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40周年解説ドキュメント[Part 1 : 1983-1984]
40年に及ぶTM NETWORK活動史を、作品、ライヴ、同時代における重要トピックと共に総括するドキュメンタリー。Part 1では、歴史をデビュー前年のユニット結成まで遡り、ここからEPIC・ソニーからデビューを果たす1984年へと至るTM始動期を解説。
アーティスト写真/『TM NETWORK WORLD HERITAGE』ブックレットより
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1983年3月、TM NETWORK結成秘話
TM NETWORK、1984年4月21日デビュー。日本のポップミュージックシーンに多大なる影響を与えた、小室哲哉、木根尚登、宇都宮隆による3人組ユニットの結成は1983年3月まで遡る。
前身となったバンドはSPEEDWAY。1979年、東芝EMIからデビューしたアメリカンロックをベースとした大所帯なバンドだった。そんな反動もあってか、小室は新グループ結成にあたって1983年に散開するイエロー・マジック・オーケストラからの影響も鑑みながら、編成を“個の連帯である3人組ユニット”へとこだわった。
当時、SPEEDWAYを一足早く脱退していた小室は、シンセ主体による4~5曲を収録したインストゥルメンタルのデモテープを、佐野元春や大江千里を世に送り出したEPIC・ソニーのプロデューサー小坂洋二に聴かせていた。結果、「ボーカルが入ったものをやりたい」という趣旨でアドバイスを受けたことがターニングポイントとなった。その直後、小室が声をかけたのはSPEEDWAYのリーダーでありキーボード / ピアノ、作曲を担当していた木根尚登。そして、木根は幼馴染だったSPEEDWAYのボーカリスト宇都宮隆を誘った。
3人だけでの会合は、東京・府中と立川の境にあるファミレス、サンデーサンで行われた。小室はユニット名に、地元の三多摩地区に由来する地名を入れることにこだわったという。その初期アイディアが“TAMA NETWORK”だったことは、今ではトリビア・ネタとして有名だ。ロックバンドのボストン、シカゴ、カンサスなどをイメージしていたのだろう。しかし、スタイリッシュな案としてTAMAをTMと略し、後にTIME MACHINEの意味を持たせることで、TM NETWORKというネーミングは完成した。
審査員全員が満点を挙げグランプリを獲得
TMとして最初に生みだした作品は、1983年4月、麻布十番のJAKスタジオでレコーディングされた小室の手による「1974」、木根の「パノラマジック」だった。歌詞は後にリリースされたものとは異なり、それぞれ小室や木根による自作バージョンだったという。
その後、小室はレコード会社やプロダクション、出版社へ向けて、自ら制作したデモテープを50本送った。カセットテープのタイトルにはユニット名と曲名しか情報を記さなかった。活動歴も詳細もなし。小室の電話番号だけが隅に書かれていたという。その存在は各所で話題となり、音楽プロデューサー高橋研や、Charを手がけた渡辺有三、山下久美子を担当した三野明洋、山下達郎とともにアルファムーンを設立した小杉理宇造から返事をもらった。同時に、この年の8月22日、TM NETWORKは中野サンプラザで行われた『第7回フレッシュ・サウンズ・コンテスト』へ出場。この日、小室と木根はキーボードを弾き、宇都宮はギターを弾きながら歌った。審査担当のレコード会社全社が満点を挙げ、TM NETWORKはグランプリを獲得。メジャーデビューへ拍車をかけることになった。
16ビートと転調で構成されていくメロディは唯一無二
1984年4月21日、TM NETWORKはアルバム『RAINBOW RAINBOW』と、シングル「金曜日のライオン(Take it to the lucky)」の同時リリースによってEPIC・ソニーからデビューすることになった。
リード曲となった「金曜日のライオン(Take it to the lucky)」は、ディストーションギターや生ピアノに頼らない音を意識的に目指し、16ビートと転調で構成されていくメロディは唯一無二であり、同時代に世界で活躍したプリンスにも引けを取らないずば抜けたハイセンスな作品となった。未聴な方は、4月にリリースされたTM NETWORKの「金曜日のライオン(Take it to the lucky)」と、6月にリリースされたプリンスの「I Would Die 4 U」を聴き比べてみてほしい。サウンドの質感の近さに驚かれるはずだ(なお、小室とプリンス、マドンナ、マイケル・ジャクソンは同じ1958年生まれである)。また、小室は後に「金曜日のライオン(Take it to the lucky)」について、セルジオ・メンデスがプロデュースしたボサノヴァ・バンド、ボサ・リオのヒット曲「サン・ホセへの道」の影響があると語っていた。サンタナなど、ラテン・テイストからの影響もあったという。初期TMのサウンドの秘密を紐解くキーワードだ。
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デビューアルバム『RAINBOW RAINBOW』とシングル「金曜日のライオン(Take it to the lucky)」には、メンバー本人ではなく「ワニの少女」の写真が映し出された特徴的なアートワークが採用された。本作は当初アナログレコードでリリースされ、以降はCDでたびたび再発が行われている。
1983年10月からレコーディングがはじまったデビューアルバム『RAINBOW RAINBOW』には、“虹の七色では収まりきらない”バラエティー豊かなアルバムという意味が込められた。虹色とは、シンセサウンドの多幸感にも由来する。小室曰く、「ヒッピームーブメントのサイケデリックなカルチャーのイメージだった」(『TM NETWORK 30th 1984~ the beginning of the end』ツアーパンフレットより)という。
TM NETWORKは、デビュー時から、ミュージックビデオの制作にも力を注いでいた。当時、画期的な発想だった音楽と映像の融合を目指していたのだ。だが、国内ではこうした作品を観られる『MTV』のようなテレビ番組は少なく、時期尚早となった。結果、発想転換をしてレコード店でのビデオコンサートをEPIC・ソニースタッフは仕掛けていく。それは、リスナーへのダイレクトなコミュニケーションマーケティングのはじまりとなった。
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テクノロジーと共に進化していく表現活動
打ち込みによるシーケンスがメインとなるTM NETWORKにとって、コンピュータは切っても切り離せられない関係性を持つ。電子楽器と生楽器による演奏の融合。そもそも、“パーソナルコンピュータ”という発想は、ヒッピーカルチャーから生まれた解放を夢見るムーヴメントのひとつだった。いうまでもなく、アップルのファウンダー、スティーブ・ジョブズもヒッピーだった。
TM NETWORKのデビューと同じく、1984年にアップルは初代Macintoshを発売した。このことが大きく知られるきっかけとなったのは第18回スーパーボウルの第3クォーターで放映されたテレビ・コマーシャルだった。リドリー・スコットによるまるで映画のような映像は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』を引用したものであり、ビッグ・ブラザーに支配されるディストピア的な未来を打ち壊すシーンが話題となった。このことは、テクノロジーと共に進化していくTM NETWORKが歩む表現活動とのシンクロニシティとなった。
当初、木根尚登は謎の第3のメンバーというポジショニングだった
1984年当時、サウンド面は生音の息吹へとこだわりながらもエレクトリック・ライト・オーケストラ、デュラン・デュラン、カジャグーグー、カーズ、ハワード・ジョーンズ、a-ha、スクリッティ・ポリッティなど、エレポップかつニューロマンティックな洋楽アーティストからの影響が垣間見え、TMメンバー3人ならではのコーラスワークは、クイーンや10ccからの影響を昇華していた。リリックに関してはプロデューサー小坂の意向もあり、作詞家を起用。当初は、銀色夏生にも発注していたが、「曲自体がすでにドラマを持っているから、自分が入る余地がない」(『TM NETWORK WORLD HERITAGE ~DOUBLE DECADE COMPLETE BOX~』ブックレットより)と断られたエピソードを持つ。
その後の歌詞には、小室はもちろん、西門加里(小室みつ子)や麻生香太郎を起用。レイ・ブラッドベリの小説のごとく、日常的な幻想の世界をイメージし、コラージュアートのような世界を構築した。ヴィジュアル面では、デュラン・デュランやカジャグーグー、カルチャー・クラブを意識し、アーティスト担当だった坂西伊作曰く、マーケティングには当時日本でもヒットしていた2人組デュオ、ワム!を参考にしたという。そんな経緯もあってか、当初、木根尚登は謎の第3のメンバーというポジショニングだった。サングラス姿でミュージックビデオには参加しながらも、写真撮影では、赤毛の宇都宮隆と三つ編み姿の小室哲哉のみが登場するという独自のブランディングへとこだわった。
デビュー当時、小室は「ミュージシャンとしての僕は、アイドルと間違えられると必死で抵抗しますけど、僕はTM NETWORKのプロデューサーでもあるので、プロデューサーとしてはとりあえずアイドルと間違えられたらいいなと思っています」(雑誌『ARENA37°C』1984年6月号より)と、発言していたことが興味深い。
アルバム『RAINBOW RAINBOW』には、“PRODUCED BY TETSUYA KOMURO”のクレジットが大きく刻まれている。当時まだ、アーティスト自身がプロデューサーを兼ねるという発想は目新しかったのだ。
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プロジェクトの機密文書の一部を公開するような気分
1986年、スコアーハウスから発売されたTM初のスコア集『VISION MELODIES』にて、小室はデビュー時の楽曲の譜面化について「スコア集を発表するということは、プロジェクトの機密文書の一部を公開するような気分です。僕は子供の頃からSFやスペース物が好きだったせいかスコアがただの譜面とは思えず、トップシークレットの設計図であったり、暗号解読書であったり、TM NETWORKの秘密が少し知られるような、そんな錯覚に陥ります」(スコア集『VISION MELODIES』より)と語っていた。SFライクなTMらしさと言えるキーワード=“プロジェクト”、“機密文書”、“暗号解読書”というフレーズにFANKS(※TMファンの意)は反応せずにはいられないはずだ。当時からブレることないintelligenceなセンス。驚きを隠せない。
デビュー3ヶ月後、TM NETWORKは満を持して『フレッシュ・サウンズ・コンテスト』グランプリ受賞曲「1974(16光年の訪問者)」をシングルカットした。全国的なヒットの気配が起きることはなかったのだが、北海道地区でのみ人気は急上昇。一時期、北海道限定のチャートで2位まで上がったという。結果、総セールスの半分を売り上げることになった。この当時、EPIC・ソニー札幌営業所で販促を担当した山口三平は、後にTM NETWORKのディレクターを担当することになる。
ニューメディアで自分たちのサウンド&ヴィジョンを届けよう
その後、公式の歴史からは抹消されているが、『TM NETWORKファーストコンサート』として6月18日&7月31日に渋谷Live Inn、7月17日には梅田バナナホールでライヴを行い、8月31日には、東横劇場でHOT STUFF PROMOTION主催によるロックイベント『HEADZ・7』へ出演し、MELON、中川勝彦と対バンし、後にラジオでオンエアされた。だが小室は、熱に繊細なコンピュータを多用したライヴの難しさを経験し、予算的にも理想とする目標へのギャップを痛感することとなった。
結果、12月に行われたファーストツアー『ELECTRIC PROPHET』は、ビデオシューティングを目的とした渋谷PARCO part3公演と、人気の手応えを感じられた北海道での札幌教育文化会館公演の2公演のみの実施となった。ビデオ撮影を兼ねることで予算を獲得し、レーザー光線飛び交う画期的なステージングを実現したかったのだ。このことは、TM NETWORKはライヴ活動をメインにするのではなく、敢えてビデオや音楽雑誌というニューメディアで自分たちのサウンド&ヴィジョン、そして文脈を届けようという新たな発想への転換に至った。結果、新興レコード会社であり、テレビなど芸能方面への影響力が弱かったEPIC・ソニーの戦略ともシンクロすることになるのだから世の中はおもしろい。
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TM NETWORKサウンド&ヴィジュアルの歴史は、メディア(記録媒体)の変遷の歴史でもあった。活動初期となる80年代のアルバム各作品はアナログレコードのほかにカセットテープでも同時にリリースされている。
(【Part2】に続く)
Discography
ディスコグラフィー[1984]
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アルバム
RAINBOW RAINBOW
1984年4月21日発売
初出時品番:28・3H-117(LPレコード)/28・6H-100(カセットテープ)
1. カリビアーナ・ハイ
2. クロコダイル・ラップ(Get away)
3. 1/2の助走((Just for you and me now)
4. 1974(16光年の訪問者)
5. クリストファー
6. イパネマ'84
7. 金曜日のライオン(Take it to the lucky)
8. RAINBOW RAINBOW(陽気なアインシュタインと80年代モナリザの一夜)
9. パノラマジック(アストロノーツの悲劇)
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シングル
金曜日のライオン(Take it to the lucky)
1984年4月21日発売
初出時品番:07・5H-196(7インチレコード)
1. 金曜日のライオン(Take it to the lucky)
2. クロコダイル・ラップ(Get away)
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シングル
1974(16光年の訪問者)
1984年7月21日発売
初出時品番:07・5H-208(7インチレコード)
1. 1974(16光年の訪問者)
2. パノラマジック(アストロノーツの悲劇)
Chronology
活動年表[1983-1984]
1983.3 | TM NETWORK結成 |
---|---|
1983.8.22 | 『第7回フレッシュ・サウンズ・コンテスト』全国大会(中野サンプラザ)。「1974」でグランプリを受賞 |
1984.4.21 | アルバム RAINBOW RAINBOW |
1984.4.21 | シングル 金曜日のライオン(Take it to the lucky) |
1984.7.21 | シングル 1974(16光年の訪問者) |
1984.12.5 〜12.27 | ライヴ・コンサート ELECTRIC PROPHET(コンサートツアー/2会場全2公演) |
Interview
キーパーソンインタビュー
小坂洋二 (元 TM NETWORK エグゼクティブプロデューサー)
TM NETWORKの活動を長きに渡り見つめてきた人物たちに話を聞くキーパーソンインタビュー。今回登場するのは、EPIC・ソニー在籍時にTMを見出し、ユニットの創世記から3人の背中を押してきた立役者として知られる小坂洋二。佐野元春をはじめEPICから数々のトップアーティストを輩出した名プロデューサーが感じた、小室哲哉・宇都宮隆・木根尚登という3人の持つ資質とは?
アーティスト写真/『TM NETWORK WORLD HERITAGE』ブックレットより
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「3人の関係性は、ひと言で言えば、部室で会話してる中学生みたいなものですよ」
── 小坂さんはTM NETWORKの3人と、どういう形で出会ったんですか。
小坂 ある日、会社に戻って机の上を見ますと、オーディションのカセットテープがいっぱい送られてきていました。それはいつものことなんですが、その時たまたま手にした1本のカセットテープの音源は、シンセサイザーで多重録音されたインストゥルメンタルでした。それはどちらかと言うと、本来の僕の好みからは少し遠いものだったんですが、メロディーが気になったというか。そこに惹かれるものがあり、次の日にはそのデモテープを送ってきた本人と連絡を取って、EPICで会いました。それが小室くんとの最初の出会いです。その時、小室くんに言ったのは、「このメロディーは気になっているけれど、詞とかボーカルがないものに関しては、僕は力になれないかもしれません。もし僕と一緒にやろうということであれば、歌を歌う人を見つけてくれませんか。できれば1ヶ月ぐらいの間に」ということです。すると、ちょうど1ヶ月後に彼が2人の青年を連れてきました。宇都宮くんと木根くんです。それが初めて3人で会った時でした。
── ということは、最初に聴いたデモテープは、TMのデモテープではなくて、小室さんのデモテープだったんですね。小室さんが1か月後に2人を連れてきた時にも、まだそれはTM NETWORKではなかったんですか。
小坂 その時点ではTM NETWORKは存在していませんし、名前も何も決まっていません。ただ、僕もまさかスケジュール通りにメンバーを連れてくるとまでは思わなかったんです。3人を集めて、「これでどうでしょうか?」というような小室くんの話を聞いて、人となりはなんとなくわかったし、熱気みたいなものも感じていたし。それに音源を最初に聴いていますよね。この小室くんがメインで、このボーカルで、というのであれば、何かが生まれるかなと思って。だから僕は、その時点で宇都宮くんの歌も聴いていないし、全く初対面で性格もまだわかりませんけれども、始めてみようということになったんです。
── それはやはり、宇都宮さんと木根さんの印象が悪くなかったから、というのもあったのではないでしょうか。
小坂 初対面の時の宇都宮くん、いかにもボーカルって顔をしてたんでね(笑)。木根くんは木根くんで、この3人のなかで、ちょうどいいバランスだなって印象だったし。3人の関係性は、ひと言で言えば、部室で会話してる中学生みたいなものですよ。その後も、多少議論はするかもしれないけれど、彼らが言い合っているというのは見たことがない。木根くんがまとめ役になっているというかな、そういうキャラクターなんでしょうね。
「“こんな曲を作れるんだ!?”と思いましたよ。“なんで、TMで作らんのだ”と(笑)」
── ただ、TM NETWORKの活動自体は、最初から順調というわけではなかったですよね。
小坂 はい、最初のアルバム2枚は全く売れませんでした。特に『CHILDHOOD’S END』(2ndアルバム/1985年リリース)の時には、僕自身、頭を抱えました。詞も曲もサウンドも含め、これを売るのはいろんな意味で大変だなって。それで、3枚目の制作に入るときに僕が小室くんに電話したんです。「哲ちゃん。次売れなかったら、解散しよう」って。
── 一番最初のデモテープではメロディーに心惹かれたというお話でしたが、その惹かれた部分とは違う方向に小室さんは進もうとしていたんでしょうか。
小坂 僕が思ったものとは違っていました。彼がアレンジも自分でやっているし、シンセサイザーを含めた演奏のほとんども彼ですからね。彼のなかでも葛藤はあったと思います。その後に僕が頼んで、渡辺美里さんに「My Revolution」(1986年リリース)を作ってもらうわけですけど、“こんな曲を作れるんだ!?”と思いましたよ。“なんで、TMで作らんのだ”と(笑)。でもそれは、女の子が歌うからですよね。彼はプロデューサーだから、歌うのが女の子で、高校生で、ましてやTBSのドラマのタイアップが付いている、と。そういうことも含めて考えるから、ああいうメロディーを作れたんだと思います。それにしても、あれは引き金というか、売れるということについての何かをその時に感じたのかもしれない。そこから、いわゆる人に伝わりやすい、特に若者には伝わるようなメロディーやサウンドにどんどんなっていきましたよね。
── 彼ら3人の印象を「部室の3人」と言われましたが、例えば“TM NETWORK部”という部活を彼らがやっていたとして、小坂さんはその部活の顧問の先生のような立場だと思うんです。そういう意味で、「もうちょっと練習しろよ」とか、「その練習の仕方、こうしろ」みたいなことを言う場面はありませんでしたか。
小坂 僕自身は楽曲を作れないし、演奏もできないので、そんな(野球の)落合監督とか岡田監督みたいなことは言えませんよ(笑)。だから「この曲はどうだ」とか「ここのコードがこうだ」とか、細かいことは小室くんに全部任せていました。僕の仕事としては詞を発注して、僕が思っていることを彼らのサウンドに注入することでしたが、それはなかなかうまくいかなかった。でも僕は、今言われた先生ではないですけど、一応一番年上ですから、全体の状況を見て、例えば「次売れなかったら解散しよう」と目標を示したりはするようにしていました。当時はレコーディングをいくつも掛け持ちしていて、とにかく忙しかった頃です。TMは3人いるし、小室くんがプロデュースできるというのもあって、レコーディングスタジオに一番行かなかったのはTMでした。
── では、部活の先生からすると、一番手がかからない部員だったということですか。
小坂 手がかからなくても、売れなければしょうがないですからね。彼らが音楽を続けていけるようにある程度売って、みんなが喜んでっていう、そのレールを敷かなきゃいけないわけですから。その過程で、僕のなかではアルバム2枚目でちょっと心折れたねっていう感じになったので、小室くんに「このままだとまずいね」という話をしたんです。それが、やがて『humansystem』(5thアルバム/1987年リリース)をロスでレコーディングした時に、“これは行けるかもしれない”と思いました。
── どういうところに、そう感じたんでしょうか。
小坂 詞も含めた楽曲です。“これは皆さんに馴染みやすいだろうな”と思いました。
── その変化は、小室哲哉という人の変化ですか。
小坂 そうだと思います。僕が「ああだ、こうだ」と言っても、それで売れるとか、方法が変わるわけじゃなくて。大事なのは小室くん自身から出てくるもの、メンバー3人がやろうとしていることですから。
「“俺がもう1回日本で1番を獲ってやる!”と、彼はきっと思ってるでしょうね。僕もそれを期待しています」
── 今、TMの活動を振り返って、“あの時は、木根くんに救われたな”という思い出はありますか。
小坂 何度もありますよ。彼は、皆さんもご存じのように、スケジュールまで含めたマネージメントというか、まとめていく部分はしっかりしてますから。
── では、“宇都宮くんに助けられたな”という思い出は?
小坂 それはやっぱり、小室くんが作った音源を常にちゃんと歌い切っているということですよね。いつもギリギリですよ、歌詞も全部。それをどんどんレコーディングしていて、練習時間がすごく少ないんです。そのなかで、よくあそこまで歌い切っているなっていうのは、とても思いました。宇都宮くんのボーカルは、ライヴを見た時に最初は少し心配だったんですよ。でも、いっぱい練習したんだと思うんです。それは並大抵の努力ではなく、大変だったと思います。彼は、そういうところを全く見せないんですけど、相当苦労したと思う。で、どんどん小室くんの音楽というもののボーカル・スタイルを見つけていった。誰に言われたわけでもないと思うんです。自分で見つけていって、歌い切ってる。ホント、彼のボーカルには助けられたと思いますけど、彼との思い出ということで言うと、1度だけ彼と2人きりで飲みに行ったことがあるんですよ。札幌で。それが最初で最後ですけど。
── いつ頃のことですか。
小坂 いつ頃かなあ…? でも有名になってからだったら、2人だけでは行けないでしょ。2人でカウンターで飲んでたんですよね。そうしたら、周りの女性たちがずっと見てるんですよ、宇都宮くんのことを。“こいつ、やっぱりモテるんだな”と思って(笑)。でも彼は、何しろ皆さんご存知の通り、寡黙でしょ。ある意味、何を考えてるかわからないところもあるし。何か、すごく人の気持ちを惹きつけるところがあるんでしょうね。
── 宇都宮さんのそういう資質を、小室さんは最初からわかっていたんでしょうか。
小坂 それはわかりません。小室くんに聞いてください(笑)。
── (笑)。小坂さんは当初から、小室哲哉という才能の本質は曲作りやアレンジだけではなくて、ビジュアル面まで含めたトータルなプロデューサーなんだということは感じていらっしゃったんですか。
小坂 そうですね。だから、彼が「こういうビジュアルでTMをやりたい」と言った時には、僕はそれを実現できるスタッフを見つけなきゃいけない。彼がやりたいことを実現するためのお手伝いをするのが僕の仕事でした。彼はここまで音楽をずっとやってきたけれども、コロナ禍になる前に2人で飲んだ時には、彼自身もそういうことを望んでいたように思ったので「音楽以外のこともやってみれば」という話もしました。ただ、これからも音楽がメインだとは思いますよ。 “俺がもう1回日本で1番を獲ってやる!”と、彼はきっと思ってるでしょうね。僕もそれを期待しています。
小坂洋二(こさか・ようじ)
1948年生まれ。佐野元春、大江千里、渡辺美里、岡村靖幸らをトップアーティストへと導いた音楽プロデューサー。EPIC・ソニー在籍時にTM NETWORKを発掘し、デビュー当時よりエグゼクティブプロデューサーを務める。
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インタビューアーカイヴ
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・記事の内容は1984年の当時のものです。
音楽雑誌『PATi▶PATi』vol.2 1984を転載|CBS・ソニー出版(当時)=ソニー・ミュージックソリューションズ(現在)許諾|再録記事は発売当時に適したもので現在に該当しない内容も含まれています。ご了承願います。