2024年3月号|特集 作詞家の世界
【Part4】山上路夫 スペシャル・ロングインタビュー
インタビュー
2024.3.21
インタビュー・文/鈴木啓之
(【Part3】からの続き)
懐かしんでもらえるのは嬉しいけれど、若い人たちが聴いてくれるのはもっと嬉しい
──これまでの作品で、詞を先に書かれたものというのは結構あったのでしょうか。
山上路夫 あまりないんですよね。「岬めぐり」とかはそう。「瀬戸の花嫁」も途中まではそうでしたけれど。僕の場合、だいたいは曲が先ですね。下手なんですよ、詞から先に書くのは。若い時から歌謡曲を一生懸命勉強していたもんだから、どうしても七五調になっちゃうのね。だから新しいリズムみたいなものは、曲が先じゃないと書けないんですよ。作曲家も、村井邦彦みたいに曲が先じゃないと書けないっていう人もいるみたいですけど。「岬めぐり」は山本コウタローさんが神奈川県の三浦辺りのイメージを思い描いていたらしいけれど、僕としては北海道から九州まで、全国各地でバスに乗って海を見た風景を重ねて書いたんですよ。だからやっぱりよく舞台はどこかと聞かれますけれど、特定の場所ではないんです。
山本コウタローとウィークエンド
「岬めぐり」
1974年6月1日発売
──若き日の上沼恵美子さんがお姉さんと一緒に歌われた「大阪ラプソディー」も数少ない詞先の曲と伺いました。
山上路夫 猪俣公章さんとの歌づくりはいつも詞が先でしたね。あの曲にはいろんな想い出があるんだよね。まずひとつは、大阪の人がずっと歌ってくれているんですよ。それがすごく嬉しい。もうひとつは、歌を作るに際して、ビクターに鶴田(哲也)さんという演歌系の天才的なディレクターがいまして、ヒットをバンバン飛ばしていたんだけど若くして亡くなっちゃった。直木賞を獲った山口洋子さんの『演歌の虫』っていう小説のモデルにもなった人です。その人が家に来て、「大阪ラプソディー」を作ってくれって。最初は大阪の歌をって言っていたんだけれど、そのうちに「東京ラプソディ」があるんだから「大阪ラプソディー」っていうのもあっていいんじゃないかねって話になって。それで詞を書いて猪さんに渡したら電話がかかってきて、「ミッちゃん、これ、長くて書けないよ」っていう。彼はやっぱり演歌の人だから、普段は詞が5行ぐらいで短いんだけど、僕が書いた詞は言葉数が多くて9行もあったので。だけどこっちにも計算があったから、「パソ・ドブレ(ラテンダンスの一種)かなんかにして景気いい感じで書いてくれ」って猪さんに頼んだんですよ。そうしたらしばらくしてまた電話がきたのね。「ミッちゃん、ミッちゃん、いい曲書けたよ。今から歌うからね」って言って、電話の向こうで歌い出したの。どこかのお店らしくて、周りがガヤガヤしているんだけど、前奏から歌い出すんですよね。赤電話だから途中で切れちゃったりして、周りのお供の人かなにかに「馬鹿野郎、10円玉早く出しやがれ」なんて言いながら歌っているのがおかしくてね。それがちゃんと売れて良かったんですけど。早くに亡くなってしまった鶴田さんも非常に喜んでくれた。そんな想い出があるもんでね、今回の作品集にも是非入れて欲しいとお願いしたんです。
海原千里・万里
「大阪ラプソディー」
1976年2月25日発売
──今回の作品集には、ヒットソングやCMソングのほかにも、ドラマやアニメのテーマソングも多数収められましたね。
山上路夫(やまがみ・みちお)
●日本を代表する作詞家・山上路夫。1936年8月2日生まれ。中原淳一主宰の雑誌『ジュニアそれいゆ』で作家、ライターとして執筆を開始。23歳の頃から作詞家として活動を始め、独自の情景描写、感情に溺れすぎない叙情性で日本の歌謡史に大きな足跡を残す。作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が歌うと大ヒット。その後も作曲家、平尾昌晃、森田公一、馬飼野康二等と1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作を手掛けた。中でも村井邦彦とタッグを組んだ数々の作品は「翼をください」を始め時代を超えて日本国民に愛されている。
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【Part3】山上路夫 スペシャル・ロングインタビュー
インタビュー
2024.3.13