2024年2月号|特集 筒美京平

【Part3】作詞家・橋本淳が語る「盟友・筒美京平」|「ブルー・ライト・ヨコハマ」の誕生

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インタビュー

2024.2.27

インタビュー・文/鈴木啓之 写真/島田香


ああ、これこそ自分が探していた光景なんだろうなって思って、その場で「ブルー・ライト・カワサキ」っていうタイトルが浮かんだです……でも、さすがにそれはどうなんだろうかと思って(笑)(橋本淳)


【Part2】からの続き)

── ご自身ではいつでも辞めたいと思われていた中で、作詞家としてやっていこうみたいな気持ちの切り替えをされた時期はなかったのでしょうか。

橋本淳 それがあんまりなかったんですよ。ブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」が売れた時も続けていこうとは思わなかった。あれは、青山通りの表参道の交番があるところの富士銀行(現・みずほ銀行)の反対側の細い道を入っていくと、美味しい魚を食べさせてくれる店があったんです。京平さんは焼き魚が好きで、そこでよく一緒に食べていたんですけど、僕は魚の匂いがちょっと苦手で、いつも窓を開けて外ばっかり見てて、なんか変わった建物があるなと思ったんです。あれはキャバレーだったのかな、青山ユアーズってスーパーがあったでしょ? あのそばです。気になって見に行ったら「ブルーシャトー」って書いてあって、ほぼそのまま曲のタイトルにしたんです(笑)。それからしばらくして、スウェーデンにいる弟の様子を見てきてくれって家族に頼まれて、ストックホルムに朝方着いて飛行機の窓から外を眺めていたら、小さな湖が森の中にばーっと広がっていたんですよ。そのイメージを「ブルー・シャトー」の詞にしたんです。フィーリングと言いますか、ひらめきっていうか、アバウトというか、いい加減なんですよ(笑)。でもそうやって外国の風景を入れたことで、当時としては珍しい歌になったんじゃないかと思います。

── グループサウンズの時代を背景にして、すぎやまこういちさん、橋本淳さん、筒美京平さんの曲作りがいよいよ形成されてゆくわけですね。

橋本淳 ブルコメの「青い瞳」が売れてから何作かヒットが続いていた頃に、内田裕也さんが大阪でファニーズっていうバンドを見つけてきて、スギ(やまこういち)さんが「大阪だからザ・タイガースだ」って名付けて売り出した。やっぱり沢田研二さんの存在がズバ抜けていたし、歌声も素晴らしかったですよ。それに前から活動していた才能高き軍団のスパイダースとか、キャラクターが3つも4つも揃ってきて、歌謡曲の世界にあったレコード会社専属制の壁を打ち破り始めるんですね。 そこで京平さんの登場になるんですが、僕よりも京平さんは綿密に計算していたというか、「土台ごと変えていかないと。メロディーとかサウンドで出来上がってるものを壊してゆく」っていうのを感じていたみたいです。あの人、やっぱり天才ですから、歌作りもまずコード進行から固めるんですよ。外国のレコードもいっぱい聴いて吸収してね。自分の気に入ったコードの並びに、サビでも1小節でもエンディングでもいいんだけど、日本的なテイストを必ず入れていく。だからいくらでも曲が作れちゃうんです。

── それにしても普通はあんなにいい曲を次々に書けないと思うんです。

橋本淳 そこを簡単明瞭に書き分けることが出来るのが天才といわれる所以なわけで。「ブルー・ライト・ヨコハマ」にしても、ビクターからコロムビアへ移籍してきたいしだあゆみさんの曲を頼まれて(コロムビアの)泉(明良)さんから「3曲やってほしい。その中で100万枚超えるやつを必ずどこかで出してよ」とか言われて。まずは初めての女性目線の歌詞で「太陽は泣いている」(’68年)を書いた。少し売れたみたいだけど大きなヒットではなかった。次に、ブラジルでボサノバが流行ってるからやってみようというんで「ふたりだけの城」(’68年)っていうのを作ったけどこっちはさっぱり売れなくて。そうなると引き受けた以上はもうプレッシャーですよ。「3曲」と言われていたし。泉さんにはブルコメでもすごくお世話になってるからなんとかしなくちゃと思って。その頃まではまだ曲先じゃなくて詞先でやってたんですけど、全然浮かばない。



 高校の同級生の家が横浜の鶴見の丘の上にあって、横浜港にクイーンエリザベスとかの船が停泊するっていうんでよく見に行っていたことを思い出していました。いしだあゆみさんのコロムビア移籍3曲目はヨーロッパや港みたいなイメージの歌にしたいなと漠然と思っていたんです。横浜へ行って昼間からあっちこっち歩いてみたんですけど一向に言葉が浮かばない。それで夜になってからもう一度歩いてみようと思って、港の見える丘公園まで登って行くんですけど、当時はあたり一面が真っ暗でね。で、公園から遠くを眺めていたら川崎の工業街が見えて、そこが紫色っぽい、ブルーっぽい光が海に照り返っていたんです。ああ、これこそ自分が探していた光景なんだろうなって思って、その場で「ブルー・ライト・カワサキ」っていうタイトルが浮かんだです……でも、さすがにそれはどうなんだろうかと思って(笑)。

── それで「ブルー・ライト・ヨコハマ」になったわけですね。

橋本淳 はい。次の日がレコーディングでもう時間がないし、とにかくタイトルだけ決めたからって京平さんに横浜から電話したんですよ。そうしたら「今ちょうどメロディーを考えてて、ポール・モーリアのアルバムにイントロイメージが合うものがあるんだよね」とか言っていて、そんなことを横浜のシルクホテル(現シルクセンター)のロビーの赤電話に10円玉を落としながらずっと話していました。それからもういちどあの海岸通りあたりを歩きまわって、これがもう本当に疲れちゃって(笑)。歩いても、歩いても、何も思いつかなかったから……あれ?……歩いても、歩いても、これをサビにしようかなと思って、即興でワンコーラス作って、また京平さんに電話して「もうそれ以上は作れないから、1番だけの歌詞で2ハーフぐらいの曲にして欲しい」とお願いしてようやく帰宅し、次の日のレコーディングに臨んだんです。それで、まあなんとかまにあって、みなさんがよくご存知の「ブルー・ライト・ヨコハマ」のあの形に出来上がったんです。


いしだあゆみ
「ブルー・ライト・ヨコハマ」

作詞:橋本淳/作曲・編曲:筒美京平
「明日より永遠に」
作詞:橋本淳/作曲・編曲:筒美京平
1968年12月25日発売


── 結果的に大ヒットして昭和の歌謡ポップスを代表するー曲になりました。これはB面の「明日より永遠に」への思いも強いと伺いましたが。

橋本淳 京平さんにB面用の曲も教えてよって聴かせてもらったら、びっくりしちゃって。これすごい曲だなと思ったんですよ。 なんかプッチーニの「アリア」のような、なんていい曲で、なんていいアレンジなんだろうと思って。改めて京平さんの非凡さを感じましたよ。「ブルー・ライト・ヨコハマ」は約束通りのヒットになったけど、僕自身は「明日より永遠に」の方が好きなんです。あのメロディーと、弦を効かせたアレンジの素晴らしさにただ驚きました。





橋本淳 Hashimoto Jun
1939年生まれ。青山学院高等部時代に1年後輩の筒美京平と知り合う。フジテレビのプロデューサーであり後に作曲家として大成功するすぎやまこういちの私設アシスタントを経て、’66年、作詞家としてジャッキー吉川とブルー・コメッツの「青い瞳」でデビュー、同「ブルー・シャトウ」(’67年)で初の『日本レコード大賞』を受賞。ヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」(’68年)などに代表される大ヒットで“GSで最も売れた作詞家”として知られている。ミリオンセラーとなったいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(’68年)をはじめ、橋本淳(作詞)×筒美京平(作曲)作品は550曲を超え、筒美京平がコンビを組んだ作詞家では最も多い。

平山みき&野宮真貴
「アーティスト/ホットな地球よ」

2024年2月14日発売
DDCB-12985/2CD/3000円(税込)
SPACE SHOWER MUSIC

▶再生はこちら

Disc1
「アーティスト」
作詞:橋本淳/作曲:筒美京平/編曲:船山基紀
「ホットな地球よ」
作詞:橋本淳/作曲:筒美京平/編曲:本間昭光

Disc2(Bonus Track)
2023年9月18日開催・ビルボードライブ東京
「野宮真貴、渋谷系歌謡曲を歌う。」からのライブ音源
①MC
②くれないホテル/野宮真貴
③Hey Girl/野宮真貴
④真夏の出来事/平山みき
⑤いつか何処かで/平山みき
⑥フレンズ/平山みき&野宮真貴
⑦アーティスト/平山みき&野宮真貴
⑧ダンシング・セブンティーン/野宮真貴


https://music.spaceshower.jp/news/251779/




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