2023年1月号|特集 Japanese R&B
【Part1】Nao’ymt インタビュー|クリエイターが語るJapanese R&B
インタビュー
2023.1.10
インタビュー・文/猪又孝
写真/上飯坂一
写真/上飯坂一
言葉を音で捉えて組み立てていくと、グルーヴが生まれてかっこよくなった
90年代末に盛り上がりを見せたJapanese R&Bのムーヴメントは、シンガーやパフォーマーだけでなく、彼らを支えるクリエイターの功績も大きかった。Nao'ymtは、JINEというヴォーカルグループでデビューしたが、その後ソングライターやプロデューサーとしても本領を発揮し、2000年代以降のシーンに大きな道筋を作り続けている。彼は日本のR&Bムーヴメントの渦中において、何を感じ、どのように向き合ってきたのか。そしてこれからのR&Bはどう進化していくのか。思うことをじっくりと語ってもらった。
──最初に音楽に触れたきっかけから教えてください。
Nao’ymt 親がMTV世代で、子供の頃からマイケル・ジャクソンとかが流れる音楽番組を毎週のように観ていたんです。そこでミュージックビデオの存在を知って、ZZ Topの「Rough Boy」を観て「なにこれ、すごい世界観」と衝撃を受けたのを覚えています。あとは、『マネキン』という映画の主題歌「Nothing's Gonna Stop Us Now」を歌っていたスターシップとか、「いい曲だな」と幼心に思いながらMVを観ていました。
──わりとロック少年だった?
Nao’ymt 当時はUSポップですね。そこからロックに行って、メタルに行って、デスヴォイスに行って。中学生のときにハードロックのバンドを組んでギターを弾いていました。当時はファイアーハウスというバンドが好きで。めずらしくピアノが入っていたんですよ、ファイアーハウスは。
──バンドはギターとヴォーカル?
Nao’ymt ギターだけです。のちにJINEを組むJunがヴォーカル兼ピアノでした。あとはドラムとベースがいて。
──R&Bに繋がる流れはどこから?
Nao’ymt MVが好きだったので、録画した音楽番組から好きなMVを8ミリビデオにまとめるということをしていたんです。そうしたら、ある日、ジョデシィの「Cry For You」のMVが流れたんです。それを観たときに自分の音楽観にまったくないものだと思って。
Jodeci
『Diary Of A Mad Band』 ※「Cry For You」収録
1993年12月21日発売
──びっくりした。
Nao’ymt すごくイカつい人たちが4人出てきて、めちゃくちゃきれいな声で、さらにハーモニーで歌っている。しかも、なぜか砂漠で(笑)。世の中にこんな格好いいモノがあるんだと思って。当時、高校生でしたね。16歳?
──「Cry For You」のどんなところにビビッときたんでしょうか。
Nao’ymt ハードロックでもメタルでもバラードが好きだったんです。もちろんパワフルな曲も好きだったんですけど、“バラードが好き”の延長で、「こういう人たちもバラードを歌うんだ」っていうギャップに引かれたんじゃないですかね。それから「R&Bってなんだろう?」と思いどんどん聴き始めて、どっぷりハマった感じです。
──どんな感じで掘っていったんですか?
Nao’ymt 当時はインターネットもそこまで普及していなかったので、渋谷のタワーレコードやHMVに通ってジャケ買いです。R&Bコーナーの端っこの「A」から見ていってかっこよさそうなものを買う。ヴォーカルグループに興味があったのでボーイズIIメンとかH-Townとか、そういうのをよく聴いていました。
Boyz II Men
『Cooleyhighharmony』
1991年4月30日発売
H-Town
『Fever For Da Flavor』
1993年4月15日発売
──入り口はバラードでしたが、徐々にR&Bのどんな部分に惹かれていったんですか?
Nao’ymt 歌です。いわゆるフェイクというか、崩して歌うリフズ&ランズ(Riffs & Runs)って他のジャンルにはない。なんでこんなフレーズを歌えるんだろう?みたいな細かいフレーズとか、あとは打ち込みのビートのかっこよさとか。
──当時、好きだったコーラスグループは?
Nao’ymt 一番はジョデシィです。いまだに一番。そこからジョデシィのトラックを分析して自分で作るようになったんです。
──’98年にJINEを結成する経緯は?
Nao’ymt 「Cry for You」を聞いてからの5年間はひとりで活動していました。ひとりでR&Bを作って歌って。R.ケリーの曲なんかも歌ったりしていました。実はJINEの前にグループを作っているんですよ。
──思うようにいかなかった?
Nao’ymt 結局、みんな、歌は好きなのかもしれないけど心からR&Bが好きなわけじゃなかったんです。そんな薄い情熱じゃR&Bヴォーカルグループを追求できないと思い嫌になって、またひとりで活動を始めました。そんなときにJunのことを思い出して。Junとは中学から高校まで6年間一緒で、いつも音楽の話をしていたんです。中学の頃も作曲対決とか言って、お互いが書いた歌詞を交換して曲を付けて聴かせ合ったりしていました。高校卒業後、彼は大学に進学していて、あまり会ってなかったんですけど、ある日Junに電話したんです。「突然だけどR&Bヴォーカルグループ作らない?」って。そしたら「いいね、やろうか」って。じゃあ、まずはメンバーを4人揃えようとなって、雑誌でメンバー募集をしたんです。
──そしたらEijiさんが来た?
Nao’ymt Eiji以外にも何人か来て。いろんな人がいましたね。「今ここで、4人で歌いませんか?」って喫茶店の中で立ち上がってボーイズIIメンの「I'll Make Love To You」を歌おうとした人がいたり(笑)。結局、最終的にはJunとEijiの3人でJINEを組みました。
──元々は4人組をやりたかったんですね。
Nao’ymt ジョデシィがやりたかったから。あと、アカペラのときに4人いないと成立しなくて。ベースパートがいなくなっちゃうんですよね。ヴォーカルグループといったらアカペラで歌えてナンボじゃないですか。だから4人目を探していたんですけど、そうそういなくて。R&B大好きで、歌もうまくて、知識もある、みたいな人は。
──日本のR&Bは聴いていましたか?
Nao’ymt 当時、日本にR&Bってあったんですかね?
──’97年にFull Of Harmony(F.O.H)が結成。LL BROTHERSやSkoop On Somebodyはすでにデビューしていました。
Nao’ymt F.O.HさんとLL BROTHERSさんは、たまにイベントで一緒になっていましたね。
──彼らの動きをどう見ていましたか?
Nao’ymt プロ意識って大事だなって話をJINEのメンバーとしていました。JINEは適当だったんですよ。曲作りをやろうと言いながらみんなでプラモデル作って一日が終わったりとか(笑)。LLさんやF.O.Hさんは衣装を揃えて振り付けまでやって頑張っているよね。私服じゃダメだ、ステージングも考えていかなきゃダメだって。でも、エンタテインメントというよりは、好きな歌を、かっこいいフレーズをただ歌いたいという意識の方が強かったんじゃないかと思います。ライヴよりレコーディングというタイプだったんで、曲はどんどん作っていましたけど。
──Nao’ymtさんとしてはライヴアクトをしたかった?
Nao’ymt それをやらないとダメなんだって気づかされました。当時はR&Bというジャンル自体が日本では周知されておらず、コミュニティーも小さかったので、JINEを知ってもらう方法がライブ以外に思いつかなかったんです。家で曲だけ作っていても「それをどう繋げるの?」って話じゃないですか。
──JINEを結成した頃は、どんな音楽性を目指していたんですか?
Nao’ymt そのときは「日本語で歌いたくない。英語じゃないと嫌です」みたいにトガっていました。JINEはソニーの新人開発セクションに所属していたんですが、当時、ちょうどゴスペラーズさんが活躍し始めていらして、それを見て「R&Bってこういうことなんだ」と思う人が多かったんですよ。R&Bといえばゴスペラーズという人が音楽業界にも多くいて、メジャーレーベルにプレゼンしに行くと、「R&Bってことは君たちもゴスペラーズみたいになりたいの?」「スーツ着て歌いたいの?」って言われることもありました。そのときに、それは何か違うなと思って。ゴスペラーズさんはR&Bをエンタテインメントとして日本向けにフィットさせていたと思いますが、自分たちが求めるR&Bは、US市場と並走するような、もっと言えばさらに先のR&Bをやりたいと思っていたんです。それで、メジャーどうこうという話は一度やめて、自分たちのやりたい音楽を地道に作ろうと初心に戻るような形になりました。
──2000年に平井堅さんが「楽園」のヒットを出します。
Nao’ymt この曲ではないと思いますが、当時隣のスタジオでレコーディングされていたこともあります。
──勢いが盛んになっていたジャパニーズR&Bをどう見ていました?
Nao’ymt 自分たちが目指すR&Bとは違うと思っていました。
──2000年当時、Nao’ymtさんが求めていたサウンドは?
Nao’ymt ティンバランドとか。あと、歌詞の話になりますが、メロディーに日本語が乗っちゃうとグルーヴが変わっちゃうじゃないですか。英語と比べて。だから、R&Bを日本語でやることには無理があるんじゃないかと思っていました。
──だから英語を重視していたわけですよね。
Nao’ymt そう思っていたときに、「歌詞の単語をなんでちゃんと言わなきゃならないの?」っていう話をJINEでしたんです。1個の文章を歌いきるまでが1つのメロディーみたいな。単語の途中で次の行に行ったらダメみたいなルールがあったんですよ。でも、文章の途中で切って次に行ってもいいじゃんって。それをJINEで試験的にやってみたらかっこよくなったんですよね。これだったら日本語でもイケるんじゃないの。発明したね、なんて言っていたんです。
──「吾輩は猫である 名前はまだない」を「我が輩はね」「こであるな」「まえはまだない」としてみる。
Nao’ymt そうです。日本語ってどうしても語尾が同じ感じになるんです。ですます調じゃないけど。なので、言葉を意味ではなく音で捉えて組み立てていく。そうしたらグルーヴが生まれてかっこよくなった。今は広まって、それをやる人が多くなりましたけど、「もしかしたら自分たちが発明したのにな」っていう思いもちょっとありますね(笑)。
JINE
『Make U Move』
2000年3月25日発売
──JINEはミニアルバム『Make U Move』をリリースしたもののセールス的には苦戦しました。その後、どのようにプロデュース業に移行していったんでしょうか。
Nao’ymt ソニーの次にお世話になったレーベルの担当が情熱的な方で「Naoは曲を作れるから、JINEが軌道に乗るまでの間、楽曲提供をしてみたら?」という話をしてくれたんです。そこで自分が作ったデモをその方に渡したらそれをSILVAさんが気に入ってくださって、「BABY DOLL」という曲に繋がりました。プロとして初の作家仕事です。
SILVA
『Coming Out』
2000年7月19日発売
──2ndアルバム『Coming Out』収録曲ですね。
Nao’ymt 歌詞はSILVAさん本人、作曲は村山晋一郎さんで、編曲が自分です。聴いたらわかるんですけれど、イントロはJINEが3人で勝手に作って歌っているんです。本編を無視して(笑)。「いいのかな?」と思っていたら「いいですね、このままいきましょう」ということで、そのまま採用していただきました。そのあとSILVAさんの同じアルバムでもう1曲、「Twilight Moon」のトラックメイクをしました。当時は作詞作曲ができることは知ってもらえていなくて、トラックメイカーだと思われていたんです。安室奈美恵さんのときも最初はトラックメイカーだと思われていたんですよね。
(【Part2】へ続く)
Nao’ymt(ナオワイエムティー)
●本名:矢的直明。東京都千代田区出身。独自の世界観で全てを包括する音楽家。1998年にR&Bコーラスグループ"JINE"を結成。2004年よりプロデュース業を本格的に始め、三浦大知、安室奈美恵、lecca、AI、他、数多くのアーティストに作品を提供している。特に三浦大知の多くの楽曲を担当。中でも、2018年7月リリースのアルバム『球体』は、アルバムコンセプト含め全17曲の作詞作曲・プロデュースをした出色の出来である。また、安室奈美恵に関しては、ヒットシングル「Baby Don't Cry」「Get Myself Back」など、これまで28曲を担当。小室哲哉以降もっとも多くの曲をプロデュースしている。
https://naoymt.com/
YouTube:https://www.youtube.com/@naoymtmusic
Instagram:@naoymt
Twitter:@naoymt
-
【Part2】Nao’ymt インタビュー|クリエイターが語るJapanese R&B
インタビュー
2023.1.13