2023年11月号|特集 はっぴいえんど+URCレコード

【Part1】|はっぴいえんどヒストリー

解説

2023.11.1

文/柴崎祐二


数え切れない偶然が重なって生まれたバンドの夜明け前


 はっぴいえんどは、数え切れない偶然が重なって生まれたバンドだ。

 1960年代後半、いまだ駆け出しのアマチュアミュージシャンであった細野晴臣、大滝詠一、松本隆、鈴木茂の四人は、それぞれがそれぞれの環境で腕を磨き、刺激に満ちた日々を送りながら、牙を研いでいた。

 メンバー同士の最初の邂逅は、1967年に遡る。その頃細野晴臣は、様々なグループを掛け持ちしながら、柳田優(柳田ヒロの兄)らに誘われ、ドクターズというバンドの一員としてベースを弾いていた。

 柳田は、学生企画団体「SCAP」の一員であり、ドクターズは彼らが主催するコンサート「PEEP」のレギュラーバンドでもあった。1967年3月19日開催の第二回「PEEP」に先立ち、SCAPは、そこに出演するバンドのオーディションを行った。この日審査員として参加した細野が目撃したのが、C.I.A.というエレキバンドでひときわ卓越した演奏を聴かせていた玉川高等学校現役生・鈴木茂の姿だった。同オーディションには、林立夫と小原礼所属のムーバーズも参加し、同じく鮮やかなそのプレイで細野を驚かせた。C.I.A.とムーバーズはその後の「PEEP」にも出演し、互いに交友を結んでいった。

 ドクターズが解散した後の1968 年夏、細野は新たなプロジェクトのため、鈴木に電話をかける。そうして誕生したのが、当時米ロック界で話題となっていた「スーパーセッション」にヒントを得たグループ、スージー・クリームチーズだった(後に次々と変名を重ねていく)。

 片や1967年の春、大学受験に失敗した浪人生・大滝詠一が、予備校へ通うため岩手から上京してきた。大滝は、後にブルース・クリエイションの一員としてデビューすることなる布谷文夫と知り合うと、彼のバンド「タブー」に参加し、ドラムを担当した。タブーはすぐに解散してしまうが、布谷は音楽仲間の中田佳彦(作曲家・中田喜直の甥)を大滝に紹介した。その中田は、立教大学で細野と同学の関係にあり、かねてから音楽談義に花を咲かせる仲だった。1968年のはじめ、中田の仲介によって、大滝が細野宅を尋ねる。細野の部屋に通された大滝は、ステレオの上に立てかけられっていたヤングブラッズのシングル盤を発見し、「お、ゲット・トゥゲザー!」と言った。実はこれは、細野が来るべき客人をお遊び混じりに値踏みするために仕掛けた「テスト」だった。見事テストにパスした大滝は、以後細野の良き音楽仲間となった。中田を含めた三人は、定期的に細野宅でレコードを聴きながら研究に勤しみ、オリジナル曲を披露し合うようになった。三人は、この音楽研究会兼ユニットを「ランプポスト」と名付けた。

 同じ頃、慶應義塾大学の学生だった松本隆は、インストバンド、バーンズのドラマーとして活躍していた。バンドコンテストに度々入賞し、松本自身もドラマー大会で全国優勝するなど、アマチュアバンドシーンで一目置かれる存在だった。

 1968年春、ベーシストの脱退に際して新メンバーを探していた松本は、友人から凄腕と聞かされていた立教大学生=細野に電話をかけた。翌日、原宿駅前の喫茶店で松本は正式に細野を勧誘し、ハコバン仕事のギャラに釣られる形で細野も加入を承諾した。その後バーンズは、クラブ「コッチ」のハコバンとして活動する傍ら、学生企画団体「風林火山」のイベントに出演するなど、多くのステージをこなしていく。

 並行して、1968年秋以降、細野の友人・野上眞宏の自宅で「ザ・ジャム・セッション」と名付けたパーティーが開かれ、細野、鈴木、松本をはじめ多くのミュージシャンが交流する場となっていった。


ザ・フローラル
「涙は花びら / 水平線のバラ」

1968年8月15日発売


 同年12月31日に催された二回目の「ザ・ジャム・セッション」には、GSバンド、ザ・フローラルのメンバーである小坂忠と柳田ヒロも参加していた。当時、アイドル的な活動方針に反発していたザ・フローラルの一部メンバー=小坂忠、柳田ヒロ、菊地英二の三人が中心となって、バンドの立て直しが模索されており、まさに新メンバーを探している最中だった。細野のプレイを見た小坂は、すぐさま新メンバーにふさわしいのは細野以外にいないと確信し、実際のセッションを通じてその思いはより強いものとなった。新生フローラルに誘われた細野はこれを承諾し、次いで松本も加わった。ついに彼らはプロのミュージシャンとして歩み始める。

 1969年4月1日、ザ・フローラルは、その改名日にちなんで、「エイプリル・フール」として再始動した。その日から4日間、彼らはデビューアルバムにして唯一の作品となる『APRYL FOOL』のレコーディングを行った。


エイプリル・フール
『APRYL FOOL』

1969年9月27日発売



 このアルバム、『APRYL FOOL』は、同時代に隆盛していたアートロック〜プログレッシヴロックの要素が織り込まれた、野心的な内容だった。ボブ・ディラン作の「プレッシング・マイ・タイム」を除き全てオリジナル曲で占められているのも、当時のシーンにあって特筆すべき点だった。最も注目すべき曲は、バーンズ時代に書かれた細野作曲/松本作詞による「暗い日曜日」だろう。フォーキーなアンサンブルや、洒脱なハーモニー感覚は、後のはっぴいえんどの音楽性の萌芽を感じさせるものだ。

 その後エイプリル・フールは、新宿のゴーゴークラブ「パニック」のハコバンとなり、洋楽ロック曲のカヴァーを中心に熱狂的な演奏を繰り広げた。しかし、細野と小坂、松本は徐々にそうしたニューロック路線に疑問を抱くようになっていく。

 このような流れの中で細野がより一層強い関心を抱くようになっていたのが、バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレープといったアメリカ西海岸のバンドだった。前後して彼らは、テレビ番組の収録で遠藤賢司のパフォーマンスに触れ、大きな衝撃を受ける。バッファロー・スプリングフィールド等のアメリカンロックのサウンドと日本語詞の融合という、後にはっぴいえんどが推進するサウンドのイメージが、この時期から徐々に温められていく。

 1969年夏、エイプリル・フールは、アルバム発売を前にして空中分解状態にあった。細野、松本、小坂は新バンドの結成を目論むが、小坂がロックミュージカル『ヘアー』日本版のキャストに抜擢されたことを受け、断念する。

 新たなヴォーカリスト候補として浮上してきたのが、「研究会仲間」の大滝だった。大滝は元来、先端的なロックよりもポップスを深く愛好していたが、折しも、ブルース・クリエイションのメンバー、竹田和夫の勧めによってバッファロー・スプリングフィールドのシングルB面曲「ドゥ・アイ・ハフ・トゥ」を聴き、その魅力に目覚めていたのだった。9月、エイプリル・フールのライブを観に行った大滝がそのことを細野に告げると、細野は松本と一緒に新バンドをやらないかと誘った。

 新グループは、「ヴァレンタイン・ブルー」と名付けられた。GSでもない、カレッジフォークでもない、洋楽カヴァーでもない新しい日本語のロックの探求を明確な目標として発足したヴァレンタイン・ブルーは、松本隆のオリジナル日本語詞を元にした表現を本格的に模索していく。そうして生まれたのが、バンド初期の重要曲「12月の雨の日」(原題:「雨あがり」)や「春よ来い」だった。

 次に探すべきは、優秀なギタリストだった。細野は、かつてスージー・クリームチーズ等で演奏を共にした高校生ギタリスト鈴木茂を松本宅へ呼び寄ると、出来たばかりの「12月の雨の日」を弾いて聞かせた。すると、鈴木は即興で(のちにスタジオ録音されるものと同じ)見事なフレーズを生み出したのだった。強い感銘を受けた細野はその場で鈴木を勧誘し、バンドに引き入れた。元来ブリティッシュロック指向の強かった鈴木の加入は、あくまでアメリカンロック指向だったバンドのサウンドに幅と奥行きをもたらすことになった。

 1969年10月28日、ヴァレンタイン・ブルーは、お茶の水・全電通会館ホールのコンサート企画「ロックはバリケードをめざす」でステージデビューを果たす。翌月には細野と大滝のデュオでフォークコンサートへ出演。終演後、エイプリル・フール時代から細野の動きに注目していたURCレコードの小倉栄司(小倉エージ)よりレコーディングのオファーを受け、翌1970年1月、アルバム制作が正式に決定する。

 デビューの機会を掴んだバンドは、来るべきファーストアルバムのレコーディングに向け、練習を開始する。その傍らでURCレコードは、自社のフォーク系アーティストのバッキングを彼らに依頼するようになり、遠藤賢司のアルバム『niyago』のレコーディングを皮切りに、以後様々な現場にヴァレンタイン・ブルーの面々が参加することとなる。


遠藤賢司
『niyago』

1970年4月8日発売



 中でも、彼らにとって最も継続的な仕事となったのが「フォークの神様」岡林信康のバッキングだった。ボブ・ディラン&ザ・バンドのようなアンサンブルを模索していた岡林は、2月にヴァレンタイン・ブルーのリハーサルを見学し「これやでぇっ!わいの求めているものはこれやっ!」と歓喜したと伝えられている。また、アルバムの製作開始と前後して、ヴァレンタイン・ブルーは、松本が書いた詞「はっぴいえんど」をそのままバンド名として採用することを決めた。

 実際のアルバムレコーディングは、1970年3月18日、アオイスタジオで開始された。しかし、バンドの緊張や、当初のレコーディングを担当したエンジニア吉田保との作業の難航などによって頓挫し、一旦の中止を余儀なくされる。再びの練習期間を挟み、四家秀次郎と島雄一がエンジニアリングを担当する新体制の元、4月9日から13日にかけて全曲を録り切る強行軍を敢行した。その後、編集作業や、林静一絵、矢吹申彦デザインによるジャケットの制作作業を経て、8月5日、記念すべきファーストアルバム『はっぴいえんど』がリリースされたのだった。

 四人の若者が目指した「日本語のロック」が、レコードという形で初めて世に放たれた瞬間だった。

【Part2】に続く)




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