インタビュー・構成/栗本斉(ウェブマガジンotonano編集部) 写真/松永樹 協力/music bar 45

山下達郎のライヴサポートや多彩なソロワークス、コンポーザーとしても第一線で活動を続ける鍵盤奏者・難波弘之。そして、世界的フュージョンバンドCASIOPEAのベーシストであり難波の盟友として知られる鳴瀬喜博。近年、シティポップやジャパニーズ・フュージョンが世界的な再評価を集めるなか、70年代から日本の音楽シーンを見つめ続けてきた二人は、金子マリ&バックスバニーでの出会いから現在に至るまで、多くの音楽人たちと交わりながら現場で音を紡いできた。難波弘之の音楽活動50周年を機に、その豊かな足跡と数々の記憶を語り合った。
(SOUND FUJI掲載【前篇】からの続き)
よくもまあこんな変人が50年も音楽をやってこられたなという感謝しかないです (難波弘之)
今更プレイスタイルも変わらないし、良い音を出して爆音で弾き続けるだけ! (鳴瀬喜博)

―― 80年代に入ってからも、難波さんと鳴瀬さんはつかず離れず、ずっと交流があったんですか。
難波弘之 そう、80年代後半から90年代にかけても、あちこちの現場で会っていましたよ。鳴瀬さんは本当に天才的に面白いやつを見つけて引っ張ってくるスカウトの才能があるよね。B’zの松本(孝弘)くんだって、彼がTM NETWORKのサポートやってる時に「面白いギターがいる」って連れてきてさ。サックスの古村敏比古やキーボードの福田裕彦もそう。福田なんてデジタルシンセのヤマハ DX7の音作りが天才的で、彼が作った音色カートリッジがバカ売れして「DX御殿」を建てたって言われたくらい(笑)。
鳴瀬喜博 生方(則孝)と福田で「生福(しょうふく)」っていうユニットをやっていたね。懐かしい。イーストウェストみたいなコンテストに若い奴らが出るじゃん。そういうところからいいミュージシャンを引っ張ってくるんだよ。
難波弘之 そうだね。スターダスト・レビューなんかを知ったのも、コンテストやイベントだった。僕らはけっこうそういうところで審査員やったりしていたから。ナルチョとは「イカ天」(TBSテレビ「三宅裕司のいかすバンド天国」)の審査員でも一緒だったし、自然とスタジオでも一緒になることが多かった。
―― 鳴瀬さんの1981年リリースの最初のソロ・アルバム『Mythtique』にも難波さんが参加されています。
鳴瀬喜博 あれはバックスバニーがパンクした後で、バックスバニーのメンバーで一曲やりたかったから、難波も呼ばなきゃってなって。プロフェットだっけ。高いキーボードを持っている奴が少なかったから。高い音が出たね(笑)。
難波弘之 そう、プロフェット。オーバーハイムはまだだね。その後買ったけれど。
―― 山岸潤史さんのアルバムにも一緒に参加されていますよね。
難波弘之 結局、70年代終わりからは六本木のピットインが盛り上がっていたから、その延長でレコーディングに参加することも多かった。それで、ナルチョと自然に一緒になることがあったんだよ。
鳴瀬喜博 俺も何枚かソロ・アルバムを出すんだけど、やっぱり難波を呼ぼうってなっちゃう。

―― そして90年代には「野獣王国」を結成されるわけですが、どうしてまた一緒にバンドをやろうと思ったんですか。
難波弘之 (東原)力哉もイーストウェストか、8.8ロックデイで知ったんじゃない?
鳴瀬喜博 あれは六本木ピットインでの是方(博邦)スーパーセッションがきっかけだね。是方が主催するセッションがあって、俺と難波と力哉と4人でやると、必要以上に爆音で盛り上がるんだよ(笑)。それで正式にバンドをやろうよってことになるんだけど、「バンド名どうする?」ってなって、力哉もいるし(笑)、「野獣みたいだから野獣王国でいいや」って。
難波弘之 ライヴを観に来たお客さんが、「野獣みたいだ」って言ったんだよね。ただ、CDが店のエサ箱に並んだ時にはさすがに後悔したけれどね。「うわぁ、野獣王国かぁ」って(笑)。あと、相模原の会場でライヴをやった時、どこかのおじいちゃんから会場に電話がかかってきて、「孫を連れて行きたいんですが、今日はどんな猛獣が出るんですか?」って。動物が出るイベントと間違えられたんだよ。これ、ギャグじゃなくて、実話ですからね(笑)。
鳴瀬喜博 演奏もしゃべりも長くて、お客さんがぐったり疲れてくるんだよ(笑)。それなのにまだその後も延々演奏するっていう。
難波弘之 是方のルーツはクラプトンやブルースだし、力哉もトニー・ウィリアムスのライフタイムや、コロシアムのジョン・ハイズマンが大好きだし、僕はアイアン・バタフライ、ゴールデン・カップスみたいなサイケデリックなロックがルーツだし、結局全員に荒々しいロック&ジャズ・フュージョンの魂があるからね。CASIOPEAやTHE SQUAREみたいなキレイでおしゃれな都会的フュージョンとは違って、僕らは野蛮なロック・フュージョンだった。1人ずつ出す音がデカくて野蛮(笑)。
鳴瀬喜博 是方は苦労していたよね。あのメンバーをまとめなきゃなんないんだから(笑)。
―― とはいえ、野獣王国はかなり長く続けられていましたよね。
難波弘之 いったんお休みしちゃっているんだけど、何かのタイミングでまたやりたいよね。
―― 難波さんは山下達郎さんのバンドでも長年キーボードを務められていますが、野獣王国はまったく方向性が違いますよね。
難波弘之 達郎の芸風(笑)は、ジェームス・ブラウンや古典落語の名人のように、型通りに寸分の狂いもなく最高のものをお見せするスタイル。型通りなんだけど「ここでこれが来たー!」っていう美学があって、僕はそれも大好きなんですよね。野獣王国の野蛮な爆音と、達郎くんの精密な美学、両方のベクトルがあるから面白かったね。

―― 鳴瀬さんは1990年にCASIOPEAに加入されますが、スタイルに変化はありましたか?
鳴瀬喜博 CASIOPEAはインストだから、ベースのキャラを立たせたくてね。けっこう自由にやらせてもらっているよ。CASIOPEAでは、メインで8弦ベースを使うようになったしね。8弦ベースは歌もののサポートだとうるさくて使えないから、CASIOPEAだからこそできたんだよね。さっき難波がCASIOPEAはおしゃれなフュージョンって言っていたけど、ギターの野呂一生も根底にはロックがあるから、実際のCASIOPEAはただのおしゃれフュージョンじゃなくてロック精神があるんだよ。
難波弘之 実は2年前、野呂くんから電話がかかってきて「CASIOPEAに参加してくれませんか?」っていう打診をされたことがあったんだよ。びっくりして、家族会議を開きました(笑)。野呂くんのことは大好きだし光栄だったんだけど、達郎のツアーや自分のプログレバンド、SENSE OF WONDERとの両立は無理だなと思って、泣く泣く丁重にお断りしたんです。
鳴瀬喜博 いやあ、面白いよね(笑)。
難波弘之 でも、今は安部潤くんが加入していい感じだよね。海外でも人気がすごいじゃない?
鳴瀬喜博 そうだよね。外国人がたくさん観に来ていてびっくりするよ。
難波弘之 新田一郎からスペクトラムに誘われた時も面白かったなあ。バックスバニーをやめた後、アミューズの大里(洋吉)社長に呼ばれて「スペクトラム1号・2号・3号として被り物をして戦隊モノみたいにやらないか」って言われてさ(笑)。
鳴瀬喜博 えー、やったらよかったのに(笑)。
難波弘之 あの時、達郎と(カルメン・)マキちゃんと、スペクトラムから同時に誘われていて、悩んだ末に結局断ったけど、その後も新田一郎のソロのアレンジをやらせてもらったりして、交友はずっと続いたね。他にもいくつか誘われたバンドはあるんだけど、何を選ぶかで人生も変わっていたのかなと思うと、不思議だよね。

―― CASIOPEAやスペクトラムもそうですが、近年70年代から80年代のジャパニーズ・シティポップやフュージョンが海外や若い世代で世界的に再評価されていますが、どう感じられますか?
難波弘之 新宿のピットインでA.P.J.というピアノトリオでライヴやってたら、海外の若い子が僕のソロLPや、僕が参加している間宮貴子の『LOVE TRIP』を「サインください」って持って来るので、びっくりしますよ。松原みきちゃんの「真夜中のドア」なんかもそうだけど、当時はソウルやAORのような洋楽へのリスペクトで緻密にコード進行やアレンジを凝らして作っていた。それが今、巡り巡って海外や若い人に新鮮に響いているのかなと。ディズニーに影響を受けまくった手塚治虫が『ジャングル大帝』を描き、それを後年ディズニーが『ライオン・キング』でリスペクトし返したような、あの感覚に近いんじゃないかな(笑)。日本人特有のフィルターを通して細部までこだわり抜いた音作りが、今再評価されているのは本当に嬉しいですね。
―― 間宮貴子の『LOVE TRIP』は、難波さんはプレイヤーとしてだけでなく、「真夜中のジョーク」など楽曲提供もされていますし、鳴瀬さんもベーシストとして全面的に参加されていますよね。1982年11月発売の作品なので、鳴瀬さんの2枚目のソロ・アルバム『Bass Bawl』の頃で、難波さんが参加した山下達郎の『FOR YOU』の直後です。
鳴瀬喜博 ああ、覚えているよ。たしかサックスの沢井原兒さんが連れてきたんだよね。ドラムは(上原)ユカリか。聴いたらすぐわかるね。あの頃使っていたジャズベースの音がするよ。この頃は、少し譜面を読めるようになっていたかな(笑)。
難波弘之 オシャレなシティポップだね(笑)。この当時の自分の音を振り返って聴いたんだけど、スタジオミュージシャンがやっぱりすごいんだよね。みんな自然に難しいことやっている。
鳴瀬喜博 全曲、椎名(和夫)がプロデュースだよな。間宮貴子はこれしか出してないし、今どうしてるんだろうね。
難波弘之 すぐに結婚して引退しちゃいました。この頃、椎名ともGEARっていうバンドをやっていたんだよ。最初は、青山純と伊藤広規と一緒にやっていたんだけど、2人とも忙しいから、YOUの斉藤英夫の弟で斉藤亮っていうドラマーがいて、ベースの荻原“メッケン”基文になって。でも、メッケンも諸事情でいなくなってしまい(笑)。SENSE OF WONDERも初代の田辺モットがやめてベースがメッケンだったので、彼がいなくなって厚見玲衣にシンセベースを弾いてもらっていたんだけど、アレンジを手伝ったストロベリー・ジャムっていうバンドのヴォーカルの小室和幸が「もともとベースをやってて、リッケンバッカー持ってるんだ」っていうから、「誰が好きなの?」って聞いたら、「クリス・スクワイア」とか言うわけ(笑)。それで、1984年に作った『真幻魔大戦』のレコーディングで弾いてもらったら、「すげーっ!」って思って、歌も歌ってもらったんですよ。その時は厚見玲衣とツイン・キーボードだったんだけど、厚見がVOW WOWに入ることになって、また3人になって。
鳴瀬喜博 忙しいね(笑)。
難波弘之 まだあるんだよ。VOW WOWにいた斉藤(光浩)くんがARBに行って、ARBにいた田中一郎が甲斐バンドに行くんです。玉突きみたいだねって爆笑していましたよ。
―― 難波さんは今年音楽活動50周年を迎えられますが、節目として抱負をお願いします。
難波弘之 抱負というか、よくもまあこんな変人が50年も音楽をやってこられたなという感謝しかないです。ボーっとしていた僕を周りの素晴らしいミュージシャンやスタッフ、ファンの皆様が支えてくださったおかげです。本当にありがとうございます。
鳴瀬喜博 50年経ってもお互い元気でバリバリ演奏できているのが一番だよな。今更プレイスタイルも変わらないし、良い音を出して爆音で弾き続けるだけ! 長生きの薬が欲しいね(笑)。
難波弘之 ナルチョも元気でずっと変わらないもんね。お互いステージの上で楽器を弾きながら「プッツン」と逝けたら最高ですよ(笑)。今年に入ってからもいろんな仲間がいなくなっちゃって寂しいんだけれど、残された者として、これからも元気に良い音楽を届けていかないと、と思っています。本日はありがとうございました!

難波弘之(なんば ひろゆき)
●1953年9月9日生まれ。日本のキーボード奏者、作曲家・編曲家、SF作家。東京都豊島区巣鴨出身。両親が音楽家ということもあり、4歳よりピアノを始める。学習院大学在学中より、プロミュージシャンとして活動を始める。1975年に鳴瀬喜博の誘いで「金子マリ&バックスバニー」に加入。1979年に1stアルバム「センス・オブ・ワンダー」リリース。山下達郎のサポートミュージシャンとしても長年活躍中。
▼難波弘之オフィシャルサイト
https://nambahiroyuki.com/
https://www.facebook.com/senseofwonder.nambahiroyuki/

鳴瀬喜博(なるせ よしひろ)
●1949年11月13日 76歳 東京都出身 A型
大学在学中にベースを始め、ディスコを舞台にプロ活動を開始。“カルメン・マキ&OZ”、Char(G)との“SMOKY MEDICINE” “金子マリ&BUX BUNNY” などなど伝説のバンドに参加。ナルチョ=チョッパーと言われるほどにチョッパーベーシストの神様的存在になっている。
1990年にはCASIOPEAに加入、並行して“EnTRANS” “チョパレボ” “ヒダヤルナル”“Fun9loud”“殿と大奥”等のバンド活動も続け、メンバーの世代やジャンルにとらわれる事無く、数多くのセッションをこなす。常にトップランナーとして走り続ける男・鳴瀬喜博、その幅広いプレイからますます目が離せない。
▼鳴瀬喜博オフィシャルサイト
https://www.naruchops.com/
https://www.facebook.com/naruchops/
鳴瀬喜博Official Youtube Channel

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