2024年2月号|特集 筒美京平

【Part1】萩田光雄×半田健人|スペシャル対談

対談

2024.2.6

進行・文/真鍋新一 取材協力/馬飼野元宏 写真/島田香


萩田先生ほど、筒美京平さんと長くご一緒にお仕事を続けられたアレンジャーの方はいないですよね(半田健人)

きっと京平さんは南沙織さんの「この街にひとり」で私をテストしたんだろうと思います。このテストで無事合格したので、太田裕美さんらのお仕事に繋がったのだろうと今は思っています(萩田光雄)


── 今日は、筒美京平さんの作品を語るうえで欠かせない作編曲家の萩田光雄さんと、昭和歌謡曲に造詣の深い俳優・半田健人さんをお迎えして、筒美京平さんの作品について対談という形でお話を伺いたいと思います。今回、萩田さんには、筒美さんとお仕事をご一緒された200曲以上の作品から思い出の楽曲を、事前に10曲選んでいただきました。

萩田光雄 その本題に入る前に、京平さんの話をするなら良い機会だと思って、今日はちょっとした”爆弾”みたいな物を持ってきたんですけど、テーブルに出してもいいですか?

半田健人 なんでしょう? とても気になります。

萩田光雄 実は今まで誰にも話してないことがあって、まずこのCDなのですが……。


野口五郎
『GORO! LOVE STREET IN LONDON 雨のガラス窓』

1975年8月1日発売


── これは野口五郎さんの『GORO! LOVE STREET IN LONDON 雨のガラス窓』というアルバムですね。全曲ロンドンのAIRスタジオでレコーディングされた作品です。

萩田光雄 ジャケットに名前は載っていないんですが、僕が少しお手伝いをしているんですよ。こういうケースは僕の人生のなかでも本当に何曲かしかなくて。表向きの理由としては「クレジットの表記を修正するのが間に合わなかった」という理由なんですけどね(笑)。

半田健人 クレジットの上では京平先生のお名前になっていても、実際は萩田先生がアレンジをされていたと。何曲くらい関わられたんですか?

萩田光雄 3〜4曲だったと思います。改めて聴き直してみて、「たぶんこれだろうな」という目星はつけたんですが、ロンドン録音だったから僕は立ち会っていないわけですよ。まったく音が記憶に刻まれていないから、「あ、これは確実に違う」という曲は聴いてすぐわかっても、実際にどれをやったのかがわからなくなってしまって……逆に歌謡曲に詳しい人がどう思うか聞いてみたかったんです。これはいつのアルバムでしたっけ?

半田健人 ’75年のリリースですから、萩田先生が京平先生と出会われてからまだ1年ほど、という時期になりますね。

萩田光雄 名前は出なかったけどお手伝いをした、ということだけは強烈に憶えているんです。

半田健人 表向きの理由があるということは気になる話ですが、最初から名前が出ないことが決まっていたわけですか?



萩田光雄 ええ。時宗さんという方が京平さんのマネージャーでいらして、とても敏腕の方でした。その時宗さんから頼まれた仕事だったんですが、当時は京平さんも本当に忙しくてね。特にあのアルバムの場合は、ロンドンで何日間レコーディングするというスケジュールが先に決まっていたから、どうしても事前に譜面をすべて揃えておきたかったということなんでしょう。

半田健人 それで譜面だけ書かれて託されたという……すごい新事実です。ご本人にとっては少しデリケートなお話かもしれませんが、これによって誰かの評価が下がるようなことは絶対にないと思いますよ。僕のようなファンからすると、むしろプラスの情報です。こういうお話を伺ったうえで、改めて作品を聴いてみたくなりました。あとは、このことを五郎さん本人がご存知かどうか……。

萩田光雄 いやぁ、もちろんご存知ないでしょう。当時の現場にいた人でも知らないと思います。そうなると誰にもわからない。僕も正確なことがわかっていないからね(笑)。



半田健人 萩田先生はこれまでたくさんのお仕事をされてきて、特に当時は次から次へと編曲作業に追われ忙しくされていたでしょうから、どうしても「記憶にない」というのが正直なところだと思いますよ。だからこそ今、このことを明かしてくださったおかげで、僕を含めて歌謡曲を研究している方々がこの情報をもとにして、正確に萩田先生のお仕事を特定してくれるかもしれません。例えば、馬飼野俊一先生のクレジットがミスで馬飼野康二先生になっていて、どう聴いてもお兄さんの俊一さんのフレーズなのにっていうケースもあるんです。でも、それをご本人に確認してみても「え? そうだったっけ?」と仰るんですよ。

萩田光雄 うんうん、アレンジャーはみなさんそう言うと思いますよ(笑)。

── 改めて聴かれてみて、いかがでしたか?

萩田光雄 ’75年だと、僕はまだ20代ですよね。良くも悪くもまだ青いところがあるような感じがしますね。特にストリングスのラインを聴いてみると、「いかにも僕が書きそうだな」と思える部分があって、それは自分の癖みたいなものなんですけど。リズムのアレンジは京平さんが注文を出して現場で新たにテイストを加えているはずですから、ハッキリとこれは自分だと言い切れないんです。僕は僕で、すでに京平さんとのお仕事は何曲もしていましたから、意図的に京平さんの作風に寄せていったところがあったかもしれません。


南沙織
「バラのかげり」

1974年3月21日発売
カップリング

「この街にひとり」
作詞:有馬三恵子/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄


── 筒美さんとの最初のお仕事は南沙織さんの「この街にひとり」(’74年3月)と伺いました。シングル「バラのかげり」のB面です。

萩田光雄 沙織さんは日音の小栗俊雄さんがディレクターをされていました。ヤマハでポプコンの応募曲をアレンジしていた時に、広能達雄さんという方が僕を紹介してくださったんです。広能さんは新音楽協会(新室内楽協会)というインペク屋さん(=ミュージカル・インスペクター=ミュージシャンの派遣・コーディネート)の方で、ヤマハの仕事を一手にやっていらした。京平さんが僕のことを知ったのはたぶんそこからのルートだと思います。「お、若いのが出てきたな」ということでね。

半田健人 最初に京平先生のお仕事を引き受けた時の気持ちはいかがでしたか? それまでのアマチュアのフォークのアレンジと、歌謡曲の世界でアイドルのアレンジではかなり違うだろうと思うのですが。

萩田光雄 そんなことを考える余裕すらなかったというのが正直なところです。それに京平さんは当時すでにビッグネームでしたから、最初の打ち合わせからとても緊張したことを憶えています。

半田健人 アレンジについては改まって歌謡曲だからという意識はなく、きっちりとご自身のお仕事をされたと。

萩田光雄 そうですね。言ってみれば“裸の萩田光雄”でぶつかっていったんです。なにしろこちらはまだ若造でしたから、まったくの真っ白、まっさらです。逆にその、歌謡曲の仕組みみたいなものを知らない僕をフレッシュに感じてもらえたのかもしれないですね。

半田健人 その「歌謡曲の仕組み」というのは、どうやって学んでいかれたんですか?



萩田光雄 これはちょっとうまく説明できないんですけど、その後に京平さんといろいろなお仕事をご一緒するうちにわかってきたことなんです。ヤマハでアレンジの仕事をしていた時は、コードネームもない、メロディーだけの状態で曲を渡されることも少なくなかったので、乱暴な言い方になってしまいますけど、元の曲をぶっ壊すぐらいの意気込みで自由なアレンジをしていたわけです。

半田健人 あぁ、アマチュアの応募作品ですもんね。

萩田光雄 コードネームが付いていても、「これは良くないな」と思ったら別のコードを付け直したりもしましたしね。ところが京平さんと仕事をしていくうちに、“ここで胸がキュンとなる”とか、“急に明るくなる”とか、プロの作曲家はコードとメロディーの関係をきちんと計算して曲を書いていたんだということがわかったんです。それ以来、渡された曲のコードはあまりいじらないことにしました。それまでは、それこそメジャーセブンスだとか……。

半田健人 分数コードとか。

萩田光雄 そうです。かっこいいとか、おしゃれだとか言って、難しいコードをつけたがっていました。そこでちょっと考えが変わって大人になったっていうかね(笑)。なるほどな、と思いました。

半田健人 その考えは、京平先生以外の作曲家さんと組まれる時も引き継がれたんですか?

萩田光雄 それ以来はそうなりましたね。例えば梓みちよさんの「メランコリー」は吉田拓郎さんの曲ですけど、コードを変えてしまうと拓郎さんが書いた曲でも拓郎さんの雰囲気がなくなってしまうんです。「こんなコード、ありかな?」と思っても変えちゃいけないんです。

半田健人 フォークの方だとそんなに難しいコードは使われないですからね。萩田先生とお仕事された方で言うと、山口百恵さんの曲でたくさんコンビを組まれた宇崎竜童さんもそうですよね。けっこうベタッとしたコードで作られていて。

萩田光雄 たしかに宇崎さんにもそういうところはあったと思います。



── 萩田さんが歌謡曲の世界でお仕事の幅を広げるきっかけになったのは、やはり筒美さんとお仕事をされたところが境になっているように思います。

半田健人 京平先生は’73年頃から、ご自身でアレンジをされる機会が減っていくんですよ。それ以前ですと野口五郎さんの「青いリンゴ」などで高田弘先生がお手伝いをされていたくらいで、ほとんどご自身でアレンジをされています。それが萩田先生と出会われた頃からは後輩にあたるアレンジャーに任せることが多くなって。京平先生の作曲の仕事量が増えすぎたせいではないのかと思うのですが。

萩田光雄 それも、もちろんなんですが、アレンジャーが変われば、作風やミュージシャンの選び方で曲の雰囲気やサウンドも変わるわけじゃないですか。元は同じ曲でもアレンジする人によって仕上がりは必ず変わってきます。だから、いま思うと、いろんなアレンジャーに任せることで新鮮さを求めていたというのもあるんじゃないかなと思いますね。こういう表現で合っているかどうかわからないけども、例えば同じ布から違う洋服を仕立てるみたいに、作品の色合いをバラエティに富ませたいという意識でしょうか。

半田健人 この時期から京平先生はいろんなアレンジャーを抜擢されていくんですが、1曲、2曲で試しにお仕事をして、それっきりで離れていくアレンジャーは何人もいらっしゃいました。そんななかで、萩田先生ほど長くご一緒にお仕事を続けられた方はいないですよね。

萩田光雄 これも後になって思ったことですが、きっと京平さんは南沙織さんの「この街にひとり」で私をテストしたんだろうと思います。このテストで無事合格したので、その直後にデビューされる太田裕美さんらのお仕事にすぐ繋がったのだろうなと、今はそう思っているんです。

【Part2】に続く)





萩田光雄 Hagita Mitsuo
1946年生まれ。’65年慶應義塾大学工学部電気科入学、同大学クラシカルギタークラブに在籍。のちにヤマハ音楽振興会作編曲コースで林雅彦氏に師事、同社録音スタジオ勤務の後、作編曲家を目指す。’73年高木麻早「ひとりぼっちの部屋」の編曲でデビュー。’75年『FNS音楽祭』最優秀編曲賞をはじめ、’75年、’76年、2013年に『日本レコード大賞』編曲賞を受賞。現在、日本作編曲家協会(JCAA)常任理事、演奏家権利処理合同機構(MPN)理事。著書に『ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代』(2018年/リットーミュージック)。レーベルの垣根をこえて自ら選曲した全92曲収録のCD5枚組BOX『音の魔術師/作編曲家・萩田光雄の世界』(2021年/ソニーミュージック)も発売中。筒美京平作曲の編曲は200曲以上手がけている。



半田健人 Handa Kento
1984年生まれ。『ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト』のファイナリストに選ばれたことをきっかけに芸能界入り。2003年『仮面ライダー555』乾巧(イヌイタクミ)/仮面ライダーファイズ役で初主演を飾る。『タモリ倶楽部』への出演を機に、高層ビル好きであることが知られるようになる。鉄道、昭和歌謡といったジャンルへの造詣も深い。俳優のみならず、音楽のフィールドでも精力的に活動を行っている。2014 年には自身初のオリジナル・フル・アルバム『せんちめんたる』を発売。2016年にはメジャー・デビュー・シングル「十年ロマンス」、2017年にはアルバム『HOMEMADE』を発売。筒美京平作品を集めたコンピレーションCD『筒美京平マイ・コレクション 半田健人』(2021年/ビクターエンタテインメント)も発売中。
▼半田健人オフィシャルサイト
https://handa-kento.com/




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