2023年12月号|特集 西城秀樹

【Part1】片方秀幸(マネージャー)が語る"ロッカー・西城秀樹"

インタビュー

2023.12.1

インタビュー・文/北村和孝(元『プレイヤー』編集長) 写真/島田香


 2018年5月16日に旅立った西城秀樹。35年にわたりマネージャーとして携わり、現在も西城秀樹の様々なイベントやリリースアイテムを手がけているブレーンと言える存在がアースコーポレーションの片方秀幸である。

 西城秀樹。いわゆる“ヒデキファン”にはリアルタイムはもちろん、タレントや俳優としてアイドルだったという方もいるだろうし、80年代後半のAORテイストに魅了された後聴きのファン、『ちびまる子ちゃん』のED「走れ正直者」以後の多彩なコラボレーションが契機となったというリスナーも多いだろう。まさにいろんなタイミングでのファンを擁するのがスーパースター西城秀樹ならではと言えるのだが、いわゆるロックという視点で見ても稀代の存在であった。個人的にはHIDEKI SAIJO with ANTHEM feat. Graham Bonnet「ナイト・ゲーム2020(Night Games)」のコラボレーションも驚きではあったが、こうした企画を実現してきたのも片方秀幸の偉業である。

 このたび11月24日リリースされた復刻アルバムシリーズ第6弾『BIG GAME ’80 HIDEKI JUMPING SUMMER in STADIUM』『BIG GAME ’81 HIDEKI JUMPING SUMMER in STADIUM』『BIG GAME ’82 HIDEKI SUMMER in OHMUTA』『BIG GAME ’83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT』という4枚のライヴ盤を主軸に、ロックミュージシャンでありイノベーターだった西城秀樹をテーマに、片方秀幸に西城秀樹のアーティストとしての姿を語っていただく取材を実現させた。2019年リリースのボックスセット『HIDEKI UNFORGETTABLE - HIDEKI SAIJO ALL TIME SINGLES SINCE1972』では全曲解説を手掛けるなど、ロッカー西城秀樹を語っていただくならこの人しかいない!という感がある。トータル20000字におよぶロングインタビューを4回に分けてお届けするのでお楽しみいただきたい。


日本語をどう歌えばちゃんとロックのリズム、縦乗りのリズムに乗せられるか、瞬時にわかっていましたね(片方秀幸)


── 片方さんが西城さんのスタッフとして最初に関わられたのはどのタイミングになりますか?

片方秀幸 ’84年からです。

── ということは西城さんの事務所アースコーポレーション立ち上げの時ですか?

片方秀幸 立ち上げの次の年ですね。’83年に立ち上げて、その時にシングル「ギャランドゥ」を出したんですが、僕はその翌年からですね。きっかけは本当に単純なんですけど、学生の時にバンドをやっていて、若気の至りでプロになろうぜってやっていたんですけど、一向にプロにもなれず周りのメンバーはみんな就職し始めて。自分も何か仕事しなきゃいけないと思ったところ、バイトでコンサートのローディーやスタッフをやっていたこともあるので、“じゃあ、裏方でも……”と軽い気持ちで応募した会社がアースコーポレーションでした。そこが西城秀樹の個人事務所だったんですけど、一発で採用が決まってしまいまして“明日から来い!”と。それから蟻地獄にはまるように抜け出せなくて今ここにいたる、という形で……(笑)。初めて事務所に行ったその日、たまたま近くの現場に秀樹さんがラジオの公開録音をやっていたので、面接してからすぐ“会わせるからちょっと来い”とそのまま秀樹さんのところに連れてかれて。“ちょっと新しい子、見てやってくれ”と通されたら、真っ黒な日焼けした顔で本人がドーンといて。狭い楽屋にその周りにはレコード会社だなんだ凄い人数のスタッフで、“あー、やっぱりスターなんだ!”という感じでしたね。


西城秀樹
「ギャランドゥ」

1983年2月1日発売


── 当時の秀樹さんはどれくらいのスタッフ体制で現場が動いていたのですか?

片方秀幸 チーフマネージャーと現場マネージャーがいて、付き人として僕が入って。あとは当時でいうコンサート営業になると、元の事務所の芸映からふたりくらい来て、レコード会社は常にアーティスト担当と楽曲担当が必ず付いていたので、常に10人くらいいつも周りにいた気がしますね。ただ、その当時は歌番組が多かったじゃないですか。歌番組にはレコード会社の人がみんな来るんですよ。だから凄い人数でしたけど、これがドラマの現場になると僕とふたりとか、そういうことも多かったですね。とにかく音楽現場は凄く人が多かった記憶がありますね。

── 秀樹さんはフィジカル的にも優れていて、日本人離れしたイメージがあります。実際に現場で担当されるようになって、その辺全然違うなという感覚はありましたか?

片方秀幸 もう会った瞬間にやっぱり全然違うので……。歌番組になると必ずヘアメイクさんやスタイリストさんが来るわけじゃないですか。見たこともないような服を持ってくるんですけど、袖を通すとちゃんとピタっと決まるんですよね。僕なんかが着たら絶対にダブダブになっちゃっておかしい感じだけど、ああいう人たちが着ると……例えば女性が着るような服でもピッタリ合うんですよね。西城の手足は長かったので、そうした衣装にもすごくフィットしていましたね。当時は歌番組だとデザイナーズブランドを持ってくることもありましたが、新曲が出ると、もしくはコンサートごとに寸法を測って全部作るんですよ。 ある時は王子様のような衣装、ある時はジャンプスーツ……と一着一着作っていたんです。それは西城以外の人たちもみんなそうでしたね。アイドルと呼ばれる方たちもそうですし、大御所の方たちもビシっとスーツで自分たちのサイズで作っていましたね。



── そのときの片方さんは秀樹さんのそれまでの活動をどのようにご覧になられていましたか?

片方秀幸 正直、僕はずっと洋楽ばかりを聴いていたので、もちろん西城秀樹がテレビで歌っている姿は知っていますけど、(携わり始めた際には)あまり知識はなかったですよね。デビュー曲から4、5曲目くらいまではよくラジオで流れていたので聴いてましたけど、そこから先はほとんど……。もちろん「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」や「ブルースカイ ブルー」は知っていましたけど全く詳しくなかったです。

── 正直、僕も最初はそのくらいの印象でしたが、近年のリイシューにおける再評価も契機となり、秀樹さんが実に先駆的だったというそのすごさに気がつくのですが。

片方秀幸 僕らもそうですね。(この世界に)入って改めて勉強し直して、 “こういう曲を歌っていたんだ!”“こういう曲は実はこういう狙いだったのか!”と、じっくり聴くようになってから深掘りするようになりました。“この曲のあの意味はどういうものなんだろう!?” “この曲のサウンドはどういうものなんだろう?”というのを、どんどん時代を遡って調べるようになって、そこに興味を持って音楽を聴くようにもなりました。


西城秀樹
『BIG GAME ’83 HIDEKI FINAL in STADIUM CONCERT』

2023年11月24日発売(アルバム復刻シリーズ第6弾)


── このたび11月にリリースされた’80~’83年のライヴ盤を拝聴して、驚くことが多いです。特に洋楽カヴァーが見事だなと!

片方秀幸 ちょうど僕が(事務所に)入った頃、前年までやっていた球場コンサートの映像を参考用に見せられたんです。こちらからすると何の知識もなくて見せられたものだったのですが、’83年の『BIG GAME ’83 HIDEKI』はいきなりオープニングがY&Tの「フォーエバー」で始まって、キッスの「ラビング・ユー・ベイビー」があって……。あと、ジャーニーの「フェイスフリー」やっていて、“えっ、こういうことやっているんですか!?”って。僕らが学生時代に散々聴いてコピーしていた曲を日本のアーティストが完璧にやってる!というのが、凄く衝撃でした。


Y&T
『ブラック・タイガー』

(1982年)


キッス
『地獄からの脱出』

(1979年)


ジャーニー
『フロンティアーズ』

(1983年)


── しかも洋楽カヴァーのシェアが圧倒的に多いですね。

片方秀幸 そうですね。そこからさかのぼって聴くと、いわゆるオリジナル曲は最後の方だけで。ほとんど全部外国楽曲のカヴァーから始まるんですよね。大半それをやって、宙に吊り下げられたり、クレーン車に乗って客席で歌って。そういうパフォーマンスを見せながら外国の楽曲をカヴァーするというのに驚きました。それまで外タレのコンサートも観に行ったことはあったんですけど、全く違うエンタテインメントだったので。

── そういう意味では元々洋楽ファンとして、秀樹さんの現場は割と親しみやすいところがありましたか?

片方秀幸 オープニングからほぼ聴いたことのある、そういう洋楽ばかり並んでいたんですよ。ご本人たちが来日して聴くのももちろんアリだけど、西城もちゃんとしていてバンドもみんな上手かったので、これはこれで成立しちゃってるぞと思って。あの頃って確かプログレハードが流行って、エイジア、スティクス、ジャーニーとかそういうのが流行っていたんですよ。すでにそれをそのままステージでやっていたので。あと、驚いたのはそれを何故か日本語でやっていて、正直最初は違和感があったんですよね(笑)。



── そこが面白いと思っているところで、英詞でそのまま歌っている楽曲もあれば、日本語詞に訳して歌っている曲もあって。どこを境目として日本語と英語で分けていたのだろうというのが不思議なところです。

片方秀幸 多分、西城としては英語で歌って客席がキャーキャー言っているんじゃなくて、(日本語詞でも歌って)歌詞の意味をちゃんと伝えながらお客さんに聴いてもらいたいという意図が相当あったと思うんですよ。だから普段なら絶対やらないようなハードロックの日本語バージョンも奨んでやっていたと思うし。後で聴き直して気づいたのは、こんな言い方をしたら今さら失礼だけど、日本盤LPに日本語の訳詞が載ってるじゃないですか? 割とそれをただ単に貼り付けただけの詞が多かったんですよ(笑)。でもね、それを西城秀樹という人間の身体から日本語詞として、歌として発すると、ちゃんとした日本語のロックになって出てくるというのはすごいなと思って。


レインボー
『ダウン・トゥ・アース』

(1979年)


 レインボーの「ロスト・イン・ハリウッド」という曲があるんですけど、日本語で言うと “手紙が欲しい 今すぐにでも”みたいな歌詞なんですよね。それを西城が歌うと“て(ぇ)がみ(ぃ)がほ(ぉ)し(ぃ)っ!”っていう感じの発声でちゃんとロックになっていて。レインボーの「キル・ザ・キング」も“Danger, danger”、 日本語で“危ない、危ない”って歌っているんですよ。それ、普通の人が歌ったらとんでもなくダサい日本語のロックになるはずなんですけど、西城の身体を通ると全然違う音楽になって生まれ変わって出てくる。その独特の歌い方は多分自分で発見したのかもしれないのですけど、母音をぶつけるんですよね。「ギャランドゥ」だったら“くやしいけれど お前に夢中 ギャランドゥ”という歌詞ですけれど、 “く(ぅ)、や(ぁ)、し(ぃ)、けれ(ぇ)、ど(ぉ)”と直後に母音をぶつけるんですよ。そういう歌唱法って多分狙った部分ではなく、昔よくいわゆる“ヒデキ節”と言われてましたけど、自然と出来てたんだなと。(子音も母音も日本語より遥かに多い)英語だとちゃんと縦にはまるじゃないですか? でも日本語だと“I Love You”が“あ、い、し、て、る”になってしまう。じゃあ、それをどう歌えばちゃんとロックのリズム、縦乗りのリズムに乗せられるか、瞬時にわかっていましたね。

── フェイクのテクニック然り、言葉と言葉の間をリズミカルに埋めていた凄味は、リスナー側としても年齢を経ていろんな音楽を聴いてきた今の方がわかりますね。

片方秀幸 日本語にするとどうしても字足らずなんですよね。“おまえ”って言葉は間延びがするんですけど、それを、“お(ぅ)、まえ、(ぇ)っ”という感じで、横リズムを縦につけるような。日本語と日本語の間の間を埋めるフェイクは、特にライヴの音源を聴くと映えるんですよね。

── 今回のライヴ4作品を聴いて、音がすごく良かったのですが、さすがはスターの西城秀樹だけあってちゃんと録音されていたのだなと。

片方秀幸 あ、そういう感想ならよかったですね。

── そのうち『BIG GAME ’81 HIDEKI JUMPING SUMMER in STADIUM』は未発表だった追加音源、『BIG GAME ’82 HIDEKI SUMMER in OHMUTA』は本邦初公開の音源だそうですね。

片方秀幸 そうです、未公開です。ひとつはオープンリールのまま保存されてたもので、あとは正直に言うとカセットだったりするんですよ。

── そうですか! カセットを起こした音源とは思わなかったです。

片方秀幸 実はね、’82年はカセットで残っていたんですよ。当時のライヴ音源ってどういうわけかなかなか残ってないんですよ。同じ年の大阪球場も絶対録ってたはずなんだけど……。


西城秀樹
『BIG GAME ’81 HIDEKI JUMPING SUMMER in STADIUM』

2023年11月24日発売(アルバム復刻シリーズ第6弾)


西城秀樹
『BIG GAME ’82 HIDEKI SUMMER in OHMUTA』

2023年11月24日発売(アルバム復刻シリーズ第6弾)


── 秀樹さんだけあってこういう大きいコンサートはマルチテープで録っていたということなのですか?

片方秀幸 いや、どうなのかな? ’82年は録ってないと思いますね。LRのラインアウトしかないんじゃないかな。唯一そのカセットがあったんですよ。で、’81年の方は発売当初は1枚組で8、9曲しか入ってなかったんですけど、マルチではなくて2ミックスのオープンリールの状態で完全版が残っていたので、それを何とか上手くリマスタリングしてもらったんです。

── とは言え皆さん、このあたりの音質処理に苦労されて製品化を諦めてしまうことが多い中、やっぱりそれができるのが、秀樹さんなんだなと思います。

片方秀幸 いや、もう本当によくリマスタリングしていただいたという感じですね。

── 秀樹さんのMCもまんま入っていて、当時の雰囲気が凄く伝わってきます。

片方秀幸 せっかく完全版が見つかったのだから、編集せず全部入れちゃおうよと話したんですよ。どうしても(アナログレコード時代だと収録時間に限界があったので)、“ここのところはカットしちゃおう”“ここで縮めちゃおう”、とやりがちなんですけど、せっかく見つかったから、MCからメンバー紹介から何から何も、バンド演奏だけでも全てがひとつのコンサートなので、何とか無理を言って2枚組にして全部を入れてもらいました。

── しかも‘80年は雨の中での演奏だったのだと気づいて……。

片方秀幸 あ、そうですね、’79年、’80年は大雨の中のコンサートで。特に’79年は「エピタフ」というキング・クリムゾンの曲をやっているんですけれども、重い間奏のところでゴゴゴゴゴーッと本物の雷が鳴っているのがまた良いんですよ(笑)。

【Part2】に続く)





片方秀幸 Katagata Hideyuki
1960年岩手県生まれ。大学卒業後1984年西城秀樹付き人ドライバーとしてアースコーポレーション入社。1989年マネージャーとなる。1999年アースコーポレーションチーフプロデューサー。約40年に渡って西城秀樹と活動を共にする。




↑↑↑↑西城秀樹 デビュー50周年記念アルバム復刻 スペシャルサイトはこちら↑↑↑↑