2022年5月号|特集 アルファに、胸キュン。
【Part1】アルファを知る5つのキーワード「ソフトロック」
解説
2022.5.2
文/柴崎祐二
「アルファのソフトロック」で絶対的な存在だった赤い鳥
ヴィッキー「待ちくたびれた日曜日」(1967年)、テンプターズ「エメラルドの伝説」(’68年)、タイガース「廃墟の鳩」(同年)……。次々とヒット曲を手がける気鋭の作曲家・村井邦彦が、’69年4月、作詞家・山上路夫と立ち上げたのが、音楽出版社アルファミュージックだった。
これには、タイガースを脱退したばかりの加橋かつみの1stソロ・アルバム『パリ1969』が大きく関わっている。加橋と村井は、飯倉片町の伝説的なイタリア料理店「キャンティ」で知己を得た仲であり、加橋のソロ始動にあたり、村井も作曲者としてプロデューサーの川添象郎(キャンティの創業者川添浩史の長男)とともにパリ録音に帯同した。この時現地で邂逅したのがフランスの大手レーベル「バークレーレコード」のジルベール・マルアニだ。彼は村井に、同社管理の楽曲の日本における著作権活用業務を依頼。アルファミュージックはこれに応える形で設立された。
同年11月、アルファレーベルからの第1弾作品がリリースされる。GSバンド、フィフィ・ザ・フリーのよる3枚目のシングル「栄光の朝」がそれだ。村井自身が作編曲を務めたこの曲は、まさしくアルファ流ソフトロックの先駆にして完成形といえる出来栄えだ。アソシエイションを思わせる重層的なコーラスが圧巻で、石川晶や江藤勲ら練達のジャズマンによる演奏も極めてハイクオリティ。90年代のソフトロック・ブームでも熱く再評価された。
翌’70年1月に発売されたその石川晶によるシングル「土曜の夜に何が起ったか」も重要。作曲・村井、作詞・山路の黄金コンビが送るA&M風ポップスで、朴訥とした石川のヴォーカル、繊細な女声コーラスなど、すべてが好ましい。
「アルファのソフトロック」といえば、やはり赤い鳥が絶対的な存在だろう。赤い鳥は、後藤悦治郎、山本潤子、平山泰代、山本俊、大川茂、渡辺俊幸によるフォークグループで、URCからシングルを1枚リリースしたあと、’69年11月開催の第3回ヤマハ・ライトミュージック・コンテストにてグランプリを獲得、メジャー・デビューへの切符と副賞のヨーロッパ旅行券が授与された。

赤い鳥
『Fly With The Red Birds』
1970年6月10日発売
しかしメンバーにプロ志向はなく、デビューを拒んでいた。それを説得したのが村井で、「アマチュア活動の記念として」ロンドンはトライデント・スタジオでのレコーディングを準備した。その成果が1stアルバム『Fly With The Red Birds』(’70年)だ。シングル「人生」(代表レパートリー「竹田の子守唄」の別ヴァージョン)や村井のペンによる「最後の汽車」なども聴きものだが、ここで注目したいのは、村井の広範なコネクションで集められた現地スタッフが書いた曲だ。フライング・マシーンやエジソン・ライトハウスなどで日本のファンにもおなじみのトニー・マコーレイや、ファウンデーションズとの仕事で知られるジャック・ウィンズレーによるポップな各曲は、流麗な英語歌唱ともあいまって、まさにソフトロックど真ん中のサウンドを聴かせてくれる。
村井の妙策によって結局プロの道へと導かれた赤い鳥は、初期アルファの看板アーティストへと成長し、ご存知のように「翼をください」(’71年)などの大ヒットを飛ばしていく。さらにポップ度を増した2nd『RED BIRDS』(’71年)をはじめ、ラスト・アルバム『書簡集』(’74年)まで、折々の洋楽のトレンドを程よく取り入れた高品位の音楽を聴かせた。個人的には、大村憲司(ギター)と村上“ポンタ”秀一(ドラム)のふたりが加わった『美しい星』(’73年)、『祈り』(同年)における強靭なグルーヴと清廉なコーラスワークの融合ぶりを今一度高く評価したい。
世界的な基準からみても稀有だったガロの三声コーラス
’71年、川添象郎、内田裕也、ミッキー・カーチス、木村英輝、村井によって日本コロムビア内に立ち上げられたレーベル「マッシュルーム」の作品も紹介しよう。

ガロ
『GARO3』
1972年12月10日発売
同レーベルで最大の人気を誇ったのがガロだ。メンバーの堀内護と大野真澄は、川添がプロデューサーを務めたロック・ミュージカル『ヘアー』日本版のキャストとしても活躍しており(日高富明もオーディションに参加)、浅からぬ縁があった。クロスビー、スティルス&ナッシュを彷彿させる巧みな三声コーラスは、世界的な基準からみても稀有なもので、オリジナル曲も優れたものだった。すぎやまこういちが作曲を手がけた大ヒット「学生街の喫茶店」(’72年)をはじめ、ストリングス他の流麗なアレンジがほどこされた曲も多く、特に『GAROファースト』(’71年)から『GARO3』(’72年)あたりまではソフトロック的な視点からも名作揃いといえる。その後、徐々にプレAOR的風情を取り入れつつ、都会的な洗練を醸していく諸作も素晴らしい。特に、松任谷正隆が全編の編曲を担当した『吟遊詩人』(’75年)は必聴。

小坂忠
『ほうろう』
1975年1月25日発売
小坂忠の初期作は、同時代のジェイムズ・テイラー&ザ・セクションを思わせる若々しいアメリカン・ロック志向が眩しい。細野晴臣・作曲の「ありがとう」を収録した同名1stアルバム(’71年)から、ソウル&ファンク色を強めた名盤『ほうろう』まで、この時代の日本のロックが到達したもっとも芳醇な成果として、決して風化することはないだろう。
他にも、元フィンガーズのヴォーカリスト成田賢による『汚れた街にいても』(’72年)や、ジミー時田、寺本圭一などカントリー&ウェスタン界の大御所が集ったプロジェクト、カントリー・パンプキンの同名作(’72年)も見落とせない。
ソフトロック的なるものとシティポップ的なるものの架け橋となった荒井由実
アルファレコード立ち上げ以前において、村井がもっとも粘り強く手塩にかけて育成したアーティストが荒井由実だろう。ミドルティーンの頃からキャンティの常連であった彼女の才能を高く評価する関係者は多く、村井は’71年に作家契約を結んだ。

荒井由実
『ひこうき雲』
1973年11月20日発売
’72年には「返事はいらない」で自身も歌手としてデビューすることとなり、以降、従来型のフォークシンガーでも歌謡曲系の作家でもない、新しい時代のシンガー・ソングライターとして本格的な活動を開始する。同年12月には自社スタジオ「スタジオA」が完成し、翌年からユーミンはここを拠点としてデビュー・アルバム『ひこうき雲』の録音を開始。いよいよ11月にリリースされたアルバムは、当初でこそ局地的な人気にとどまっていたが、深夜放送でのプッシュなどをきっかけに徐々に支持を広げ、その後「やさしさに包まれたなら」(’74年)などを経て「あの日にかえりたい」(’75年)でついにブレイクを果たす。
この間に荒井由実がリリースしたシングルや、アルバム『MISSLIM』(’74年)、『COBALT HOUR』(’75年)、アルファ最終作となった『14番目の月』(’76年)などの諸作を順を追って聴いていくと、作を追うごとに徐々に洗練の度を高め、シティ・ミュージックや、さらに後のシティポップの黄金時代を準備する役割を果たしていたのもわかる。70年代初頭の内省や朴訥を脱ぎ捨て、きらびやかな未来図へと走り出していく。この時期のユーミンの音楽は、ソフトロック的なるものとシティポップ的なるものの架け橋としても非常に重要だ。
(【Part2】シティポップへ続く)
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【Part2】アルファを知る5つのキーワード「シティポップ」
解説
2022.5.9