2024年5月号|特集 大江千里『1234』
【Part1】メンバー&スタッフが語る『1234』ツアーの舞台裏
座談会
2024.5.1
インタビュー・文/大窪由香 写真/島田香
※左から、村田直美、豊広純子、濱田“Peco”美和子、高橋和孝
大江千里デビュー40周年アニヴァーサリー・プロジェクト、アルバム『1234』の再発売を記念して、Blu-ray『1234 SPECIAL』に収録の1989年3月30日の日本武道館公演を始め、当時のツアーに参加していたメンバーとスタッフによる座談会が実現。コーラスの豊広純子さん、濱田“Peco”美和子さん、ベーシスト高橋和孝さん、舞台監督の村田直美さんという4人に、ツアーにおける大江千里の知られざる秘密をたっぷりと語っていただきます!
千ちゃんだけ特別扱いということはなく、常に一緒だったツアー移動
豊広純子 たぶん私たちが一番古いですね。
濱田“Peco”美和子 最初にコーラスとして呼んでいただいたのが’85年の『未成年』ツアーだったよね。
豊広純子 千里くんは私たちのことをユーミンのコーラスだと知ってくれていて、笑顔で「よろしくお願いします」って迎えてくれて。
濱田“Peco”美和子 河口湖の合宿所でね。私たちは後から参加したんですけど。
豊広純子 その中で一番私たちが大人だったので、みなさんに特別扱いしていただいて(笑)。
村田直美 年取ってたってことでしょ?
豊広純子 ええ、まあ。大人ってことはそういうことじゃない(笑)。でもあの頃はまだ20代。
濱田“Peco”美和子 それから意気投合して、私たちと千ちゃんと、わりと家が近かったんですよ。
豊広純子 だからリハーサルの帰りも3人で帰ることが多くて。よく話したり、笑ったりして楽しかったよね。
濱田“Peco”美和子 その『未成年』ツアーの後の、『千里が街にやってくる』っていうツアーから、舞台監督の村田直美が入ってきて。
村田直美 はい、’85年の4月ですね。その時は会社の人に「行ってくれ」って言われただけで。
一同 アハハハハハ。
村田直美 会社に所属してましたのでね(笑)。「こういうツアーがあるんでどう?」って言われて、「じゃあ、行く行く!」っていう感じで。だけど初ツアーで右も左もわからなくて。
濱田“Peco”美和子 初現場のリハーサルで「では、最初のやつからお願いします」って(笑)。曲名を言いなさいよって(笑)。
村田直美 曲名もわかんなかったんですよ、千里さんの。たぶんその頃はまだあんまり知らなかったんですよね、千里さんのことも、仕事のことも。私の上に星野(修)さんっていう偉大な舞台監督が全部仕切ってたんで、それに従ってやってましたけど。
濱田“Peco”美和子 星野さんは全体を仕切ってて、直美は細かいところまで千ちゃんのケアをしてたよ。絶対に目を見なかったけどね、酔っ払わない限りは(笑)。
豊広純子 めちゃくちゃシャイな感じだったからね。
濱田“Peco”美和子 でも「千里さんと結婚する」って言ってたよね。ちゃかはし(高橋)とも「結婚する」って言ってたけど。
村田直美 夢破れたね、残念ながら。本当にいいチームでしたね(笑)。
豊広純子 順番的にはその後にベースの高橋くんが入ってきて。
高橋和孝 ’86年10月から学園祭が5本ぐらいあって、そこからの参加です。それまで僕は素人だったんですよ。それでオーディションを受けたんです。千里さんや濱田さん、バンドメンバーがいる前で。代々木上原のスタジオで、ベーシストがその時3人ぐらい来てたかな。「きみと生きたい」と「REAL」を弾きました、CDに合わせて。ほんとに目と鼻の先ぐらいの距離にいるんですよ。
濱田“Peco”美和子 それは嫌な感じだよね(笑)。
高橋和孝 そう(笑)。みんなニコニコニコニコして見てるわけ。それで一回目は一応僕が選ばれたんですけど、もうちょっと見たいっていうことで、もう一回やったんですよね。次は広尾のスタジオで。その時にも3、4人来てて。僕は当時21歳だったんですけど、みんな僕よりずっと年上で、「プロフィール書かされるのかよ」みたいな感じで。みんな結構仕事をしている人たちで、なんとかのツアーだとか、なんとかのレコーディングだとか、プロフィールに書いてたんだけど、僕だけ書くことないなーって思ってて(笑)。その時はドラマーの方と一緒に合わせてくださいってことだったんですけど、僕が一番下手だったんですよ、絶対に。でも一応選んでもらって。六本木のセディックスタジオに来てくれって言われて行った時に、千里さんがいて「高橋に決めたから頑張って」って言ってくれたんですよ。だから、拾ってもらったっていう感覚で。若さとやる気だけを買ってくれたんだと思います(笑)。
濱田“Peco”美和子 なんかさ、ちゃかはしが千ちゃんに詞について質問したんだよ。それが結構ポイント高かった。
高橋和孝 歌詞をもらってなかったから、「きみと生きたい」を聴いてて、“肘があたるとビールがゆれる”っていう歌詞があって。その“ビール”を“ビル”だと思っちゃっていて。
一同 アハハハハハ
高橋和孝 “肘があたるとビルが揺れる”ってすごいな、どういうことなんだろう? 何かの比喩かなってずっと気になってて。それで聞いたんですよ。そしたら「あ、ビールです」って(笑)。
濱田“Peco”美和子 それが印象づけたね(笑)。
高橋和孝 千里さんのイメージにあんまり“ビール”って言葉がなかったから、そういう言葉が普通に出てくるとは思わなくて。それを聞いて感心したって言ったら偉そうなんですけど(笑)。あと「REAL」のこともちょっと聞いたかもしれない。
濱田“Peco”美和子 なんでそれを私が覚えてたかっていうと、千ちゃんが「なんか詞のことを質問してくれるんだよね、ベースなのに」って言ってたから。
村田直美 やっぱりそれが印象に残ったんじゃない? ベースより。
高橋和孝 そうだよね。だって絶対僕よりも他の人の方がうまかったから。
豊広純子 でも他にどんな人が来てたか覚えてないくらい、やっぱり印象が強かったと思う。質問がよかったんだね。
村田直美 初めて聞いたよ、この話。
豊広純子 他にこなれた感じのうまい人たちはいたんですけど、千ちゃんもまだ若いし、これから一緒に伸びていけるっていう感じがしたんじゃないかな。
高橋和孝 ギターの(中野)豊さんに入ってから言われましたよ。「本当はうまい人を入れて、バンドを固めたかったんだけどなあ」って。もちろん冗談ですけど(笑)。
村田直美 その頃、千里さんは23?24? もっと上?
高橋和孝 26歳ですよ。
豊広純子 ちゃかはしはね、人気があったんですよ、すごく。
濱田“Peco”美和子 そう、女子人気が高かった。それも千ちゃんの計算かな(笑)。
高橋和孝 バンドに入れてもらってから、千里さんのお友達仲間にも入れてもらって、よく食事にも連れて行ってもらったりしたんですよ。一人暮らしで料理とかもしてなかったから、コンビニの惣菜パンやクリームパンとよく食べてて。朝からクリームパンを食べているのを知って、千里さんに「体によくないから、ちゃんと食べないとだめだよ」って言われてました。
豊広純子 私たちのSNSに「高橋くんはお元気ですか?」みたいなの、よく来るんですよ。絶大なる女子人気を一気に引き受けてたね。
高橋和孝 いやいやいや(笑)。
濱田“Peco”美和子 とにかく、舞台監督の星野さんと直美を中心にして、本当にみんな仲良しだったよね。
村田直美 当時はまだ携帯電話もないし、パソコンもネットもない時代じゃないですか。今だったらLINEで全部いけるんですけど、当時はスタッフひとりひとり、集合時間などを伝えるためにホテルの部屋に電話したりしてましたからね。
濱田“Peco”美和子 よくやってたよね。直美は右も左もわからなかったって言ってますけど、一緒にご飯を食べてる時に、最初のうちは千ちゃんに「大江さん、すごく良くなってきたと思います」って言ってるんだけど、だんだん酔っ払ってくると「千里さん、だんだん良くなってると思うんですよ」からの、もっといくと「千ちゃん、だんだん良くなってきた!」と言い始める(笑)。
豊広純子 そうやって千里くんに辛辣な意見を言ってましたね(笑)。
村田直美 最初は一応緊張してるんですよ(笑)。本当に全員仲が良かったんですよ。面白かったですよね。
濱田“Peco”美和子 ずっと一緒にいたよね。今みたいに交通の便もよくなかったから、九州に行けば一気に九州を全カ所回るっていう感じだったので、移動日があるとだいたいスポーツ大会になって。
豊広純子 みんなでバスケットやったり、卓球やったりね。
高橋和孝 温泉地にわざわざ行ったりね。
村田直美 あの頃はほとんどがバス移動だったんですよ。九州も今みたいに新幹線も通ってなかったし。本番終わってからお弁当を積んで次の街へ行くっていうのが続いたりすることもあって、今よりかなり過酷でしたよね。
濱田“Peco”美和子 でも千ちゃんもそれに全部付き合って。
村田直美 そうだ。千里さんだけ別移動じゃなくて、同じバスに乗ってたんだ。
濱田“Peco”美和子 全部一緒だったよね。千ちゃんだけ特別扱いっていうことはなかった。
豊広純子 そうだね。順番にタクシーを拾って行って新幹線の駅まで行くとか、そういう感じでみんな一緒だったね。
濱田“Peco”美和子 だけど最初の頃から、駅のホームとかすごかったよね。たくさんのファンの人であふれかえってた。
(【Part2】に続く)
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【Part2】メンバー&スタッフが語る『1234』ツアーの舞台裏
座談会
2024.5.10