2024年2月号|特集 筒美京平

【Part4】|筒美京平ストーリー ~Early Years~

会員限定

解説

2024.2.27

文/下井草秀


名編曲家たちにアレンジを委ねたアイドルへの名曲群量産時代


【Part3】からの続き)

 1970年代という新たなディケイドを迎えるや、5年間にわたって猛威を振るったグループサウンズというハリケーンは驚くほどあっさりとしぼみ、雲散霧消してしまう。その座を奪うがごとく歌謡界の中心に居座ったのは、うら若きアイドルたちであった。

 ここで、従来の流行歌とは一線を画すアイドル歌謡というジャンルが確立するが、ここで最も大きな役割を果たしたのが、筒美京平であった。

 筒美によるアイドルポップスを歌った先駆的存在が、’71年にデビューした南沙織。ファーストシングル「17才」(’71年)は、米国のカントリー系女性シンガー、リン・アンダーソンの「ローズ・ガーデン」を見事に換骨奪胎。この曲では、まだアメリカ統治下だった頃の沖縄で育った南の洋楽的センスが十全に発揮されている。同時期に並び称された天地真理、小柳ルミ子らは、従来の歌謡曲の系譜に連なるドメスティックな感性を帯びているが、彼女にはその匂いが希薄なのだ。


南沙織
「17才」

1971年6月1日発売


 その後は’75年まで、アルバート・ハモンドをカバーした「カリフォルニアの青い空」(’73年)を除く14枚にわたり、彼女は有馬三恵子作詞・筒美京平作曲のシングルを発表することになる。それらからは、ヴァン・モリソン、エルトン・ジョン、そしてカーペンターズなど、洗練された洋楽のエッセンスが滲み出ている。そういえば、コラムニストの泉麻人は、当時の都会の先端的な若者たちにとって、アイドルの楽曲を愛聴すると公言することには羞恥心が伴ったが、南沙織だけはなぜか例外だったと語っていた。

 翌’72年には、麻丘めぐみがこのシーンに現れる。こちらは、大人びた南沙織とは異なり、お人形さんのようなかわい子ちゃんムードで、最大公約数的アイドルに徹した。そのあり方は、70年代の女性アイドルのモデルとなったであろう。

 筒美は、デビュー曲「芽ばえ」(’72年)以来、彼女には締めて10枚のシングルを提供する。南沙織では有馬三恵子と組み続けたが、麻丘めぐみでは、継続して千家和也とコンビを結ぶ。代表曲は「わたしの彼は左きき」(’73年)。キュートな振り付けも相まって、オリコンチャート1位の大ヒットを記録。実際の彼女の地声は低かったが、アイドルらしさを前面に押し出すために高音を強調し、独特の泣き出しそうな歌い方が生まれたのだという。


麻丘めぐみ
「わたしの彼は左きき」

1973年7月5日発売


 女性アイドルならば、浅田美代子も忘れられない。彼女は、久世光彦が演出・プロデュースを行ったTBSドラマ「時間ですよ」において、舞台となる銭湯のお手伝いさんの役を演じて芸能界デビュー。その劇中で歌う「赤い風船」(’73年)で、歌手としてもキャリアをスタートした。アコースティックギターを弾き語りするというドラマの設定通り、浅田の素朴この上ないヴォーカルを生かした曲調はフォーキーで童謡のごとし。だが、よくよく聴いてみれば職人的なたくらみが散見される。


浅田美代子
「赤い風船」

1973年4月21日発売


 筒美京平が手がけた男性アイドルといえば、誰よりも先に郷ひろみの名が挙がるはず。ジャニーズ事務所に所属して業界入りした郷は、当初、ジャニーズJr.の一員としてフォーリーブスのバックダンサーを務めていた。ちなみに、フォーリーブスに筒美は「約束」(’71年)、「夏のふれあい」(’72年)という2曲のシングルを授けた。フォーリーブスの存在は、グループサウンズとアイドルの時代の間隙を縫ったという意義でも特筆に値する。GS終焉からしばらくの間、日劇ウエスタンカーニバルは、フォーリーブスが支えていたのだ。




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