2024年8月号|特集 アルファの夏!
【Part1】野呂一生が語るCASIOPEAのアルファ・イヤーズ
インタビュー
2024.8.14
インタビュー・文/池上尚志 写真/山本マオ
1969年に音楽出版社としてスタートしたアルファは、’77年にアルファレコードというレーベルとなり、’80年にはアルファ・アメリカを設立。世界に向けての準備を進めていた。そんなタイミングでデビューしたのがカシオペアだった。フュージョン・ブームが盛り上がる中、アルファ・アメリカの第1弾アーティストとして海外にも進出する。最近ではフュージョン再評価の筆頭格として、アルファ時代にリリースした作品群が人気で、『CASIOPEA』や『MINT JAMS』がアナログ盤で再発されるなど、新たなリスナーも獲得している。一方で、バンドも現役バリバリで、’22年に新メンバーを迎えてからはCASIOPEA-P4として盛り上がりを見せている。今回は、リーダーで唯一のオリジナル・メンバーであるギターの野呂一生に、アルファ時代の話を中心に語っていただいた。
いかに変化をつけていくか、飽きずに聴いてもらえるかということを考えた
── 野呂さん個人は元々ロックから入ってらっしゃるんですよね。グランド・ファンクの嵐の後楽園を見に行かれているという。
野呂一生 もう完全にロック小僧でしたね。中学3年の時にグランド・ファンクを観てから、もうバンドやるしかない! みたいな感じでね。レッド・ツェッペリンやユーライア・ヒープ、シカゴも行ったかな。いろいろなのを観ましたね。
── 櫻井哲夫さん(b)との出会いはどんな感じだったんですか。
野呂一生 僕が高校3年生ぐらいのとき、いろんな高校から集まった仲間でコンサートを企画していたんですよ。公民館みたいなところを借りてね。その頃にゲンメイくんというドラマーがいたんですけど、慶應にすごく上手なベーシストがいるよって紹介してもらったのが櫻井君だったんです。当時はハードロックやっていました。
── インストやジャズ要素のある音楽に移っていくきっかけは何だったんですか。
野呂一生 ジャズ喫茶に行くようになったんですよ。そこで聴いた音楽は、何か音が外れているようだけど合っている。それがテンション・ノートだっていうのは後から知ったんですけども、なんで元に戻れるんだろう? ってすごく不思議だったんです。それで本屋さんで「ジョー・パス・ギタースタイル」という英語の本だったんだけど、表紙のおじさんの似顔絵がすごく上手そうに見えたんでね、どういう人かも知らずに買ってみたんですよ。そこには大事な理論が全部網羅されていて、実際にジョー・パスさんの演奏もレコードで聴いて、それでついていきます、みたいな感じですね。
── その時代のフュージョン系のギタリストには、ラリー・カールトンや、アル・ディ・メオラ、ジョン・マクラフリンなど、スーパーテクニックを持っているギタリストが多かったと思うんです。ロック出身だとギター・ヒーローへの憧れはなかったんですか。
野呂一生 いや、興味はあったんですけど、俺なんかまだまだっていうね(笑)。すごいのをいっぱい観ちゃったから。
── カシオペアのサウンドは、ギターが常に前に出ているわけではなく、他の楽器もちゃんと存在感があって、総合的にアレンジされている音楽ですよね。
野呂一生 それは、みんな下手だったからですよ(笑)。まだソリストとしての自信が全然なくて、すぐネタ切れになっちゃう。あと、アレンジを明確な形にして、メンバーそれぞれが同じように出番があるみたいな形でやったらバンドらしいのかなっていうのもあったんですね。どこでも同じ環境でみんなが主役になれる。それがバンドの良さだったんですよね。
── そもそも、カシオペアは最初からインスト・バンドを目指していたんですか。
野呂一生 一回ね、ヴォーカルのバンドにしようかっていう話もあったんだけども、やりたい音楽がジャズ的エッセンスの強いものだったんで、それに賛同してくれるヴォーカリストがなかなかいなかったんですよ。そんなときにジェフ・ベックの『ブロウ・バイ・ブロウ』ってアルバムはね、インストでいけるんだ! って、自分にとってはものすごく後押ししてくれたアルバムだったんですよ。
── カシオペアは表舞台に登場したのは、ヤマハのEAST WESTの1回目、’76年ですね。この時のメンバーは野呂さんと櫻井さん。キーボードが小池秀彦さんで、ドラムスが鈴木“リカ”徹さんでした。このときのグランプリがASOCAという後の小林泉美&フライング・ミミ・バンドの前身で、個人賞もほとんどがASOCAのメンバーだったんですが、ベスト・ギタリスト賞は野呂さんが獲得されました。
野呂一生 そのときにいただいたのがヤマハのSG2000っていう、メインで使っていくギターだったんですね。
── 翌年のEAST WESTの2回目でも、野呂さんはベスト・ギタリスト賞を獲得されました。この時はキーボードが向谷実さん、ドラムが佐々木隆さんで、このメンバーでデビューされることから、’77年が結成の年ということになっています。なぜアルファからデビューすることになったんでしょうか。
野呂一生 社長の村井邦彦さん初め、制作に携わってくださっている人たちが、これは面白いバンドだっていうことだったみたいですね。既に自分達でデモ的なレコーディングもしていたんですが、普通のデビュー・アルバムじゃなくて豪華にしなきゃいけないっていうことでね。エンジニアのアル・シュミットさんがちょうど来日していたんで、レコーディングに参加してもらえることになったんです。この時、トミー・リピューマさんもスタジオに来てくれたんですよ。さらに、もっとスペシャルなゲストを入れようとなって、やはりアルファ所属だった深町純さんが、ニューヨーク・オールスターズの録音でニューヨークに行くというんで、ブレッカー・ブラザーズとデヴィッド・サンボーンに吹いてもらおうということになりました。「ウッソー!」って感じでしたね(笑)。もう話だけでぶっ飛びましたよ。
CASIOPEA
『CASIOPEA』
1979年5月25日発売
── このとき、アルバムのプロデューサーとして村井さんと、あと川添象郎さんの名前もクレジットされていますけども、実際にレコーディングの現場にいらっしゃったんですか。
野呂一生 様子を見に来られていましたね。現場は村井邦彦さんが信頼するプロデューサーの宮住(俊介)さんが担当される予定だったんですが、1枚目のときはスキーで骨折されていて、実際に担当されるのは2枚目からになりました。
── デビューにあたって村井さんから何か言われたことはありましたか。
野呂一生 村井さんとお食事会がありまして、「野呂くんはテクニックでガツッとやっていきたいの? それともアイドル的にワーッてやっていきたいの?」って聞かれたので、両方ですって言ったら、君は欲張りだねって言われて、はい、すいませんって(笑)。
── ファーストの帯には、〈スリル、スピード、スーパーテクニック〉という、バンドの代名詞となった言葉が入りましたね。この言葉通りのこだわりはあったんでしょうか。
野呂一生 今は〈スリル、スピード、サスペンス〉って感じです(笑)。まぁ、なかったといえば嘘になるかな。やっぱり、いろんなミュージシャンが競い合っている時代で、こんなフレーズ弾けるか? みたいなのはあったと思うんですよ。プリズムとか今のT-SQUAREとかね、みんな同じぐらいのときに出てきているんですよね。和田アキラくんなんかは僕と同じ年だから、もう10代の頃から知っているんですね。渡辺香津美さんも4ビートじゃないものをやりだして、全然違うジャンルだと思っていたら近くなっちゃったみたいな。
── そしてセカンド・アルバムが『SUPER FLIGHT』(’79年)。このとき初めてシングル盤が出まして、「I Love New York」がニューヨークの観光キャンペーンのテーマソングでした。
野呂一生 たまたまアルファレコードの方に依頼があったんだと思うんですよね。日本でもそのキャンペーンのCMを展開するので、野呂くんちょっとアレンジしてくれよって言われて。カシオペアの名前が初めてテレビに露出されるというので、それは素晴らしいことだっていう感じでしたね。
CASIOPEA
『SUPER FLIGHT』
1979年11月25日発売
── ここに代表曲となる「TAKE ME」と「ASAYAKE」が入っていますね。
野呂一生 2枚目まではストックしておいた曲が多いんですよ。もちろん、ボツになった曲も結構あるんですけど、今考えるとフックが足りないんですね。歌モノの場合は歌詞が1番2番とあるけど、インストは歌詞がないから、いかに変化つけていくか。どうやって飽きずに聴いてもらえるかということを考えましたね。
── このセカンドを最後にドラムの佐々木さんが脱退されて、代わりに当時は大学生だった神保彰さんが加入されます。
野呂一生 上手でしたよ。大学の頃はライト・ミュージック・ソサエティっていう慶応のビッグバンドのリーダーをやっていたんですよね。結構4ビートが多かったような気がしますけど。
── そして加入されての最初の作品が、『THUNDER LIVE』(’80年)というライヴ盤でした。「Sailing Alone」のドラム・ソロのところがハービー・ハンコックの「Hang Up Your Hang Ups」みたいな構成で驚きました。カシオペアのファンキーな16ビートは、ヘッドハンターズからの影響なんでしょうか。
CASIOPEA
『THUNDER LIVE』
1980年4月21日発売
野呂一生 学生の頃にリスナーとして聴いていましたから、影響はかなり受けていると思いますね。ハービー・ハンコックは『Thrust(突撃)』(’74年)っていうアルバムがすごく気に入っています。「Butterfly」が入っているやつですね。
── その後にスタジオ録音の3枚目『MAKE UP CITY』(’80年)が出て、これがビルボードのジャズチャートの46位にランクされました。
野呂一生 アルファ・アメリカ経由で日本盤が出ていたんだと思うんですよね(翌’81年には米国盤もリリース)。それでビルボードに載ったよという話は聞いていました。
CASIOPEA
『MAKE UP CITY』
1980年11月21日発売
── ちなみに、’79年にYMOがアメリカでも発売されて、ワールドツアーをやるんですが、’80年になってアルファ・アメリカができて、’81年からリリースが始まります。このときカシオペアもアメリカ・デビューは決まっていたんですか。
野呂一生 アルファレコードがA&Mと委託契約するんですね(’78年)。それで、クインシー・ジョーンズさんやA&M系列の名だたるミュージシャンの方々がたくさん日本に来るようになって、いろんな人に会わせていただいたんです。その中でカシオペアをすごく気に入ってくれたのがハーヴィー・メイソンさんだったんですよ。それでアルファレコードの方からハーヴィーさんにプロデュースをお願いしたら、いいよっていうことでね。それでアルファレコードのプロデュースで初のアメリカ・レコーディングが実現したんですね。
(【Part2】に続く)
野呂一生 (のろ・いっせい)
言わずと知れたCASIOPEAのリーダーであり、メインコンポーザー。CASIOPEAの大半の曲を作曲。「ASAYAKE」、「LOOKING UP」、「FIGHT MAN」等、数々の名曲を残している。 ソロアルバムは1985年『SWEET SPHERE』を始めに、現在までにソロアルバムを6枚発売。1996年日本初CD-EXTRA仕様『TOP SECRET』。2001年には全編フレットレスギターを用いた作品『UNDER THE SKY』等、新しい試 みに果敢にチャレンジしている。2008年、神保彰(Drs)、箭島裕治(B)、扇谷研人(Pf)、林良 (Key)と共に“ISSEI NORO INSPIRITS”を結成。最新作『TURNING』を始め、今までに 6枚のオリジナルアルバム、DVD、ライブCDを発表。野呂の新しいライフワークとなっている。同じくして、天野清継と共にアコースティック・ギター・デュオ “お気楽ギグ” を結成。カバー曲を中心にライブハウスツアーを敢行して いる。その原曲を見事なまでにアレンジして聴かせるライブは好評を博しており、2013年、2ndアルバム『昭和・ニッポン 2』を発売。ヴォーカル曲も加え大人のギターサウンドを聴かせている。ほかに安藤まさひろ、是方博邦とのギタートリオ “オットットリオ”があり、年に1~2回のペースでライブを行う。 2009年にはCASIOPEA初代ベーシストの櫻井哲夫と共にアコースティック・デュオ“PEGASUS”を結成、往年のファンを喜ばせた。2016年9月「ギタースコア野呂一生 Best Selection」を発売、譜面集を心待ちにするファンに贈った。同年、翌1月1日に還暦を迎える 記念に初の自叙伝『私時代~WATAKUSHI JIDAI』を執筆。生い立ちから現在までの私時代を語り尽くした。2017年YAMAHAとの企画 で「野呂一生/My Soundバーチャルセッションコンテスト」を開催。2017年末よりギターの新システム“LINE6 HELIX”を用いたクリニックを全国で展開中。 1991年より東京音楽大学で教鞭をとる。現在は客員教授に就任。現在、CASIOPEA-P4名義で、【CASIOPEA-P4 TOUR “RIGHT NOW” ~Summer~】及び【CASIOPEA-P4 Billboard Live Tour P4’s RIGHT NOW~Autumn~】を行っている。
https://www.casiopea.co.jp/
https://www.isseinoro.com/
https://www.facebook.com/isseinoroinspirits/
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【Part2】野呂一生が語るCASIOPEAのアルファ・イヤーズ
インタビュー
2024.8.21