2023年12月号|特集 西城秀樹
【Part3】|西城秀樹ミュージック・ストーリー
解説
2023.12.15
文/小川真一
(【Part2】からの続き)
発想の転換で洋楽に日本語の歌詞を乗せローカライズした
’73年以降もヒデキは破竹の勢いだった。「ちぎれた愛」に続いて年末にリリースした「愛の十字架」が連続大ヒットして、チャートの第1位を獲得。翌年の’74年には、久世光彦プロデュースによる人気ドラマ「寺内貫太郎一家」に出演し、ヒデキは寺内家の長男の周平役を演じる。ドラマの中で毎回のように繰り広げられる、父親の貫太郎(小林亜星)と周平(西城秀樹)との取っ組み合いの親子喧嘩が話題となった。襖は吹っ飛ぶ、卓袱台はひっくり返るの大乱闘で、まさにプロレスなみ。ヒデキのアクションは、この番組でも大いに活用されたのだ。
「薔薇の鎖」でのマイク・アクションも最高だった。前奏が終わり歌に入る直前に、右足を使いスタンド・マイクを蹴り上げる。その蹴り上げたスタンドを水平に構えたまま歌い出すのが、ともかくカッコ良かった。教室で箒を使ってヒデキの真似をした少年少女も多かったと思う。
ヒデキが初めてスタジアムに立ったのが、’74年の夏だった。場所は大阪球場。まだ野球場をコンサートの会場に使うのは稀な時代だった。普段は野球の試合に使っている場所なので、ライヴ用の音響や照明の設営をしなければならない、集客も2万人近くを集めなければならない、ドームの時代ではないので雨が降ったらどうするのだろうか。ともかく難題ばかりが山積みだったはずだ。それを可能にしたのがヒデキの熱意であり、ファンの後押しだったのだ。
この記念すべき大阪球場公演を実現させたことにより、“日本で一番スタジアム・コンサートが映える男”が誕生したのだ。これが’78年からスタートするスタジアム・ライヴ「BIG GAME」へと繋がっていく。
西城秀樹
『秀樹!エキサイティング・ポップス』
1974年4月25日発売
この最初のスタジアム・ライヴでも、ザ・ローリング・ストーンズ、ザ・モンキーズ、ザ・ビートルズ、ドノヴァンなどの洋楽のカヴァーが数多く歌われている。これらの洋楽を集めたのが、’74年にリリースされた『秀樹!エキサイティング・ポップス』だ。このアルバムでは上記のビートルズやモンキーズに加え、ウォーカー・ブラザーズの「ダンス天国」「孤独の太陽」、それにジ・アニマルズの「朝日のあたる家」などが収められている。ともかく選曲が素晴らしいのだが、洋楽のカヴァーだけで1枚のアルバムを作ってしまうのは、ヒデキだからこそ出来たのだろう。
西城秀樹
「傷だらけのローラ」
1974年8月25日発売
’74年発売の「傷だらけのローラ」でのアクションは凄まじかった。これこそ全身全霊をこめた熱唱、と呼ぶのが似つかわしい。見ていてこちらが心配してしまうほどの熱演で、これほどまでのアクションが出来るのはヒデキをおいて他に知らない。’75年には「傷だらけのローラ」のフランス語版「Lola」をリリース、見事に海外進出を果たすこととなるのだ。
’75年にヒデキの「全国縦断サマーフェスティバル」の模様を追ったドキュメンタリー映画、「ブロウアップ ヒデキ」が劇場公開される。現在では音楽系のドキュメンタリーは珍しいものではないが、当時は画期的だったのだ。ライヴそのものも素晴らしいだが、その舞台裏が凄まじい。幾重にも組まれた足場の上の音響機材や照明、今とは違ってそれらがむき出しで、まるで工事現場を見ているよう。その後ろをヘルメット姿のスタッフが右往左往する。これが当時の野外ステージの現場だったのだ。
圧巻は、富士山麓の特設野外ステージでヒデキがゴンドラに乗って会場を空中浮遊するシーンだ。そのゴンドラが巨大なクレーンによって吊り下げられているところまで、しっかりと映像に映し出される。これは命がけ、まさに生命を賭けたパフォーマンスだったのだ。観客の熱狂がまたすごい。それに応えてヒデキが熱唱する。これは“日本のウッドストック・フェスティヴァル”だったのかもしれない。
スタジアムでのライヴもそうなのだが、野外ステージという意味でもヒデキは先駆的であった。誰もやらないことを、誰よりも熱く演じる。これがヒデキのスピリッツであり、彼の生き様であったのだ。
西城秀樹
『全国縦断サマーフェスティバル’75 ヒデキ・オン・ツアー』
1975年9月25日発売
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