2024年2月号|特集 筒美京平
【Part1】近田春夫が語る「筒美京平の10曲」
インタビュー
2024.2.1
インタビュー・文/大谷隆之
大げさにいうと「赤毛のメリー」は作品そのものが巨大な“謎”みたいに俺には感じられる(近田春夫)
―― 2020年に亡くなった稀代の作曲家、筒美京平さん。手がけたシングルレコードの総売り上げは7560万枚以上と、歴代作曲家でも第1位です。まさに日本大衆音楽史に燦然と輝く巨星ですが、その一方で生涯にわたり表舞台にはほぼ出られなかった。近田さんはその素顔を垣間見た、いわばレアな存在で……。
近田春夫 ええ、個人的にずいぶん可愛がっていただきました。最初にお目にかかったのは昭和51年(’76年)。僕が「近田春夫&ハルヲフォン」というバンドをやっていた時期ですね。その年の12月に「恋のT.P.O.」というシングル曲を出しまして。詞・曲・アレンジをぜんぶ1人で手がけたんですけど、これが「よろしく哀愁」(’74年9月)のパロディーっていうか。俺なりの熱いオマージュだったんだよね。
―― 安井かずみが作詞を手がけた、郷ひろみのヒット曲ですね。
近田春夫 当時、バンドのメンバー全員が、京平さんの仕事にどハマりしてたんです。今と違って、ロックの人間が歌謡曲を聴くこと自体、かなり珍しかったんだけどね。気にせず聴きまくっていた。そしたらレコード会社のディレクターがご本人を紹介してくれたんですよ。詳しい経緯は、’21年に出版した京平さんについての本(文春新書『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』)で話してますけど、そこからご縁がつながりまして。
『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』
近田春夫(構成:下井草秀)
2021年/文春新書
―― 付かず離れずの、不思議な交友がはじまったと。
近田春夫 たぶん、俺が芸能界の関係者じゃなかったのがよかったんだろうね。つねに新しい音楽へのアンテナを張っておられた方だし。俺も俺で、ぶしつけな質問や感想をバンバンぶつけてましたから。ちょっと毛色の違った存在として、面白がってもらってたんじゃないかな。それでたまに食事に誘っていただいたり、何回かは旅行もご一緒したり。本業の仕事を振っていただいたことは、数えるほどしかないんだけど(笑)。
―― 今回はそんな近田さんに改めて「筒美京平、マイフェイバリット10曲」を挙げていただきました。
近田春夫 オーダーを受けて、頭にぱっと浮かんだ10曲を直感で選びました。作曲家としての全体像を語るうえでは外せない代表曲、ヒット曲の類はほとんど入ってません。どこまでもプライベートな、「俺の心の10曲」です。
―― わかりました。ではさっそく参りましょう。 まず最初はザ・ガリバーズのデビュー曲「赤毛のメリー」。’68年7月に発売された、いわゆるGS(グループサウンズ)歌謡の1曲です。
近田春夫 ’68年の夏といえば、GSブームが絶頂を迎えつつあった時期。言い換えれば、シーン全体に爛熟と退廃の気配が満ち満ちてきた頃だよね。「赤毛のメリー」はその最たるもので。歌詞も曲も、やっつけ感がすごいでしょ。
―― たしかに(笑)。今聞くと、ガレージっぽい音色がかっこいいですけど。
近田春夫 そうなんだよね。イントロからもうファズ系の歪んだギターが全開で。ベースもブンブン鳴っている(笑)。後先を考えずに、ただひたすら突っ走ってる勢いがあって。そこが心に残ります。だけど、当時17歳だった俺は、GSという新たなムーブメントにかなり純情に入れあげてたから。どうしてもこのテキトーさ、行き当たりばったり感が耳についちゃったのね。初めて聴いたとき「ああ、GSもそろそろ終わりか」と。しみじみ凹んだのを覚えてます(笑)。
近田春夫が選ぶ「筒美京平の10曲」
ザ・ガリバーズ
❶『赤毛のメリー』
1968年7月1日発売
作詞:橋本淳/作曲・編曲:筒美京平
―― 実際、ザ・ガリバーズは「赤毛のメリー」1曲で解散してしまいました。
近田春夫 まさにブームに咲いた徒花、だよね。ただこの楽曲、京平さんの長いキャリアの中に位置づけると、また違った味わいが出てくるんですよ。ある種の若書きっていうのかな。大げさにいうと、作品そのものが巨大な“謎”みたいに俺には感じられる。京平さんの膨大な仕事で、そういう曲って他にないですから。そこが忘れがたいなと。
―― 謎というのは、具体的にはどういうことでしょう。
近田春夫 たとえばサビの部分でものすごく唐突に転調するでしょう。旋律もリズムも一気に甘ったるくなって。ほとんど別の楽曲みたいになっちゃう(笑)。約3分の間で、それを目まぐるしく繰り返すわけだけど、そこに音楽的必然性がほとんど感じられない。京平さんは生涯にわたり「余計なことはしない」という流儀を貫かれた作曲家だと思うんだけど、「赤毛のメリー」はいわばその美学をぶち壊している。そこに俺は、ちょっとした魂の解放を感じるわけです。
―― 膨大な筒美京平ワークスにおいて、かなり異色のナンバーなんですね。
近田春夫 だと思いますね。これはよく知られた話だけど、実は京平さん自身が個人的に一番好きだった作曲家はバート・バカラックなんですね。エレガントな転調や変拍子を用いるバカラックの作風を、京平さんはこよなく愛された。ただ、その技法を仕事に持ち込むことには、きわめて抑制的だった気がします。
―― なるほど。
近田春夫 もちろん筒美京平という作曲家のバックグラウンドに巨大な楽典的素養があったことは間違いない。幼少時からピアノを学び、大学時代はジャズに打ち込んだ人だからね。でも、そういった嗜好をダイレクトに出されたことは、ほぼなかったと思うんです。その証拠に、京平さんの代表的なヒット作品にはバカラックのような転調がないでしょう。洋楽的なエッセンスは巧みに採り入れていても、それはあくまで日本語のメロディーをフレッシュに聴かせる仕掛けであって。
―― いわゆる洋楽志向、海外志向ではなかった。
近田春夫 そう。ロックやポップスからブラック・ミュージックまで、同時代の音楽にも驚くほど精通されてましたが、意識した市場はつねにドメスティック。どこまでも国内リスナーを相手に、日本のマーケットで売れる曲を書き続けた。決してマニアックにならず、自らの音楽的趣味と仕事の間に明確な一線を引けたところに、職業作曲家・筒美京平の凄みがあると思うのね。そういう意味では、この「赤毛のメリー」は本当に数少ない例外で。
―― 目まぐるしい転調を含め、27歳の若き筒美さんが好き勝手やっていると。
近田春夫 まあ、単に時間がなかったのかもしれないけど(笑)。イントロから無駄にテンション高くて、笑っちゃうじゃない。京平さんの楽曲でこんなふうに笑えるものって意外と少ないので。その意味でも貴重かなと。ちなみにGSだと、ほぼ同時期にジャガーズの「星空の二人」(’68年8月)や、オックスの「ダンシング・セブンティーン」(’68年8月)も書いていらっしゃるんですが、2曲とも非常に出来がいい。どちらも作詞は橋本淳さんですが、スタックス系の土臭いR&Bサウンドと日本語の歌詞が見事に融合している。だからいっそう、「赤毛のメリー」の異様さが際立つんだよね。
―― さて、2曲目は伊東ゆかりさん。60年代にいわゆる和製ポップスで人気を博したナベプロ3人娘の1人です。この「誰も知らない」は事務所を独立した翌年にリリースされたシングルで、彼女のイメージを大人っぽく変えた曲として知られます。
近田春夫 うん。しっとり湿った夜の匂い。もっと言うならば、水商売の匂いがプンプンするよね。ギターが刻むイントロ8小節は、アンディ・ウィリアムスの「恋はリズムに乗せて」(’67年)そっくりで。ベースラインもかなり太いんですけど、歌メロが始まると一気に歌謡曲っぽくなる。この独特な和洋折衷の感覚が、いかにも京平さんらしい。まあ世間一般には、そこまで著名なヒットソングでもないんですけどね。この曲には、個人的に強い思い入れがありまして。
―― といいますと?
近田春夫 これも『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』で詳しく話してますが、昭和50年代初頭かな。六本木に「ミッキーマウス」というゲイバーがあって。一時期、通い詰めてたんですよ。ゲイバーといっても女装じゃなくて、従業員はみんな背広。ミキオさんというママのお喋りが、めちゃくちゃ面白くてね。で、ショータイムになると、当時の歌謡曲を流しながらアテブリのコントをやるわけ。これがまた絶品だった。そこで必ずかかっていたのが「誰も知らない」。なので、初めて聴いたのはテレビでもラジオでもなく、ゲイバーのステージ。
―― 最初はあくまで、ショーのBGMとして楽しんでいた。
近田春夫 そう。でもこのメロディーといいアレンジといい、じっとり耳に絡みつくじゃない。気になってクレジットを調べてみたら、京平さんの仕事だったと。流れとしてはそんな感じですね。純粋に個人的事情なんだけど、今回の10曲でどれが一番好きかと聞かれたら、実はこの曲なんだよな。
―― へええ!
近田春夫 当時の東京の空気感とか、ゲイバーで大騒ぎした思い出とかね。いろんな記憶が曲と一体になってる。今でも聴くたびにそれが蘇るんです。
近田春夫が選ぶ「筒美京平の10曲」
伊東ゆかり
❷『誰も知らない』
1971年10月25日発売
作詞:岩谷時子/作曲・編曲:筒美京平
―― 改めて、どういう部分に筒美京平らしさを感じますか?
近田春夫 やっぱり和洋折衷の味わい深さ、ですかね。もともと伊東さんって、それこそ和製コニー・フランシスっていうかさ。アメリカン・オールディーズにぴったり合うちょっと甘めの声、上品な色気が持ち味だった。それはそれで俺も大好きだったんですけど。でもこの曲は、彼女の歌からまるで違う可能性を引き出している。何だろう、演奏にはビートがあるんだけど、そこに乗ってる旋律は和のテイストというかさ。どこか小唄っぽいでしょう。
―― それが伊東ゆかりさんのよく通る声に、バシッとはまっている。
近田春夫 そうそう。京平さんは、歌い手の声質を生かすメロディーを提供することを何より優先させていた。作曲家・筒美京平を考えるうえで、これも非常に重要なポイントだと思います。「誰も知らない」はまさにその好例で、聴き手が「あ、この線もあったか!」って膝を打っちゃう新鮮さがある。また、こういうちょっとコブシの入った旋律を書くのが上手いんですよ。いしだあゆみさんの「ブルー・ライト・ヨコハマ」(’68年12月)もそうだけど。
―― わかります。聴いているうちに、思わず口ずさみたくなるメロディー。
近田春夫 しかも歌うと口が気持ちいいんだよね。発語の快感っていうのかな。たゆまぬ努力で蓄積された洋楽のボキャブラリーを援用しながら、身体の根底には日本の伝統的要素──それこそ三味線の音色とか、端唄・小唄の節回しみたいなものが染み込んでいる。このバランスが何とも興味深いんですよ。
(【Part2】に続く)
近田春夫 Chikada Haruo
慶應義塾大学在学中から、内田裕也のバックバンドでキーボード奏者として活躍。’72年に「近田春夫&ハルヲフォン」を結成。音楽活動と並行して、’78年から’84年にかけて、雑誌『POPEYE』に伝説的なコラム「THE 歌謡曲」を連載。’78年には早すぎた歌謡曲カヴァー・アルバム『電撃的東京』をリリース。’79年には、アレンジ・演奏に結成直後のイエロー・マジック・オーケストラを起用したソロ・アルバム『天然の美』をリリース。『エレクトリック・ラブ・ストーリー』、『ああ、レディハリケーン』では漫画家の楳図かずおを作詞家として起用。’81年には「近田春夫&ビブラトーンズ」を結成、アルバム1枚とミニアルバム1枚をリリース。’85年からはファンクやラップに注目、President BPM名義で活動。自身のレーベルBPMを率いて、タイニー・パンクスらと日本語ラップのパイオニアとも言える活動を行う。’87年には“バンド形式によるヒップホップ”というコンセプトで「ビブラストーン」を結成。現在は元ハルヲフォンのメンバー3人による新バンド「活躍中」や、OMBとのユニットである「LUNASUN」でも活動。著書に『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』[構成:下井草秀](2021年/文春新書)ほか。
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【Part2】近田春夫が語る「筒美京平の10曲」
インタビュー
2024.2.13