2023年12月号|特集 西城秀樹

【Part1】|西城秀樹ミュージック・ストーリー

解説

2023.12.1

文/小川真一


自分自身が目指すロックへの糸口を見つけ出したデビュー前夜


 なんと呼んだらいいのだろうか。西城さん、秀樹くん、どれも違う感じがする。ヒデキと呼ぶのが一番いいと思う、やはりヒデキはヒデキなのだ。どんな時でも「ヒデキ」と呼びかければ、満面の笑みを浮かべ振り向いてくれる、そんな気がしてならない。これが西城秀樹であるのだ。

 元祖絶叫型シンガーであり、身体全体がアクションでできている。日本で一番スタジアム・コンサートが映える男、歌謡ロックの先駆者、スタイルをぶち破った革新的アイドル。さまざまな形容があるが、その全てにおいて時代を更新し続けたのがヒデキだった。

 そしてヒデキといえば、「ちぎれた愛」を筆頭に、「情熱の嵐」「愛の十字架」「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ギャランドゥ」といった、歌謡曲の歴史に残るようなビッグ・ヒットを数多く放っている。まさにスーパーのつくアイドルでありながら、ロックとライヴ・パフォーマンスが大好き。そのライヴとロックとを絡めながら、彼の偉大なる足跡を追ってみることにしよう。

 ヒデキがアマチュア時代からバンド活動をしていたのは有名な話だ。父親がジャズ・ギターを趣味にしていたこともあり、ヒデキも幼い頃から音楽に親しんでいた。見よう見まねでギターを弾くようになったのが小学校3年生の頃、小学校の上級になるとドラムを叩き始める。やはり天才は早熟だ。

 中学生になっていた兄たちとバンドを結成した。それがヒデキの最初のバンド、ザ・ベガーズだった。当時の写真が残っているが、学生姿の兄たちに混じって、ドラムの椅子に座っているのが確認出来る。エレキ・ブームの真最中とはいえ、小学生のドラマーは珍しかったに違いない。

 当時ライヴハウスなどはほとんど無く、喫茶店を借りて演奏したり、学校の文化祭などに出演したりしていた。ヒデキの生まれた広島市は岩国に近いこともあり、岩国の米軍基地にも出たことがあっただろう。この時代に、同郷の吉田拓郎と出会っている。同じアマチュア・バンドのコンテストに出場したことがあるというのだ。その10数年後の’82年に、吉田拓郎が作詞作曲した「聖・少女」を歌うことになるとは、これも運命のめぐり合わせなのだと言える。

 兄たちが卒業するのを機に、メンバーを組み直して新たなバンド、ジプシーを結成。すでにローリング・ストーンズやザ・ビートルズ、ジャニス・ジョプリンなどを聞きロックに目覚めている。ここでヒデキは、ドラマーからリード・ヴォーカルに転向。楽器メーカーのヤマハが主催するライト・ミュージック・コンテストに出場し、中国大会で優勝を果たしている。この時代の音源があれば、是非とも聞いてみたいものだ。

 ヤマハのライト・ミュージック・コンテストは、まさにプロへの登竜門だった。どれだけ多くのミュージシャンが巣立っていったかわからない。’67年から’70年までの期間だけでも、フォーク・グループの赤い鳥、小田和正率いるオフコース、チューリップの前身で財津和夫が在籍していたザ・フォーシンガーズ、早川義夫のザ・ジャックス、それに吉田拓郎が籍を置いていたダウンタウンズも、このライト・ミュージック・コンテストの出身なのだ。

 高校に進学してからは、広島市内にあった音楽喫茶「パンチ」から声がかかり、店のレギュラー・バンドに抜擢される。高校生で店のレギュラーにはおいそれとはなれない。ヒデキのバンドは、よほどの実力を持っていたからだろう。この当時はどんな曲をレパートリーにしていたのだろうか、興味が尽きない。

 ここまで若き日のヒデキの経歴を書いてきたが、まさに音楽まみれ、ロックまみれの青春を送っていたと言ってもいいだろう。これらはその後のヒデキの活動の原点となっていくのだ。

 運命の歯車は、喫茶「パンチ」で歌うようになってから大きく動き始める。ステージを見た芸能事務所のスタッフからスカウトされるのだ。プロの歌手になるという夢が、ヒデキの前に現実のものとして突きつけられた。厳格な父親は、ヒデキの芸能界入りを反対する。がしかし、夢を諦められなかった彼は家出同然で夜行列車に飛び乗り東京へ。ヒデキが高校一年の秋のことであった。

 上京から約1年半後、歌のレッスンを受けたヒデキは、’72年3月25日にシングル「恋する季節」で日本ビクターのRCAレーベルよりデビューを果たす。デビュー時のキャッチフレーズは「ワイルドな17歳」。芸名の“西城秀樹”は、当時人気のあった雑誌「女学生の友」で公募され、約6000通の中から選ばれたものであった。


西城秀樹
「恋する季節」

1972年3月25日発売


 筒美京平が作曲し、麻生たかしが詞をつけたこの曲は、若々しく軽快なナンバー。歌のバックに、オーヴァードライヴの効いたロック・ギターが鳴り響いているところがヒデキらしい。オリコンでの最高位は42位と、新人としてはまずまずの成績。新しいスターの誕生を全国に印象づけた。

 ヒデキはデビュー直後の5月に、第47回日劇ウエスタン・カーニバルに初出場を果たしている。ウエスタン・カーニバルは、日本では数少なかった大型の音楽フェスで、50年代はロカビリー・ブームの発信地となり、加熱したステージが繰り広げられた。60年代に入ってからはグループ・サウンズがこれに代わり、ザ・スパイダース、ザ・ジャガーズ、ザ・カーナビーツ、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・タイガースなどが熱いステージで会場を賑わせていた。

 70年代に入り、グループ・サウンズはすでにブームが去り時代はニュー・ロックへと突き進んでいた。この時期にヒデキが日劇ウエスタン・カーニバルを体験できたことは意義があったと思う。GSではない、歌謡曲でもない、自分自身が目指すロックへの糸口を見つけ出したのだと思う。

 ’72年の第47回は、「アイドル誕生!」のサブタイトルが付けられていた。ヒデキは、「青い麦」でデビューし、その後ロック・バンドのローズマリーにヴォーカリストとして参加する伊丹幸雄、ザ・キャッシュ・ボックスのヴォーカルを経てソロ・デビューすることとなる田頭信幸らとともに出演。この西城秀樹、伊丹幸雄、田頭信幸の三人は、フレッシュ御三家と呼ばれた。

 このウエスタン・カーニバルで、渡辺茂樹と出会う。ヒデキは、渡辺がキーボード奏者として参加していたロックンロール・サーカス(のちにキャンディーズのバック・バンドとして名を馳せるMMP〈ミュージック・メイト・プレイヤーズ〉の前身)をバックに、リトル・リチャードの「グッド・ゴリー・ミス・モリー」などの洋楽カヴァーを歌った。

 自分自身のバック・バンドを持ちたい。ヒデキのこの熱い想いは、この時に芽生えたのではないだろうか。ロックンロール・サーカスのキーボード奏者であった渡辺茂樹は、後にスタジアムを舞台に繰り広げられるビッグなコンサートの音楽監督として、ヒデキを支えていくこととなるのだ。

【Part2】に続く)




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