2022年10月号|特集 70年代女性SSW

【Part1】1970年代初頭の女性邦楽シーン〜五輪真弓デビューへ|70年代 五輪真弓ストーリー

解説

2022.10.3

文/小川真一


日本語によるオリジナル曲を作りはじめたのは、’71年の後半。作り貯めた十数曲を片手に、キャロル・キングのいるアメリカへと向かう――。


 五輪真弓の登場は衝撃的だった。初めてのアルバムが海外録音で、それもキャロル・キングがゲスト参加。ロサンゼルスに長期滞在し、2ヶ月をかけてレコーディングをおこなった。こんな例はどこにもなかった。契約を結んだCBS・ソニー(現在のソニーミュージック)も力を入れていて、彼女だけのために新たに「UMl」レーベルを発足したほどだ。


五輪真弓
『少女』

1972年10月21日発売


 何もかもが斬新で驚きの連続だったのだが、それよりも彼女の歌声を聞いて、「やっと自分たちの時代のシンガーが出てきた」「日本でも、海外のアーティストにひけをとらないシンガーソングライターが登場した」。このことに身が震えるほどの喜びを感じたのを、今でもはっきりと覚えている。
 いかにして五輪真弓が生まれたのか、そして、彼女はいかなる道筋で栄光を掴んでいったのか。この話をする前に、1970年代初頭の音楽シーンを少し振り返ってみよう。

 70年代初頭は、シンガーソングライターの時代でもあった。60年代の半ば頃からロックンロールがロックを産み、そしてそれが大きな潮流となっていった。’69年には40万人もの観客を集めウッドストック・フェスティヴァルが開催され、ロックは文化として定着していく。その動乱の時期が一段落した70年代の初頭から、より個人的な歌を歌うシンガーソングライターたちが登場し始めたのだ。
 フォークではない、喧騒なロックでもない。我々を歌うのではなく、それぞれの個人の想いをため息にように歌にしていく。それが、ジェームス・テイラーでありキャロル・キングであり、ジョニ・ミッチェルのようなシンガーソングライターであったのだ。
 日本でもこういった動きと呼応するように、シンガーソングライターが生まれてきた。吉田拓郎は早くからフォーク・ソングから脱却し、シンガーソングライター的な歩みを始めた。彼だけでなく、加川良や中川五郎、西岡恭蔵などもフォークからシンガーソングライターへの道を模索し始める。
 女性陣ではその後、吉田美奈子、金延幸子、りりィ、大貫妙子、そして荒井由実(松任谷由実)らがシンガーソングライターとして世に出ていくのだが、その先陣をきったひとりが五輪真弓であった。新しいスタイルを作り上げた先駆者であり、デビュー・アルバムにしてそれを完成させているのが頼もしい。
 五輪真弓が最初にギターを耳にしたのは、父親の弾くクラシック・ギターだったという。その優しいナイロン弦の響きは、今でも彼女の心を捉えていることだろう。高校1年の時に自分のギターを買ってもらい、フォーク・ソングに親しんでいく。2年生になった頃に、友人と一緒にフォーク・グループを結成する。このファンシー・フリー・シンガーズは、当時若者に人気のあった朝の番組『ヤング720』に出演し、ピーター・ポール&マリーのレパートリーであった「ハリー・サンダウン」を歌った。


米軍キャンプで


 高校卒業後はソロで歌うようになり、ギターの弾き語りを始める。短期間ではあるが、米軍のキャンプにも出演した。キャンプとは在日米軍の駐屯地のことであり、戦後は耳の肥えた米兵の前で演奏することがプロの証のようになっていた。キャンプでは当然のように英語で歌ったと思うが、これはいい経験になったことだろう。
 レコード・デビュー前の五輪真弓が拠点にしていたのが、渋谷の<ジァン・ジァン>だ。教会の地下にある小劇場で、数多くの伝説を産み落とした聖地でもある。芝居の上演だけでなく音楽のライヴにもよく使われ、六文銭、美輪明宏、浅川マキ、長谷川きよし、荒井由美などが出演している。このホームというべき<ジァン・ジァン>で、『冬ざれた街』(’73年)、『本当のことを言えば』(’75年)の2枚のライヴ・アルバムを収録している。これも本拠地だった場所への愛着なのだろうと思う。
 当時の五輪真弓のレパートリーは、ジョニ・ミッチェルの名曲「青春の光と影(Both Sides Now)」や、ジュディ・コリンズのプロテスト・ソング「メドガー・エヴァースの子守唄」、パティ・ペイジをカヴァーした「テネシー・ワルツ」などがあった。中でも大切にしていたのが、ジョニ・ミッチェル作の「ウッドストック」で、ステージに登る度に歌っていたという。後にその憧れのジョニと、ロサンゼルスのスタジオで出会う事となるのだ。
 五輪真弓は、「ソサエティーズ・チャイルド」でセンセーショナルなデビューを果たしたジャニス・イアンや、「やさしく歌って」を歌っていた頃のロバータ・フラックもよく聞いていたという。他にも、元ジ・インプレッションズのジェリー・バトラーが好きだったり、このような多彩な洋楽体験が、五輪真弓を作り上げたと言ってもいいのだろう。
 デビュー前の’72年4月18日に、東京の厚生年金小ホールで、自身のリサイタルを開いている。ギター、ピアノ、ベース、ドラム、それにストリングスまでアレンジして演奏したという。デビューする前に、それだけの音楽性を身につけていたということなのだ。五輪真弓が世に出たのは偶然ではない。音楽の才能が結実した成果であったのだ。
 五輪真弓が日本語によるオリジナル曲を作りはじめたのは、’71年の後半だという。それまで培ってきた音楽の体験が、彼女にペンをもたせたのだろう。ここからソングライターとして一挙に開花していく。その作り貯めた十数曲を片手に、キャロル・キングのいるアメリカへと向かった。こうして五輪真弓は生まれていったのだ。[続く]

参考文献:『動かない時計』五輪真弓・著(大和書房刊)



●五輪真弓が作り上げてきた50年の軌跡をまとめた究極のベストアルバム
五輪真弓『Mayumi Itsuwa Premium best -HISTORY-』

2022年10月21日発売

¥5,500(税込)/MHCL-30750~30753
CD4枚組・全73曲収録

『Mayumi Itsuwa Premium best -HISTORY-』
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