2024年2月号|特集 筒美京平
【Part2】|筒美京平ストーリー ~Early Years~
解説
2024.2.9
文/下井草秀
GSバンドに楽曲を書き下ろすことで、作曲家としての地歩を固めていった
(【Part1】からの続き)
筒美京平が歌謡曲シーンに本格的に進出する前夜の1960年代中盤、この世界には見過ごすことのできない地殻変動があった。「和製ポップス」と呼ばれるジャンルの登場である。
その時分、日本の音楽ビジネスにおいては、まだ作家の専属契約制が残っていた。古賀政男ならコロムビア、吉田正ならビクターといった具合に、多くの作詞家や作曲家がそれぞれひとつのレコード会社に所属しており、その企業に対してのみ楽曲を提供していたのだ。
老舗の大黒柱たる邦楽レーベルでは基本的にこの強固な既得権益が守られていたが、傍流の存在である別の部署にまではそのルールは及んでいなかった。ということで、本来は舶来の洋楽をリリースするために用意されていたレーベルが、契約に縛られぬフリーランスの作家を起用し、オリジナルの楽曲を国内制作するケースが増えてきたのだ。ある種脱法的とも言い得るこのシステムを通じて発売された、エミー・ジャクソン「涙の太陽」(’65年)、黛ジュン「恋のハレルヤ」(’67年)などは好調なセールスを記録する。
デビュー間もない筒美京平は、和製ポップスの波に上手く乗った。特に、この制作体制を最大限に活用する形で空前のブームを迎えたグループサウンズ、通称GSのバンドに楽曲を書き下ろすことで、まずは作曲家としての地歩を固めていったと表現できるだろう。
’67年にグラモフォンを退社し、専業作曲家へと転身した筒美は、当初、GSの中でもカレッジフォークの色彩の濃いバンドに楽曲を提供する機会が多かった。
“筒美京平”というペンネームが正式にクレジットされた記念すべき第1弾のナンバーは、ザ・サベージの『この手のひらに愛を/ザ・サベージ・アルバムNO.1』の収録曲「涙をふいて」(’66年)。シングル盤に初めてその名を刻んだ楽曲は、ザ・ライジングサン・トリオ「戦場の星」のB面として吹き込まれた「海よ忘れて」(’67年)。この3人組は、エレキ風味の欠如ゆえ、通常GSにカテゴライズされないが、今、虚心坦懐に耳を傾けてみれば、カレッジフォークとグループサウンズとの時代をつなぐ音楽性を持つ存在だったと考えられよう。
そして、筒美にとって名刺代わりのごときヒット作となったのがヴィレッジ・シンガーズ「バラ色の雲」(’67年)であった。彼らもまた、そもそもはカレッジフォークのシーンが輩出したグループであり、デビュー曲の「暗い砂浜」に関しては、近田春夫曰く「バーズを思わせる12弦ギターの使い方などには、玄人を唸らせるセンスがあった」。が、3枚目となる「バラ色の雲」では、一気に歌謡曲に寄せた作風にシフトチェンジ。そのために召喚されたのが、新世代の流行歌職人として注目を浴びつつあった筒美京平だったのだ。
ヴィレッジ・シンガーズ
「バラ色の雲」
1967年8月1日発売
60年代後半に一世を風靡したGSにおいて、第一線級の作曲家と目されていたのが、すぎやまこういち、鈴木邦彦、村井邦彦といった面々。その一方では、ザ・スパイダースにおけるかまやつひろし、ザ・ワイルド・ワンズにおける加瀬邦彦、ザ・テンプターズにおける松崎由治など、バンドのメンバー自身が楽曲を書くパターンもあった。新進気鋭であった筒美京平は、彼らに次ぐクラスに位置しつつ頭角を現し始めた。
筒美の手がけたGSとして双璧をなすのが、ザ・ジャガーズとオックスである。
エレキバンドをルーツに持つジャガーズは、「君に会いたい」(’67年)でデビュー。3枚目の「マドモアゼル・ブルース」(’68年)からは、作詞・橋本淳、作曲・筒美京平の組み合わせが座付作家のごとく定着する。なお、「マドモアゼル・ブルース」は、ザ・ビートルズの「今日の誓い」を参照したと思われるので、聴き比べてみると面白いだろう。加えて、エンニオ・モリコーネの『荒野の用心棒』のテーマ曲やザ・シャドウズの「アパッチ」など、西部劇的なエッセンスも匂わせる。
ジャガーズ
「マドモアゼル・ブルース」
1968年1月25日発売
ジャガーズのディレクターを務めたのは、大学卒業後、日本ビクターに入社し、フィリップス事業部に配属されて間もない渡辺忠孝。すなわち、筒美の実弟である。5枚目の「星空の二人」(’68年)では、渡辺の提案から、ザ・テンプテーションズの「マイ・ガール」に倣った“ヘイヘヘイヘイ”というコーラスが導入された。本場たるモータウンやスタックスのリズムやアレンジの解釈も巧みで、和製R&Bとして愛でたい作品に仕上がっているのだ。
しかし、次の「恋人たちにブルースを」(’69年)は、またもや同じコンビが手がけていながら、一転してドメスティックなムードコーラス調の楽曲となった。ロックやR&Bといった新しいビートの洋楽を採り入れていたGSが、早くも保守化のフェイズへと退行した様子が窺える。だが、日本人の心の琴線に触れるこのスタイルのナンバーとしての魅力は十分すぎるほど湛えており、橋本・筒美の器用さに感心させられる。
オックスは、「ガール・フレンド」(’68年)でデビュー。そこから5枚連続で橋本・筒美がシングル曲を提供している。このファーストシングルでは、橋本淳がタイガースなどを通じて築き上げたGSならではの世界観、つまり、中世ヨーロッパを思わせるメルヘン仕様の美学がひとつのピークに到達した感がある。筒美は、それに合うせつない旋律と壮麗かつ繊細な管弦の編曲によって、雰囲気を否応なく盛り上げる。名コンビたる所以である。
なお、オックスは、ステージ上でメンバーが相次いで失神するというパフォーマンスを披露し、客席のファンたちもまた感染する形で気を失うという怪現象を巻き起こしたことでも名を馳せる。このあたりから、GSはギミック重視の後半戦へと突入していく。
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