2022年5月号|特集 アルファに、胸キュン。

【Part1】私の好きなアルファ ~ ピーター・バラカン 第1回:坂本龍一との出会い

インタビュー

2022.5.2

インタビュー・文/大谷隆之 写真/島田香


軽い気持ちで引き受けた英語詞が、僕の運命を変えた


ひょんなことから坂本龍一と知り合い、YMOと深く仕事で関わるようになったピーター・バラカンさん。日本に来てから彼らとの出会いから、実際に作詞家やスタッフとして携わった作品、そして個人的なお気に入りのアルバムまで、独自の視点でアルファについて語ってもらった。

――ピーターさんは’74年に来日し、シンコーミュージックに勤務されます。その後、’80年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のマネジメント事務所に入られますが、アルファレコードについては移籍前からご存じだったんですか?

ピーター・バラカン うーん、どうだったかなあ。もちろん転職する際には知っていたはずですが、それ以前はほぼ意識したことはなかったと思います。当時はユーミン(荒井由実)なんかもそれほど聴いていなかったし。おそらく村井(邦彦)さんのお名前も、YMOの仕事をするようになって初めて知ったんじゃないかな。

──時代的には、いわゆるニューミュージックが台頭してくる頃ですね。

ピーター・バラカン はい。ただ、僕の仕事はぜんぶ洋楽だったからね。日本のポピュラー・ミュージックはテレビの歌番組で目にするぐらい。あとは会社の同僚が好んでいるものが多少耳に入ってくる程度でした。

──その中でなにか響いたものはありましたか?

ピーター・バラカン シュガー・ベイブなんかは、アルバムが出た直後、真っ先に職場の誰かが教えてくれて。「あ、これはかっこいい」と思って聴いていましたよ。彼らの音って、ちょっとウエスト・コーストっぽいでしょう。僕も当時、そういうサウンドは好きでしたし。当時の日本の音楽業界ではすごく斬新だったと思う。まあ売り上げは全然だったそうですけど。


SUGAR BABE
『SONGS』

1975年4月25日発売



──初回プレスは2000枚程度だと聞いたことがあります。

ピーター・バラカン そうでしょうね(笑)。あとは細野晴臣。まだご本人と知り合う前ですが、『トロピカル・ダンディー』とか、一連のソロ・アルバムはすごく面白かった。ハックルバックだったかな、ライヴでも観ました。


細野晴臣
『トロピカル・ダンディー』

1975年6月25日発売



──どういうところに惹かれたんでしょう?

ピーター・バラカン 彼らの演奏には、僕の好きなロックやソウルにより近い手触りを感じました。そういうミュージシャンには惹かれたけれど、普段はやっぱり洋楽のレコードを追いかけるのに忙しくてね。日本の音楽を積極的に知ろうとする努力は、まだしていなかったんです。ちなみに当時のニューミュージックって、わりあいラテンっぽい雰囲気があった気がするんですよ。

──へええ、ちょっと意外です。

ピーター・バラカン まあ漠然とした印象だけどね。で、当時の僕は今ほどラテン・ミュージックに馴染んでいなかった。イギリスにいた頃も、ラジオではほとんどかかっていなかったし。そもそもラテンに対して、かっこいいイメージがありませんでした。洗練された音楽だってことはわかるけれど、ブラック・ミュージックの影響が強い僕みたいな人間にはあまり響かなかった。それも日本のいわゆるニューミュージックにはまらなかった一因じゃないかな。


初めてYMOの音楽を面白いと思ったのは『増殖』から


──YMOについてはいかがですか?

ピーター・バラカン もちろん知ってはいました。でも初期のYMOは全然好きじゃなかったの(笑)。

──それは、無機質な感じが肌に合わなかったとか?

ピーター・バラカン そうですね。世界的に見ると、’75、6年くらいからソウル・ミュージックの代わりにディスコが台頭してくる。土臭いソウルやブルーズで育った僕には、あの平板のビートを単調に感じて、うんざりしていたんです。ましてYMOはそれをコンピュータでやったわけですから。まるで興味が持てなかった。あと、こんなことを言うと嫌なヤツと思われちゃうかもしれないけれど……いかにも東洋的なメロディーを強調した手法が自意識過剰というか。誤解を怖れず言うなら、安っぽいオリエンタリズムに聞こえたんです。

──彼らはそのアイロニーを演じていた部分もありますよね。

ピーター・バラカン もちろん。後になって細野さんのそういうコンセプトを知り、なるほどなって思いました。ただYMOについては、アルファレコードの売り方も嫌だったんですよ。「海外で大人気!」みたいな煽り方がね。

──なるほど。

ピーター・バラカン 彼らは最初、チューブズというバンドの前座として、アメリカで数回ライヴをしたでしょう(1979年8月)。その際レーベルは、週刊誌とかマスコミの人たちを日本からたくさん連れていき、あたかもYMOが世界制覇したみたいな原稿を書かせた。そこまで売れていないのはわかりきった話なのに、英語でいうハイプ(誇大広告)みたいな記事ばかり目についてね。こういう売り方は嫌だなあと。

──ちょっと作為が鼻についてしまったと。

ピーター・バラカン ちょっとどころじゃなかった(笑)。それでYMOへのネガティヴなイメージができちゃったんです。初めて彼らの音楽を面白いと思ったのは、『増殖』かな。


YELLOW MAGIC ORCHESTRA
『増殖』

1980年6月5日発売



──10インチのミニ・アルバムでリリースされた3枚目ですね。’80年6月にリリースされています。

ピーター・バラカン ということは、僕がひょんなことから教授(坂本龍一)の仕事を手伝う少し前ですね。曲間に入っているスネークマン・ショーも笑えたし、このアルバムはけっこう好きでした。

──ちなみに当時、海外のテクノ・ミュージックについてはいかがでしたか?

ピーター・バラカン YMOの仕事を始めてからクラフトワークはちょっと囓りましたが、それ以外はほぼ聴かなかったですね。今も基本的には同じ。もちろんモノにはよりますが、コンピュータの作るビートにはやっぱり違和感がある。これはもう、世代的な感覚だと思うんです。僕は今年71歳になりますが、とにかく1950年代初頭に生まれて、60年代から70年代の音楽で育った人間だからね。

──多感な頃に夢中だったリズムが、身体の奥深くに染み込んでいる。

ピーター・バラカン そうそう。自分の世代のビート感は、誰でも絶対ありますからね。僕の息子は’88年生まれだけど、彼を見ていると、一番しっくりくるのはヒップホップのビートだと思う。昔のジャズとかソウルもけっこう聴いているけれど、彼の場合はサンプリングの元ネタとして辿り着いているんですね。僕はテクノもヒップホップももちろん否定しません。でも少なくとも、自分のための音楽ではないなと。


テレックスで送信されてきたローマ字の歌詞を訳した


──そんなピーターさんが、アルファレコードの看板アーティストであったYMOと深く関わることになるのが興味深いですね。改めて、きっかけは何だったんですか?

ピーター・バラカン いろんな場所でお話ししていますが、日本に来た当初、僕が暮らしていた吉祥寺に「芽瑠璃堂」という輸入レコード店があったんですね。そこに通っているうち、店員の後藤美孝さんと親しくなって。僕が吉祥寺から引っ越した後も繋がりがあったんです。で、’80年の春先だったかな。久々に後藤さんから連絡をもらって。「友だちが今アルバムを作っていて、英語の曲を1つ入れたいんだけど、英訳を手伝ってもらえない?」ということだった。

──その「友だち」というのが、『B-2 UNIT』という2枚目のソロ・アルバムを制作中だった坂本龍一さんだったと。

ピーター・バラカン そうなんです。結局その縁で、YMOの事務所に入ることになりました。


坂本龍一
『B-2 UNIT』

1980年9月21日発売



──もしも吉祥寺に「芽瑠璃堂」がなかったら、YMOの楽曲もピーターさんの将来も違ったものになっていたかもしれない。

ピーター・バラカン そうなりますね。その意味では、まあ運命みたいなものだったのかも(笑)。

──電話がかかってきた時点で、坂本さんの名前はご存じだったんですか?

ピーター・バラカン これがね、知らなかったんですよ。お話ししたようにYMO自体は認識していましたし、『増殖』というアルバムはわりと好きでした。ただ、メンバーで顔と名前が一致していたのは細野さんだけだったと思う。(高橋)幸宏はロンドンのレコード屋で働いていた頃に、サディスティック・ミカ・バンドの『黒船』が発売されて。LPジャケットを見た記憶はあります。でもYMOとは結び付いていなかった。教授に至っては、YMOに参加前は基本スタジオ・ミュージシャンでしたからね。名前すら知りませんでした。

──じゃあ、後藤さんからの相談を引き受けたのは?

ピーター・バラカン 本当に軽い気持ちでした。1曲だけだし、とりあえずもらった歌詞を英語に訳せばいいという話だったので。それがどんな未来に繋がるかとか、その時点ではまったく想像もしなかった。

──歌詞を手伝われたのは、A面2曲目の「Thatness and Thereness」ですね。英訳はどのような流れで?

ピーター・バラカン 実は、引き受けた時点では歌詞がなかったんですよ。『B-2 UNIT』は東京だけじゃなくロンドンでもレコーディングをしていて。たまたまその時期に、僕もシンコーミュージックの仕事でロンドン出張が入ったんですね。奇しくも同じ飛行機だったのでそこでまず少しだけ会いましたが、現地で本人と落ち合い、歌詞をもらう手筈になりました。たしかエンジニアのデニス・ボーヴェル(ブリティッシュ・レゲエの礎を築いたマルチ・プレイヤー/プロデューサー)の新しいスタジオで初めて教授を紹介されたんじゃなかったかな。30分くらいの短い時間だったと思う。

──そこで日本語のリリックを手渡されたと。

ピーター・バラカン いや、その時点でもまだ完成していなくてね(笑)。僕のロンドン滞在期間中には上がるはずが、それも間に合わなくて。結局、帰国した後に、テレックスで送られてきました。当時はファックスもなかったし、テレックスはアルファベットしか打てないので。ローマ字で送信されてきたものを適当に訳して、またテレックスで返したんです。

──なんだか暗号解読みたいなやりとりですね(笑)。

ピーター・バラカン おそらく当時、教授はトラック制作で手一杯だったんでしょうね。そもそも僕は「Thatness and Thereness」が一体どんな曲調なのかも知らされてなくて。レコードになって初めて聴きましたから。

──そうだったんですね。今聴くと、坂本さんの訥々としたヴォーカルが初々しく響きます。テンポ設定もかなりスローで。

ピーター・バラカン うん。歌というよりむしろ朗読に近い感じで。ゆったり散歩しているみたいな曲調ですよね。最初に聴いたとき、僕も「あ、面白い曲だな」って思いました。テレックスで送った言葉がこんなふうに仕上がったのかって。ただ、僕自身は譜割りもリズムも知らない状態で、送られてきた日本語を忠実に英訳して送り返しただけですから。たしか、一部は最初から英語になっていたんじゃないかな。歌の細かいニュアンスはむしろ、言葉に合わせて教授が調整したんじゃないかしら。考えてみればその辺の話、本人としたことがないですね。なにかのときに、忘れずに聞いてみなきゃ(笑)。

【第2回】へ続く)


ピーター・バラカン

●1951年ロンドン生まれ。ロンドン大学日本語学科を卒業後、’74年に音楽出版社の著作権業務に就くため来日。現在フリーのブロードキャスターとして活動。テレビやラジオのレギュラー多数。’13年5月、日本の放送文化の質的な向上を願い、優秀番組・個人・団体を顕彰する第50回ギャラクシー賞の「DJパーソナリティ賞」を受賞。また2022年にNHK放送文化賞受賞。著書に『ピーター・バラカン式英語発音ルール』(駒草出版)、『Taking Stock どうしても手放せない21世紀の愛聴盤』(駒草出版)、『ロックの英詞を読む〜世界を変える歌』(集英社インターナショナル)、『わが青春のサウンドトラック』(光文社文庫)、『ピーター・バラカン音楽日記』(集英社インターナショナル)、『魂(ソウル)のゆくえ』(アルテスパブリッシング)、『ラジオのこちら側』(岩波新書、電子書籍だけ)、『ぼくが愛するロック 名盤240』(講談社+α文庫、、電子書籍だけ)などがある。2014年から小規模の都市型音楽フェスティヴァルLive Magic(https://www.livemagic.jp/)のキュレイターを務める。

Website: https://peterbarakan.net/
Twitter: https://twitter.com/pbarakan