2023年11月号|特集 はっぴいえんど+URCレコード

第4回:歌謡曲|コラム~はっぴいえんどの時代(1969~1973)

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コラム

2023.11.29

文/輪島裕介


 1969年から1973年の歌謡曲(商業目的で制作されたレコード歌謡)は、まさに過渡期にあった。過渡的状況は映画やマンガといった文化表現や社会全体についても同様だが、歌謡曲の場合は、昭和初期から約40年にわたって支配的であったレコード制作システムから別のシステムへの移行という構造的変化を背景としており、そのため混迷の度合いが他分野と比べても一層深いようにも思える。

 各論に入る前に、この時期のレコード産業および芸能界の構造的変化について確認しておこう(まだるっこしいと思われる方はしばらく飛ばしてください)。

 まず、歌謡界および芸能界は、それまでのラジオや映画に代わって、テレビの影響力が圧倒的となる。テレビに映るものが芸能界であり歌謡曲である、ということだ。そして、歌謡曲のなかでは、「演歌」と「アイドル」を2つの極とするグラデーションが顕在化してゆく。「演歌」は、昭和初期から連続する曲調で、「大人の」夜の巷での社交や色恋を歌うものとされた。一方、「アイドル」は、同時代の英語圏ポップ音楽を参照した曲調や伴奏を用いて、十代歌手が、同世代の恋愛感情をほのかに(ときに過剰に)歌うものといえる。しかし、演歌もアイドルも、一種の典型例があらわれるのは1969年から1973年の間だが、この時点ではまだ輪郭ははっきりしておらず、越境的な事例も多い。

 作詞作曲では、筒美京平、都倉俊一、阿久悠、なかにし礼など、特定のレコード会社と専属契約を結ばない職業作家が台頭する。さらに、1968年にアメリカの老舗レコード会社と日本の新興家電メーカーの合弁によるCBS・ソニーの設立をきっかけに、新たなレコード会社の設立も続いた。

 こうした一連の過程で、作詞作曲から伴奏まですべての過程をレコード会社と専属契約を結んだスタッフが行う、という方法(専属制度)が瓦解する。それに代わって、歌手はレコード会社に専属だが、作詞、作曲、編曲から伴奏のミュージシャンまで、レコード会社を超えて、企画に応じて参加する、という新しい形態が一般的になる。このやり方を最初に制度化したのがCBS・ソニーであり、「アイドル」はその産物ともいえる。

 もちろん専属制度の解体が顕在化する大きなきっかけのひとつは、芸能プロダクションとレコード会社洋楽部とテレビが結びついて惹き起こされたGSブームだ。1967から1968年に爆発し1969年には落ち着いていたとはいえ、その影響も見逃せない。フォークやロックなど英語圏若者音楽を基盤とする日本の音楽家は、ソングライターやスタジオミュージシャンとして歌謡曲の世界とも深く関わることになる。そこでのはっぴいえんどメンバーの活躍は強調するまでもないし、むしろ、後の主流的な領域での活動が、はっぴいえんどの再発見と再評価を促していったともいえる。ただし、それらは1970年代半ば以降「ニューミュージック」という呼称のもと、「歌謡曲」とは一旦別の(少なくとも当時はそのようにみなされた)主流を形成することになる。その流れについては、本稿では部分的にしか扱えないことをお断りしておく。

 (冒頭飛ばした人はここで戻ってきてください。)ここまでで示した変化は、1973年にはかなりはっきりと形をあらわしているが、1969年ではまだそれぞれの要素が不定形に絡まり合っている。

 1969年の日本の歌謡曲の多様性の一端は、すでに由紀さおりがアメリカのジャズ・オーケストラ、ピンク・マルティーニと組んだ2011年のアルバム『1969』で示したとおりだ。


由紀さおり
「夜明けのスキャット / 夜の果てまで」

1969年3月10日発売


 由紀さおりの「夜明けのスキャット」は、1969年最大ヒットの一つで、深夜ラジオのテーマ曲がレコード化された。深夜ラジオから火がついた大ヒットという点では、前年のフォークル「帰って来たヨッパライ」に続くものだ。作曲は、CMソング作曲家出身のいずみたくで、同年の佐良直美「いいじゃないのしあわせならば」、前年のピンキーとキラーズ「恋の季節」と並んで、GS勢とは一線を画しつつ(とはいえタイガースの明治チョコレートのCMはいずみだが)非専属作曲家として大ブレイクしている。60年代後半、「いずみたくの時代」が確実に存在していた。

 前年のヒットで恐縮だが、いずみたく門下のピンキラ「恋の季節」のメロディーはラドレミソ(二六抜き)のマイナー・ペンタトニックで書かれていることに注目して、それまでのラシドミファのヨナ抜き旋律と異なり日本の民謡により近い音階は、偽りの西洋化を脱して「民族的」な音感に回帰しつつあることを示している、という説を民族音楽学者の小泉文夫がぶち上げ、この時期それなりに話題になっている。こうした一種の対抗的なルーツ志向は、1970年以降の「ディスカヴァー・ジャパン」系歌謡や、「ド演歌」の「日本の心」化と共通するメンタリティといえるかもしれない。ただ、明らかにセルジオ・メンデス&ブラジル’66を模したピンキラのコンセプトからして、「恋の季節」のラドレミソは「マシュ・ケ・ナダ」(『1969』アルバムにも収録)との連続において理解したほうがよさそうだ。

 セルメン、「マシュ・ケ・ナダ」といえば1969年は「イージーリスニング」の年でもあった。『1969』アルバムでも、映画音楽、フォーク、ボサノヴァなど当時日本で親しまれていた外国曲のカヴァーが含まれているが、それらを形容するものとして、1970年版の『現代用語の基礎知識』には、「演歌」と「イージーリスニング」と「ポップカントリー」が音楽関連の新語として掲載されている。


西田佐知子
「くれないホテル / 通り過ぎた恋」

1969年4月5日発売


 A&Mのハープ・アルパートやセルジオ・メンデス、バート・バカラックなどのサウンドは、もしかしたら当時のロック勢よりも日本の音楽に深く影響を与えたかもしれない。細野晴臣が好んだ筒美京平楽曲(ということを松本隆が筒美京平との初対面時に伝えたところ素っ気なく対応された、というエピソードがしばしば語られる)西田佐知子「くれないホテル」も、言わずとしれた特大ヒットいしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」と同系統の1969年型イージーリスニング歌謡のひとつといえるかもしれない。


カルメン・マキ
「時には母のない子のように / あなたが欲しい」

1969年2月21日発売






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