2024年8月号|特集 アルファの夏!

【Part1】|幻の名盤『リンダ・キャリエール』物語

解説

2024.8.1

文/小川真一


“リンダを探せ!”という命題の元に始まった正式発表に至るストーリー


 これほどまでに待ち望まれて、そして、これほどまで運命に翻弄されたアルバムは他にないだろう。

 主人公の名前はリンダ・キャリエール。’77年に、アルファレコードとプロデューサー契約を結んでいた細野晴臣の手によって、彼女のソロ・アルバム『リンダ・キャリエール』が制作される。まったくの新人でありながらも、細野晴臣がプロデュース。これだけでも夢のような出来事なのだが、ソングライターには、細野晴臣、山下達郎、吉田美奈子、矢野顕子、佐藤博が参加し、坂本龍一、林立夫、細野晴臣、佐藤博、山下達郎、鈴木茂、村上秀一など、豪華な面々がミュージシャンとして加わっている。

 ここまで読めば、誰もが聴きたくなってしまうはずだ。アルバムは無事に完成するのだが、諸事情で発売には至らなかった。制作当時、ラフ・ミックスされたテスト・プレス盤が、関係者向けにプロモーション・オンリーの形でごく少数配布された。後にこれを聴いた人たちから評判が評判を生み、発売を望む声が多くあがった。がしかし、47年の長きに渡り発売されることのなかった、まさに“幻のアルバム”であるのだ。

 この幻だったアルバム『リンダ・キャリエール』が、アルファミュージックの創立55周年の記念日である2024年7月17日に、正式に発売となった。そして、8月3日には完全生産限定盤のアナログ盤も発売となる。

 今回のリンダ・キャリエールの発売に関する制作担当である蒔田聡氏はこう語る。

 「ずっと出したいと思っていました。細野晴臣さんのファンや、達郎さんのファンにとっては有名な作品ですし、以前から何とか出せないものかと考えていました。発売して欲しいという声も、たくさん届いていましたし、アルファとの関係ができる前から、ライセンス受託を含めて色々とトライはしてきました。2019年にアルファミュージックがソニー・ミュージックパブリッシングに来たときから、“これは絶対に出したい”と一気に具体化しました。ですから、企画がスタートしたのは5年くらい前になりますね。」

 意外なほど早い時期から、発売の計画は始まっていたのだ。とはいえ、解決しなければならない問題も山積みであった。

 「なぜ今まで発売できなかったのかという事情を紐解きながら、作業を続けていきました。一番の難関は、リンダ・キャリエール本人とのコンタクトですね。本人の承諾がなければ前には進めませんから。」

 “リンダを探せ!”。これが最初の命題であった。しかし、細野がリンダ・キャリエールのアルバムを作ったのは’77年、すでに47年の月日が経っている。

 日本でアルバムのレコーディングをおこなってからの彼女だが、帰国後、元シルヴァーズのレオン・シルヴァー3世に声をかけられ、男女混成のヴォーカル・グループ、ダイナスティのメンバーとしてプロ・デビューしている。このダイナスティでは、全米チャートの上位に食い込むヒットを出したものの、数枚のアルバムに関わったのちに脱退。それ以降は目立った動きもなく、そのまま音楽業界から去ってしまったと思われる。

 そのリンダ・キャリエールを探し出すのは、至難の技だった。ネットを検索していただければ判るように、全世界に同姓同名は何人かいる。その中で一番有名なのが、英国出身のソウル・グループ、ルーズ・エンドに参加していたリンダ・キャリエールだ。彼女はその後ドイツに移住しソロ・アルバムを発表しているが、英国生まれであり生年も今回の主人公のリンダとは一致しない。

 ネット上には他にも同じような名前の女性がいるが、明確なプロフィールが書いてなかったり、出生地が違っていたり、なかなか本人にリーチせず、か細い糸のような情報しか見当たらなかった。

 現アルファミュージックの代表である見上チャールズ一裕氏も、リンダ探索に加わった一人だ。彼もネットを介して様々なアプローチを試みた。Facebookでダイナスティのメンバーの名前を見つけ、メッセージを出してみたが返事が返ってこない。そんな試行錯誤の果に、とあるSNSで彼女らしき名前を発見。すぐにコンタクトをとった。

 「僕自身の自己紹介から始まり、“’77年に日本でアルバムを作ったリンダ・キャリエールさんを探しています”と、丁寧なメールを出したところ、返事が返ってきたんですよ。最初にメッセージを見るのはこわかったですね。また別人だったらどうしようかと思って。リンダからの返事に“私がそのリンダです。あなたのメッセージに素敵な衝撃を受けました。このメッセージの続きを楽しみにしています。”と書かれていたんですよ。これは嬉しかったですね。彼女からポジティヴな姿勢が感じられましたから。」

 そこからリンダ・キャリエールとのやり取りが始まった。ビジネスライクなオファーなどではなく、それはまるで文通のようだったと言う。

 「すぐに仕事のことは書きませんでした。本当にペンパルのように、だんだんと親しくなり、信頼を重ねていったという感じでしょうか。」

 そしてその信頼が、実際にアメリカでリンダ・キャリエール本人と会う、という話にまで繋がっていくのだ。

 その前に、見上チャールズ一裕氏にはやるべきことがあった。アルファミュージックとリンダ・キャリエールとの契約書類を確認していくことだ。これもまた、リンダとのコンタクトと並んで、重要な仕事となる。

 「リンダ・キャリエールに関する書類を片端から持ってきてくれるようお願いしました。そうしたら、段ボール箱ひとつしかなかったんですよ。アルファミュージックを引き継いだときに残っているものがあまりなく、販促品などもほとんどなく、サンプル盤ですらすべて揃っていなかったんです。」

 やはりここでも47年の月日の長さが問題になるのだが、契約書類がしっかりと残されているのは、さすがアルファミュージックだといえる。

 今回のこの過程で、ひとつの事実が発見された。’99年にリンダ・キャリエールのアルバムの発売が試みられていたのだ。当時のFAXが残されていて、アルファ側の代理人とリンダと、作詞家のジェームス・レイガンの三者によるやり取りが確認できる。そこでリンダは「2曲ほど歌を入れ直したい」といった話を持ち出している。このように、かなり具体的にリリースの話し合いがあったという。アルファミュージックの経営を引き継いでいた大橋一恵氏とのやり取りもあったようなのだが、その後この発売の話がどうなっていったのかは、残された資料からは追うことが出来ない。これもまた運命であったのだろうか。

 それから25年、リンダ・キャリエールのアルバムは再び幻に閉ざされてしまう。そして話は現在に戻り、リンダ・キャリエール本人との感激の出会いにつながっていくのだ。

【Part2】に続く)