2024年3月号|特集 作詞家の世界

【Part1】山上路夫 スペシャル・ロングインタビュー

インタビュー

2024.3.1

インタビュー・文/鈴木啓之



 日本を代表する作詞家のひとり、山上路夫の仕事を集大成した作品集『山上路夫ソングブック』がいよいよ発売になる。これまでにもいくつかの作品集が編まれてきたが、CD5枚、全120曲に及ぶ大ボリュームの作品集は今回が初である。1936年生まれの山上は、1960年代から多数のヒット曲を生み出してきた。佐良直美「世界は二人のために」、赤い鳥「翼をください」、GARO「学生街の喫茶店」、ゴダイゴ「ガンダーラ」など、ヒット曲や代表作を挙げるだけでも膨大なリストになるだろう。

 昭和~平成~令和の時代を歩み、今なお言葉を紡ぎつづけている氏の作品は、普遍的な魅力に溢れ、聴く者の心を豊かにしてくれる。ここでは、作詞家としてのスタートから現在に至るまで、数々のヒットソングのエピソードについてお話いただいた。


最初のヒットがなんとミリオンセラーになって、大きなスタートを切ることができた


――作詞家を志されるようになるまでのお話から伺えますでしょうか。

山上路夫 僕は健康優良児で生まれたんですよね。それで表彰もされたくらいだったんだけど、2歳の時に小児喘息になって、そこから体が弱くなっちゃって。体は大きかったんですが、学校になかなか行けない状態が続いて。3分の1ぐらいしか行けませんでした。それで中学の1年の時に親父が死んで。これから僕の体も大人になっていくっていう時に、喘息がひどくなってね、寝たきりになってしまったんですよ。そのままずっと物もろくに食べられないような状態が20歳近くまで続いた。友達はみんな大学に行ってしまったし、体力もなかった。家には姉と妹がいたんだけれど、男は僕ひとりだから、稼がなきゃいけないっていうんで仕事を色々探しました。だけどその頃は今と違って、なかなかいい仕事が見つからなくてね。体力はないし学歴もないから、しょうがない。でも作詞くらいなら僕にもできるだろうと思って。あれは簡単だろうと思って、作詞家になることを21歳で決めたの。ところがやってみたら、作詞ってすごく難しい。なかなかモノにならなくて、半年ぐらいやったらもう飽きちゃったんですよね。それで当時、ひまわり社っていう出版社があって、有名な画家でデザイナーの中原淳一さんが主宰している「ジュニアそれいゆ」っていう、「それいゆ」よりちょっと下の女の子たち向けの雑誌があった。そこで小説を募集していたんです。それで、懸賞金欲しさに応募したらなんと当選したんです。編集部からお声がかかって、編集長に会いに行ったら、「まだ書けるんだったらなんか書いてください」って言われて、小説とか詩とかを書くことになったんです。それで作詞の勉強はちょっとお休みして、そっちの方を一生懸命やっていました。

――「ジュニアそれいゆ」以外の雑誌にも小説を書かれていたのでしょうか。

山上路夫 中原淳一さんは雑誌の全ページに目を通すような人で、表紙から一番終わりの編集後記まで、なにからなにまですべて書いていた。あまりに仕事をし過ぎていたから高血圧で倒れちゃったんですよね。千葉県の方で療養していたのですが、 結局再起は叶わなかった。お弟子さんたちも頑張ったけれど、雑誌がどんどん売れなくなってしまって、 ひまわり社は潰れました。僕もそこでの仕事がなくなってしまい、他でも「女学生の友」とかにジュニア小説を書いていたけれども、それじゃあ大してお金にならない。やっぱり作詞で身を立てなきゃいけないかなって、もう一度思い出したんですよね。その頃、誰々の歌募集っていうのがちょっと流行っていたんです。それまでは一度も応募したことなかったんですけれど、もうそろそろいいんじゃないかなと思って。松尾和子さんの歌の詞を募集していたので、応募しました。それが23歳の時です。

――そういった募集は新聞に載っていたりしたんですか

山上路夫 僕が応募したのは月刊「平凡」という芸能誌で、「週刊平凡」っていうのもあって、両方で募集していたんだと思います。そうしたらそこでも当選して、今度はビクターレコードの文芸部から呼ばれて、「お前面白いから、なんかできたら持ってこい」と。磯部健雄さんっていう、当時、フランク永井さんなどの都会派の流行歌を作っていたナンバーワンのディレクターですよ。その人に言われてビクターレコードに出入りするようになった。それで一応、作詞家としてのスタートを切ったんですよね。

――その頃のビクターの専属作家の方々は皆さん大御所ですよね

山上路夫 僕はまだ23歳でしたけれど、みなさん結構お年で、若くても40歳くらいとか。中には僕より5つほど上の人もいましたが、大体は40代から50代だから、自分のお父さんみたいな作曲家の人たちが多くて、自分の力ではその人たちになかなか及ばない。ヒットなんかも到底出せなかった。それでもやっていたら、作曲家のいずみたくさんから詞を書いてくれないかって言われて。それでいずみさんと知り合ったら、「一緒に組んでいる作詞家の野坂昭如が、散文の方に行ってしまうので作詞家がいなくなってしまう。だから君、もしよかったら来てくれ」って言われた。それは渡りに船で、そこだったら仕事がまた増えるからっていうので行きました。そこで今度はコマーシャルソングの作詞家になりまして、レコード会社の作詞もやっていましたが、お金になるのはコマーシャルソングの方が断然よかった。そこで7年くらい仕事をしました。


V.A.
『いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-』

2022年4月20日発売



――その間ビクターさんとの専属契約は続いていたんでしょうか

山上路夫 ビクターとの契約はそのままだったんですよね。本来は他で仕事をしちゃいけないっていうことになっているんです。映画の5社協定みたいに、違うレコード会社の仕事をしてはいけないっていう取り決めだったから。でも、コマーシャルソングとか舞台の仕事とかテレビの仕事とか、そういうのはできたんですよ。そうやって仕事をしていましたけれど、いずみたくさんの曲の詞を書いていると、他のレコード会社でレコーディングしなきゃいけないっていうような状況がポロポロと出てきたんですよ。いずみたくさんと作った曲を、例えば東芝レコードなんかが録音したいっていう。でも僕はビクターの専属だから録音できない。そういう具合の悪さがでてきて、それで30歳になった時にビクターを辞めたんですね。辞めるに関しては、ちょっと大変でした。一旦専属になっちゃうと、レコード会社ってなかなか辞めさせてくれないんですよね。それですったもんだしながら、最初は1年に1、2曲ならば外で仕事していいっていう、そういう条件でやっていたんですが、めんどうくさくなってどんどんやっちゃったんですよ。そしたらそれは違反だからクビみたいなことになって、それでうまいことクビを切られて自由になりました。

――フリーになられてからの最初のお仕事はなんだったんでしょうか

山上路夫 最初に作った曲が、いずみさんが作った「世界は二人のために」っていう、明治のチョコレートのコマーシャルソング。当時いちばんのニ枚目で大変人気のあった石坂浩二さんが出ていたコマーシャルフィルムで、最初は簡単に、「愛、あなたと2人、恋、あなたと2人」とか、それだけ出来ていて、あとは、ら~ららららら~だったんです。それをいずみさんが、「もしかすると、これ、歌になるかもしれないよ」っていうんで、譜面を僕にくれて「ちょっと考えといてくれよ」と。その譜面をもらって、ほかの仕事の隙にちょっと見てみたら、これは全部単語でいろんなことが表せて、この世界のことが大体言えてしまう。これはすごくいい歌になるなと思って、「世界は二人のために」っていうフレーズもできちゃった。それをいずみさんに渡したらなんだか喜んで、男性カルテットの人たちとかに渡して歌ってもらったんですよ。ボニー・ジャックスとか、シャデラックスとかね。そしてもうひとつ、当時はまだ新人だった歌手の佐良直美に歌わせたんです。それが幸せなことに大ヒット。僕の最初のヒットがなんとミリオンセラーになったんですよね。


佐良直美
「世界は二人のために」

1967年5月15日発売



――それがまた偶然にもビクターからであったわけですね

山上路夫 そう、おかしなことに、辞めたはずの古巣のビクターレコードからミリオンセラーが出ちゃった。それでまあなんていうんですかね、作詞家としての大きなスタートを切ったっていう状態になりました。

【Part2】に続く)





山上路夫(やまがみ・みちお)
●日本を代表する作詞家・山上路夫。1936年8月2日生まれ。中原淳一主宰の雑誌『ジュニアそれいゆ』で作家、ライターとして執筆を開始。23歳の頃から作詞家として活動を始め、独自の情景描写、感情に溺れすぎない叙情性で日本の歌謡史に大きな足跡を残す。作曲家のいずみたくと共同でCMソングや流行歌などを多く手掛け、「世界は二人のために」は、1967年に新人歌手の佐良直美が歌うと大ヒット。その後も作曲家、平尾昌晃、森田公一、馬飼野康二等と1960年代後半から1970年代にかけて立て続けにヒット作を手掛けた。中でも村井邦彦とタッグを組んだ数々の作品は「翼をください」を始め時代を超えて日本国民に愛されている。




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