2022年11月号|特集 アレンジャーの仕事

第1回:本間昭光・前編|編曲家が語るアレンジの仕事

インタビュー

2022.11.10

インタビュー・文/大谷隆之
写真/山本マオ


編曲、アレンジという仕事はどのようなものなのか。編曲家の頭の中はどうなっているのか。ここでは、その秘密を探るべく、実際に第一線で活躍する編曲家が登場。まずは、ポルノグラフィティやいきものがかりにとって、なくてはならない存在であるプロデューサー、編曲家の本間昭光に話を聞いた。

僕が30年以上続けてきたことは、高校時代の試行錯誤をブラッシュアップしただけ



──アレンジャー、作曲家、プロデューサー、キーボーディストとしてもう30年以上も一線で活躍されている本間さんは、どうやって今の道に入られたのか。まずはそこからお伺いできればと思います。資料を拝見すると、4歳からピアノを始められたとか。

本間昭光 最初はオルガン教室でした。当時、まわりの子がけっこう通っていたんですよ。で、小学校に上がった頃からピアノに変わった。時代も高度成長期でしたからね。両親にとっては、応接間にピアノを置くのが1つのロマンだったんじゃないかな。近所に教室がなかったので、知り合いの方が週に1回、家まで教えに来てくれました。

──レッスンは楽しかったですか?

本間昭光 どうでしょう。それほど熱心に練習したわけでもないし。少なくとも模範的な生徒じゃなかった気がします。その点、女の子は真面目な子が多いから。高学年になるとわりと差が付いちゃうんですよね。うちは父親が国語の教師、母親は銀行員でしたから。もちろん音大に進ませるつもりもなく、特別なトレーニングも積ませなかった。編曲家にとってきわめて重要な絶対音感も、僕は身に付いていません。これだけは頑張って身に付けておけばよかったと、後で後悔しましたけれど(笑)。まあ八尾という大阪の片田舎で、のんびりふんわり習っていた感じです。

──幼少期から音楽理論をがっちり学んだわけではないんですね。でも音楽が好きになる入口として、ピアノの存在は大きかったのでは?

本間昭光 だと思います。これも昭和の中流家庭っぽいエピソードですけど、両親がいろんなレコードをたくさん買い集めていたんですよ。クラシック音楽からビートルズ、バート・バカラック、ポール・モーリア。変わったところでは俳優・宇野重吉さんの語り聞かせ、落語のアルバムなんかもありました。そこから面白そうなものを選んで、夜ごと聞くのが楽しみだった。だから僕には、基本的には苦手なジャンルがない。雑多な音楽に囲まれて育ったのは、この仕事をする上ではすごくよかったのかなと。

──特に印象深い1枚を挙げるとすると、何でしょう?

本間昭光 アグネス・チャンの「草原の輝き」のドーナツ盤とか、よく覚えています。小学校3年くらい。歌詞は安井かずみさんで、作曲が平尾昌晃さん。アレンジはたしか馬飼野俊一さんだったかな。


アグネス・チャン
『草原の輝き / 山鳩』

1973年7月25日発売


──今聴いても出色のアイドル・ポップスですね。太いベースラインと流麗なストリングスが、彼女の初々しいヴォーカルをしっかり支えている印象で。

本間昭光 そう。少しカントリー・ロックっぽいところもあってね。後で知りましたが、実はこの曲、ミキシングエンジニアが吉野金次さんなんです。ボトムスががっちりしているのは、そのせいかもしれない。翌年には松本隆さんが「ポケットいっぱいの秘密」の歌詞を書いて、キャラメル・ママがアレンジで参加するわけですが、アグネスとはっぴいえんど系の人脈を繋げたのも金次さんだったそうです。いわゆる歌謡曲とロックの垣根が崩れだした時期だったんですね。9歳の自分は、そんなこと想像もしなかったけれど。



──高校時代はすでにアマチュア・プレーヤーとして名を馳せていたそうですが、本格的に音楽活動にのめりこんだきっかけは何だったんですか?

本間昭光 僕の中で1つ大きかったのは、ゴダイゴの登場かな。僕が中2くらいのとき、彗星のごとくバーッと出てきて。「ガンダーラ」(’78年10月)、「モンキー・マジック」(’78年12月)とヒットを連発していた。で、テレビの「ザ・ベストテン」なんかを見ると、やけにでっかい人がキーボードを弾いている(笑)。

──なるほど。ミッキー吉野さんですね。

本間昭光 はい。セットに「JUPITER」というロゴの入ったシンセサイザーを持ち込んだりして、かっこいいなと思っていたんです。そうこうするうちに、『OUR DECADE』(’79年6月)というコンセプトアルバムが発売されまして。書店に行ったら、新作を大特集した雑誌だかムックを発見した。その後半のページに、収録曲の楽譜が掲載されていたんですね。「明星」とか「平凡」の付録についていた、いわゆる“歌本”のタブ譜とはまるで違って。すごく細かく玉(音符)が書かれ、見たこともないコードがふんだんに使ってあった。


ゴダイゴ
『OUR DECADE』

1979年6月25日発売


──へええ。ゴダイゴの楽曲はどれも洗練された響きを持っていますが、その秘密の一端にスコアを通じて初めて触れたと。

本間昭光 「D/C」とか「B♭/C」みたいなオンコード(分数コード)の存在も、たぶんそこで知りました。あとは「G7(+5)」「G13(-9)」のように、アルファベット横にプラスマイナスの記号が付いた組み合わせのコードも。中学生になってもピアノは細々と続けていたので、譜面とにらめっこしながら弾いてみて。響きを確かめてみた。面白かったですね。その時点ではまだ、楽典に当たって調べたりはしなかったけれど、そうやって何となく響きとしてコードワークを身に付けていったところがあるんです。

──とりわけ新鮮だったヒット曲は覚えていますか?

本間昭光 『OUR DECADE』のちょっと前に出たシングル「ビューティフル・ネーム」(’79年4月)なんて、今聴いても転調がすばらしい。もちろん大元になっているのはタケカワユキヒデさんのメロディーですが、それとミッキーさんがバークリー音楽大学で学ばれたセオリーが自然に溶け合っている。だからバンドサウンドとしてフレッシュで、耳に心地いいんだと思います。で、ちょうどそんな折、中学校の合唱/合奏コンクールがありまして。クラスで「銀河鉄道999」を歌うことになった。

──おお!

本間昭光 しかもピアノで伴奏する予定だった同級生の女の子が、急に「できへん」って言いだしたのね。こんなコード、見たことないって。当然「誰か弾けるやつおらんか?」という話になって「俺、できるで」と。それで音楽室でバーッと弾いてみせたら、その日までまったくダメダメだったのが、けっこうモテはじめちゃって(笑)。

──ミッキー吉野さまさま、じゃないですか(笑)。

本間昭光 僕らの頃は男の子がピアノを弾くこと自体、今ほどメジャーじゃなかったし。ギャップというか意外性もあったのかな。それで勘違いしちゃった。ピアノを弾けばチヤホヤされるんだって(笑)。



──実際にバンドを始めたのは、高校に入ってから?

本間昭光 ええ。最初はブラスバンド部を考えていたんですけど、ちょっと事情があり入学直後に廃部になってしまって。部室が隣の軽音楽部に入りました。それまでずっとひとりでピアノを弾いていたのが、初めて友だちと「ジャーン!」と音を鳴らして。世の中にこんな楽しいことがあったのかって思いましたね。ただ、自分がフロントに立って目立ちたいという意識はほとんどなかった。

──高校生にしては、めずらしいタイプかもしれませんね。

本間昭光 僕の場合、興味の入口が譜面とかコードだったので。やっぱりサウンドの構造だったり気持ちいい音の積み方だったり。高校生になると、そっちの興味がどんどん強くなっていきました。80年代はFMが全盛期でしたから、洋楽・邦楽を問わずいろんな曲をエアチェックして。耳コピしては自分なりに研究していました。

──その時期から、もうアレンジャー気質みたいなものが出てきていたんですね。大抵の人は「歌メロ」や印象的な楽器の「フレーズ」で音楽を記憶することが多いと思うんですが、本間さんは音の「積み方」の方に惹かれていた。

本間昭光 そうですね。もちろん子どもの頃からグッド・メロディーは大好きでしたが、なぜか自分でそれを書こうとは思わなかった。実際、仕事で作曲を始めたのは、30歳を過ぎてからですし。むしろそのサウンドがどんな編成で、どういう楽器を使っているか。そっちに関心がありました。

──高校時代はどんな音楽のコピーを?

本間昭光 本当にいろいろですよ。コルゲンさん(鈴木宏昌:ピアノ)、ナベサダさん(渡辺貞夫:サックス)、ヒノテルさん(日野皓正、トランペット)などのジャズ寄りのものとか、高度でコピーは難しかったけれど大好きでしたし。ちょうどその頃、カシオペア、ザ・スクェア、プリズムといった日本のフュージョン系バンドも台頭してきて。よくライブに通ったりしました。阪急梅田駅近くに「バーボンハウス」というライブハウスがあって、今じゃ考えられないけど、録音がし放題だったんです。それで、スタジオ盤のアレンジがステージではどう変わっているのかを勉強しました。

──ジャズ/フュージョン以外ではいかがですか?

本間昭光 これまたいろいろですけど、スティーヴィー・ワンダーは大好きだったなあ。そんなに有名じゃないけど、『シークレット・ライフ』というアルバムがあって。地味な科学映画の劇伴なんですが、これがめちゃくちゃよかった。インスト曲がたくさん入っていて、そのコードワークがどれも凄いんですよ。このサントラ盤にはそうとう影響を受けました。ザ・ポリスの来日公演もめちゃくちゃかっこよかったし、あとは何と言ってもYMOですよ。まだ3人が赤い人民服を着ていた頃、「テクノポリス2000-20」という初の国内ツアーに1人で出かけてね(’80年4月)。当時はチケットぴあもなかったから、会場の毎日ホールに電話してチケットを予約したのを覚えています。


スティーヴィー・ワンダー
『シークレット・ライフ』

1979年10月30日発売


──本当にいろんなジャンルから栄養を吸収されていたんですね。明確にアレンジャーという職業を意識されたのはいつ頃だったんでしょう?

本間昭光 これも高校時代。僕自身は大のインスト好きでしたが、同じ軽音でも女の子のバンドはユーミンのカバーをやるわけです。横で聴いていて、それがとっても新鮮だった。僕らの高校時代は、アルバムだと『水の中のASIAへ』(’81年5月)、『昨晩お会いしましょう』(’81年11月)、『PEARL PIERCE』(’82年6月)、『REINCARNATION』(’83年2月)くらい。おそらくレコーディング技術の革新もあったと思うんですけど、荒井由実時代のフォーキーな質感がどんどんゴージャスになって、アメリカ西海岸っぽく洗練されていった時期なんですね。松任谷正隆さんの構築するLA的なサウンドが、何て耳に心地いいんだろうと。実際コピーしてみると、風通しはいいけれど楽器ごとの配置が緻密に考え抜かれていて。何というか、目から鱗の思いだった。


松任谷由実
『PEARL PIERCE』

1982年6月21日発売


──アレンジという仕事の奥深さが、立体的に迫ってきたと。

本間昭光 そういうことですね。特に『PEARL PIERCE』は大好きで、文字どおり擦り切れるほど聴きまくった。比喩ではなくて、実際に4枚くらい買い直しています。ちなみについこの間リリースされたベスト盤『ユーミン万歳!』の2022年ミックスを聴いたら、高校時代の僕が「この素敵なサウンドは、たぶんこういう音の積み方をしているんだろう」と想像していたのとはまるで違っている曲もけっこうあって。本当に興味は尽きません。

──40年越しの答え合わせ、ですね。十代の頃、『PEARL PIERCE』以外にもアレンジという観点で影響を受けた作品はほかにもありますか?

本間昭光 ヨーロッパをモチーフにした、加藤和彦さんの一連のアルバムです。こちらは坂本龍一さん筆頭に、YMOの人脈を辿っていく過程で出会いました。カラッとした響きの『PEARL PIERCE』とは対照的な、ちょっと憂鬱で都会的なニュアンスっていうのかな。空気感でいうと、ロンドンとかニューヨークに近い感じ。その世界観をすべて、日本人ミュージシャンたちが見事に構築している。響きの根底にあるのは言うまでもなく、高度な音楽理論に基づいた坂本龍一さん、清水信之さんのアレンジです。とりわけ『あの頃、マリー・ローランサン』というアルバムは何もかもが完璧で。こちらも文字どおり、擦り切れるまで聴き込みました。


加藤和彦
『あの頃、マリー・ローランサン』

1983年9月1日発売


──その2枚がアレンジャー本間昭光の原点と言っても過言ではない?

本間昭光 まったく異存ありません(笑)。当時、加藤さんが30代半ばで坂本さんは30代に入ったばかり。松任谷正隆さんは坂本さんの1つ上で、ユーミンに到ってはまだ20代の後半です。自分がそのくらいの歳になったとき、果たしてこんな洗練されたサウンドが作れるのかなと。漠然とそんなことを考えていました。あと『PEARL PIERCE』と『あの頃、マリー・ローランサン』を死ぬほど聴いて、十代なりにいくつか分かったことがあったんですね。

──どういうことでしょう?

本間昭光 1つは、ミュージシャンはやはり上手くなきゃいけないということ。当たり前の話ですが、この2枚に参加している方々はみんな、すごいスキルの持ち主なんですね。どんなに高度なアレンジを創っても演奏が下手だとまるで伝わらない。「なんで小学校のときにもっと練習しておかなかったんだろう」と後悔しつつ、本気で練習し始めたのが高校2年ぐらいだったと思います。

──なるほど。

本間昭光 そうするとね、自分のソロパートがなぜつまらないかという理由も、だんだん見えてくるわけですよ。技術の未熟さはもちろん、正規の音楽理論も身に付いてない。スケールにせよ何にせよ、きっちりした規範があって初めて、逸脱するスリルも表現できるわけですから。技術がなければ話にならないけど、技術だけではつまらない。音楽理論で斬新なアレンジが書けるわけじゃないが、それなしでやっていけるような甘い世界では、もちろんない。

──その狭間で模索する日々が始まったと。

本間昭光 今もそうですよ。ある意味、僕がこの30年以上続けてきたことは、高校時代の試行錯誤をブラッシュアップしただけなのかもしれません(笑)。

【Part2】へ続く)





本間昭光(ほんま・あきみつ)
●1964年生まれ。作編曲家・キーボーディスト・プロデューサー。これまでに、ポルノグラフィティへの楽曲提供、広瀬香美、浜崎あゆみなどの編曲、槇原敬之のライブアレンジやバンドマスターを担当。近年は、鈴木雅之、いきものがかり、木村カエラ、岡崎体育、Little Glee Monster、降幡愛、関ジャニ∞、ビッケブランカなど、様々なジャンルのアーティストを手掛ける。また、テレビ朝日「関ジャム完全燃SHOW」へのゲスト出演やミュージカルの音楽監督を務めるなど、幅広く活動している。2020年には、新レーベル「Purple One Star」のレーベルプロデューサーに就任し、新たなプロデュースワークの展開にも要注目。

天童よしみ
50周年記念アルバム『帰郷』

2022年11月16日発売

記念シングルに続き、本間昭光がプロデュースを手掛けた意欲作!
作家陣に豪華アーティストを迎えたバラエティーにとんだ全10曲収録。



本間昭光オフィシャルウェブサイト