2022年12月号|特集 平成J-POP

【Part1】|永井真理子スペシャル・ロング・インタビュー

インタビュー

2022.12.1

インタビュー・文/田中久勝
写真/上飯坂一


白Tシャツとダメージジーンズは、ただ好きだっただけで戦略ではなかった


昭和から平成に変わろうとする1987年にデビューした永井真理子。ボーイッシュなルックスと溌溂とした歌声で「ミラクル・ガール」、「ZUTTO」、「ハートをWASH!」など数々のヒットを放ち、ガールポップ・ブームの先駆けとして人気を誇った。今年は伝説の横浜スタジアム・ライヴから30周年を迎え、Blu-rayのリリースや記念ライヴも行われている。平成J-POPを代表する永遠の歌姫にじっくりと当時のことを語ってもらった。

──永井さんが影響を受けた音楽から教えて下さい。

永井真理子 最初に音楽に対して心地いいなと思ったのは、小学生の頃だったと思います。4つ上の兄がフォークギターを持っていて、家でかぐや姫とかのフォークソングを歌っているのをよく聴いていました。それとビートルズやKISSを聴きながら、めちゃくちゃな英語で一緒に歌うというのが2人の遊びで、でもそれが本当に楽しかった。だからその時、音楽をやりたいって漠然と思ったのを覚えています。中学の時はオフコースにハマって、高校に入ってから佐野元春さんの音楽に出会って「これだ!」って思ったんです。

──何がきっかけで佐野さんの音楽にハマったんですか。

永井真理子 私、全寮制の高校に入って、でも規則がすごく厳しくて朝は靴磨きから始まって、お風呂では先輩の背中を流すなど、徹底して道徳を叩きこまれる場所でした。もう逃げ出したくて仕方なかったのですが、そんな中で1日10分だけある自由時間に、佐野元春さんの音楽を聴くのが唯一の楽しみでした。当時文通していた男の子がいたんですけど、その子が、佐野さんとか、当時流行っていたナイアガラ・トライアングルとか、伊藤銀次さん、杉真理さんとかの音楽が入ったカセットテープを送ってくれて、何もない閉鎖的な場所で、その人が作ってくれるカセットテープだけが、私の中の青春でした。

──寮では曲や歌詞を書いたりはしていたんですか?

永井真理子 入寮する時にアコースティックギターを持って行ったら、楽器はダメと言われてしまって、音が出るものは一切禁止でした。だから曲を書いたりすることもなく、ひたすら佐野さんを聴いていました(笑)。とにかく情報に飢えていましたが、今のようにそれを手に入れるすべもなかったので、私は佐野さんの音楽一択でした(笑)。



──歌手になろうと強く思い始めたのはこの頃ですか?

永井真理子 いえ、歌でということは一切考えていませんでした。というのも、私はこう見えて割と控えめな方で(笑)、どちらかというと目立たないように生きていきたかった人なんです。でも、この寮の外には佐野元春さんが活躍している素敵な世界が待っているんだと思ったら、もう絶対音楽をやろうって思って、東京の短大に行きました。寮で眠っていたアコースティックギターを持って上京しました。

──短大に入学してからはデビューへとんとん拍子でしたよね? 当時のレコード会社(ファンハウス)にデモテープを持参してそれを聴いてもらって、学園祭のライヴにスタッフが見に来てくれてデビューが決まって。

永井真理子 よくご存じで(笑)。もう怖いぐらいどんどん話が進んでいってしまったので、自分に足りていないところをもっと追求したり、もっと勉強しなければいけなかったのに、その階段を飛ばして、いきなりエレベーターに乗って上まで行っちゃったような気持ちでした。

──そのときディレクターの金子文枝さんに渡したデモテープにはどんな曲が入っていたんですか?

永井真理子 その当時やっていたバンドで知り合った、その後たくさん曲を書いてもらうことになる前田克樹さんが書いてくれたオリジナル曲で、その時の曲はデビューアルバム『上機嫌』にも入っていて、金子さんがそれを聴いて、すごく私に合っている音楽だから、ぜひ一緒にやろうっておっしゃってくださって。それからは毎日のようにデモテープを録って「あなたの良さはここにあるのよ」とか「歌うときには、こんな気持ちでね」ということを金子さんは色々と教えてくださって、特に「歌を歌うときは無心で歌わなきゃダメ。変に感情を込めて歌うとすごく嫌らしいから、無心で歌うことが大事。そしたら何回も聴ける歌になるから」という言葉はすごい名言だと思っていて、歌を歌う時は今も心の中に置いています。


永井真理子
『上機嫌』

1987年8月26日発売


──35年前の言葉を今も守って歌と向きあっている。

永井真理子 私にとってはそれくらい強烈な言葉でした。確かにわーっ!て気持ちを込めた歌って、ライヴでは映えるかもしれないけど、CDで繰り返して聴くときには、ちょっと嫌らしく聴こえてくるというか、「癖、強いな」ってなるじゃないですか。でも自然に歌ったものは、何回聴いても聴いてくださる方の心に染みていくと思います。素晴らしいことを教わったなと、今も思っています。

──音源として残す時とライヴでは歌へのスタンスが違っていたんですね。

永井真理子 そうです。例えばレコーディングの時は「お」は「ぅお」って歌ったり、「が」は「がぁ」と歌ったり、そういうところも細かく教えていただきました。だからライヴの時の歌とは全然違います。ライヴの時は「そんなことを意識しなくて自分らしく行きなさい」っておっしゃってくださっていたので、とにかく弾けていました。

──永井さんの歌は、その声、歌を聴き手に届ける“アタック力”が強いというか、一音目からズバッと最短距離で届けるアタック力があると思います。それがライヴでも強い武器になったと思います。

永井真理子 そういうふうに言っていただけるのは嬉しいです。あの時代って、女の子は、アーティストさんも、ちょっとアイドル視されたっていうか、ガールズポップとカテゴライズされてビジュアル先行で売り出すという部分もあったので、そうやって音楽的に、歌声がこういうふうに届いたっておっしゃってくださると、本当に嬉しいですね。

──ビジュアルのよさは仕方ありません(笑)。

永井真理子 そういう売り方をしているし、そういう人が売れていった時代ですから今思うと仕方がなかったと思うんです。でもそれはそれですごく学ばせていただいたし、そういう時代でした。



──当時は杏里さんや今井美樹さん、岡村孝子さん、渡辺美里さんといったガールポップの先駆者が活躍していて、そのシーンに登場してインパクトを与えたのが永井さんでした。

永井真理子 中村あゆみさんとか、ちょうど同世代の方がたくさん活躍していてそういう波はあったのでレコード会社も狙っていたのかもしれませんが、私は当時全く意識していませんでした。

──デビューした時は、ショートカットのちっちゃな女の子が元気よく歌っている、というイメージでした。

永井真理子 もうそのまま、変わらずです(笑)。

──’87年当時はアイドル全盛時代でもありました。そんな中でボーイッシュな永井さんの登場は新鮮でした。

永井真理子 アイドルの方達が、テレビの中でひらひらした衣装を着て、とても華やかで煌びやかで眩しい存在でしたが、私はボロボロのジーンズ穿いて(笑)。

──リーバイスのダメージジーンズに白Tシャツでしたね。

永井真理子 そうなんですよ。当時全然流行っていなかったダメージジーンズを履いて、でも当時からそういうファッションが好きでした。でもそれは戦略でもなんでもなく、ただもう大学生が大学に通っているままデビューしたという感じでした。そのままテレビにも出て、でも途中からはさすがに自分の私服だけではやっていけなくなって、当時「PATi・PATi」とか、「GB(ギターブック)」とか雑誌で何ページもカラーで撮影していただく時は、スタイリストさんがスタイリングしてくれましたが、やっぱり中性的な感じの洋服を用意してくれていました。

【Part2】へ続く)





永井真理子(ながい・まりこ)
●1987年、シングル「oh, ムーンライト」でデビュー。「ミラクル・ガール」(’89年)、「ZUTTO」(’90年)など数多くのヒット曲があり、ティーンエイジ・アンセムとして愛唱される。そのボーイッシュでキュートなルックスと、ポジティヴな詞の世界観で圧倒的な人気を獲得した。’92年8月2日には日本人女性アーティストとして初の横浜スタジアムでのライヴを成功。当時発表したライヴ映像『永井真理子 1992 Live in Yokohama Stadium』は、’22年10月に初Blu-ray 化された。’22年8月7日には横浜スタジアム・ライヴの30周年を記念して「Re-Birth of 1992」を開催。’23年1月14日には追加公演も行われる。

永井真理子
Blu-ray『永井真理子 1992 Live in Yokohama Stadium』

2022年10月19日発売



「永井真理子 Re-Birth of 1992 追加公演」
日程:2023年1月14日(土)
会場:KT Zepp Yokohama
出演:永井真理子 with HYSTERIC MAMA
www.marikonagai.com