2022年12月号|特集 平成J-POP

【Part1】DJ KOOスペシャル・ロング・インタビュー

インタビュー

2022.12.19

インタビュー・文/大谷隆之


いかにお客さんの足を止めずに、フロアの温度を上げて、楽しんでもらうか



平成J-POPのひとつの代名詞といってもいいTKサウンド。その中心に存在したTRFのリーダーであるDJ KOOは、ダンスミュージックをJ-POPに根付かせた立役者のひとりといっていいだろう。ここでは平成前夜、昭和のディスコ・ブームからミリオンヒットの時代、そして90年代リバイバルの兆しを見せる現在に至るまで、平成J-POPシーンを軸にDJ KOOならではの視点でダンスミュージック史を語ってもらった。

──平成はそれまでディスコ/クラブでかかっていたダンスミュージックが、ポップスのメインストリームへ合流した時代でもありました。KOOさんは文字どおり当事者として、その現場にまるごと立ち会われた。

DJ KOO そうですね。1980年、19歳のときに新宿のディスコでDJデビューしまして。平成に入って5年目(’93年)にTRFの活動がスタートしたので。言われてみればそうなりますね(笑)。

──いわゆる遊び人のカルチャーだったものが、気が付けばヒットチャートにガンガン入り、テレビの歌番組やカラオケも通じて全国区へと広がっていった。たった10数年で、きわめてダイナミックな変化が起こりました。

DJ KOO と思います。僕は’61年生まれで、今年でDJ歴42年なんですが、やっぱり洋楽に憧れた世代なんですよ。DJのスタイルひとつ取っても、海外のヒット曲をいかにスムーズにかっこよく繋いで、本場のプレイに近付けるかという意識が常にあったし。80年代半ばにはユーロビートというヨーロッパ発のダンスミュージックを日本人のアーティストが歌う流れも出てきましたけど、基本的にはカヴァーがメインでした。極端な話、洋楽に近い作りになっていれば一応の合格ラインをもらえる時代だった。

──暗黙の序列があったと。

DJ KOO それが90年代に入った頃から次第に変わってきます。従来の「洋楽に寄せていく」発想から「日本独自のダンスミュージックを作る」という意識へと、シーン全体が移っていくんですね。その中心にいたのが、僕はやっぱり小室哲哉さんだったと思う。海外シーンへのアンテナの張り方、解釈する力、音や機材に対するこだわりまで、他の人とはまったく違っていたので。だからあんなに日本のリスナーから愛されたと思うんです。

──TRFのファーストシングル「GOING 2 DANCE/OPEN YOUR MIND」がリリースされたのが’93(平成5)年2月25日。実は同じ年の5月15日に、Jリーグが初めて開幕しました。「J-POP」という呼び方自体は平成の初頭からあったようですが、いろんなジャンルに「J」の頭文字が付くようになったのはこの時期からという印象があります。

DJ KOO いろんな分野で「海外=本場」という図式が崩れ始めた。今にして思えば、そこはシンクロしていたんでしょうね。当時の僕自身、特別「J-POP」という単語を意識していたわけじゃなかったけれど、小室さんと一緒に新しい日本発のダンスミュージックを創っているという高揚感は、強烈にありました。それが結果的に、現在まで繋がるうねりを生んだのかなと。


TRF
「GOING 2 DANCE / OPEN YOUR MIND」

1993年2月25日発売



──ということで本日は、KOOさんが立ち会ってきた音楽シーンの変化というものを、平成の前段から伺えればと。

DJ KOO はい、何でも聞いてください(笑)。

──1961年のお生まれですが、少年時代はどんな音楽を聴いていました?

DJ KOO よく覚えているのは沢田研二さんですね。周りでは郷ひろみさん、野口五郎さん、西城秀樹さんの新御三家が人気でしたが、僕はジュリーが好きでした。一緒に演奏していた井上堯之バンドの佇まいも含めてカッコイイなと。それで少し溯ってザ・タイガースのレコードを買いましたが、これがたまたまライヴ盤で。ローリング・ストーンズみたいな洋楽ロックのカヴァーがたくさん入っていた。自分たちのヒット曲は後半ちょっとやるだけなんですね。それで最初はストーンズにはまって。後はもうロック一直線(笑)。ギターを買って、高校時代は自分でもコピーバンドを始めまして。


ザ・タイガース
『THE TIGERS ON STAGE』

1967年11月5日発売



──’77〜’78年あたりですね。何をカヴァーされていたんですか?

DJ KOO ブラック・サバスです。当時はハードロックに入れ込んでいまして、キッスとかクイーンみたいなバンドですら「大衆に寄せているな」と斜に構えて眺めていた。要は若かったんですね(笑)。コアでアンダーグラウンドな匂いに惹かれる傾向は、その後も続きました。ポップミュージックの本当の奥深さを知ったのは30代以降。それこそ小室さんに出会ってからなので。


Black Sabbath
『Paranoid』

1970年9月18日発売



──ちなみに十代のハードロック経験って、後のKOOさんのDJスタイルにも影響を与えましたか?

DJ KOO あ、それはあると思います。かける音楽の種類は変わっても、魂の高揚感っていうのかな。若い方々からおじいちゃん、おばあちゃんまで含めて、とにかくフロアが沸き立つのが理想なので。クールさよりも盛り上がり重視。そこは今も変わらない。

──では、ダンスミュージックと出会ったのは?

DJ KOO それも高校時代かな。バイトしていた喫茶店にジュークボックスが置いてありまして。当時流行のディスコ・ミュージックがけっこう入っていた。ドナ・サマーとかジョルジオ・モロダーとか、カサブランカ・レコード所属のアーティストがヒットを飛ばしていた時期だったんですね。当時はまだソウル系のダンスミュージックとヨーロッパ経由のディスコ・ミュージックの違いも分からなかったけれど、オシャレで大人っぽい音楽だなと。そう思いながら、お客さんがかけるのを聴いていました。ただ、ディスコに通うようになったのはもう少し後。専門学校に進んでからです。


Donna Summer
『Love to Love You Baby』

1975年8月27日発売



──最初に遊びに行ったディスコは覚えていますか?

DJ KOO 歌舞伎町の「カンタベリーハウス」。東亜会館という、一棟まるごとディスコばかり入ったビルがあって。専門学校の友だちと遊びに行きました。高校3年間はバンドとラグビーの部活を同時にやっていまして。ほとんど遊んでなかったんですね。実はギタリストを夢見ていたんですが、どうすればプロになれるのか分からないし。現実的には難しそうだなと。で、ちょっと挫折感も抱きつつ専門学校に通って、やりたいことを探している時期だったと思います。そんな自分にとって、新宿のディスコ体験は衝撃だった。

──’80年のカンタベリーハウスって、どんな雰囲気だったんでしょう?

DJ KOO とにかく雑多な人間が集まる場所でしたね。見るからに不良っぽいグループもいれば、きれいなお姉さん方もいて。得体の知れないエネルギーが渦巻いている感じがした。音楽、ファッション、他にもいろんなものが夜から生まれているんだなと。そう直感したんです。で、そんなジャングルのような遊び場で、DJだけがブースという自分の場所を持っていた。そこで曲をかけることでバラバラな客層を1つに束ね、自在に煽っていたわけです。あ、これはかっこいいな! と。

──そこで初めて、DJという職業と出会われたわけですね。’80年というと、日本にディスコ・カルチャーが入ってきて5、6年くらい?

DJ KOO そうですね。最初期のディスコだと、クック・ニック&チャッキーの「可愛いひとよ」(’76年)という和製ソウルなどが有名で。もう少し本格的なハコだと、ジェームス・ブラウンとかモータウン系みたいなファンク/ソウル・ミュージックに合わせて、お客さんがお揃いのステップを楽しんでいました。僕が通い始めたのは、その少し後。いろんなカルチャーが同時多発的に生まれ、交差していく時期だったと思います。

──なるほど。

DJ KOO 一方にはノーランズ、アラベスク、ニュートン・ファミリーなど、原宿の竹の子族経由で入ってきたキャンディポップの流行があって。他方では第一期のサーファーブームも盛り上がっていました。YMO、ブロンディ、B-52’sみたいなテクノ/ニューウェイブっぽい曲をかけるDJもいましたし、同時期にクール&ザ・ギャングやアース・ウインド&ファイアーなど、いわゆるブラック・コンテンポラリー系の音楽も上陸してきて。


Earth Wind & Fire
『All 'N All』

1977年11月21日発売



──すごい。まさに百花繚乱の時代ですね。

DJ KOO うん。活気というか、カオスぶりがとんでもなかった。その頃のシーンを詳しく説明し始めると時間がいくらあっても足りないくらいです(笑)。で、すぐ見習いでDJの世界に飛び込みました。師匠はエディ(小川文夫)さんという方で、六本木を拠点に仕事をされていたんですね。そこで基本的な技術を身に付けつつ、「DJやるなら、新宿で一番人気のお店に行った方がいいよ」とアドバイスをいただいて。オーディションを受けて合格したのが、最初に足を踏み入れた東亜会館の「カンタベリーハウス」。いくつかフロアに分かれていたうち、4階の「ギリシャ館」というディスコでDJを始めました。その後、同じビルの6階にある「B&B」という系列店に移って。ここはサーファーが集まる人気店だったんです。不良っぽい子たちじゃなく、どちらかというとお洒落なシティボーイ、シティガールがメインの客層で。

──当時、サーフィンはしないけれど、街で自由なライフスタイルを模倣する「陸サーファー」という言葉もありました。

DJ KOO そうそう(笑)。その頃、六本木と新宿ではディスコ・カルチャーが明確に分かれていまして。外国人のお客さんも多い六本木はダンス主体というか、ファンキーなブラック・コンテンポラリーをかっこよく繋ぐスタイルが主流。横須賀に空母ミッドウェーが入ってくると、黒人のアメリカ兵がどっと遊びに繰り出してきて最新のダンスで踊りまくったりする。だからトレンドに敏感で、たとえばシュガー・ヒル・レコードから出ていた最初期のヒップホップなどもいち早くかかっていました。一方の新宿では、DJ自身の喋りで盛り上げていくやり方が人気だった。僕は六本木のエディ師匠のもとで学びつつ喋りの要素も採り入れて。自分なりのスタイルを創っていきました。

──喋りというのは、具体的にはどんな感じなんですか?

DJ KOO 本当にいろいろですよ。曲紹介をしたり、リクエストカードを読み上げたり。あとは「イェー、盛り上がってる〜」みたいな、いわゆる煽りですよね。大切なのはいかにお客さんの足を止めずに、フロアの温度を上げて、楽しんでもらうかということ。やっていることは今とまったく同じです。未だ現役で「イェイイェイ! ウォウウォウ!」とか言ってますから(笑)。

──素晴らしい(笑)。選曲とか機材は時代に応じて変わっても、KOOさんのDJスタイルはこの時点で確立されていたと。80年代前半は、たとえばどんな楽曲をよくかけていましたか?

DJ KOO ファンキーなブラック・コンテンポラリー系の曲をかっこよく繋ぎながら、当時はペアでしっとり踊るチークタイムがありましたから。スローな時間帯に向けて、徐々にピークを作っていく選曲が多かったですね。楽曲で言うと、それこそシュガー・ヒル・レコードから出てきたシュガー・ヒル・ギャングの「エイス・ワンダー」(’82年)とか、ZAPPの「モア・バウンス・トゥ・ジ・オンス」(’80年)。Pファンク系も大好きでしたし、ここぞというポイントではクール&ザ・ギャング、レイ・パーカー・ジュニア、レイクサイドもよくかけていました。マイケル・ジャクソンのアルバム『オフ・ザ・ウォール』(’79年)も重宝しましたし、あとは何と言ってもナイル・ロジャース。シックですね。


Zapp
『Zapp』

1980年7月30日発売



Michael Jackson
『Off The Wall』

1979年8月10日発売



──ラインナップを聞くと、どファンキーですね。

DJ KOO はい(笑)。ただ「B&B」は、歌舞伎町にあるサーファーディスコの人気店だったので。六本木に比べると客層が雑多というか、本当にいろいろな方が集まっていたんです。だから最後のチークタイムだけウエストコーストのロックバンドのバラードで着地するとか。そういう柔軟な選曲もできました。ドゥービー・ブラザーズとかジャーニーとか。今まで僕の中にあったロック的アプローチを生かしたスタイルを作れた。もし六本木オンリーのDJだったら、これは難しかった気がします。

──六本木と新宿を行き来しながらDJとして活動する日々が、80年代の半ばまで続くわけですね。20代前半の夢って、覚えておられます?

DJ KOO うーん、どうだろう。毎日、お客さんは満杯に入っていましたから。そこでDJができていること自体、すごく充実感があった気がします。金銭面も意外と大丈夫だったんですよ。見習い時代はさすがに苦しくて、友だちの家に居候させてもらったりしていましたが、レギュラーの仕事を得て以降は、たしか月の手取りが12万だった気がする。早番か遅番のどちらかに入れば、それだけもらえました。19歳、20歳の初任給としてはそんなに悪くありません。それで安い部屋を借りて、念願のひとり暮らしも始めました。そういえば同じ時期に、とんねるずのタカさん(石橋貴明)も同じビルで働いていたんですよ。

──へええ! そうなんですか。

DJ KOO タカさんとは同い年なんですね。お互いまだ売れてない20歳の頃、彼は「カンタベリーハウス ペルシャ館」の隣にあったショーパブに出ていて。お客さんがいなくて暇なもんだから、ディスコに入ってきて勝手にレコードをかけちゃうんです。で、散らかしたままパブに戻っちゃう。

──うわあ(笑)。

DJ KOO それを片付けていたのが、DJ見習いの僕だった(笑)。最近、何かの番組で久しぶりにお会いした際、「あのときは大変だったんですよ」って話したら、笑っていました。懐かしい思い出ですね。

──そうやって充実のDJ生活を送りながら、’86年にリミックス・ユニット「THE JG's」を結成されて。平成に向けてよりクリエイティブな活動に軸足を移していくわけですね。

【Part2】へ続く)





DJ KOO(ディージェイ・コー)
●日本屈指の盛り上げ番長!トータルCDセールスが2170万枚を超え、今なお多くの人に愛されつづけているTRFのDJ、リーダー。日本の文化である“お祭り”“盆踊り”とのコラボレーションはエンターテイメント型ジャパンカルチャーの発信として、国内外において精力的に活動を行っている。 2020年8月8日よりDJ活動40周年を迎え、2021年には、大阪芸術大学客員教授、浅草6区お祭りアンバサダーに就任するなど、多方面で活躍中。2023年2月25日でTRFデビュー30周年を迎える! HAPPY DO DANCE!!!


Various Artists
『懐-ナツ-エモティック J-POP 神BUZZ HIT SONGS ~DJ KOO PLAYLIST MEGA MIX~』

2022年12月7日発売



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