登さんとはどんな存在ですか? 宇都宮隆 えっ、やめてよ、そんな(笑)。えっと、……どんな方と言われても、言えないことの方が多いんじゃない? 面白い話がいっぱいで(苦笑)。小学校や中学時代から一緒にいるけど、やっぱり大人になっていくにつれて世界や生活も変わるし、そうするとそんなに会ってないんですよね。それぞれソロ活動をやっていて、TMとして活動が一緒にならない限り、1年とか2年とか平気で会わないときもあったし。ただ、木根に限らず小室にしても何年ぶりに会ってもそのままというか。そこが不思議で……ファンの人たちからもそう思われているんじゃないかな。 ―― そういえば、今年のソロでの『LIVE UTSU BAR TOUR 2023』の東京 EX THEATER ROPPONGI公演が終わって、楽屋でご挨拶させてもらったときに、小室さんもいらっしゃっていて、ウツさんと仲良さげに会話されていたのがいいなぁと思って遠目から見ていました。小室さんはTMへの復活や、一時期の引退から復帰への流れの中で、待ち続けてくれたウツさんと木根さんへの感謝の気持ちはとても大きいと感じます。そういった中で、また今こうしてTM NETWORKとして一緒に物づくりをされていることは素晴らしいことだと思います。改めて小室哲哉さんとはどんな方ですか? 宇都宮隆 それも言えないことばかりだと思うんですけどね(苦笑)。皆さんご存知だと思うんですけど、一時期引退して、“今、どうしてんの?”という感じでご飯に行ったんですけど。その時はピアノも弾いてないという感じだったので、“いや別に今は弾かなくてもいいんじゃないの”という話をして、その翌年に会ったら、だんだんと自分でも“やっぱり音楽が好きなんだ”ということが分かってきたみたいで……。“じゃあ、別に曲は書かなくてもいいから、ミュージシャンとして何かやればいいんじゃないの?”という話をしました。そうするうちに、だんだん弾くようになってきて。もう付き合いが長いので、ピアノをはじめ鍵盤の前に戻っていくさまが見られて、よかったなと思っていました。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">43 件公開
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選曲:Shinnosuke(ミュージシャン、音楽プロデューサー)
&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">選曲:Shinnosuke(ミュージシャン、音楽プロデューサー)
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選曲:椎名慶治(SURFACE)
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EPICの伝統、遺伝子とでも言うべきアーティスト発掘力は、どの時代にも健在
「私が最初に彼の動く姿をみたのは、深夜のテレビ番組だったか、ナルシスティックともアブノーマルともいえるダンスパフォーマンスにしばし目を奪われた。画面を凝視していると、彼は言い放った。『無難なロックじゃ楽しくない』と」(『ユリイカ 2013年7月臨時増刊号 総特集=岡村靖幸』所収「無難なロックじゃ楽しくない」) ’86年12月、EPIC・ソニー(当時)よりファーストシングル『Out of Blue』をリリースした岡村靖幸。2つ年下の音楽社会学者・南田勝也氏は、最初に彼と出会った際のインパクトをこんなふうに綴っている。 「一九九〇年、私は『どぉなっちゃってんだよ』が収録されたアルバム『家庭教師』を徹底的に聴きこんだ。その世界観はやはり一風変わっていて、まったく無難ではなかった。ただし、無難を拒否してただ過激に走ったということではない。音楽を追求していると他に追随者がいなかったのでいつのまにか異端になってしまった、岡村靖幸はまさにそんな存在だった。孤高というよりは異端の存在である」(同前) 当時のリスナーの肌感覚がよく伝わる文章だと思う。いわゆる“縦ノリ”のバンドブームが世間を席巻していた80年代後半、内向的な妄想世界と肉感的リズムが渾然一体となった岡村の存在感は、たしかに突出していた。中学時代から音楽活動をはじめ、高校を中退して上京。4チャンネルのMTR(マルチトラックレコーダー)を入手した彼は、自作のデモ音源をEPIC・ソニーに持ち込む。音楽性に通じるものを感じたのだろう。「大沢誉志幸のディレクターに聴いてほしい」と逆指名したというエピソードが興味深い。当時、大沢を担当していたのが、後にエピックレコードジャパンの代表取締役に就任する小林和之氏だ。一聴して才能に気付いた小林氏は、さらにブラッシュアップを要求。完成度を上げたデモを、上司の小坂洋二氏に聴かせたそうだ。 「テープを聴いてみると難解というか、非日常な音楽のかけらが、たくさん録音されていました。ロックとR&Bが入り混じったような、よく言えばジェームス・ブラウンっぽく聴こえるのもありました」(スージー鈴木『EPICソニーとその時代』集英社新書、小坂洋二氏インタビューより) ちなみにプロとしての初仕事はデビューの1年以上前。レーベルメイトである渡辺美里のセカンドシングル「GROWIN' UP」(’85年8月25日)で作曲を手がけている。当時、暇を持てあましていた岡村は渡辺のレコーディング現場によく遊びに来ていた。そこで渡辺のプロデューサーでもあった小坂氏が「曲を書いてみないか」と提案したという。いくら才気に溢れているとはいえ、世間的にはまだ何の実績のない素人の若者。既存のレコード会社ではおそらく起用自体がありえなかっただろう。こういう発想の自由さ、現場裁量権の大きさもまた、EPIC・ソニーの強みだったと言えるかもしれない。岡村靖幸 『靖幸』 1989年7月14日発売
サードアルバム『靖幸』(’89年7月14日)以降、岡村は「全てのプロデュース、アレンジ、作詞、作曲、演奏」をすべて手がける独自のファンク路線を展開。ときに「和製プリンス」などと呼ばれつつ、世界中の誰とも似ていない独自の世界を追究していく。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">解説
EPICの伝統、遺伝子とでも言うべきアーティスト発掘力は、どの時代にも健在
「私が最初に彼の動く姿をみたのは、深夜のテレビ番組だったか、ナルシスティックともアブノーマルともいえるダンスパフォーマンスにしばし目を奪われた。画面を凝視していると、彼は言い放った。『無難なロックじゃ楽しくない』と」(『ユリイカ 2013年7月臨時増刊号 総特集=岡村靖幸』所収「無難なロックじゃ楽しくない」) ’86年12月、EPIC・ソニー(当時)よりファーストシングル『Out of Blue』をリリースした岡村靖幸。2つ年下の音楽社会学者・南田勝也氏は、最初に彼と出会った際のインパクトをこんなふうに綴っている。 「一九九〇年、私は『どぉなっちゃってんだよ』が収録されたアルバム『家庭教師』を徹底的に聴きこんだ。その世界観はやはり一風変わっていて、まったく無難ではなかった。ただし、無難を拒否してただ過激に走ったということではない。音楽を追求していると他に追随者がいなかったのでいつのまにか異端になってしまった、岡村靖幸はまさにそんな存在だった。孤高というよりは異端の存在である」(同前) 当時のリスナーの肌感覚がよく伝わる文章だと思う。いわゆる“縦ノリ”のバンドブームが世間を席巻していた80年代後半、内向的な妄想世界と肉感的リズムが渾然一体となった岡村の存在感は、たしかに突出していた。中学時代から音楽活動をはじめ、高校を中退して上京。4チャンネルのMTR(マルチトラックレコーダー)を入手した彼は、自作のデモ音源をEPIC・ソニーに持ち込む。音楽性に通じるものを感じたのだろう。「大沢誉志幸のディレクターに聴いてほしい」と逆指名したというエピソードが興味深い。当時、大沢を担当していたのが、後にエピックレコードジャパンの代表取締役に就任する小林和之氏だ。一聴して才能に気付いた小林氏は、さらにブラッシュアップを要求。完成度を上げたデモを、上司の小坂洋二氏に聴かせたそうだ。 「テープを聴いてみると難解というか、非日常な音楽のかけらが、たくさん録音されていました。ロックとR&Bが入り混じったような、よく言えばジェームス・ブラウンっぽく聴こえるのもありました」(スージー鈴木『EPICソニーとその時代』集英社新書、小坂洋二氏インタビューより) ちなみにプロとしての初仕事はデビューの1年以上前。レーベルメイトである渡辺美里のセカンドシングル「GROWIN' UP」(’85年8月25日)で作曲を手がけている。当時、暇を持てあましていた岡村は渡辺のレコーディング現場によく遊びに来ていた。そこで渡辺のプロデューサーでもあった小坂氏が「曲を書いてみないか」と提案したという。いくら才気に溢れているとはいえ、世間的にはまだ何の実績のない素人の若者。既存のレコード会社ではおそらく起用自体がありえなかっただろう。こういう発想の自由さ、現場裁量権の大きさもまた、EPIC・ソニーの強みだったと言えるかもしれない。岡村靖幸 『靖幸』 1989年7月14日発売
サードアルバム『靖幸』(’89年7月14日)以降、岡村は「全てのプロデュース、アレンジ、作詞、作曲、演奏」をすべて手がける独自のファンク路線を展開。ときに「和製プリンス」などと呼ばれつつ、世界中の誰とも似ていない独自の世界を追究していく。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">61 件公開
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坂本龍一
達郎にとってまさに盟友、坂本龍一(以後、教授)も惜しくも’23年3月28日に旅立った。70年代中頃、鍵盤奏者としてすでに話題となっていた教授だが、大瀧詠一のレコーディングに呼ばれたことでさらにその人脈を拡げていくことに。福生スタジオで出会った達郎と教授は年齢もほぼ同じだったこともあり初対面から意気投合する。大瀧詠一、伊藤銀次、達郎によるコラボレーション作『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』(’76年)では、「ドリーミング・デイ」「パレード」筆頭に教授の鍵盤プレイが全編にわたり大活躍。また、大貫妙子『Grey Skies』(’76年)、『SUNSHOWER』(’77年)におけるプレイやアレンジも衝撃的だった。 &header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">コラム
坂本龍一
達郎にとってまさに盟友、坂本龍一(以後、教授)も惜しくも’23年3月28日に旅立った。70年代中頃、鍵盤奏者としてすでに話題となっていた教授だが、大瀧詠一のレコーディングに呼ばれたことでさらにその人脈を拡げていくことに。福生スタジオで出会った達郎と教授は年齢もほぼ同じだったこともあり初対面から意気投合する。大瀧詠一、伊藤銀次、達郎によるコラボレーション作『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』(’76年)では、「ドリーミング・デイ」「パレード」筆頭に教授の鍵盤プレイが全編にわたり大活躍。また、大貫妙子『Grey Skies』(’76年)、『SUNSHOWER』(’77年)におけるプレイやアレンジも衝撃的だった。 &header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">67 件公開
私が好きな山下達郎RCA/AIR YEARS ベスト3
1. 「MUSIC BOOK」 from Album 『FOR YOU』(1982年) 2. 「いつか(SOMEDAY)」 from Album 『RIDE ON TIME』(1980年) 3. 「LOVE SPACE」 from Album 『SPACY』(1977年) 僕がはじめて山下達郎さんを聴いたのは、13歳の春でした。 ’96年のNHK連続テレビ小説『ひまわり』の主題歌「DREAMING GIRL」がきっかけでした。向日葵の咲き誇る映像と信じられない程にマッチしたその楽曲から興味を抱き、以来のめり込むことになります。 &header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">スペシャル
私が好きな山下達郎RCA/AIR YEARS ベスト3
1. 「MUSIC BOOK」 from Album 『FOR YOU』(1982年) 2. 「いつか(SOMEDAY)」 from Album 『RIDE ON TIME』(1980年) 3. 「LOVE SPACE」 from Album 『SPACY』(1977年) 僕がはじめて山下達郎さんを聴いたのは、13歳の春でした。 ’96年のNHK連続テレビ小説『ひまわり』の主題歌「DREAMING GIRL」がきっかけでした。向日葵の咲き誇る映像と信じられない程にマッチしたその楽曲から興味を抱き、以来のめり込むことになります。 &header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">67 件公開
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村上“PONTA”秀一
村上“PONTA”秀一のパブリックイメージ的といえば、多くの音楽ファンには破天荒で豪快なキャラクターだろう。実際それも魅力だったが、こと音楽に対してはとにかく真摯で歌心を何より大事にしていたドラマーである。ジャズ/フュージョンシーンでも大活躍したドラマーでありその勇姿も最高だったが、同時に歌ものを楽しそうに叩いていた表情が今も忘れられない……。 &header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">コラム
村上“PONTA”秀一
村上“PONTA”秀一のパブリックイメージ的といえば、多くの音楽ファンには破天荒で豪快なキャラクターだろう。実際それも魅力だったが、こと音楽に対してはとにかく真摯で歌心を何より大事にしていたドラマーである。ジャズ/フュージョンシーンでも大活躍したドラマーでありその勇姿も最高だったが、同時に歌ものを楽しそうに叩いていた表情が今も忘れられない……。 &header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">67 件公開
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今回の全8タイトルは新たなリスナーを創出し続ける原動力の一部となっているんです。(クリス松村)
──(【Part3】からの続き)このたびの<RCA/AIR YEARS Vinyl Collection>は音質の面でも注目されています。2023年最新リマスターとヴァイナル・カッティングでリリースされましたが、クリスさんは音の面ではどう感じられましたか? クリス松村 RCA/AIR YEARS期の名作の数々がアナログ・レコードとカセット・テープで再発されることに大きな意義がありますが、いちばん興味があったのは音質でした。ずばり、言います。音は本当に違います。恐らく多くの達郎さんファンの方々は「SPARKLE」のイントロで確かめようとするでしょうけど、はっきりとわかりますから。あのギラギラした音が、まろやかになっています。あとは音の抜けがよくなりましたね。’02年の再発『THE RCA/AIR YEARS LP BOX 1976-1982』まで、達郎さんも音の抜けのことは気にされていましたが、今回でその点がさらに改良されています。レコードのカッティングマシンって’84年以来、実はもう作られてないんですね。ですので、昔の音に比べて音が良くなるわけがないという見方もあるんですが、今回はリマスターの上でプレスされていることで、現在進行形の音楽のサウンドと並べても痩せて聴こえないような厚みと立ち上がりの良い音になっていると感じました。もちろん、好みもあると思いますので、オリジナル盤の方が良いと感じる方もいらっしゃるでしょう。でも、私は音の面でも深く満足できる再発になったと思います。 ── 音質に満足できないようだったら、達郎さんはリリースしないですものね。&header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">今回の全8タイトルは新たなリスナーを創出し続ける原動力の一部となっているんです。(クリス松村)
──(【Part3】からの続き)このたびの<RCA/AIR YEARS Vinyl Collection>は音質の面でも注目されています。2023年最新リマスターとヴァイナル・カッティングでリリースされましたが、クリスさんは音の面ではどう感じられましたか? クリス松村 RCA/AIR YEARS期の名作の数々がアナログ・レコードとカセット・テープで再発されることに大きな意義がありますが、いちばん興味があったのは音質でした。ずばり、言います。音は本当に違います。恐らく多くの達郎さんファンの方々は「SPARKLE」のイントロで確かめようとするでしょうけど、はっきりとわかりますから。あのギラギラした音が、まろやかになっています。あとは音の抜けがよくなりましたね。’02年の再発『THE RCA/AIR YEARS LP BOX 1976-1982』まで、達郎さんも音の抜けのことは気にされていましたが、今回でその点がさらに改良されています。レコードのカッティングマシンって’84年以来、実はもう作られてないんですね。ですので、昔の音に比べて音が良くなるわけがないという見方もあるんですが、今回はリマスターの上でプレスされていることで、現在進行形の音楽のサウンドと並べても痩せて聴こえないような厚みと立ち上がりの良い音になっていると感じました。もちろん、好みもあると思いますので、オリジナル盤の方が良いと感じる方もいらっしゃるでしょう。でも、私は音の面でも深く満足できる再発になったと思います。 ── 音質に満足できないようだったら、達郎さんはリリースしないですものね。&header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">67 件公開
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吉川忠英
’67年に瀬戸龍介らと結成したTHE NEW FRONTIERSで’71年に渡米、これを前身としたグループEASTで翌年、なんと米国キャピタルレコードより『EAST』でデビューしたのが吉川忠英。まさにリアルタイムでウエストコーストサウンドを本場で具現化した唯一の日本人バンドだったが、セールス的な成功には恵まれなかった。当時FEN(在日米軍兵向けのラジオ放送。現在のAFN)で唯一流れた日本人バンドのレコードだったという。 &header=tag" class="m-content-list-card__img-wrap_link u-hover-zoom-wrap">コラム
吉川忠英
’67年に瀬戸龍介らと結成したTHE NEW FRONTIERSで’71年に渡米、これを前身としたグループEASTで翌年、なんと米国キャピタルレコードより『EAST』でデビューしたのが吉川忠英。まさにリアルタイムでウエストコーストサウンドを本場で具現化した唯一の日本人バンドだったが、セールス的な成功には恵まれなかった。当時FEN(在日米軍兵向けのラジオ放送。現在のAFN)で唯一流れた日本人バンドのレコードだったという。 &header=tag" class="m-content-list-card__text-wrap_link">67 件公開
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