2023年11月号|特集 はっぴいえんど+URCレコード

第1回:文学|コラム~はっぴいえんどの時代(1969~1973)

コラム

2023.11.1

文/円堂都司昭


 1970年に発表されたはっぴいえんどのバンド名を冠したファースト・アルバムには、メンバーが影響を受けた国内外の様々な人々の名前が列挙され、感謝が記されていた。そこにはミュージシャンばかりでなく、映画監督、漫画家、写真家、落語家、浪曲師などとともに小説家、詩人、評論家、文筆も手がける演劇人が含まれていた。欧米の書き手とともに日本の書き手が多くあげられている。日本語ロックを追求するバンドのメンバーが、この国の文芸に関心を示したのは、当然のことだろう。

 前身といえるバンド、エイプリル・フールが結成された1969年から、最後のアルバム『HAPPY END』がリリースされた1973年までをはっぴいえんどの活動期間とみて、同時代の文学の動向をふり返ろうというのが、本稿の趣旨である。以下の文章では、ファースト・アルバムの前記の謝辞に名前があった人物に関しては、★印を付けて表記しよう。


大江健三郎
『洪水はわが魂に及び』

1973年発行



倉橋由美子
『スミヤキストQの冒険』

1969年発行


 対象となる5年の間には、1960年代後半に盛り上がりをみせた反体制的な学生運動が、1969年の大学や高校におけるバリケード封鎖多発などで全国的な広がりを見せたものの、1972年の連合赤軍事件に象徴される過激化、内ゲバによって支持を失い退潮に転じるという変遷があった。そんな政治の季節に、若者世代によく読まれた作家の1人が、大江健三郎★である。彼は、連合赤軍事件をモデルにした『洪水はわが魂に及び』を1973年に出版していた。また、当時の社会運動で問題になった政治の党派性をテーマにした作品として、倉橋由美子『スミヤキストQの冒険』(1969年)があげられる。


庄司薫
『赤頭巾ちゃん気をつけて』

1969年発行



 一方、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969年)は、高三男子の軽妙な一人称で書かれたユーモラスな青春小説として人気を得た。だが、同作にしても大学紛争による東大入試の中止という世相を反映した内容だった。


「面白半分」
1973年10月臨時増刊号


 社会運動だけでなく、様々なジャンルで反体制的、反主流的な気質を持つ表現が多くみられ、サブカルチャーと呼ぶよりカウンターカルチャーと呼ぶほうがふさわしい若者文化が形成された時代である。ロックはそうした波の一部だったし、文学における政治以外のテーマに関しても“反”の傾向はうかがわれた。澁澤龍彦★、稲垣足穂★などは、エロティシズム、異端、幻想など、世間の常識に反する題材を好んでとりあげる代表的な文筆家だった。すでに人気作家になっていた野坂昭如が、編集長を務める雑誌「面白半分」にわいせつ文書を掲載したとして裁判の当事者になった「四畳半襖の下張」事件(1972年)などは、この時期らしい出来事といえる。

 はっぴいえんどで作詞の要となった松本隆は、若い頃に江戸川乱歩★、横溝正史、小栗虫太郎といった戦前から活躍した探偵小説作家の読者だったと語っている。乱歩は何度も全集が出ており1960年代末にも講談社から発売されたが、同時期に桃源社が「大ロマンの復活」と銘打ち、横溝、小栗などの旧作を刊行した。夢野久作★も含め、怪奇幻想性の濃い探偵小説は、松本清張など現実性を打ち出した社会派推理小説へのカウンターとして注目された面がある。彼らのリバイバルの小ブームが、1970年代の角川文庫&角川映画による横溝ブームへと引き継がれていく。


唐十郎
『腰巻お仙 附・特権的肉体論』

1968年発行


 寺山修司の天井桟敷や唐十郎★の状況劇場など、スキャンダラスな演出や行動でなにかと話題になったアングラ演劇も、見世物小屋的な幻想と猥雑を追求した点が「大ロマンの復活」と共通する同時代的な現象だった。歌人として出発した寺山は、世間を挑発する評論やエッセイで文才を示し、唐は「特権的肉体論」の論陣を張った。

 この時代は、1970年に催された大阪万博(日本万国博覧会)が、1964年の東京オリンピックに続き諸国が参加した国家的イベントであり、技術の進歩による明るい未来像を打ち出したことでも記憶される。それに対し「大ロマンの復活」やアングラ演劇は過去を参照し、見世物小屋的な土着性や怪奇幻想にこだわることで、万博的な国際化や科学的で合理的な未来を求める社会的風潮に反抗していたような構図がある。

五島勉
『ノストラダムスの大予言』

1973年発行


 SF作家の小松左京が大阪万博のテーマ館サブ・プロデューサーだったことは、知られている。だが、彼は明るい未来像の提示にかかわるだけでなく、列島が海に消滅する小説『日本沈没』がベストセラーになり、経済の高度成長期が終った日本で終末論ブームの火付け役になった存在でもある。同作発表の1973年には1999年の人類滅亡を語った五島勉『ノストラダムスの大予言』もヒットした。

 小松やショートショートで活躍した星新一、戦争やマスコミなど様々なものを奇想で大胆に風刺した筒井康隆といった日本SF第一世代の作家が、旺盛な執筆活動でこのジャンルの認知度を高めた時期である。だが、1967~1972年に筒井が直木賞で3度候補になり落選し続けたことに示される通り、文学界でSFはまだ異端あつかいだったのだ。

 一方、松本隆は後年、はっぴいえんど「驟雨の街」について、中学の頃に父の本棚で見つけた吉行淳之介『原色の街・驟雨』で「驟」の漢字をカッコいいと思った記憶から曲名に使ったと語っている。また、松本が作詞した大瀧詠一「カナリア諸島にて」は、高校の時に読んだ小川国夫の小説にあった地名を使ったものだという。そのように少年期から読書家だった松本がはっぴいえんどで活動した期間は、吉行や遠藤周作、安岡章太郎など第三の新人と称された面々が中堅として健筆をふるい、小川や古井由吉、富岡多恵子★など内向の世代の作家が台頭しでもあった。


川端康成
『美しい日本の私』

1969年発行


 そして、当時の文学界における最大の出来事といえば、三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを呼びかけた後、割腹自殺した1970年の事件だろう。彼は『金閣寺』など文学史に残る名作を残した小説家であるだけでなく、細江英公★の撮影で裸体写真集を出すなど、タレント的活動でも知られていただけに世間の衝撃は大きかった。三島は右翼的言動が目立っていたし、1968年にノーベル文学賞を受賞した川端康成の受賞記念講演『美しい日本の私』が刊行され話題になったのは1969年だった。万博に象徴される国際化が進むなかで、川端や三島のように日本を見つめ直そうとする傾向もあったわけだ。


江藤淳
『アメリカ再訪』

1972年発行


 政治においては、日米関係が最大の論点であり、日米安全保障条約に反対した1970年の安保闘争が、1960年代からの反体制運動のピークでもあった。批評家としてアメリカ留学が転機になった江藤淳が、同国による日本への影響から第三の新人の作品を読み解いた『成熟と喪失』(1967年)は、現在まで影響力を残す文芸評論となっている。彼は1972年にも『アメリカ再訪』という日米関係を論じた本を出していた。

 以上、見てきた通り、国際化と土着性、合理と幻想、日本とアメリカが文化的にせめぎあう時代にあって、はっぴいえんどは、アメリカ的なロックのサウンドを目指しつつ、日本語の詞を選択した。曲を「暗闇坂むささび変化」などと名づけた彼らの感性には、国内の文芸や演劇の土着性に通じるものが感じられる。そうでありつつ『HAPPY END』でアメリカのスタジオでのレコーディングを経験し、海外の観点や先端的技術に触れたことは、バンド解散後のメンバーの活動の糧となった。その意味で、国際性や科学的合理性を重視する姿勢もあわせ持っていた。はっぴいえんどは、同時代の文化の両面を呼吸したバンドだったのだ。

※掲載書籍は編集部の私物です。




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