2024年2月号|特集 筒美京平

【Part1】|筒美京平ストーリー ~Early Years~

解説

2024.2.1

文/下井草秀


サラリーマン時代を終え、怒涛のごときヒットメーカーとしての日々へ突入


 筒美京平。その4文字は、歌謡曲というジャンルのひとつの代名詞として、令和の今も燦然たる輝きを放ち続ける。だが、巨大な名声に比して、このマエストロの素顔は、一般にはあまり知られてこなかった。そのあり方は、小林亜星、都倉俊一、阿久悠のようにメディアへの露出が多かった作家たちとは、まったくもって対照的である。それはまるで、あまりの多産ぶりとも相まって、筒美京平という名前が個人の名義にはあらずして、組織的な大プロジェクトの通称であったかのごとし。本稿では、巨匠のプライベートな生い立ちとともに、作曲家としての黎明期を追っていきたい。

 渡辺栄吉という本名を持つ彼が牛込区神楽坂に生を享けたのは、1940年5月28日。戦争が終わった5歳の時、実家は麻布区西久保巴町へと引っ越す。港区虎ノ門3丁目に当たるその跡地には、現在、「虎ノ門30森ビル」が立っている。生家は鋳物を扱う事業を営んでいたため、経済的にも文化的にも恵まれた環境で育った。宝塚歌劇を好んだ母とともに、よそゆきの服装に身を包み日比谷で芝居見物と洒落込んだ後は、銀座のレストランで食事を楽しむ。そんな風に休日を過ごしていたらしい。そして、栄吉少年は幼少時よりクラシックピアノを習い、音楽への興味を深めていく。

 小学校に入った頃には、近所の子どもたちを集めて散歩会なるグループを結成し、「さんぽかいのうた」を作詞作曲している。近田春夫著『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』(文春新書)では、この楽曲の8小節の譜面を目にすることが可能だ。恐らくはソングライターとしてキャリア初となるこの作品、どこかの児童合唱団がレコーディングしてくれないものだろうか。大作曲家のライフヒストリーにおける、最後のピースの一つが埋まるはずだ。考えてみれば、あの筒美京平が作詞まで行っているという点もまた貴重であるし。

 なお、3年遅れて生まれた弟・忠孝は、長じてさまざまなレコード会社でディレクターを務め、ザ・ジャガーズ、野口五郎、C-C-B、コブクロなどをヒットに導く辣腕を発揮することになる。幼少時から互いにインスピレーションを与え合ったこの兄弟の長きにわたる関係性は、NHK連続テレビ小説でドラマ化したら面白そうだ。

 筒美は、初等部から大学までエスカレーター式に青山学院に通う。幼稚園は、霊南坂教会付属の幼稚園だったから、ずっとミッション系の教育を授けられたわけだ。それに伴い、小さな頃から高校ぐらいまで、ずっとピアノによる聖歌隊の伴奏を続けた。

 中学生の時には、初等部の頃に彼をかわいがっていた教諭が、ルンバの王様と称されたザビア・クガートの来日公演に連れて行ってくれた。これが、生まれて初めて観た外国人ミュージシャンの生演奏であり、大変な興奮を与えられたという。このコンサートが、米軍専用施設である山王ホテルで催された事実に、時代を感じる。

 高校時代には、後に作詞家として筒美とゴールデンコンビを形成する1年先輩の橋本淳と出会う。二人は、学校からほど近い渋谷の百軒店にあったジャズ喫茶「デュエット」「オスカー」「小粒のじゃがいも」にも足繁く通った。この頃愛聴していたミュージシャンは、オスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンス、ハンプトン・ホーズといったピアニストが挙げられる。彼らのクールな作風に、心惹かれていたようだ。

 大学に進んでからは、軽音楽部に所属し、“スウィング・コンボ”というグループでジャズピアノの腕を磨き、学外にまでその名を馳せる。とある大学対抗ジャズバンド合戦では、審査員を務めていた服部良一からそのプレイに関して賞讃を受け、その経験が後々までの自信につながったと語っている。とはいえ、自分がやがて服部と同じく流行歌の作曲家になるとは、この時点ではまだ知る由もなかったのであるが。

 学部で上から4番目という優秀な成績で青山学院大学経済学部を卒業した’63年には、日本グラモフォン(現ユニバーサル ミュージック)に入社。洋楽担当のディレクターとして社会人のキャリアをスタートさせる。当初は、本国で録音された楽曲から日本でもヒットしそうなものを選び、国内盤をリリースするのが主な仕事だったが、アメリカの人気歌手、ジョニー・ティロットソンが浜口庫之助の書いた「涙くんさよなら」を日本語で歌うことになり、その制作を筒美が手がけることとなる。ここで得たスタジオでの知見が、後の糧となる。

 ついに作曲家デビューを果たしたのは、’66年。まだグラモフォン在社時のことだった。しかし、その記念すべき楽曲、「黄色いレモン」には、作曲家として、すぎやまこういちの名がクレジットされている。まだ会社員として籍があったことを考慮し、副業に手を染めることはまかりならぬというわけで、当時の彼が師事していた売れっ子コンポーザーの名を借りたのだという(この経緯は、第二次世界大戦の終戦日を活写した傑作ノンフィクション『日本のいちばん長い日』が、当時文藝春秋の社員であった半藤一利の名義でなく、大宅壮一編として刊行された逸話を彷彿とさせる)。

 ちなみに、フジテレビのディレクターとして采配を振るっていた時期から始まるすぎやまこういちの暴君っぷりは、この頃、彼の私設アシスタントとして甲斐甲斐しく立ち働いていた橋本淳が随所のインタビューで振り返っているが、その様子はちょっとコントのように面白いので、昭和歌謡ファンならば必読の内容である。


藤浩一
「黄色いレモン」

1966年8月15日発売


「黄色いレモン」は、まず’66年8月に藤浩一(後に子門真人と改名し、「およげ!たいやきくん」を大ヒットさせる)の歌唱によるヴァージョンが発売され、追って、望月浩、泉健二、ガス・バッカス、リトル・パティ、ドン・ホーらも取り上げる競作となった。

 初めて“筒美京平”という筆名を使ったのは、同年12月にリリースされたザ・サベージの『この手のひらに愛を/ザ・サベージ・アルバムNO.1』の収録曲「涙をふいて」。このペンネームに関しては、もともと音楽にちなんだ“鼓響平”という表記を想定していたものの、左右対称の方が縁起がいいと思い直し、“筒美京平”に改めたのだとか。


ザ・サベージ
『この手のひらに愛を/ザ・サベージ・アルバムNO.1』

1966年12月15日発売


 サラリーマン生活に身を投じてから4年の歳月を経た’67年、渡辺栄吉はグラモフォンを退職し、作編曲家として独り立ちする。その決意の陰には、筒美の才能を認めたさまざまなレコード会社や音楽出版社のスタッフのバックアップが存在したという。

 実弟たる渡辺忠孝の証言によれば、会社員だった時代から、筒美はアルバイトとして膨大な数の編曲を受注していたそうだ(ノンクレジットの案件も少なくなかろうと推測される)。当時は、国内外のヒット曲をインストゥルメンタルに仕立て直したヴァージョンを収める「歌のない歌謡曲」と呼ばれる企画盤LPが頻繁に市場に投入されており、それらの仕事を千本ノック的にこなして身に着けた筋力は、ブロックバスターの基礎を形作ったはずだ。

 会社員を辞した彼には、怒涛のごときヒットメーカーとしての日々が早くも待ち受けていた。

【Part2】に続く)




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