2023年6月号|特集 林哲司の50年

【Part1】林哲司が語る50年~ナイン・ストーリーズ

インタビュー

2023.6.1

第1回:Songwriting


インタビュー/栗本斉 文/加藤賢 写真/山本マオ



 1973年にデビューし、50周年を迎えた作曲家の林哲司。数々のヒット曲の作編曲を始め、シンガー・ソングライターやプロデューサー、映画音楽作家など多彩な顔を持ち、常に音楽シーンの最前線で新しい音楽を作り続けている。ここではソロ名義のアルバム『ナイン・ストーリーズ』(’86年)にちなんで、9つのテーマに沿ったロング・インタビューを敢行。これまでの50年を振り返りつつ、現在と未来まで様々なことを語ってもらった。


新しい日本の歌という認識で、一部の人たちに受け取ってもらえたのは大きかった


―― まず、ひとつ目のテーマとして「Songwriting」、つまり曲作りについてご質問させてください。林さんには作曲家、編曲家、シンガー・ソングライター、プロデューサーと様々な肩書きがあると思いますが、「作曲家」と呼ばれることに対して、ご自身の中ではどのような思いがあるのでしょうか?

林哲司 「家」がつくのがあまり好きじゃないんですよね。だから自己紹介する時に、「作曲家」とはあまり名乗らないんですよ。「作曲家」って自分で名乗るのはおこがましいと思ってしまうんです。よく「職業作曲家」って言い方するじゃないですか。スペシャリスト、プロフェッショナリストという意味を込めていると思うんだけれど、自分としてはこの肩書きもやっぱりしっくり来ないんです。他人が呼んでくれるんだったら「作曲家」でいいんですけれど。

―― そうなんですか。じゃあたとえば、ラジオなんかに出られた時には?

林哲司 「作曲をやってます、林です」って言いますね。

―― でもやはり、林さんのアイデンティティの中心は「作曲」なんですね。

林哲司 そうですね、だから、「作編曲家」って書いてあるときには「編」も取ってもらうんです。編曲もやるんですが、作曲の延長に音作りがあるわけだし、それに昔の作曲家はアレンジすることも当たり前だったじゃないですか。それなら「作曲家」でいいじゃないかって。

―― じゃあ、林さんがこれまでに手掛けてきたアレンジやプロデュースも、やはり「作曲の延長」にあるんでしょうか。

林哲司 そうですね。だから、ひとつだけ自分に肩書きを付けるならば「作曲家」だと思います。その延長としてアレンジやプロデュースがあるわけで、あまり誇張する必要もないですね。

―― 「作曲」の原点をお伺いしたいのですが、林さんが最初に作曲された曲はなんだったのでしょうか。

林哲司 厳密に言うと、中学3年の時に音楽の授業で作った唱歌的な曲が最初です。ブラスバンドに在籍していたので、簡単な曲は作れたんですね。ただ、ポップスっていう意味での原点は加山雄三さんです。彼が自分で作曲して自分で歌っている、という事実に衝撃を受けました。曲自体の格好良さもありましたが、何より「自分でも曲が作れるのかな?」という意識が芽生えるきっかけになりました。もちろん、ビートルズが自分たちで曲作りをしていることは知っているんだけど、なんといっても海外の人たちだったから、現実味がなかったんですよ。でも当時の日本の音楽シーンで「日本人の役者さんが、自分で曲を書いている」という事実にはものすごくリアリティがあった。作曲の専門家じゃなくても曲が書けるということを知った時に、自分もやってみようかなと思い立って、曲をパラパラと書き始めたのが16歳の頃です。高校1年ですね。


加山雄三
『加山雄三のすべて~ザ・ランチャーズとともに』

1965年1月5日発売


―― それでもかなり早いですね。それ以前、たとえば幼少期に音楽教育のようなものは受けられていたんでしょうか。

林哲司 母が教師だったので、まず家にオルガンがありました。昔の教師って、ひとりで色々な科目を教えなきゃいけなかったでしょ? だから、母は練習する必要もあったんでしょうね。そんなふうに音が鳴っている家だったので、レコードがかかっている時なんかには、子どもなりに聴いたメロディをなぞって弾いたりしていたんですよ。だから、小さい頃から音感は身に付いていたのだと思います。

―― そのような環境で育って、初めて曲を作ったのが中学生のブラスバンド時代。より意識して書き始めたのが16歳、ということですね。

林哲司 そうですね、本格的に書き始めて、歌詞ももちろん書いていたんですけど……。

―― 曲だけでなく、歌詞も書いていたんですか。

林哲司 もう本当に情けない限りで。恋愛をテーマにしたものとか、岩谷時子さんばりの、わかりやすい詞を書いていました。そんな形で曲作りにのめり込んで行ったんですけど、うちの高校は進学校だったので、3年生が受験体制に入ると僕だけがひとり浮いちゃうんですよね。当時は「エレキ禁止!」の時代じゃないですか。だからバンド活動ができなくて、サッカー部に入ることになったんですよ。でも、サッカーをやりながらも、曲作りだけはやめませんでした。サッカー部で真っ暗になるまで練習して、うちに帰ってくると当時のオープンリール・テープに向かって1日1曲ぐらいギターで曲を入れていくという毎日です。必然的に勉強が一番後回しになってしまって、作曲のクオリティと学校の成績が反比例するような状況になってしまいました。高校卒業するまでに200曲ぐらいは作ったんですよ。

―― 200曲! すごい数ですね。当時、それを発表する場などはあったんでしょうか。

林哲司 基本的には自分の記録として作っていたんですけど、その中の何曲かは友達と歌ったりしていましたね。当時はエレキブームからフォークブームに変わっていく時代で、フォークギターの方が音量的にも静かだったから、周りに迷惑をかけることなく演奏できたんです。だから作った曲を、昼休みや放課後の学校で仲間と歌ったりしましたね。廊下とかトイレなんかでハモると音響が最高にいいんです、自然のエコーで。

―― その頃から「音楽を仕事にしたい」という思いはあったんでしょうか。

林哲司 いやいや、全然そんなことはありませんでした。当時は戦後のベビーブームの影響で受験難の時代です。進学校だからみんな受験体制に入っていて、自分もなんとなく大学へ行くことを考えていたので、音楽を仕事にしようっていう特別な意識はなかったですね。志望校の受験に失敗して、音楽と映画に興味があったから、「ここなら自分のやりたいことができるかもしれない」と思ってまだ間に合った日大の芸術学部の願書を取り寄せたんですが、申し込む寸前で親父に反対されたんです。製紙会社をやっていた父には、大学で芸術を学ぶことへの理解がありませんでした。兄貴たちが会社を継いでいたから、家業を押し付けられるようなことはなかったのですが、父なりに、まともな職業に就かせたいという思いがあったんでしょうね。中学時代にクラリネットをやっていたので、先生から「東京で正規に音楽を学んでみたら」と勧められたりもしましたが、クラシック音楽の道に入っていく気もありませんでした。華やかな世界に憧れを抱きながら、グループ・サウンズや流行の歌手を聴いていましたね。





―― なるほど、では芸術系の学校へ進学することには反対されてしまったんですね。そこから、どのような過程を辿ってミュージシャンの道へ入っていかれたんでしょうか。

林哲司 結局、日大の商学部に入ったのですが、そこでもバンド活動にのめり込んでいきました。学校は違うんですけど、地元から東京に出てきた仲間たちと練習をしたりして。当時はラジオの深夜放送が盛んな時代でしたから、TBSの「パックインミュージック」や文化放送の「セイ!ヤング」など、色々な番組がありましたけど、たとえば自分の作った曲をザ・フォーク・クルセダーズの北山修さんが「パックインミュージック」でかけてくれたことがあったんですね。詞を褒めていただいたりもして、すごくいい気になって、それでまた作曲に弾みがかかりました。その頃にはもう、かなり作品を書き溜めていたと思います。そのあと大学を中退して、ヤマハ音楽振興会が主催するポピュラー音楽の作編曲コースに通い始めました。

―― そこで楽理を学んだのち、’73年にシンガー・ソングライターとしてデビューされたんですよね。ただ、以前お話しさせていただいた時に「作曲っていうことを意識されたのは’76年ぐらいから」ということを仰っていたように思います。何か、そこに転機のようなものはあったのでしょうか。

林哲司 今回、デビュー50周年記念のボックス『Hayashi Tetsuji Song File』を作っていて分かったんですけど「こんなにちゃんと、曲ごとに詞を書いていたんだ」ってことを再認識したんですよ。つまり当時は、作曲というよりも作品、ソングを作るという意識が強かったんだということを思い出したんです。それは「作って歌う」という、シンガー・ソングライターの基本じゃないですか。だから曲ができたら自然と詞をつけていました。けれど、そうやって曲を作っていくうちに、作曲に対する興味も高まってきて、色々なタイプの曲が書けるようになっていった。ヤマハで萩田光雄さんたちと作編曲を勉強しているうちに、「他者に作品を提供する」ことも視野に入ってくるようになりましたが、それですぐ作曲の専門家として生きていくことを決めたわけではありません。やはり、この時期の音楽活動には「自分で作って歌う」ということがベースにあって、その延長として作曲活動があったんだと思います。

―― なるほど。この頃は、自分が歌うことを前提として曲作りをされていたんですね。

林哲司 そうですね。でも一方で、とにかく当時の自分はプロの世界へ入っていくルートを模索していました。自分が歌うわけじゃなくても、自分の作品を誰かが歌ってくれれば、それは自分の作品が公に発表されるということじゃないですか。自分が作った楽曲がレコードになれば、本当にプロになれるわけです。そういった点で「作曲」を職業にすることを意識し始めたのも、やはりヤマハという環境が大きかったと思います。当時ヤマハが主催していたポプコンの存在も大きかったですね。そこに出演する歌手の方々に対して、自分の作った楽曲を歌ってもらう機会が増えてくるわけですから。ヤマハはその後、ポプコンで入賞したアーティストを自社からデビューさせるようになっていきますが、そうなると自分たちの作品だけじゃ曲数を賄えない人も出てくるので、そこに楽曲を提供するというニーズも生まれてきます。自分が歌わないような、女性歌手向けの作品を書いたりするような機会も増えてくる。そういう経験を積み重ねるうちに、自分が歌うこととは別に、「作曲する」というラインが生まれてくるようになりました。

―― じゃあ、最初から作曲家を目指したというわけではなくて、もう必然的にレールの上に乗っていたというような経緯だったんですね。そして、いつの間にか作曲がメインになっていった、ということでしょうか。

林哲司 そうなんですよ。だから不思議なエピソードがあって、自分のシンガー・ソングライターとしてのデビューは’73年の3月に出たシングル「僕の隣の孤独 / 午前5時の出来事」で、同年4月にはアルバム『BRUGES~ブルージェ』がリリースされています。でも、この当時担当してくれていたディレクターから「自分が担当しているアーティストのために曲を書いてくれないか?」って頼まれて。そこで作品を2作出すんですけど、そちらの方が実際はリリースが早かったんですよ。黒沢裕一さんっていう、ステージ101に出ていた歌い手さんなんですけど。ただ、それはもう自分のストックの中から、合った作品を提供するような形で、その人のために書いたっていうことではなかったので、「自分自身の作品でデビューした」ってことで、今年を50周年の区切りにしています。


林哲司
『BRUGES~ブルージェ』

1973年4月発売


―― 林さんは高校生の時からそれだけ曲を作り続けてこられたわけですが、最も影響を受けた作曲家というと誰になるのでしょうか。

林哲司 きっかけは加山雄三さんですね。加山さんに影響を受けて良かったなと思うのは、彼が音楽をグローバルに捉えていたことです。もちろん加山スタイルっていうのが根底にあるんですけど、ハワイアンに行ったりブラジルに行ったりと、いろんな要素の音楽を取り込むじゃないですか。それを、自分のヴォーカルでトータライズさせるわけです。ビートルズもそうですね。そういうフレキシブルな考え方にはとても触発されました。ただ、実質的な音楽の技巧やセンスといったところで直接的な影響を受けたのは、バート・バカラックとフランシス・レイの二人でしょうね。作曲のスタイルも手法も、この二人は全く異なっています。フランシス・レイはヨーロッパナイズされたクラシックからの影響があって、なおかつボサノヴァやエスニックの要素を取り入れていますし、バカラックはバカラックで、アメリカのコンテンポラリーな音楽ともちょっと違う、エッセンスのようなものを独自に出したりするわけですよね。手法は全く違うけれども、両者ともすごくいいメロディを書く作曲家ですから、その影響は多分にあると思います。


Burt Bacharach
『Reach Out』

1967年発売



Francis Lai
『Un Homme Et Une Femme』

1966年発売


―― バート・バカラックとフランシス・レイ。70年代の日本で一番受け入れられた作曲家というと、この二大巨頭になるのでしょうか。

林哲司 でしょうね。そこには映画とのリンクもあったと思います。二人のスタイルがどう違うかというと、バカラックはメロディがどこに飛ぶかわからないんですよ。コード進行もそうなんですけど、今までの既成概念のようなものを彼の中で意図的に壊しているところがある。一番根元のメロディっていうものに対しても、制約のない書き方をしているのですが、それでも基本的にはメロディアスっていう特徴がある。フランシス・レイはその対極で、1つのモチーフを2小節なら2小節、4小節なら4小節のメロディの展開が、シンメトリーにどんどん展開していくんですよ。それは、ある種クラシックの技法でもあると思います。フランスにはミシェル・ルグランのような素晴らしい作曲家が他にも居ますけど、この2人のメロディの確かさ、素晴らしさというのは、やはり自分の中でも基盤になっている気がしますね。

―― レノン=マッカートニーはどうですか?

林哲司 レノン=マッカートニーはもう別格です(笑)。別格っていうのは、なんて言ったらいいのかな、「作曲家」像をしていなかったんですよね。ソングライターとしては、時間が経てば経つほどポール・マッカートニーのフレキシビリティや、作曲のモチーフの持っていき方に凄みを感じています。でも、作曲家っていうことで考えると、やっぱり自分が影響されたのは、バカラックとレイの二人になるでしょうね。フランシス・レイはあまり表に出る人じゃなかったですし、クリスチャン・ゴベールっていうアレンジャーもいましたから、より職人的なメロディ書きっていうイメージがあるんですけど、バカラックの場合は自分でライヴもやる人だったから、ビジュアルも含めて、「作曲家」イメージのお手本になりました。60年代後半にはバカラック・サウンドのブームが日本でも起こるんですけど、そうなるとジャズや歌謡曲にも、バカラックのエッセンスが随所に出てくるようになっていきました。「ブルーライトヨコハマ」もそのひとつかなと思います。

―― 筒美京平さんには「バカラック歌謡」みたいな曲がいっぱいありますが、この時代を通して、やはりその二人の影響は絶大だったわけですね。もう少し踏み込んでお聞きしたいのですが、林さんはどういう手順で曲作りを進めていくんでしょうか。

林哲司 依頼された曲がシングル曲なのか、それともアルバムの中の1曲なのかによって異なります。一番苦しいのはシングルですね。とにかくインパクトをリスナーに与えなきゃいけないっていう使命がありますから。その中でも一番強いメロディ、つまりサビに、いかにキャッチーなメロディを乗せられるかということを強く意識しています。極端なことを言うと、80年代にヒットを連発していた時期は、最初にサビを書いていましたね。自分で勝手に考えた英語の慣用句だとか、あるいは日本語でも印象に残るようなフレーズを、その言葉のノリ具合を試した時に「あ、これ来るな」ってことを客観視しながら、サビのメロディを書き進めていきます。そのサビが出来上がると今度は前の部分を書いていくわけですが、そこを一定以上のクオリティでメロディアスに仕上げていける自信はありました。サビさえできれば構成はできる、という自負があったわけです。逆にアルバム曲の場合は、ヒットさせなければならないというプレッシャーからは多少解放されるので、そのアーティストがシングルでは見せない、そのアーティストの持っている雰囲気の余白の部分を描くことを意識しています。たとえばアイドルだとしたら、いつも人前に立つ姿じゃなくて、家に帰ってひとり鏡を見たときのイメージを、曲中に投影してみたりするわけです。

―― なるほど。アルバム曲だからこそ表現できるアーティスト像、というものもありますよね。

林哲司 あと、コード進行には自然と手癖がついていくじゃないですか。ピアノにしても、ギターにしても。でも、それだけでメロディを書くのも嫌なので、新しいコード展開を探そうという意図は常に働いています。だから、循環コードで書くんじゃなくて、たとえばルート(根音)があったら、そこに対して「こっちに行ったらどうかな」といろいろ模索していって、それがメロディとうまく重なったりすると「あ、このコード進行だ。面白い」となって、新たに1曲書けちゃったりするわけです。それからサビの繰り返しの箇所についてのテクニックなんですが、本来だったらそこは同じコード進行でいいわけです。でも、そこに言葉が乗ったりすると、意味合いが変わってきたりしますよね。そうすると、1回目はこういうコード進行だけど、2回目は同じメロディでもコードをちょっと変えてみるんです。たとえば詞の部分で、サビ1回目の歌詞はすごく悲しい気持ちになるんだけど、繰り返しの2回目の歌詞では希望を見せるような詞の内容だったりするときには、その進行がぴったりはまることがあるんですね。音楽的なことは分からなくても、聴いている人が「あれ、なんだか響きが違うな」と思ってくれるときは嬉しいですね。音楽の楽しみを感じる瞬間です。

―― これぞ職人技という感じですね。あれ、そういえば林さんって、基本的に曲先(曲を先に作って、後から歌詞を付ける作曲順)ですか。

林哲司 95パーセント以上は曲先ですけど、特に過去を振り返って詞先だったのが、作詞家が巨匠だった場合と、詞の方だけオッケーが出ていて、それで作曲として後から僕が指名されるっていう場合ですね。ちょっと前だと、林部智史さんの曲で松井五郎さんが先に詞を書いていて、後から僕に指名が来たっていうのがありました。


林部智史
「La Rouge」

2023年05月31日発売


―― ちなみに、松田聖子さんの場合はどうだったんでしょうか?

林哲司 聖子さんの場合は、ほとんど松本隆さんが後からはめ込んでくれています。

―― 詞先の場合っていうのは、やっぱ曲作りの手法も変わるんでしょうか。

林哲司 変わってきますね。まあ一長一短で、メロディが拘束されて、行きたい方に行かせてもらえない部分っていうのがあるんですけど、それによって、新しいメロディの取り方みたいなものが出てくることもありますよね。でも「詞がなければこう行くのにな」と残念に思う時もあるし、逆に「詞がなかったらこういうメロディの取り方してなかったな」っていう新鮮な発見もあります。それから歌詞があるとはっきりするのは、その言葉に乗せたメロディがどれだけインパクトをリスナーに与えられるかっていうのがわかることですね。その歌手の声も聴こえてくるわけですから。ただ、時には先ほどサビの作り方として説明したような、自分が作曲時に歌っていた仮の詞がそのまま使われるっていうケースもあるんですよ。それを含みながらもストーリーを展開させ、作品に仕上げる作詞家はすごいなって思います。

―― 林さんはこれまでに膨大な楽曲を手がけられてきて、選ぶのも難しいかと思いますが、代表曲というか、分岐点になった曲というのはありますか。

林哲司 そうですね。好きな曲はたくさんあるんですけど、エポックメイキング的なことを考えると、竹内まりやさんの「SEPTEMBER」と松原みきさんの「真夜中のドア〜Stay With Me」ですね。どちらも’79年にリリースされましたが、この2曲がスマッシュヒットしたことでリスナーに認知してもらえましたし、自分のカラーを出すこともできました。時代のメインストリームはまだまだ歌謡曲だったんですけど、その中でチャートに入って、新しい日本の歌という認識で、一部の人たちに受け取ってもらえたのは大きかったと思います。


竹内まりや
「SEPTEMBER / 涙のワンサイデッド・ラヴ」

1979年8月21日発売


松原みき
「真夜中のドア〜Stay With Me / そうして私が」

1979年11月5日発売


―― やはりその2曲になるんですね。

林哲司 それ以前では、たとえば南沙織さんに提供した「Good-bye My Yesterday」(’76年)という、カーペンターズ風のタッチで書いた曲があるんですが、この曲は南さんの声と一体になった時に「あ、自分のスタイルってものはこういうものだな」という、新しい日本語ポップスの形が明確に見えた作品なので思い出深いですね。それから、ほんとの意味で自分のカラーが出るきっかけになったのは、やっぱり上田正樹さんの「悲しい色やね」(’82年)だと思うんです。


南沙織
「愛はめぐり逢いから / Good-bye My Yesterday」

1976年11月21日発売


上田正樹
「悲しい色やね / Night Train To The Sky」

1982年10月21日発売

―― なるほど。

林哲司 ’79年に「SEPTEMBER」と「真夜中のドア〜Stay With Me」の2曲がヒットしたけれど、作曲家としてはマイチューンにはならなかったですから。やっぱり’83、4年になるまでは、やっぱり歌謡曲っていうものが圧倒的に日本の音楽の主流だったっていうことだと思うんです。でも「悲しい色やね」がヒットして、その流れで杏里さんや、中森明菜さんの「北ウイング」(’84年)、オメガトライブなど、自分の作品がチャートへ次々と入ってくるようになります。そう考えると、やっぱり「悲しい色やね」でしょうね、その意味では。

【Part2】へ続く)




林哲司(はやし・てつじ)
●1973年シンガー・ソングライターとしてデビュー。以後作曲家としての活動を中心に作品を発表。竹内まりや「SEPTEMBER」、松原みき「真夜中のドア〜stay with me」、上田正樹「悲しい色やね」、杏里「悲しみがとまらない」、中森明菜「北ウイング」、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語 -NEVER ENDING SUMMER-」など全シングル、菊池桃子「卒業 -GRADUATION-」など全シングル、稲垣潤一「思い出のビーチクラブ」など、2000曲余りの発表作品は、今日のシティポップ・ブームの原点的作品となる。また、映画音楽、TVドラマ音楽、テーマ音楽、イベント音楽の分野においても多数の作品を提供。ヒット曲をはじめ発表作品を披露するSONG FILE LIVEなど、積極的なライヴ活動も行っている。
http://www.hayashitetsuji.com/


林哲司
『Hayashi Tetsuji Song File』

仕様 : CD5枚組 +ブックレット
品番 : MHCL-30815〜30819
価格 : ¥14,850(税込)
2023年6月21日発売




【関連作品】


林哲司
『林哲司 コロムビア・イヤーズ』

2023年6 月21日発売



林哲司
『ディスコティーク:ルーツ・オブ・林哲司』

2023年6 月21日発売





【関連イベント】


林哲司50周年記念SPイベント
『歌が生まれる瞬間(とき)』 ~Talk&Live~

会場:赤坂レッドシアター

●6/30(金)
出演:林哲司
ゲスト:萩田光雄(作曲家・編曲家)、船山基紀(作曲家・編曲家)
ゲストMC:半田健人

●7/1(土)
出演:林哲司
ゲスト:売野雅勇(作詞家)
ゲストシンガー:大和邦久、富岡美保、一穂

●7/2(日)
出演:林哲司
ゲスト:松井五郎(作詞家)
ゲストシンガー:藤澤ノリマサ、松城ゆきの、一穂

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