2024年2月号|特集 筒美京平

【Part2】近田春夫が語る「筒美京平の10曲」

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インタビュー

2024.2.13

インタビュー・文/大谷隆之


【Part1】からの続き)

日本語という言語の持つ音響的な美しさを、洋楽的な枠組みの中でどう生かすか。この取り組みについては、京平さんは終始意識的だったと思うんです(近田春夫)


―― 3曲目は「さらば恋人」。1971年5月1日にリリースされた堺正章の代表曲です。

近田春夫 ザ・スパイダースが解散し、ソロ歌手に転向して最初のシングルですね。俺、もともとスパイダースがすごく好きだったんですよ。いわゆるGSブームのヒット曲って実は、職業作詞家と作曲家が提供したものが多かったのね。その中で彼らは、ビートルズやストーンズなど海外のロックに影響を受けつつも、日本語のオリジナル曲を作れる数少ない例外だった。

―― やはり、かまやつひろしさんというソングライターの存在が大きかった。

近田春夫 うん。初期で言うと「フリ・フリ」(’65年5月)とか「ノー・ノー・ボーイ」(’66年2月)とか。「あの時君は若かった」(’68年3月)もそうですよね。まあ、大ヒットしたのは浜口庫之助さんが書いた感傷的なフォーク調の「夕陽が泣いている」(’66年9月)だったりして。10代の俺にはそこが不満だったんだけど(笑)。それもあってこの曲は、リリース当初から気になってました。テレビの歌番組で流れてるのを見て、しみじみ「いい曲だなあ」って思った記憶がある。俺が20歳の頃かな。60年代が終わって、新しいメディアも台頭してきて。時代の風景が急速に変わっていった時期だよね。

―― その時点で、筒美京平の名前は意識されてましたか?

近田春夫 してないですね。当時の歌番組って、画面に出るのは曲のタイトルのみで。作詞・作曲がクレジットされることは少なかったので。知ったのは少し後じゃないかな。ただ初めて聴いたときから、歌い手の持ち味を存分に引き出した曲だな、とは感じてました。堺正章さんのあの鼻にかかった独特の声と、ちょっとヨレたような歌い方がね。ザ・スパイダース時代よりさらに濃く出ていて、それが生理的にとても心地よかった。この曲、イントロはかなり洋楽っぽいでしょ。


近田春夫が選ぶ「筒美京平の10曲」

堺正章
❸「さらば恋人」

1971年5月1日発売
作詞:北山修/作詞・作曲:筒美京平


―― “ドン・ド・ドォン”というリヴァーブの深いビートとストリングスの組み合わせは、どこかフィル・スペクターを思わせます。

近田春夫 俺はこの曲、アルパート・ハモンドの「カルフォルニアの青い空」にヒントを得たんだと、ずっと思い込んでたんだよ。導入部のメロとか全体のテンポ感とか。聴き比べるとそっくりなんです。でも、調べてみたら違ったんだよね。「カルフォルニアの青い空」は’72年の発売で、これに関しては京平さんの方が先だった。まあ、本筋とは関係ない余談なんですけど(笑)。

―― でも、たしかに雰囲気はそっくりです。

近田春夫 いずれにしても、「さらば恋人」はかなり洋楽の匂いが強い曲なわけです。でも伊東ゆかりさんの「誰も知らない」と同じで、堺さんが歌い始めると、ぐっと和の要素がせり出してくるでしょ。2つの要素が違和感なく混ざり合っているこの塩梅が、何とも言えず京平さんっぽい。

―― この洋と和の絶妙なバランスは、何に起因するものなんでしょう。

近田春夫 大きいのはやっぱり和声。主旋律に対する音の積み方がうまいんでしょうね。特にこの時期の京平さんって、まだご自身で編曲も手がけてるじゃないですか。だから余計それが際立ってるんだと思う。2曲目の「誰も知らない」もそうですが、歌メロそのものはけっこう和風なんですよ。例えば「さらば恋人」の冒頭、さよならと 書いた手紙 テーブルの上に 置いたよってところ。語尾で音を伸ばすところがちょっとコブシっぽくなってるでしょ。三味線に合うような小唄・端唄っぽい趣きがある。おそらくこれは、京平さんが幼い頃から耳にしてらして、無意識に染み込んでいたもので。

―― 近田さんがいう「日本語の官能性」を最大限引き出すメロディー。

近田春夫 京平さんの中で、それがどこまで方法論として明確に意識化されていたかは、俺にはわからないけどね。歌メロそのものを生み出す作業は、けっこう感覚でやられた気もする。ただね、日本語という言語の持つ音響的な美しさを、洋楽的な枠組みの中でどう生かすか。この取り組みについては、京平さんは終始意識的だったと思うんです。

―― なるほど。

近田春夫 ベースにあるのはやっぱり、日本語のリリックが心地よくなじむ旋律。そこにジャズやクラシックで培った和声理論やカウンターメロディーを組み合わせ、既存の歌謡曲と違う新鮮な雰囲気を作り出していたのが筒美京平だったと。すごく図式的に言えばそういうことじゃないかな。それは「さらば恋人」を聴いても、すごく感じることです。

―― 日本語の心地よさを重視した旋律というのは、前回話に出た「必然性のない転調はしない」という近田さんの筒美京平評にも通じます。

近田春夫 そうなの。当たり前の話しだけど、英語と日本語じゃ、成り立ちが根本から違いますからね。よく言われることだけど、英語って基本、ストレスアクセントの言語じゃないですか。つまりシラブル(音節)に対する音の強弱で単語を区別する。一方、日本語で重要になるのはイントネーション。音の高低差で単語を識別してるわけだよね。ですから、英語圏で培われたポピュラー・ミュージックを日本語で再現するのは、土台無理なんだよ。そもそも音節の構造だって、英語の方がはるかに複雑ですし。

―― たしかに。日本語は基本、かな1文字が1音節なので……。

近田春夫 うん。「恋人」なら「こ・い・び・と」で4音節。比較的シンプルですよね。英語はそうはいかないじゃない。けっこう長い単語が、実は1音節というケースもあるわけで。京平さんはその違いをわかったうえで、あくまで日本語の響きを引き出すメロディーとハーモニーを考えていたと思いますね。「さらば恋人」もそうだけど、京平さんの書く旋律って、あまりブツ切りにならないんですよ。流れるような、たおやかな質感がある。それも日本語の特性を意識されていたからじゃないかと、俺は睨んでます。

―― 実際「さらば恋人」も、言葉がすっと耳に入ってきます。

近田春夫 当時はテレビの歌番組でも、歌詞のテロップが出ることは少なかったからね。京平さんはヒットを生み出す職人作家の意識が誰よりも強かったから、お仕事をされる際に「歌詞がすんなり聴きとれる」ことはとっても重視されていたと思う。でもまあ、そういう作曲家論は別としても、この曲は大好きです(笑)。やっぱり70年代初頭の、時代がどんどん変わっていく感覚を思い出すんでしょうね。「さらば恋人」を聴くと、ブラウン管の中で歌ってる堺さんが浮かびます。ちょっと遠くを見つめつつ、にっこり笑ってるイメージですね。

―― では、次は4曲目。欧陽菲菲の「恋の追跡(ラヴ・チェイス)」にまいりましょう。欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)さんは台湾出身の歌手で、これは’72年4月5日にリリースされた3枚目のシングル。ちなみにセカンドシングル「雨のエアポート」(’71年12月)から9枚目「海鴎」(’74年12月)までの作詞はすべて橋本淳さん、作・編曲は筒美さんという黄金コンビが手がけています。

近田春夫 ちょうどこの前後から、俺は自分でロックバンドをやりつつ、歌謡曲方面の仕事もこなすようになってたのね。’72年から数年間は、日劇(有楽町の日本劇場)で毎年やっていた<布施明ショー>にもキーボード奏者として参加してまして。あるときゲスト歌手として欧陽菲菲さんが出演したんですよ。ステージで見たその歌いっぷりがとにかくすばらしかったの。まあキーボード奏者からすると、ちょっと難しいところもある歌い手だったんだけどね。

―― へええ、どういうところが難しかったんですか?

近田春夫 単純に音域の問題で。苦手なキーだなあと思った記憶がある(笑)。ただまあ、昔の歌手には多かったんですよ。「今日は調子が悪いから半音下げてちょうだい」みたいなオーダーは珍しくなかった。しかも時、歌謡曲のバックバンドをやってる人はみんな譜面が読めるし楽典的な素養もあるから、平気でやれちゃうのね。僕も必死で対応してましたけど、玄人の世界はすげえなとびっくりした。そういう思い出込みの選曲です(笑)。


近田春夫が選ぶ「筒美京平の10曲」

欧陽菲菲
❹「恋の追跡(ラヴ・チェイス)」 

1972年4月5日発売
作詞:橋本淳/作曲・編曲:筒美京平


―― 「恋の追跡」は冒頭からトランペットが鳴り響く、グルーヴィーなナンバーですが、最初から作曲者の名前で聴いたわけじゃなくて。





近田春夫 Chikada Haruo
慶應義塾大学在学中から、内田裕也のバックバンドでキーボード奏者として活躍。’72年に「近田春夫&ハルヲフォン」を結成。音楽活動と並行して、’78年から’84年にかけて、雑誌『POPEYE』に伝説的なコラム「THE 歌謡曲」を連載。’78年には早すぎた歌謡曲カヴァー・アルバム『電撃的東京』をリリース。’79年には、アレンジ・演奏に結成直後のイエロー・マジック・オーケストラを起用したソロ・アルバム『天然の美』をリリース。『エレクトリック・ラブ・ストーリー』、『ああ、レディハリケーン』では漫画家の楳図かずおを作詞家として起用。’81年には「近田春夫&ビブラトーンズ」を結成、アルバム1枚とミニアルバム1枚をリリース。’85年からはファンクやラップに注目、President BPM名義で活動。自身のレーベルBPMを率いて、タイニー・パンクスらと日本語ラップのパイオニアとも言える活動を行う。’87年には“バンド形式によるヒップホップ”というコンセプトで「ビブラストーン」を結成。現在は元ハルヲフォンのメンバー3人による新バンド「活躍中」や、OMBとのユニットである「LUNASUN」でも活動。著書に『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』[構成:下井草秀](2021年/文春新書)ほか。




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