2024年3月号|特集 作詞家の世界

【Part2】山上路夫 スペシャル・ロングインタビュー

会員限定

インタビュー

2024.3.6

インタビュー・文/鈴木啓之



【Part1】からの続き)


2つの歌詞をくっつけたら見事に合ってしまった「瀬戸の花嫁」


──「世界は二人のために」のヒットで、いずみたくさんとの新体制が始まったわけですね。

山上路夫 いずみたくさんが新しく作った事務所は、作家はいずみさんと私、山上の2人しかいなくて、それなのに、オールスタッフって名前をつけて。その後は随分いろんな人が入ってきて、文字通りオールスタッフになりましたけれど。そこで7年間、たくさんのコマーシャルソングを書きました。安い稿料だったけれどいっぱい書いたんで、どうにかこうにか食えるようになったのね。そこに「世界は二人のために」で普通の歌も書けるような道筋が出来たんですよ。その後にヒットしたのが、由紀さおりの「夜明けのスキャット」と森山良子の「禁じられた恋」で、両方ともミリオンセラーになって、レコード大賞の作詞賞ももらって一応の基盤が出来ました。


由紀さおり
「夜明けのスキャット」

1969年3月10日発売



森山良子
「禁じられた恋」

1969年3月25日発売



──結果的にビクターの専属から外れたのは正解だったということになりますね。

山上路夫 そうですね。細かいことを言うと、それまでの専属制度に縛られないフリーの作家たちが台頭してきたんですよ。なかにし礼さんや橋本淳さん、女性だと岩谷時子さんや安井かずみさん。もちろん作曲家でもそういう人たちが台頭してきた。歌い手さんでも森山良子さんや布施明さんとか新しい世代の人たちが出てきて。それを見たり聴いたりしていて、これはもう時代が変わった、僕もそっちの方で仕事をしなきゃいけないなと思って、それで専属を辞めてフリーになったんですよね。ようやくフリー作家への仲間入りが果たせたんです。

──阿久悠さんや、なかにし礼さんなど、その時代に活躍し始めた同業の方々を意識することはあったのでしょうか。





山上路夫(やまがみ・みちお)
●日本を代表する作詞家・山上路夫。1936年8月2日生まれ。中原淳一主宰の雑誌『ジュニアそれいゆ』で作家、ライターとして執筆を開始。23歳の頃から作詞家として活動を始め、独自の情景描写、感情に溺れすぎない叙情性で日本の歌謡史に大きな足跡を残す。作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が歌うと大ヒット。その後も作曲家、平尾昌晃、森田公一、馬飼野康二等と1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作を手掛けた。中でも村井邦彦とタッグを組んだ数々の作品は「翼をください」を始め時代を超えて日本国民に愛されている。




↑↑↑↑『山上路夫ソングブック-翼をください-』スペシャルサイトはこちら↑↑↑↑