2022年4月号|特集『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』

【Part1】ホイチョイ・プロダクションズ代表 馬場康夫 ~私を’82年に連れてって~「テニス、スキー、ディスコ……’78年に遊びのビッグバンが起こった」。

インタビュー

2022.4.1

インタビュー・文/栗本斉[otonano編集部]写真/島田香


佐野元春、杉真理、大滝詠一という3人の才能が終結した奇跡の傑作『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』。この作品は今から40年前の1982年春に発表された。では、1982年とはどのような年だったのだろうか? その答えを探るべく、ひとりの男にアプローチした。常に時代のカルチャーやライフスタイルと向き合い、書籍から映画製作まで幅広く手掛けてきたホイチョイ・プロダクションズの代表・馬場康夫氏だ。まずは80年代に向かう前の70年代から話はスタートした。

「僕がもしも歴史の教科書を編纂することを許されるなら、’78年は大きな革命のあった年として書きたいくらい、遊びのビッグバンが起こったんです」(馬場康夫)


――『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』が発売されたのが、1982年の3月21日です。今回はこの当時のことをお聞きしたいと思っています。

馬場康夫 80年代の話をする前に、70年代のことを知っておく必要があるんじゃないかな。僕はずっとユーミンを聴いてきたから、それで時代がわかるんだけれど(笑)。荒井由実のデビュー作『ひこうき雲』が‘73年。

――『NIAGARA TRIANGLE VOL.2』の少し後の6月に、松任谷由実の『PEARL PIERCE』が発表されています。

馬場康夫 なるほど、じゃあその間の話をすればいいわけだ。なぜユーミンの話をしたかというと、彼女が70年代のフォークブームの時に、“四畳半フォーク”という言葉を使ったといわれているんですよ。


荒井由実
『ひこうき雲』

1973年11月20日発表



松任谷由実
『PEARL PIERCE』

1982年6月21日発売



――70年代前半までの日本の音楽シーンというと、歌謡曲と並んでフォークがメインというイメージですね。

馬場康夫 かぐや姫の「神田川」とか吉田拓郎あたりの、あの“四畳半フォーク”の価値観って、70年代の学生運動とリンクしているんですよ。’68年にパリで学生運動が始まって、世界的に学生運動の嵐が吹き荒れて。もちろんそこにはベトナム戦争があったし、反戦反体制の雰囲気はあったから。’75年にベトナム戦争は終わるけれど、70年代の価値観ってやっぱり特別だよね。

――貧しいのが美徳、みたいなことでしょうか。

馬場康夫 金持ちは打破すべきだっていう感じだったし、共産主義や社会主義にシンパシーを抱いて、日本の体制をひっくり返さないといけないと信じている人もいっぱいいた。だって、北朝鮮に亡命する学生がいた時代だからね。


『課長 島耕作』弘兼憲史



――若い人にとっては信じられない時代ですよね。

馬場康夫 我々よりちょっと上の世代、例えば弘兼憲史さんの『課長・島耕作』の島耕作などは団塊の世代。この世代って学生運動をやっていない人はいないっていうくらい。僕が高校に通っていた’70年から’72年くらいの頃も、“学生運動をやらずんば人にあらず”みたいな感じで、僕が通っていた成蹊学園みたいな親頼みで通っている私立でも学費値上げ反対闘争なんてあって。「お前が払っているのか」って思っていたけれど(笑)

――それくらい学生運動は身近だったと。

馬場康夫 僕は政治的にはリベラルだと思っているのだけれど、あの当時は“学校右翼”なんて呼ばれていましたよ。だって、学生運動は美的センスがないと思っていたし、金持ちの御曹司が「社会を変えろ」なんて言っても説得力ないしね。学校のホームルームで安保について議論したことも覚えているんだけど、それくらい僕らもまじめに社会のことを考えていた。でも大学に入って、ベトナム戦争が終わった’75年頃からそういったムードが徐々に変わってきたかな。

――シティポップと呼ばれる音楽が生まれ始めたのも、’75年あたりからといわれることが多いです。

馬場康夫 この時代の変わり目については、『フォレスト・ガンプ 一期一会』っていう映画を観ればわかる。この主人公も、ベトナム戦争に行った後、卓球で才能を発揮してピンポン外交やって、エビ漁をやって、いきなりナイキのスニーカーを履いて走り始めるわけじゃないですか(笑)。


『フォレスト・ガンプ 一期一会』
1994年劇場公開作品

©1994, 2019 Paramount Pictures.



――なんでもできちゃうんですよね(笑)。

馬場康夫 でもこれって当時のアメリカを象徴しているんですよ。ベトナム戦争に行った若者たちは心を病んでしまったから、リハビリを兼ねてフィジカルな方向に向かうんです。サーフィンやスキー、そしてジョギングがすごく流行った。政治の季節が終わったわけです。アメリカも’70年にはユーミンも歌にした『いちご白書』っていう学生運動の映画があったけれど、そういう世界からフィジカルなスポーツをやろうっていう雰囲気になっていったんだよね。

――アメリカのカルチャーが日本でもブームになっていく頃ですね。

馬場康夫 そういった「なんか空気が変わってきたぞ」ってことに気付いたのが、マガジンハウスの名編集長だった木滑良久さんの仕事。’75年に読売新聞社から『Made in U.S.A. catalog』を出版し、翌年の’76年に『POPEYE』が創刊される。でも男性より女性のほうが流行は早いから、光文社から『JJ』が出たのが’75年と少し前かな。『POPEYE』や『JJ』って、一言でいえばお金持ちのお坊ちゃま、お嬢様のファッション。こういった雑誌が出てくる少し前から、慶応、青山学院、立教といった私立の大学では「もう学生運動って感じじゃないよね」っていう雰囲気になってきていたから、『POPEYE』や『JJ』を違和感なく手にとって、小ぎれいな格好をするようになっていくんですよ。


『POPEYE』
1976年創刊号/平凡出版(当時)

*スタッフ私物


雑誌『JJ』
1975年創刊号/光文社

*スタッフ私物


――ファッションの移り変わりはかなり大きいと感じます。

馬場康夫 それでフィジカルということに関していうと、最初にブームがやってきたのがテニス。たぶん’77年くらい。ジョン・マッケンローとビョルン・ボルグ、女子でいえばマルチナ・ナブラチロワなんかがスターになっていく。僕は’77年に大学を卒業しているんだけれど、大学でテニスラケットを持っている奴が多いなあと思ったのが卒業間近の頃かな。


『サタデー・ナイト・フィーバー』
1978年劇場公開作品

TM & CopyrightⒸ1977 Paramount Pictures. All Rights Reserved.TM,Ⓡ&CopyrightⒸ2013 by Paramount Pictures. All Rights Reserved.



――サーフィン・ブームも同じ頃ですか。

馬場康夫 いや、テニスが先行していて、サーフィンは’78年以降だね。僕がもしも歴史の教科書を編纂することを許されるなら、’78年は大きな革命のあった年として書きたいくらい、遊びのビッグバンが起こったんです。大きなムーヴメントのひとつがディスコですよ。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が日本で公開されて大ヒットしたから、みんなディスコに遊びに行くようになった。それまでも「最後の20セント」とか「カンタベリーハウス」なんかはあったけれど、一気に六本木がディスコの街になったんです。スクエアビルに行くと、「NEPENTA」「Samba Club」「fou-fou」なんていうのが上の方に入っていて、地下には「Castel」という会員制の高級ディスコがあった。


『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』
原作:ホイチョイ・プロダクションズ
監督:馬場康夫
2007年劇場公開作品

©2007 フジテレビジョン/電通/東宝/小学館



――馬場さんの映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』にも六本木のスクエアビルが出てきますね。

馬場康夫 あの映画は90年代だから、70年代とは違うんだけれど、ずっとディスコビルとして続いていたということだよね。もちろんディスコはさらに古い60年代からあったわけだけれど、普通の会社員がディスコで遊び始めたのが1978年から。サーファーもその頃から急激に増えて、『POPEYE』なんかで特集されるようになってきたんだけれど、1979年に映画『ビッグ・ウェンズデー』が公開されて、誰もがサーファーになっていったっていう。

――“陸(おか)サーファー”という言葉も生まれています。

馬場康夫 そうそう、それこそスクエアビルの周りを、サーフィンできないくせにボードを車に載せて女の子をナンパしているような光景も普通だったし。サーフィンは’81年がピークだと思うんだけれど、当時の日本中の若者がみんなサーファーだったっていうくらい。僕の『波の数だけ抱きしめて』っていう映画は’82年が舞台になっていて、その時点ではみんなああいうファッションをしているのが当たり前だった。


『波の数だけ抱きしめて』
原作:ホイチョイ・プロダクションズ
監督:馬場康夫
1991年劇場公開作品

©1991フジテレビ/小学館



――テニスとサーフィンとディスコって、当時の大学生のイメージそのままですよね。

馬場康夫 でも、まだまだあって、スキーのブームもその頃からなんですよ。スキー用語って実はドイツ語ばかり。ボーゲンとかゲレンデとか。それは、日本にはヨーロッパのスキーしかなかったことの証拠なんだよね。でも、70年代末からはアメリカのスキー・ブランドが日本にも入ってきて、Liberty Bellっていうダウンジャケットが大流行したんですよ。ユーミンのアルバム『SURF & SNOW』に「雪だより」っていう曲があって、“赤いダウンに腕をとおしたら それは素敵な季節のはじまり”っていう歌詞があるんだけれど、あっちはおそらくMONCLERのダウン。冬になるとみんなダウンを着ていて、特に赤がすごく売れたんですよ。ユーミンはそのあたりの感覚を外さないから。

――スケートボードやフリスビーなどもその頃ですか。

馬場康夫 そう、アメリカのスポーツはけっこう『POPEYE』の影響が大きいと思う。あと、フレンチを食べに行き始めたのもこの時代から。フランスで現地修行してきたシェフがいる南青山の「フィガロ」や西麻布の「ビストロ・ド・ラ・シテ」なんていう店にも普通に行くようになったし、カフェバーなんかもそうだね。だから’78年前後って文明開化の時代なんですよ。学生運動の10年間で鎖国していたようなものだから。

――馬場さんもそういったカルチャーにどっぷりとつかっていたわけですよね。

馬場康夫 僕も就職して最初の半年は田舎の方に赴任させられていたんだけれど、東京に戻ってきて大手町の宣伝部に配属されたから、田舎暮らしの反動でめちゃくちゃ遊んでいましたね(笑)。(【Part2】へ続く)




馬場康夫(ばば・やすお)

●株式会社ホイチョイ・プロダクションズ代表。1954年8月13日生まれ。東京都出身。成蹊学園在学中に仲間と「ホイチョイ・プロダクションズ」を設立し、’81年から『ビッグコミックスピリッツ』で4コマ漫画『気まぐれコンセプト』を連載。’87年、映画『私をスキーに連れてって』で初監督を務め、続く『彼女が水着にきがえたら』(’89年)、『波の数だけ抱きしめて』(’91年)の“ホイチョイ3部作“で若者カルチャーの一端を担う。『メッセンジャー』(’99年)、『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(’07年)も劇場ヒット。出版、広告、テレビ、企画、脚本家として幅広く活躍中。