2023年8月号|特集 EPIC 45

【Part1】|EPIC 45 yearsストーリー1978-2023

解説

2023.8.1

文/大谷隆之


既存の日本語ロック/ポップスに風穴を開けるイノベーターだったEPIC・ソニー


 独創的なアプローチで、個性豊かなアーティストたちを世に送り出してきたEPIC・ソニー(現エピックレコードジャパン)。長きにわたって日本の音楽シーンを牽引してきたこのレーベルが、今年8月に設立45周年を迎える。

 それまでの業界慣習を覆す斬新なマーケティング。レコード制作だけでなく地道なライブ活動も重視し、コアな支持層を固めていく手法。ミュージシャンや楽曲の持ち味を最大限生かしたタイアップ戦略。映像によるプロモーションをどこより早く採り入れた先見性。そして何より、革新的な新人アーティストの発掘力──。現在の邦楽マーケットが確立・発展していく過程で、EPIC・ソニーが果たした役割は枚挙に暇がない。

 とりわけ80年代から90年代にかけて、その存在感と輝きは尋常ではなかった。’80年3月デビューの佐野元春を筆頭に、シャネルズ(後のラッツ&スター)、一風堂、THE MODS、THE STREET SLIDERS、大江千里、大沢誉志幸、TM NETWORK、BARBEE BOYS、渡辺美里、岡村靖幸、DREAMS COME TRUE、JUDY AND MARY、PUFFYなど、きら星のようなスターを輩出。特筆すべきは売り上げやチャートアクションだけでなく、その誰もが既存の日本語ロック/ポップスに風穴を開けるイノベーターだったことだろう。

 もちろん個々のアーティストの表現に、無理やりレーベルのカラーを敷衍するのはフェアではない。だが一歩引いた視点から歴史を振り返った際、そこに「EPICらしさ」としか言いようのない何かが立ち上がってくるのも事実だ。’21年には音楽評論家・スージー鈴木氏が、具体的な楽曲の分析を通じてその「何か」の核心に迫った労作『EPICソニーとその時代』(集英社新書)を上梓。日本のポップス史における「EPIC」の位置付けに、緻密かつ野心的な補助線を提示してみせたのも記憶に新しい。

 本稿では各時代を代表するEPIC所属のアーティストの活躍を振り返りつつ、改めて「EPIC」というレーベルの足跡を辿ってみたい。

CBS・ソニーレコードがたった10年で飛躍を遂げたのは、トップ2人がとことん現場を尊重し、制作に一切口を出さなかったから


 まずは誕生までの経緯を確認しておこう。株式会社EPIC・ソニー(当時)が設立されたのは’78年8月21日。CBS・ソニーの全額出資により活動を開始した。もともとはCBS・ソニー内の「EPIC」レーベルとして洋楽や国内アイドルなどを扱っていたのが、独立した子会社へと格上げされた形だ。これによって若手スタッフの自由と裁量権は大幅にアップする。

 大胆な決断の背景には、親会社のCBS・ソニー自体が設立10年目で、いわばレコード業界の新参者だったこともあったようだ。EPIC・ソニー立ち上げから参画し、「ロックの丸さん」としてレーベル躍進の原動力となる丸山茂雄氏も、しがらみの薄さに惹かれ異業種から移ってきた1人。’68年、広告代理店からCBS・ソニーに転職した際のことを、丸山氏はこう振り返っている。

「当時終身雇用が当たり前で、途中入社が難しい世の中だったじゃないですか? そんな中でCBS・ソニーは途中入社でいいという募集要項だったんです。(中略)すごく有名な広告がありまして、ボーンと会社のマークがあって、国籍・年齢・経歴は問わない、とにかく音楽の好きな人が条件と書いてあるんですよ。(中略)だから応募してみたんです」(WEBサイト「Musicman」のインタビューより)。

 実際、採用された新規スタッフのほとんどは音楽業界の未経験者だった。実はこれには、当時の貿易自由化も大きく関係している。CBS・ソニーレコード株式会社(当時)が設立されたのは’68年3月。社名の通り、ソニー(日本)とCBS(アメリカ)が50%ずつを出資した合弁会社だ。それまで日本政府は、国内産業保護のため海外資本の進出を認めていなかったが、’67年に規制を緩和。自由化の措置後、第1号の合弁会社として誕生したのが他ならぬCBS・ソニーレコードだった。

 その際、国内企業への配慮として「同業他社からの引き抜きをしないこと」という条件が付けられたという。丸山氏いわく、既存レコード会社から来たのは酒井政利氏(南沙織、山口百恵、キャンディーズ、郷ひろみなどを送り出し、CBS・ソニーのアイドル黄金時代を築いた名プロデューサー)など3名だけ。しかし、証券からアパレルまで種々雑多な業界から世代を超えた人材が集ったことが、業界の慣習に囚われない大胆な発想へと繋がっていく。

 初代社長はソニーの創業者である盛田昭夫氏(当時はソニー副社長)。経営を実質的に任されたのは、後に第5代社長となる大賀典雄氏だった(当時はソニー製造企画部長)。国内では最後発だったCBS・ソニーレコードがたった10年で飛躍を遂げたのは、このトップ2人がとことん現場を尊重し、制作に一切口を出さなかったことも大きかった。丸山氏は別のインタビューで「ソフト分野の事業が何たるかを理解していた経営陣は、盛田さんと大賀さんの2人だけ」と指摘した上で、こんなふうに語っている。

「CBS・ソニーや、社名を変えたあとのSMEは、もの凄く幸せな状況にあったわけだ。ソニー本体でCBS・ソニーに関わった偉い人は大賀さんだけ。結局、CBS・ソニーの日本法人創業時に採用してくれた俺たちをとても大事にして、意見も尊重してくれた。『お前らが自由にやれ』って言ってくれたから、俺たちは気分よく仕事ができた」(日経ビジネス電子版の連載インタビュー「オレの愛したソニー」より)。

CBS・ソニーの遺伝子を濃厚に受け継ぎつつ、そのアプローチや気風をさらにアグレッシブに展開させた


 アイドル路線で大成功を収めたCBS・ソニーは、設立10周年を迎えた’78年、新たなレーベルとしてEPIC・ソニーを設立する。その際、制作・宣伝・販促を束ねる邦楽部門のトップを命じられたのが、営業を担当していた丸山氏だった。大賀社長は、最初は固持した丸山氏を読んで「お前の好きなようにやっていいから」と告げたという。

「『本当ですね?』と確認すると、ひとつだけ条件がついた。それは『10年後、CBS・ソニーを追い抜く会社にすること』だった。/親であるCBS・ソニーを子のエピックが追い越せというわけだ。おおざっぱな指示だが、そこまで言われたらもう逃げられない」(日本経済新聞「私の履歴書」より)。

 もともと「日本レコード大賞」と「紅白歌合戦」を頂点とした芸能界のヒエラルキーとは馴染めなかった丸山氏は、それとはまるで別軸の展開を模索する。そこで注目したのが、業界内の“ブルー・オーシャン”であったロックだったというわけだ。要するにEPIC・ソニーとは、日本のレコード産業における新参者であるCBS・ソニーの遺伝子を濃厚に受け継ぎつつ、そのアプローチや気風をさらにアグレッシヴに展開させたレーベルだったと言っていい。

「CBS・ソニーは絶好調だった。親会社と同じアイドル路線で結果を出すという考え方もあっただろう。でもそんなコピー経営は自分にはピンとこないし、面白くもない。/やはりねらうなら、みんなが殺到して混雑する分野ではなく、誰も行っていない、すいている領域にしよう。そんな音楽ジャンルはいったい何か。お、ここはすいているぞ。私はロックに注目した」(日本経済新聞「私の履歴書」より)。

 設立から約1年後の’79年9月には、ばんばひろふみの「SACHIKO」が大ヒット。美しい旋律を持つこの楽曲は、まだ70年代フォーク〜ニューミュージックの空気感が強く漂うバラードだった。だが翌’80年2月、黒人ドゥーワップやR&Bから強い影響を受け、新宿のライブハウス「ルイード」で人気を得ていたシャネルズが、ファーストシングル「ランナウェイ」をリリース。100万枚に迫るセールスを記録する。こうしてEPIC・ソニーの清新な存在感が少しずつ高まってきた’80年3月21日。その目指す方向性を体現し、レーベルそのものを未来に導くことになる1人のアーティストが登場する。日本語ロックに革新をもたらした男、佐野元春だ。

【Part2】に続く)



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