2024年3月号|特集 作詞家の世界

【Part3】山上路夫 スペシャル・ロングインタビュー

会員限定

インタビュー

2024.3.13

インタビュー・文/鈴木啓之



【Part2】からの続き)


ヒットを懇願されていたので、非常にプレッシャーがかかりました


──少し時代は戻りますが、ザ・タイガースやトワ・エ・モワの作品を初期から作られていた村井邦彦さんと最初に会った時のことは憶えていらっしゃいますか。

山上路夫 どこで会ったかははっきり憶えてないんだけど、楊さんの紹介だったとは思うんですけどね。森山良子さんの「雨あがりのサンバ」とかは初めて会ってからすぐの歌でしたね。曲を作ったから詞を書いて欲しいとクニ(村井邦彦)から連絡をもらって、原宿のレストランで打ち合わせしたのを憶えています。クニから言われたイメージが「雨あがり」だったんだけれど、メロディーが美しすぎて、そのモチーフで詞を書くのにちょっと苦労しました。


森山良子
「小さな貝がら / 雨あがりのサンバ」

1968年5月25日発売



──それから最高のコンビネーションで作品を作られていくわけですが、村井さんとは初めから気が合う感じだったんでしょうか。

山上路夫 そうですね。なんの抵抗もなくすーっと、いつの間にか一緒に仕事をしていたっていう感じですね。僕は彼より9つ上で歳も違ったんだけど、友達みたいな感覚で。おそらく相性がよかったんでしょう。音楽的にも非常に合っていましたね。僕が今までやってきたものとは違った、すごく新しいものに取り組めてやりがいがありました。

──それがアルファミュージックの始動に繋がっていくんですね。

山上路夫 クニと会ってから少し経った頃に、グレン・キャンベルの「恋はフェニックス」っていう曲のレコードを渡されて、こういう詞を書いてよと頼まれたんですよ。それで「朝・昼・夜」っていう歌を書きました。これが当時としては先鋭的なすごくいい曲で、周りの評判もよかったんです。ただ、歌える人がいなかった。結局クニが自分で歌ってレコードを出したんだけれど、ディレクターの酒井政利さんが凝りすぎちゃって、ラジオの天気予報の音を入れたらそれが実際の概況と紛らわしいからと放送禁止になったりして曲が売れなかったんですよ。素敵なアイディアだったんだけれど。それが契機となって、自分たちの書きたい歌を書いて、独自の音楽出版社を作って売ろうっていうのがクニの発想で。それで二人でやろうよっていうんで始まったのがアルファミュージックなんですよね。まず歌を作って、それから歌い手を探すとか、あるいは歌い手がいたとしても、好きなように歌を作るとか。その歌い手をどういうふうに育てたらいいかとかね。


村井邦彦
「朝・昼・夜」

1969年7月1日発売



──そこから生まれた大きなヒットが「学生街の喫茶店」でした。

山上路夫 あの時は会社が火の車になっちゃっていて、そこでようやくヒットが出たからよかったんですよね。でも最初はあまり売れないんじゃないかって思われていたらしいです。ガロも歌いたくなかったみたいですよ、あれは。僕は現場にいなかったから詳しくは知らないけれど、ガロっぽくないっていうんでだいぶ抵抗したみたい。「美しすぎて」のB面ってことでようやく歌ったらしいですけども。それでメイン・ヴォーカルのトミーとマークの二人が歌わず大野真澄さんが歌っているでしょ。「美しすぎて」もいい曲でもったいなかったんだけれど、結局B面だった「学生街の喫茶店」の方がヒットしてA面になって。曲としてのインパクトが強かったのかもしれませんね。会社としては、あれで息を吹き返したみたいなところがあって救われた形になりました。


ガロ
「美しすぎて / 学生街の喫茶店」

1972年6月20日発売







山上路夫(やまがみ・みちお)
●日本を代表する作詞家・山上路夫。1936年8月2日生まれ。中原淳一主宰の雑誌『ジュニアそれいゆ』で作家、ライターとして執筆を開始。23歳の頃から作詞家として活動を始め、独自の情景描写、感情に溺れすぎない叙情性で日本の歌謡史に大きな足跡を残す。作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が歌うと大ヒット。その後も作曲家、平尾昌晃、森田公一、馬飼野康二等と1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作を手掛けた。中でも村井邦彦とタッグを組んだ数々の作品は「翼をください」を始め時代を超えて日本国民に愛されている。




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