2023年8月号|特集 EPIC 45

【Part5】|EPIC 45 yearsストーリー1978-2023

会員限定

解説

2023.8.29

文/大谷隆之


【Part4】からの続き)


EPICの伝統、遺伝子とでも言うべきアーティスト発掘力は、どの時代にも健在


「私が最初に彼の動く姿をみたのは、深夜のテレビ番組だったか、ナルシスティックともアブノーマルともいえるダンスパフォーマンスにしばし目を奪われた。画面を凝視していると、彼は言い放った。『無難なロックじゃ楽しくない』と」(『ユリイカ 2013年7月臨時増刊号 総特集=岡村靖幸』所収「無難なロックじゃ楽しくない」)

 ’86年12月、EPIC・ソニー(当時)よりファーストシングル『Out of Blue』をリリースした岡村靖幸。2つ年下の音楽社会学者・南田勝也氏は、最初に彼と出会った際のインパクトをこんなふうに綴っている。

「一九九〇年、私は『どぉなっちゃってんだよ』が収録されたアルバム『家庭教師』を徹底的に聴きこんだ。その世界観はやはり一風変わっていて、まったく無難ではなかった。ただし、無難を拒否してただ過激に走ったということではない。音楽を追求していると他に追随者がいなかったのでいつのまにか異端になってしまった、岡村靖幸はまさにそんな存在だった。孤高というよりは異端の存在である」(同前)

 当時のリスナーの肌感覚がよく伝わる文章だと思う。いわゆる“縦ノリ”のバンドブームが世間を席巻していた80年代後半、内向的な妄想世界と肉感的リズムが渾然一体となった岡村の存在感は、たしかに突出していた。中学時代から音楽活動をはじめ、高校を中退して上京。4チャンネルのMTR(マルチトラックレコーダー)を入手した彼は、自作のデモ音源をEPIC・ソニーに持ち込む。音楽性に通じるものを感じたのだろう。「大沢誉志幸のディレクターに聴いてほしい」と逆指名したというエピソードが興味深い。当時、大沢を担当していたのが、後にエピックレコードジャパンの代表取締役に就任する小林和之氏だ。一聴して才能に気付いた小林氏は、さらにブラッシュアップを要求。完成度を上げたデモを、上司の小坂洋二氏に聴かせたそうだ。

「テープを聴いてみると難解というか、非日常な音楽のかけらが、たくさん録音されていました。ロックとR&Bが入り混じったような、よく言えばジェームス・ブラウンっぽく聴こえるのもありました」(スージー鈴木『EPICソニーとその時代』集英社新書、小坂洋二氏インタビューより)

 ちなみにプロとしての初仕事はデビューの1年以上前。レーベルメイトである渡辺美里のセカンドシングル「GROWIN' UP」(’85年8月25日)で作曲を手がけている。当時、暇を持てあましていた岡村は渡辺のレコーディング現場によく遊びに来ていた。そこで渡辺のプロデューサーでもあった小坂氏が「曲を書いてみないか」と提案したという。いくら才気に溢れているとはいえ、世間的にはまだ何の実績のない素人の若者。既存のレコード会社ではおそらく起用自体がありえなかっただろう。こういう発想の自由さ、現場裁量権の大きさもまた、EPIC・ソニーの強みだったと言えるかもしれない。


岡村靖幸
『靖幸』

1989年7月14日発売


 サードアルバム『靖幸』(’89年7月14日)以降、岡村は「全てのプロデュース、アレンジ、作詞、作曲、演奏」をすべて手がける独自のファンク路線を展開。ときに「和製プリンス」などと呼ばれつつ、世界中の誰とも似ていない独自の世界を追究していく。



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