2023年12月号|特集 西城秀樹

【Part2】片方秀幸(マネージャー)が語る"ロッカー・西城秀樹"

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インタビュー

2023.12.8

インタビュー・文/北村和孝(元『プレイヤー』編集長) 写真/島田香


ビートの効いたドラムにヘビーなギターのリフが絡んでいて、秀樹さんに聴かせたら、「コレだよコレ! このテイストの曲を俺、次にやりたいんだよ!」って(片方秀幸)


【Part1】からの続き)

── 当時のリアルタイムより若い世代からすると、80年代前半の秀樹さんのコンサートはカヴァーが大きな聴きどころになっているのをすごく感じます。多分ファンの方はオリジナルよりも先に秀樹さんが歌っているカヴァーで知ったのだと思います。

片方秀幸 かもしれないですね(笑)。


西城秀樹
『BIG GAME ’83 HIDEKI FINAL in STADIUM CONCERT』

2023年11月24日発売(アルバム復刻シリーズ第6弾)


── ’83年『BIG GAME』のジャーニーの「セパレイト・ウェイズ」もそう思いますし、’81年『BIG GAME』のレインボーの「アイ・サレンダー」のカヴァーも演っていて驚くばかりです!

片方秀幸 あの頃、サンプル盤が入ってくるとすぐに取り寄せて聴いていたんでしょうね。毎年毎年、1曲目は何をやろうか考える時に、昔の曲から引っ張り出すよりも、届いたばかりの曲を自分なりにアレンジをして、スタジアム用に変えて歌うというのが快感だったんじゃないか、という気がしますね。

── バンドメンバーもノッてプレイしていて実際演奏が素晴らしいですものね。

片方秀幸 そうですね。この頃は大御所の方にすぐにアレンジを頼んでやっていたようで、本当はジャズ畑の人なんだろうけど、前田憲男先生がレインボーの曲をアレンジしたりしていて。必ず西城のコンサートはブラスが入るじゃないですか? ハードロックにブラスをどう入れたらいいのかとなると、前田先生やそういう人たちにアレンジをお願いするしかなかったのでしょうね(笑)。初めは“レインボーにブラスは絶対合わないよね”と思っていたけど、そこが西城のこだわりだったんでしょう。


西城秀樹
『BIG GAME ’81 HIDEKI JUMPING SUMMER in STADIUM』

2023年11月24日発売(アルバム復刻シリーズ第6弾)


レインボー
『アイ・サレンダー』


── 「アイ・サレンダー」のリフをギターじゃなくてブラスでやるという、あのアレンジも聴きどころですね。

片方秀幸 西城は元々ロック少年から始まったけれど、ブラスロックにすごく影響されたというのはかねがね言っていたので、特にシカゴとか。

── あぁ、秀樹さんのバンドってブラッド・スウェット・アンド・ティアーズとかチェイスみたいなノリやパワフルさが……。

片方秀幸 そうです、それが根本にあるので。デビュー当時からプロデューサーの方も、当時の本人の表現で“バタ臭い” アメリカの音楽をいっぱい採り入れて、それが「激しい恋」や「情熱の嵐」で、歌謡曲の中においてちょっと珍しいブラスロックが西城のカラーになったと言ってましたよね。

── 片方さんが現場に入られて、秀樹さん以外のスタッフと洋楽の話になることはありましたか?

片方秀幸 実を言うとあまりなくて……。僕が入った’84年当時、独立したばかりの事務所に入ったこともあって、多分それまで洋楽好きだったスタッフたちも各々独立していったんです。だから、当時は西城がいちばん洋楽に詳しかったです。ただ、スタイリストさんやカメラマンさんには洋楽やヘヴィメタルが大好きな人たちがいたのでよく話していましたね。僕自身はボン・ジョヴィやU2のアルバムが出ると安い給料でもいっぱいレコードを買って聴いていた方なんです。ただ、西城のコンサートも’85年くらいから洋楽っぽいのがなくなったなという印象があります。


西城秀樹
「BEAT STREET」

1985年9月5日発売
作詞:吉田美奈子/作曲・編曲:角松敏生


 僕が入ったその時に、角松敏生さんと吉田美奈子さんが(「BEAT STREET」を含む’85年作『TWILIGHT MADE …HIDEKI』の)アルバム作りに参加してくれて。特に吉田美奈子さんは、ロック少年だった僕も学生の時からすごく尊敬しているアーティストで結構聴いてたんですよ。その人が目の前で西城と一緒に仕事するとなった時に初めて“西城秀樹って音楽家としてもの凄い人なんだな”と思ったんです(笑)。角松敏生さんにしても吉田美奈子さんにしても、西城って“自分たちの作品を歌わせたい何かがあるアーティストなんです”と聞きました。その頃になると、どちらかというとロックからシティポップの方に西城がちょうど変わっていく時だったんですよね。



── ちょうどアースコーポレーションの立ち上げのタイミングで、いわゆる洋楽カヴァー主体のコンサート構成からオリジナル中心に移行していくタイミングでもあるようで。そういう意味では、今回リリースされた’80年~’83年の4枚のライヴ盤って初期西城秀樹の音楽的な集大成とも受け取れます。

片方秀幸 そうなると思いますね。僕が入った頃にはまだエイジアやジャーニーをやっていたんですけど、その次の年あたりからはパタッと洋楽カヴァーがなくなって……。ただ、シティポップをやりながらも、たまに西城のハードロックの血が騒ぐのでしょうね。僕が車の運転をしたときはスコーピオンズとかを車内でかけていたんですよ。そうすると、“ん!? これなんだ?”“あ、今年出たスコーピオンズのライヴ盤です”とか言って、“えっ、カッコいいな、これちょっとおまえ、日本語に直せ”“はい、わかりました!”って(笑)。そしたら僕が訳した詞でコンサートでいきなり、シティポップから全然関係ないスコーピオンズをたまにやったりしていたんですよ(笑)。


スコーピオンズ
『ワールド・ワイド・ライヴ』

(1985年)


 あの頃は中森明菜さんが「飾りじゃないのよ涙は」を歌っていたんですよね。もちろん井上陽水さんが書いた曲ですが、それを聴いた秀樹さんが、“カッコいいなー、あれをハードロックにできないかな?”って。で、当時ギターを弾いていた沢村拓二君が“わかりました、ちょっとリフを考えてみます”とか(笑)。たまにシティポップで角松さん系をやりながら、最後いきなりヘヴィメタルで終わるという、そういうことはよくあったんですよ。同時にその頃、コンサートではあまりそれまでのヒットシングルをやらなくなっちゃったんですよね。

 さらに80年代の終わり頃のレコード会社内では“西城秀樹はもう30歳を超えたんだから大人の歌を歌わなきゃダメだ”というような流れになってきて。その時、僕も末席で会議に参加させてもらっていたんですけど、“今は演歌の歌手とデュエットだよな、これからはカラオケでデュエットが流行るから秀樹はデュエットだよ”“いや違う、やっぱり秀樹こそ第二の石原裕次郎にならなきゃダメだ”みたいな、そんな会議をやっているんですよ。で、“次のシングルはフリオ・イグレシアスのカヴァーにしよう”なんてやっていて、当の秀樹さんは“俺、まだ30歳超えたばっかりなのにもうこの路線なのかな?”と困惑されていて。

── 当時30代のロックシンガーがどうなるかなんて前例が乏しく、まだそういうのが全然わからなかったですものね……。

片方秀幸 まあそうなんですけれど、当時たのきんトリオや後輩のアイドルたちがいっぱい出てきて、“もう俺はアイドルをそろそろ卒業して大人の歌手にならなきゃいけないのかな”とか仰っていて。でもその時に僕、ポロっと言ったんですよ。“もしデュエットするんだったら女の人じゃなくて、氷室京介さんみたいな人とデュエットした方がカッコいいんじゃないですか?”って。そうしたら当時のスタッフみんなに“バカか、お前!”とか言われちゃって、“あ、そうですか、すいませんでした”とは言ったものの、布袋寅泰さんと吉川晃司さんがCOMPLEXを作ったみたいに、絶対そっちの方がカッコいいなと思ったんですよ!

 BOØWY全盛期で“BOØWYのヴォーカルをやっている氷室京介は西城秀樹にそっくりらしいよ”という噂もあった頃だし、ひとつの話題作りとしてもそれに乗っからない手はないなと。ただ、どうしてもその頃はファンの人もみんな家庭に入ったり就職したりで落ち着きだしたこともあり、どうしてもセールス的にああだこうだともがいていた時期ではあるんですよね。当時のコンサートは大人向けの歌詞で日本のフリオ・イグレシアス、第二の石原裕次郎のような方向に行っていた時期で、コンサートだけど内容がディナーショーになっている時期もあったんですよ。エンゲルベルト・フンパーディンクとかね、もちろんフランク・シナトラもカヴァーしたちょっとメロウな時期が3、4年続いたのかな……。



── それはそれで見事に歌えてしまうから逆に悩ましいんですよね(笑)。

片方秀幸 たしかにそれはあるかもしれないですよね。で、’90年に入って突然、アニメ『ちびまる子ちゃん』のテーマソングの話が来たんです。当時、B.B.クィーンズが「おどるポンポコリン」をヒットさせていたその後だったので、初めは西城も“えーっ、これできるかな!?”と思っていたようですけど。作詞がさくらももこさんで、作曲が織田哲郎さんだったんですよ。その時に織田哲郎さんと出会って、“やっぱり秀樹さんはロックをやらないとダメですよ!”という話になったんですよね。それで “そうだよな、忘れてたけどやっぱり俺はこっちだな!”と。秀樹さんはウッドストックから影響を受けていて、リッチー・ヘブンスのようなフォークの人がいたり、シャ・ナ・ナ、テン・イヤーズ・アフター、ラテンのサンタナがいたり……それを全てひっくるめてロックと認識しているんですよ。


西城秀樹
「走れ正直者」

1991年4月21日発売
作詞:さくらももこ/作曲・編曲:織田哲郎







片方秀幸 Katagata Hideyuki
1960年岩手県生まれ。大学卒業後1984年西城秀樹付き人ドライバーとしてアースコーポレーション入社。1989年マネージャーとなる。1999年アースコーポレーションチーフプロデューサー。約40年に渡って西城秀樹と活動を共にする。




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