2024年5月号|特集 大江千里『1234』
【Part1】大江千里が語り尽くす『1234』
インタビュー
2024.5.1
インタビュー・文/森朋之
©PND Records & Music Publishing Inc.
大江千里の数ある作品の中で、代表作を1枚選ぶのは非常に難しい。しかし、1988年発表の7thアルバム『1234』を選ぶファンはかなりの確率でいるのではないだろうか。ヒットソング「GLORY DAYS」や、後に多くのアーティストにカヴァーされる名曲「Rain」を収録していることで知られているが、問題作と言ってもいい「平凡」や「帰郷」、「昼グリル」など内省的で文学的な歌詞を持つナンバーが並ぶのが特徴だ。デビュー40周年アニヴァーサリー・プロジェクトの一環でリイシューされる『1234』のリリースを記念し、ひとつの分岐点ともいえる本作について、大江千里本人にじっくりと振り返ってもらった。
内省的な青春の残像の影の中にいたような気がします
――7thアルバム『1234』のリリースは1988年7月21日。’88年は大きなイベントや出来事が重なり、千里さんのキャリアにとって大きな意味を持つ1年でした。
大江千里 そうなんですよね。浅間高原で「納涼千里天国」の1回目があったり、初めて「夜のヒットスタジオ」に出たり。“夜ヒット”はプロデューサーが渡邉光男さんに変わったタイミングだったのかな。小坂チームはそれまで「テレビなんか出ちゃダメだよ」という感じだったのに、急に「千ちゃんのことをすごく理解してくれるんだよね」という話になったんですよ。それで『1234』に入っている「GLORY DAYS」を歌わせてもらったんだけど、スタジオで滑って、転んじゃって(笑)。次の年(’89年)にはマンスリーで出演させてもらって、ありがたかったですね。
――ドラマ『君が嘘をついた』への出演もありました。
大江千里 そうだ。鈴木保奈美ちゃん、麻生祐未さん、三上博史さんと一緒に出させてもらって、ブラウン管のなかで演技して。課外活動というか、初めての経験もいろいろあったし、「ここから何かがはじまる」という予感の塊みたいな年でしたね。
――メディアへの露出がさらに増えて、知名度も上がって。そんな絶好のタイミングで発表されたのがアルバム『1234』でした。前作アルバム『OLYMPIC』(’87年)はかなりポップに振り切った作品でしたが、『1234』はまったく雰囲気が違いますね。
大江千里 そうですね。『OLYMPIC』は「明るく、強く、たくましく」がコンセプトだったし、とにかくポップにやろうとしたアルバムだったんです。“永遠のアマチュアリズム”みたいなテーマもあって、たとえば1曲目に入っている「回転違いの夏休み」のBメロなんて、メロディとコードの整合性が取れていないんですよ。それを強引に歌っちゃって、「いいんだよ、楽しけりゃ!」っていう(笑)。そこから創作意欲は止まることなく『1234』の制作に入ったんだけど、僕の本質的なところが一気に噴き出てきたんですよね。社会や世の中に対する構えと言いますか、日々いろんなニュースに接するなかで、自分のなかで納得できなくて、消化できないこともあって。あとはレコード会社における自分の立ち位置だとか。
――立ち位置というと?
大江千里 僕は本当にラッキーな青年だったんですよ。プロデューサーの小坂さんが僕を放し飼いにしてくれて、全幅の信頼を寄せていた大村雅朗さんがいて。『1234』のときは松浦善博さんがディレクターだったんですけど、まっちゃんも天才ですからね。レコーディングになると山木秀夫さん(Dr)、中村哲さん(Sax)、佐橋佳幸さん(G)小林武史さん(Key)といったすごいミュージシャンが来てくださって、こっちは緊張の連続で。僕は「この歌詞とメロディで本当にいいのかな」というコンプレックスを抱えていたし、「全然歌えてないな」「もっといいものができるはずだ」と自分にダメ出しながら曲を書いていたんですよ。あるとき西本明さん(Key)に「これからは大江千里の時代だぞ」と言ってもらったことがあるんですが、自分としてはまったくピンと来なかったし、「西本さん、何を言っているんだろう?」という感じで。売り出してもらっていることへの感謝はもちろんあったけど、一方で「30才でやめてやる」という気持ちもあって、すごく矛盾を抱えていたんですよね。
――そんな思いが表出したのがアルバム『1234』だった、と。
大江千里 モノクロのジャケット写真に象徴されるアルバムだなと思いますね。自分のなかのやるせなさとか理不尽さとか、「このまま続けていいのか」という焦りとか。そういうマイナスのエネルギーを楽曲に叩きこんで火をつけていたという感じだったのかなと。’88年はバブル経済と呼ばれる時期でしたけど、そこで生きている人たちは枯渇していて、泥まみれで生きているような感覚があったんですよね。
――バブルというと“華やかで享楽的”というイメージもありますが、現実はそうではなかった?
大江千里 いろんな思いを抱えていたし、『1234』には沼にいるような自分も出ていると思います。そんなアルバムになるなんて予測してなかったんですけど、周りの人は誰も僕のことを止めなかったし、「それは違うよ」みたいなことはまったく言われなかったんです。その頃の小坂さんは現場から離れつつあったんだけど、ときどきスタジオに来て「やっぱり千里の歌詞はええなあ。こんな歌詞を書けるのは他におらんやろ」みたいなことを言ってくれて。ミュージシャンのみなさんが譜面を見ながら「うーん」って言っているから、おそるおそる「この曲で大丈夫ですか?」って聞くと、「何言ってんの! すごいよ」と評価してもらったり。「アップダウンクイズ」で席がアップしていくみたいに(笑)、こっちの気持ちを上げてくれていたんだなって思いますね。
――千里さんのなかで特に思い入れがある曲は?
大江千里 自分としては「平凡」「サヴォタージュ」「帰郷」「消えゆく想い」あたりが本質というか、この頃の等身大だなと思いますね。ただ、アルバム『OLYMPIC』がオリコン3位だったこともあって、「さらに上を目指すには、もっとポップな曲を書かないとまずい」という気持ちもどこかにあったんです。なので「GLORY DAYS」や「ジェシオ’S BAR」などを書いたんですけど、なかなか歌詞が出来なくて。「GLORY DAYS」は最初、“〇〇リューション”みたいな言葉を乗せたんですよ。レボリューションとかシチュエーションとか、小坂チームにありがちな(笑)。小坂さんは「ええやん!」って言ってくれたんだけど、自分としては「何か違うんだよな」という感じがあって。歌詞が書けないから歌入れもできなくて、1時間5万円くらいのスタジオを何回も何回も飛ばしました。そういう意味ではバブルでしたね(笑)。
――確かに(笑)。派手で盛り上がる曲の歌詞のほうが難しかったんですね。
大江千里 そうなんです。『1234』というタイトルですけど、勢いよくカウントできるような感じではなかったというか、そのテンションに自分を持っていくのが大変で。「GLORY DAYS」の歌詞は確か、車を運転しているときに思い付いたんですよ。雪の日に道路脇の雪を見ながら、「きみと出逢えてよかった 愛だけが いま力になる」というフレーズが浮かんできて。ストレート過ぎるからどうかなと思ったんだけど、スタジオで歌ってみたら、みなさんが「ええやん!」と言ってくれて。
――いつも肯定してくれるんですね(笑)。
大江千里 (笑)「俺的には繊細さに欠ける気がするんですけど」「いやいや、このストレートさがいいんだよ」「ホントですか? じゃあ、もう少し歌詞を書き込みますね」みたいな。その頃の愛車はゴルフだったんですけど、自宅とスタジオの行き帰りに収録曲を入れたカセットテープをずっと聴いていましたね。「あんな町は何処にでもある」(「サヴォタージュ」)とか「日比谷のグリルで主婦達が」(「昼グリル」)とか。振り返ってみると、モノクロームで等身大な曲が印象に残っていますね、やっぱり。内省的な青春の残像の影の中にいたような気がします。
――アルバム『1234』はアレンジャーの大村雅朗さんと1作まるごとタッグを組んだ最後の作品でもあります。
大江千里 次のアルバムの『redmonkey yellowfish』(’89年)からは少し(サウンドの方向性が)変わりますからね。『1234』はいったん全部を出し切った感じというか。信濃町スタジオ(現ソニー・ミュージックスタジオ)だったんですけど、大村さんはロビーでゲームやっているんですよ(笑)。「ピアノ、入れました」とか「サックス録音しました。聴いてください」と言っても「ちょっと待ってよ。今いいところなんだから」みたいな。レコーディングの前にアレンジはしっかりやり尽くしていたし、「千里がいちばんわかっているし、後は任せるよ」というスタンスだったんだと思いますね。僕が成長していることをちょっと離れて見ているというか。もちろん気になることがあると、「ちょっと待って」としっかりやってくれて。本当に全身全霊でやっていただいたし、感謝ですね。
――アルバムが完成したときは感慨深いものがあったのでは?
大江千里 どうだったかなあ。マスタリングが終わったとき。僕とエンジニアの伊東俊郎さんとまっちゃんの3人だったのは覚えているんですけどね。
(【Part2】に続く)
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【Part2】大江千里が語り尽くす『1234』
インタビュー
2024.5.9