2022年6月号|特集 大江千里

【PART1】作家・大江千里アンソロジー 第1回:「travellin’ band:前編」(『レッドモンキー・モノローグ』より)

コラム

2022.6.1


音楽家としてだけでなく、文筆家としてもユニークな筆致で定評のある大江千里。その魅力に触れるシリーズの第一弾は、初の本格的なエッセイ集『レッドモンキー・モノローグ』から。

travellin’ band

 一九八九年十月二日を皮切りに、島根から始まった redmonkey yellowfishi tourがついに九十年三月三十一日、東京・武道館を千秋楽に幕をおろした。千秋楽なんていうと、芝居やすもうなんかの興行の最終日をイメージする人も多いだろうが、ぼくはこの千秋楽というコトバの響きがとても好きなので、いつも自分がやってきたツアーの締めをこう呼んでいる。

 十月二日、島根県民会館が初日とはいっても、ぼくの身体は戸田文化会館で三日間行われたゲネプロからすでに幕が上がっていた。
 埼玉県戸田市の閑静な住宅地に位置するこの会館は、レンガ造りのごくごく普通の外観なのだが、その実、非常に沢山の機能や効能性を持った場所だ。搬入から仕込み、開演ベルから終演まで本番と全く同じに進むゲネプロの幕が上がった瞬間、「始まったな」という幾つもの毛穴の開き方を感じるのはぼくだけではないだろう。
 毎年、春から何度も打ち合わせをし続けたコンサートのアイデアが、具体的な形の話し合いになるのは夏のまっ盛りの頃だ。
 ぼくは裸足で回転椅子の上にあぐらをかいて「ク―ラーをもっと強めて欲しい」と言い、舞台監督は真っ黒に日焼けした頭をさすりながら、「千里も相変わらず太んねえな」と答える。
 総勢四、五名で次のコンサートツアーの大筋を固めるため、頭をテーブルの上に寄せて色鉛筆で絵にしてみたり紙で模型を造ってみたりする。
 秋といってもまだまだ残暑がきつい頃、焼きすぎた腕の皮をボロボロ落としながら舞台監督の直さんが最初のステージの外観アイデアをカラー図案におこしてぼくに届けてくれる。
「千里さん、日程があるんで早め早めに手打っていきましょうね」
 彼女には「未成年ツアー」のリハーサル中に舞台監督の代打として出逢って以来、このようなやりとりを続けてる。
「はい」
 彼女の言うことなら素直に返事をするので、周りは彼女を信頼してぼくへの対応をまかせている。
 redmonkey yellowfishi tourはいろんな意味で実験的な要素が試されたツアーだった。
 なかでも長年夢だった「人と同じように呼吸して動く」イメージの大道具を具体的なセットという形にできて、実際その効用を演出で存分に使うことができた。
 同時に照明に関していえば、直線、曲線をうまくとりまぜ、動くセットと連動もしくはそれに乗っかって、通常では考えられない変化を見せることができたと思う。
 島根のコンサートの前日、米子空港から宍道湖沿いに松江を目指して走る貸し切りバスの中から、焼畑の煙が視界のあちこちにたよりなくあがって、一昔前の電気メーカーの看板と連なる庄屋屋敷には湖のむこうの夕焼けの色が反射して、そんな人っ子一人いない風景をのんびり足を組んでバスの補助席からながめてる自分が妙なかんじだった。
 湖でとれたしじみが、いやというほど入った薄味のみそ汁を、大橋川沿いの座敷であぐらをかいて味わった。それがついさっきの出来事のようだ。
 初日はあっという間に終わった。そして、切れない糸をたち切るようにすぐに次の町へ向かう日程の中では、いつもなにかしらもどかしさが残る。
 一人でふらっとその町の誰も知らないような神社の境内をきままに散歩したり、公民館や記念館のロビーで町の案内書をもらって市電やバスに乗って三つぐらい先の停留所で降り、また川沿いをてくてく歩いてなんてのが、いろんな町でのぼくの日課だった。
 信号無視してキョロキョロ地図片手に車道をうろついて小型トラックにひかれそうになったり、銭湯を見つけて近所の金物屋で一式買って入ったりした。そのときは三倍も年のはなれているおじいちゃんと湯舟のヘリに頭をのせて、大の字になってうたた寝した。
 正岡子規記念館をみつけて入ったのは松山だった。道後温泉街を歩いて山の上にある伊佐爾波神社に向かうとき行きすぎて、ひときわ目を引く建物に吸い込まれるように入るとそこが正岡子規記念館であった。ロビーに俳句箱があったので一句詠んで投じておいた。
 キーボードを毎日ホテルに持ち込んでいたので、畳のある部屋に宿泊したときなんかは、畳や床の間にうまく置いて、座ぶとんに正座しながら曲をつくったりもした。寒いときは、ふとんを三角にかぶり、まるで雪ん子だった。
 ちょうど、道後あたりでは「たわわの果実」のフィニッシュをかいた。
 ツアー中、それぞれの町の映画館の上映予定をタウン誌で調べて、夕方すいた館内ではほぼ貸し切り状態でロードショー映画を観た。
 旭川で『バットマン』を観ているときに不思議なゴッサムシティの煙が鼻の奥を刺して、生まれて初めてにおいつき映画を体験して驚いた。
 映画のラストで足を組みかえようとすると、いやはや強力な暖房の鉄パイプに靴の底がとけてくっついてはなれない。そしてそこからもくもく煙が上がっていたのだ。
 ゲタの裏のように、くぼんだ靴の底をふうふう息で乾かして、ちらちら雪の舞う外へ出ると、十二月の旭川はマイナス4℃の寒さだった。
 バスで東京から二〜三時間かけて向かう場所もあった。中央道から見える山々の頂きに赤や黄やみかん色を帯びた反物を空からころがしたような紅葉は圧巻だった。一日ズレてもずいぶん違っただろう。バスのまたまた補助席の中央で身体をバウンドさせながらパノラマのスクリーンが時速百キロで後ろへ後ろへとんでゆくのを見ると、行き先もわからなくなり、ずっとこのままバスに揺られ続けるような気分になる。永遠に旅が続きそうな気さえした。
 redmonkey yellowfish tourのステージセットは頑丈だった。
 場所から場所へ強引に移動させられ、毎回朝早く会館入りさせられ、各地のバイトの諸君の手を借りて入念に組み立て始められると、会場の止まった空気が少しずつ流れ始め、メタル色の身体に赤味がさしてくるような照明チェックの時間になると、一人また一人とステージにミュージシャンが集まり始める。
 この頃、舞台監督はほぼセットの全身が見える位置の席に坐ってる。
 早めに会場に入って、一席一席に尻をつけて坐ってみたりするとよくわかるのだが、セットにも毎日表情があって、搬入口が狭かったりすると少しくたびれた様子をしてる。
 客席の通路から助走をつけてステージに跳び乗るとセットのすみから徐々に足で辿ったり、手をついて柔道の受け身をやってみたり、ちょっとずつ身体とセットをならしてゆく。
 その頃、コーラスの濱田美和子さんが側転やダンスの練習を開始する。照明が練習をくりかえし、セットが青や赤や白に染まる中で彼女は黙々と自分の身体をほぐしてゆく。
 ドラムの単音チェックが「どすん」と最初の音を轟かせると、いよいよセットは屈伸運動をやりはじめる。
 redmonkey yellowfishにおけるセットはもはや固定概念にしばられていない。音が変化するようにセットも変化する。人が動くようにセットももちろん動く。照明をしょって動くので、トランスに組み込まれた照明の合間をセットが動きながら光で染めあげてゆく。この演出は「魚になりたい」で行なった。
 うろうろ動き回って会場の性格を少しのみこむと、そこはもうしばしの我が家に近いもんがある。買ったばかりの組み立て自転車をさっそくとりだして楽屋の廊下を走り始めると、楽屋の女の子が不思議そうに見ている。
 メンバーの部屋のドアを前輪でノックして入ってゆくと、ギタリスト杉原ひろしは、仕出し弁当のおかずを吟味している。ベーシスト高橋和孝は弦をとりかえている真っ最中だ。その合間をS字を描きながら、
「次は下井草〜〜〜、次は〜〜〜、下井草でございまあす」
 と田中邦衛のマネして通ると、たまたまとおりかかった信(清水信之)さんが「じゅん」と言い、ぼくが「ほたる」とこたえる。そしてふたりで「あーあー」と北の国からのテーマを唱和し始める。ゲラゲラ笑いながらドラムのじゅん(松本淳)が単音チェックを終えて楽屋へかえってきた。
 そんなときたいていダニー・ウィルソンがドデカホーンから流れている。イギリスのスティーリー・ダン大好き少年たちのサウンドだ。
 ちなみに、楽屋の音はいいほうがいいと徳山で買ったドデカホーンは、武道館の打ち上げで行なった「中学3年生漢字書きとり問題」の採点の結果、キーボーディスト、山崎孝が獲得した。

【後篇】へ続く)

(初出 「月刊カドカワ」1990年6月号 / 単行本『レッドモンキー・モノローグ』 大江千里・著 1990年10月 角川書店刊)



※解説
「月刊カドカワ」で1年間にわたって連載されたエッセイの9回目。最初の回は『redmonkey yellowfish』のレコーディングが終わったところからスタートし、ツアーを終えてNYでの生活、『APOLLO』へとつながったところまでで連載は終了し、のちに単行本としてまとめられた。単行本の装丁は日比野克彦さん、帯文は林真理子さん。「すくっと立つ本にしてください」という著者の希望で、布張り箔押し鞘入りというポップで贅沢な本になった。