── さて、今回はotonano初のクロス連載です。掲載中の人気連載から、DJ OSSHY「TOKYOの未来に恋してる!」と西寺郷太「It’s a Pops」が合体したスペシャル対談となります。お互いの連載取材で頻度の高いマイケル・ジャクソン、『オフ・ザ・ウォール』、ロバート・テンパートン、「オフ・ザ・ウォール」をキーワードにお話を伺います。ちなみにどちらの連載窓口から入っても同じ記事が読める試みとなっています。
DJ OSSHY いいですね! あるイベントで郷太さんとご一緒させてもらった時に、お互いotonanoで連載しているって話で盛りあがったんですよね。今度何かご一緒できれば楽しいですよねって。
西寺郷太 連載の編集担当が同じ安川さんならきっと話が早い!って(笑)。だから今日は僕も楽しみにここに来ました。ところで、このお店は?
DJ OSSHY 僕の長い友人がオーナーをしているバー「ロジャー」という店で学芸大学の隠れ家みたいな場所です。
西寺郷太 (店内をぐるりと見渡しながら)マイケルやジャクソンズのポスターやグッズも多いみたいですが……これは今日の取材の仕込みですか(笑)?
DJ OSSHY いつもこういう店なんです(笑)。(カウンターにいる友人オーナーに向かって)いま日本のマイケル・ジャクソン研究と言ったらね、まぎれもなく西寺郷太さんだからね。マイケル作品のライナーノーツも多く手がける研究家だから。今日は彼のスゴさを知ってもらうことになると思うよ。44歳とは思えないぐらいの博学ですから。
西寺郷太 いやいやとんでもないです。僕は『オフ・ザ・ウォール』が発表された1979年はまだ5、6歳ですから。とうてい当時の音楽シーンのなかでの『オフ・ザ・ウォール』の記憶はないんです。だから自分なりの後追いを楽しんできたんです。そうそう、前回、僕の連載「It’s a Pops」の方のテーマがブルース・スプリングスティーンの「グローリィ・デイズ」だったので’84年前後の頃をたくさん想い出していたんですが、まだ話をしていない回想があるのですが、ここで個人的なことを話してもいいですか?
DJ OSSHY どうぞどうぞ。聞かせてください。
西寺郷太 ’84年の1年前くらい前、マイケル・ジャクソンがムーンウォークしたり、『スリラー』が社会現象になっているなかで、9、10歳ぐらいの子供だったこともあって『スリラー』は最初、LPではちゃんと持ってなかったんですよ。近所の先輩がカセットテープにダビングしてくれて。当時マンションに住んでたんですが、大人も皆子供達のことを小さい頃から知ってるんですね。で「郷ちゃんは最近マイケルにハマってるらしい」って噂になってて(笑)。そうしたらある日、僕の人生を変えた一言と出会うことになるんですね。同じマンションの友達のお父さんが、あ、大藪さんっていうんですけど(笑)。そのお父さんが「マイケルはね、いま郷ちゃんが聴いてる『スリラー』よりね、ひとつ前のアルバム『オフ・ザ・ウォール』のほうが俺は好きなんだよ」って言ってきたんです。それで、もう、え、何? えーーーーー?って感じですよ。
一同 (爆笑)
西寺郷太当時、小学三年生だった僕の発想は、世の中はどんどん前に進みながら何もかもがちょっとずつ良くなっていくと信じていたんです。車もクーラーも家電も新製品になればなるほど、どんどん技術革新されてよくなっていくと。テレビでも「これだけ機能がアップした!」みたいなCM多いじゃないですか。それは音楽も同じだと思ってたんですね。なのに、ひとつ前のアルバム、昔の作品の方が良いって彼は言うわけですよ。どういうこと!? その大藪さんは、いま思えばジャズとかフュージョンが好きな人で、家に遊びに行くと渡辺貞夫さんのアルバムがかかっていたんですよね。だからクインシー色が強めの『オフ・ザ・ウォール』派だったとも思うんですが。幼い僕にとってはなんで同じアーティストの前後のアルバムに肯定、否定があるのか衝撃で。その理由を知りたくて、『オフ・ザ・ウォール』を聴き始めたことが本格的にマイケルにのめりこんだきっかけでした。
DJ OSSHY 僕がDJデビューしたのが17歳の頃、’82年なんですよ。渋谷のキャンディ・キャンディというお店でした。六本木、渋谷、新宿におけるサーファーディスコブームの最後の方でしたね。しばらくして’82年~’83年に『スリラー』が登場して、確かにディスコでも分かれるんですよ、『オフ・ザ・ウォール』派と『スリラー』派に。3年で音質がガラッと変わったからだと思います。
マイケル・ジャクソン
『オフ・ザ・ウォール』
(1979年)
マイケル・ジャクソン
『スリラー』
(1982年)
── マイケル・ジャクソンの出世作『オフ・ザ・ウォール』が、なぜ世界でも最も売れたアルバム『スリラー』を超える高評価なのか? それはこれまでも多く語られてきたテーマですが、この対談でも避けて通れない話だと思っています。年齢差でOSSHYさん=実体験者、郷太さん=追体験者という立場も興味深いです。
DJ OSSHY まさに’79年ですね。日本のサーファーディスコの全盛時代の入り口ですよね。’79年から’82年までくらいが、日本における六本木を中心にしたサーファーディスコのムーブメントが起きた期間なんですね。アメリカ西海岸発のサーフィン・カルチャーが日本に入ってきて敏感な若者達の間で流行った。サーフィンも出来ないのにサーファーファッションを着飾った若者が東京の街に溢れ出し、当時『サタデー・ナイト・フィーヴァー』でブームになっていた流行りのディスコと融合したんです。サーファーディスコなる呼び名が生まれましたが、サーファーディスコという明確な音楽ジャンルはじつはないんです。世界各国行っても、レコード屋に行ってもその呼び名のくくりはない。日本独自の呼び名なんですね。
西寺郷太 OSSHYさんもサーフィンやられていたんですか?
DJ OSSHY 8年くらいやっていました。でも、結局、丘サーファー歴のほうが長いかな(笑)。当時、自称サーファー人口は本当に多かった。スーツや板など形から入って、海でプカプカやって、パドリングまではちゃんとやる。でも長続きする人は少ない。本気でサーフィンやっている人も当然いたんだけど。けっこうみんな真似事でやっていた。結局、形に戻って、髪型とかシャツとか、いわゆるマリンルックだけ決めちゃう。格好だけサーファー。浜辺で日焼けだけしてる。丘の上で日焼けばっかしてる。つまり丘サーファー。見た目ですよ。モテるための(笑)。
── 80年代後半、僕が高校の頃バンド・ブームで、ギターも弾かないのにケースだけ持って校内を歩いているヤツがいました。
DJ OSSHY そうそう、そんな感じ(笑)。ほんとそんな感じ。だから格好だけなんだよ(笑)。
西寺郷太 丘サーファーって蔑称なんですか。いい加減なヤツだなぁあみたいな。
DJ OSSHY あ、これは軽蔑でも良い悪いじゃなくて80年代初めにこの丘サーファーたちがこぞって街に繰り出し、ディスコに通いサーファーディスコ文化を作ったんです。
僕はDJの見習いからデビューした期間=高校3年間はまるまるサーフィンやっていました。それで大学に入ってDJも続けながら結局8年はやっていた。さっき丘サーファー歴が長いと言ったのは、’90年代に入ってボディ・サーフィンを始めたんですね。’93年くらいにハワイから来たDJで、ヴァンス・Kっているでしょ?
西寺郷太 インターFMの?
DJ OSSHY そうそう、彼、僕が招聘して、そのままプロデュースを始めたんです。彼の番組も全部僕が作らせてもらっていたんです。彼がボディーボードっていうのをハワイから持ってきた。それで番組の縁でいちばん最初に友達になったから、僕はボディーボードを彼からずっと教えてもらえた。それはある意味サーファーじゃないですか。だからリアルなサーファーとしては、8年くらいの歴史はある。だけど見方によっては丘歴の方が長いから(笑)。
西寺郷太 そのあたりはちょっと僕には分かりづらい感覚というか(笑)。サーファーのこだわりですね。……でもこの話題はちょっと嬉しいかも。というのも、いまNONA REEVESの次のアルバムの制作中なんですが。何曲かサウンドができてきたんですけど、まさにOSSHYさんが言うサーファーディスコ、丘サーファーチックな曲もあるような気がして。今日はせっかくのいい機会だから時代背景を聞いて、「あの娘と丘サーファー」とか(笑)、歌詞やアレンジのヒントにします!
DJ OSSHY ディスコの現場で流れていた、具体的に’79年代から’82年代に生まれた楽曲、とりわけブラックコンテンポラリーは六本木や渋谷では総称としてサーファーディスコと呼ばれるようになったんです。だからわかりやすく言うと、AOR的な解釈、アプローチですよね。ソウル、ディスコがAORに寄っていった。そういうサウンドがブラコンで、その音で踊っていたのがサーファーディスコ世代と言われた若者たち。
西寺郷太 なるほど。だから時代の流行りもJBとかああいう感じのタフで男っぽいファンク・サウンドから、徐々に中性的なというか、コードもテンションも複雑になり、ストリングスが鳴り響きという流れになるわけですね。弦楽器も70年代フィラデルフィア・サウンドだと全部生演奏なんだけど、もっとシンセサイザーで弾いたメタリックなストリングスが入ったり。’79年から’80~‘81年のリズムマシンも絡めたエレガントな黒人ダンスミュージック。そういう感じですよね。
DJ OSSHY トータルで言うとそうでしょう。その貢献者が僕は「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」を生み出したクインシー・ジョーンズとロッド・テンパートンのコンビだと思っている。その彼らが生み出したサウンドは、そういう土着的なソウル、ディスコの音楽に白人のエッセンスを入れてエレガントにしたもの。このふたりはまさに秀逸なコンビネーション。ハービー・ハンコックにしてもルーファスにしても、マンハッタン・トランスファーにしても、彼らが手がけたサウンドは全部エレガントなんですよ。それでみんな見習って、一気にテンプレートになっていく。
── ちなみにOSSHYさんが目の当たりにしたサーファーディスコシーンでマイケル・ジャクソンのサウンドはウケていたのですか。
DJ OSSHY ウケていました。そのサーファーディスコ渦中にマイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』は象徴として愛されていました。例えば「今夜はドント・ストップ」はいちばんわかりやすい曲。超Aクラス、破壊力抜群。ディスコにはスローとかチークタイムが必ずあるじゃないですか。そのチークタイム明けには「今夜はドント・ストップ」で始まる店がすごく多かったです。カップルみんなが抱き合ってて、照明暗くて、それから後半が始まる。照明が徐々に上がっていくときに、「今夜はドント・ストップ」のベースとパーカッションのイントロ。それでみんながワッとなるんですよ。そういうシーンを何度も見ました。
マイケル・ジャクソン「今夜はドント・ストップ」
(06・5P-72/アナログEP廃盤)』
西寺郷太 「今夜はドント・ストップ」はフロアでは一体感もあったのですか。
DJ OSSHY 盛り上がりはスゴかったですね……みんな楽しく踊っていたけれど、そういえば「今夜はドント・ストップ」はお決まりのステップはなかった。この時代特有のステップは特に生まれてなかったですね。ミュージックビデオを観てもわかるとおり後の『スリラー』から生まれた「今夜はビート・イット」とか「スリラー」のようなお約束のみんなで踊れる振付がなかったからかもしれませんね。みんな自由に踊っていましたね。まさにフリーダンスかな。このミュージックビデオを観てもフリーじゃないですか、振付がない。
Michael Jackson 「Don’t Stop 'Til You Get Enough」(1979年)
── この頃のマイケル・ジャクソン・ナンバーはディスコ・シーンではテッパンでも同じステップを踏む音楽じゃないんですね。
西寺郷太 もともと兄弟グループ、ジャクソン5を経たジャクソンズをマイケルの意志で強引にストップして作ったアルバムが『オフ・ザ・ウォール』なわけで、その反動も関係していると思います。ジャクソンズは必ず振付があるじゃないですか。それはソロではやりたくなかったと思うんですよ、マイケルは。ジャクソンズでは絶対に出来ないことをソロでやりたかったわけですから。
マイケル・ジャクソン「あの娘が消えた」
(06・5P-99/アナログEP廃盤)
「あの娘が消えた」もそうですけど最初から最後までひとりで歌い切る曲はジャクソンズではできなかった。彼の場合は生まれて気がついたらジャクソン・ファミリー・グループだったわけです。もちろんモータウン時代にもソロ・ヒットは出していたけれど、そこにも必ず必要以上にコーラス入っていたりするわけです。やっぱり脱ジャクソンズというのが『オフ・ザ・ウォール』のテーマだったのは間違いないと思います。そのことはクインシー・ジョーンズには言っていたんですよね。それは自伝『ムーン・ウォーカー』にも書いていました。
Michael Jackson「She's Out of My Life」あの娘が消えた(1980年)
DJ OSSHY だから『スリラー』の世界的ヒットっていうのは、『オフ・ザ・ウォール』の成功なくしては生まれてないですよね。当たり前の時系列だけど重要な流れ。『オフ・ザ・ウォール』あっての『スリラー』。だからそこで『オフ・ザ・ウォール』を生み出した経緯も僕もすごく興味があったんです。いま郷太さんがおっしゃったように、ジャクソンズとは違うアプローチがしたいっていうことをクインシーに直接言ったことはやはり重要なエポックなわけで。それまでモータウン・ソウルばっかりやってきたショウビズ界の申し子に自我が芽生えたわけですからね。そういうところでトップ40っていうか、流行のHOTチャートのほうにちゃんと行きたいという指針を示したことは大きいですよね。同じ頃にクインシーは’74年くらいから目をつけていたヒートウェーヴのキーボディストだったロッド・テンパートンにヘッドハンティングを行った。あの類い稀なるメロディー・メーカーとしてのセンスに惚れちゃたわけですよね。「今度マイケルのソロ・アルバム作るんだけど一緒にやらないか」と。ロッドはイギリス人で白人です。活動はドイツ。いままで土着的なソウル、R&B、モータウン的ヒット要素に白人のエッセンスが加えられた。マイケル・ジャクソン、クインシー・ジョーンズ、ロッド・テンパートンとの共同コラボレーションで作られたものがブラコンであり、AORであり、ロックでもあり、『オフ・ザ・ウォール』なんだと思います。
西寺郷太 確かあの当時ディスコ・クイーン、ドナ・サマーもドイツで活動してましたよね。洗練されていて、それでいて少しデフォルメされたディスコ音楽。いわゆるNYハーレムから出てきたとかLAダウンタウン出身の黒人が作る踊る音楽ではなかった。結局我々日本人もそうですけど。黒人音楽ってカッコいいよなって思うヨーロッパ・アーティストがディスコ音楽を展開する基本能力としては俯瞰で眺めるわかりやすさが求められたはずです。世界各地から任務のためドイツに集まった軍人のストレス解消のために演奏するディスコ・バンド。若い軍人達はマニアックな曲では満足してくれない田舎から来た青年が大多数ですよね。わかりやすいヒット曲じゃないと踊ってくれない。これはいまのブルーノ・マーズにも近いものを感じるんですが。ブルーノが出身地ハワイで観光客相手に多種多様ないろんな歌を歌っていたことと似ている。ブルーノが自身のルーツにこだわり音楽を奏で続けていたらいまの幅広い世代からの支持はなかったかもしれない。だからこそちょっと客観的に黒人音楽に憧れ、ブルーアイドソウルが素敵だなって思ってたロッド・テンパートンみたいな存在は重要だった。一種の外様が作ってるわけじゃないですか。
── 英国ロック・ミュージシャンがアメリカのリズム・アンド・ブルースに憧れて探求していくうちに結果的に本国よりもいいものができちゃったみたいな。
DJ OSSHY そうそう、まさにその発想と一緒でしょうね。
西寺郷太 ブルーノ・マーズも絶対そうだと思う。細かいことというよりは、もっと大きいストライクゾーンに向けて作ってるというか。だから一般的にもそれがいいねってなっているしね。
DJ OSSHY それでも根本的に言うとブラック・ミュージックって黒人文化であって、そこに白人っていうのはやはり真逆な存在じゃないですか。やっぱり本来ならば溶け合うことがないはずの化学反応だと思うんですね。それをクインシー・ジョーンズがマイケル・ジャクソンの名のもとにプロデュースしていった。ぞくぞくしますね。
── 先ほどOSSHYさんが、DJデビューした’82年になるとフロアでも『オフ・ザ・ウォール』派と『スリラー』派に別れたとおしゃっていたことが気になります。
DJ OSSHY あ、それはまず前提としてディスコに踊りにくるお客さんは、アーティスト名で踊っているわけではなく、強いて言えば曲名で踊っているからです。それと『スリラー』発表と同時に『オフ・ザ・ウォール』がもうすでに懐メロとなっていたからです。いまでこそディスコ全盛期なんてざっくりとくくられてしまうことがあるけれど、当時のディスコは流行発信地でもありますから1~2年なんてあっという間に過去のことなんです。シェリル・リンの「ガット・ビー・リアル」(’78年)にしても、アース・ウインド&ファイアー「セプテンバー」(’78年)にしても、すでに’82年のディスコではとっくに前世代の曲なんです。それからしばらくして’82年の暮に登場した『スリラー』は、サウンドの肌触りもガラリと変わっていましたから全く新しい世代の音楽として受け止められたんです。
西寺郷太 僕は『オフ・ザ・ウォール』視点から『スリラー』を考えるときにいつも「ベイビー・ビー・マイン」が浮かびます。いちばん『オフ・ザ・ウォール』の世界がシームレスに継承されていると思うからです。この曲もロッド・テンパートンの作詞・作曲。松尾潔さんは「ベイビー・ビー・マイン」が好きだとよく仰るんですよね。ただし、同じロッド・テンパートン作詞・作曲の肉感的な「ロック・ウィズ・ユー」に比べて冷んやりとした肌触り、エレクトリックなアレンジになっているんですよね。
マイケル・ジャクソン「ロック・ウィズ・ユー」
(06・5P-84/アナログEP廃盤)
『オフ・ザ・ウォール』と『スリラー』は先ほどOSSHYさんがおっしゃったように肌触りは違うように思えてアルバムとして作り方そのものはそっくりで。リズムのループで引っ張るマイケル作の「今夜はドント・ストップ」の3年後の進化形が『スリラー』冒頭の「スタート・サムシング」。続くロッド作の「ロック・ウィズ・ユー」の3年後の進化形が『スリラー』2曲目の「ベイビー・ビー・マイン」。そこまでの流れに関して言えばクインシーとマイケルは、前作での成功体験を踏襲しているんですよね。特に「ロック・ウィズ・ユー」と「ベイビー・ビー・マイン」をリアルに聴き比べると、その3年のマイケル・ジャクソン・チームと世の中の変化がよくわかると思います。
Michael Jackson「Rock With You」(1979年)
── その変化っていうのは、生楽器の減少とか、シンセサイザーの進化とも言えるのではないですか。
DJ OSSHY そうだと思います。シンセ的な取り扱いが大きく変わりエレクトリックなエッセンスが前面に出たことで、受け取る側も音的な違いを敏感に感じたんですね。僕はミュージシャンじゃないから楽器や演奏は詳しくないけれど明らかに『スリラー』は『オフ・ザ・ウォール』より音がクリアになっていた。毎日のようにヘッドフォンしながらLP盤を聴いていると音域が抜けてる感じがよくわかりました。でも、それが心地良いかというと、じつはそうでもないんですよ。『オフ・ザ・ウォール』の方がよりアナログチックというかまろやかな感じがありましたね。ちょっとぬくもりまで感じたかな。ロッドとクインシーのコンビネーションの楽曲は全部同じような質感でしたね。僕も「ベイビー・ビー・マイン」も大好きなんだけど、もうあの時代で言うとマンハッタン・トランスファーの「スパイス・オブ・ライフ」(’84年)とかあのあたりにすごく似てるなーって感じましたね。
── 先ほどからよく登場するソングライターとしてのロッド・テンパートンですが。『オフ・ザ・ウォール』で「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」「ディスコで燃えて」の3曲。『スリラー』でも「ベイビー・ビー・マイン」「スリラー」「レディ・イン・マイ・ライフ」の3曲を提供しています。それ以前はおそらく有名ではないですよね。
DJ OSSHY いやヒット・メーカーとしてはヒートウェーヴ「ブギー・ナイツ」(’77年11月全米2位)の大ヒットがあるから業界ではとっくに有名ですね。彼の名はクインシーの耳にしっかり入っていたはずです。
ヒートウェーヴ
『トゥー・ホット・トゥ・ハンドル』
(1977年)
西寺郷太 ……いま言われて、ああなるほどって思ったのが、「ブギー・ナイツ」はやはり「THE 黒人音楽」なんですよ、メンバー構成を考えてもね。なんだかんだ白人のロッド・テンパートンが作詞・作曲したからと言って全体のグルーヴは黒人のメンバーのファンク感に支配されている。マイケルのある種「白人のロック感を逆輸入した」かのように感じる感覚は、多分ビートで言うとよりタイトでスクエアかどうかだと思うんですよ。「ブギー・ナイツ」の方が、つまりヒートウェーヴの方が、『オフ・ザ・ウォール』以前の流行に従順。リズムが自然に溜まってるっていうか、スウィングしてるっていうか。ともかく普通に「ファンキー」なんですよね。
DJ OSSHY 「ブギー・ナイツ」のアタマなんて「オフ・ザ・ウォール」だもんね。
西寺郷太 すごく似てますしね。だけど「オフ・ザ・ウォール」の方がさらにビートの解釈がデジタル的というか、まっすぐなんです。四角いっていうか。ヒートウェーヴの方がまん丸い。「オフ・ザ・ウォール」を叩いているドラマーのジョン・ロビンソンも白人だし、それがロック的って言われるひとつの理由かもしれないですよね。
マイケル・ジャクソン「オフ・ザ・ウォール」
(06・5P-94/アナログEP廃盤)
DJ OSSHY うん、そうだね、それは感じる。それでこの時代にもうクインシーはヘッドハンティングするわけじゃないですか。こういうものを取り入れたいっていう、そういう目利きっていうか、クインシーすげえなって。ロッドに関してはクインシーから声かけてるから。みんなクインシーに売り込んでいるのに、逆だから。
西寺郷太 クインシーが口説いて『オフ・ザ・ウォール』に関わるようになったロッドは、その頃まだヒートウェーヴの作品作りに一生懸命で。当時は彼らも踏ん張りどころでしたから、集中してNYでレコーディングしていたんですって。ただ土日はレコーディングのオフだったらしく。それで、ロッドは金曜日の夜か土曜の早朝にLAのクインシーがいるスタジオに飛行機で飛んで来て、日曜日の深夜か月曜日の朝にNYに帰るっていうのを何度も繰り返していたと(笑)。そもそもロッドは自分の曲がマイケルのアルバムにそんなにいっぱい使われると思っていなかったんで、「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」「ディスコで燃えて」の3曲をとりあえずデモ状態でLAに持ってらしいんです。ひとつぐらい気にいって採用してくれたらいいなっていう感じで。そうしたらマイケル本人が「全部欲しい!」って。「えっ、3曲も使ってくれんの!?」ってびっくりしたらしいです(笑)。『オフ・ザ・ウォール』は10曲入なのにその3分の1ロッド作品なわけで。驚いたけど、それがロッドの運命も、マイケルの未来も変えるわけですね。そして3分の1のなかに……
── 最高傑作「ロック・ウィズ・ユー」が含まれていたわけですね。ここから本日のメインテーマです……少し休憩を入れましょうか?
一同 そうですね(笑)。[後編に続く]
写真/上飯坂一 聞き手/安川達也(otonano編集部)
撮影協力/ディスコティックバー「ロジャー」(東京都目黒区鷹番2丁目20-1)
http://www.discoroger.com/
- 西寺郷太 (公式サイト http://www.nonareeves.com/Prof/GOTA.html)
- 1973年東京生まれ京都育ち。早稲田大学在学時に結成しバンド、NONA REEVESのシンガーとして、’97年デビュー。音楽プロデユーサー、作詞・作曲家として少年隊、SMAP、V6、KAT-TUN、岡村靖幸、中島美嘉、The Gospellersなど多くの作品に携わる。ソロ・アーティスト、堂島孝平・藤井隆と のユニット「Smalll Boys」としての活動の他、マイケル・ジャクソンを始めとする80年代音楽の伝承者として執筆した書籍の数々はべストセラーに。代表作に小説『噂のメロディ・メイカー』(’14年/扶桑社)、『プリンス論』(’16年/新潮新書)など。
NONA REEVES西寺郷太の好評連載「西寺郷太 It's a Pops」
DJ OSSHY 出演スケジュール
11月2日(金) | ナバーナマンスリーパーティー@西麻布エーライフ |
11月3日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 15:00~18:00 生放送 |
11月8日(木) | DISCO NIGHT × OTTO @ マハラジャ六本木 |
11月9日(金) | DJ OSSHY One Night@dining & bar KITSUNE |
11月10日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 15:00~18:00 生放送 |
11月16日(金) | ナバーナマンスリーパーティー@エスプリトーキョー |
11月17日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 15:00~18:00 生放送 |
11月23日(金) | MAHARAJA ROPPONGI 8th Anniversary Party @ マハラジャ六本木 |
11月24日(土) | 「RADIO DISCO」InterFM897 15:00~18:00 生放送 |
11月25日(日) | サンデーディスコ@西麻布エーライフ |
11月30日(金) | 「ごごラジ!」NHKラジオ第1 全国生放送 月イチ!「DJ OSSHYのプレミアム・ディスコタイム」 |
プロフィール
- DJ OSSHY (公式サイト www.osshy.com)
-
7月22日「ディスコの日」制定者。80′s ディスコ伝道師。
MCとミキシングを両方こなす、DISCO DJのスペシャリスト。
安心・安全・健康的でクリーンなディスコの魅力を全国に伝えている。
テレビ司会者の第一人者「押阪 忍」の長男。
親子で楽しめる「ファミリーディスコ」、高齢者向け「シルバーディスコ」など、 世代を超えて楽しめるイベントを開催。
東京スカイツリー、東京タワー、羽田空港、大型客船シンフォニー、 小金井カントリー倶楽部などでのディスコイベントのメインDJを務め、郷ひろみ、鈴木雅之、角松敏生との共演イベントも大きな話題を呼んだ。
売野雅勇 作詞活動35周年記念コンサートでは、総合司会を務めた。
民放テレビ初のディスコTV番組「DISCO TRAIN」(TOKYO-MX)を始めとした、ディスコ放送番組DJのパイオニアでもある。
【レギュラー番組】
・「DJ OSSHY DISCO TV」(BSフジ)毎月第3木曜日24:00~24:25
・「DJ OSSHY × まつきりな 推しナイト!」(BSフジ)毎月第4木曜日24:00~24:25
・「Family Disco」(JFN系列)全国FMラジオ放送
・「RADIO DISCO」(InterFM897)毎週土曜日15:00~17:45
・「横浜DiscoTrain」(FMヨコハマ)毎週日曜日15:48~15:57
他、2018年6月4日 テレビ朝日「徹子の部屋」など様々な番組に出演。
2021年9月22日には最新mix CD『 SURF DISCO 2 -NO SURF, NO LIFE.- mixed by DJ OSSHY 』をリリース。
2016年10月には、初の書き下ろし・エッセイ『ディスコの力』(PHP出版)を出版した。
今、日本で一番集客力のある、ディスコ世代に支持されているDJタレント。
DJ OSSHY公式サイト
www.osshy.com
公式ファンクラブサイト
osshyfan.com
公式オンラインショップ
djosshy.theshop.jp
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