2026年8月号|特集 浜田省吾
【Part1】序章:[始動]~1976年:上京、愛奴(AIDO)の活動|浜田省吾ヒストリー1976-2026
解説
2026.8.3
文/小川真一

22歳の最後の日に、「路地裏の少年」は書き上げられた――
すべては、一人の青年が故郷を離れた、その日から始まった。浜田省吾が生まれ故郷である広島から横浜へと旅立ったのは1972年のことだ。当時はまだ山陽新幹線が岡山までしか開通しておらず、在来線を乗り継いでの長い旅となった。
車窓から見える見慣れた瀬戸内の風景は、やがて見知らぬ街並みへと変わっていく。胸に抱いていたのは、大きな希望だったのか、それとも故郷を離れることへの一抹の寂しさだったのか。その両方だったのかもしれない。大学生活が始まればすべてが変わる。夢のようなキャンパスライフ、都会での暮らし、そして思う存分音楽に打ち込める日々。そんな未来を思い描いていたのではないだろうか。
しかし、現実は思い描いていたものとは違っていた。大学の構内には、学生運動の燃えさしが色濃く残っていた。60年代末に日本中を揺るがせた学生運動はすでにピークを越えていたものの、その余波と混乱は、なおキャンパスの至るところに残されていたのである。
浜田省吾も、激動する時代の空気を決して他人事とは考えていなかった。東京大学安田講堂事件の攻防はテレビを通して見つめ、’72年2月に起きた浅間山荘事件は強い印象を残した。理想を掲げた若者たちが暴力へと傾き、社会全体が混迷していく姿は、二十歳前後の青年の胸に重く刻まれた。
こうした時代の空気を吸いながら青春時代を過ごした経験は、その後の浜田省吾の音楽観や人生観に少なからぬ影響を与えたと考えられる。彼の作品に繰り返し描かれる若者の孤独や自由への憧れ、社会へのまなざしは、この時代を生きた一人の青年の実感と決して無縁ではないだろう。
浜田が通う大学でも、学生運動の影響で学内は封鎖され、授業は長く休止された。そして彼の心は、次第に大学から離れていった。それでも、加入した軽音楽部の部室には顔を出していた。ドラムを始めたのは、この頃からだった。
それまでにも曲を作ったり、ギターを片手に人前で歌ったりもしていた。だが横浜まで来て大学に入ったのだから、新しい自分を試してみたい。そんな気持ちだったのかもしれない。それまでスティックを手にしたこともなかったのに、やがてドラムを叩くようになる。
バンド活動とアルバイト。仕送りは送ってもらっていたが、下宿を借りて飯を食ったら、そんなものはすぐになくなってしまう。いつしか生活のためのアルバイトが学業よりも重くなっていった。そして、夢だけを胸に抱えたまま、時間は風のように過ぎ去っていった。
浜田だけではない。広島から夢を抱いて関東へ出てきた音楽仲間たちもまた、それぞれの青春を懸命に生きていた。町支寛二は東海大学に入学したのだが、新宿の西口で喫茶店のウェイターのバイトをしていた。町支の友人の高橋信彦も新宿のライヴ・スポット「ルイード」でアルバイトをし、そのまま大学を中退してしまう。山崎貴生は東京薬科大学に通っていた。
町支寛二、山崎貴生、高橋信彦の3人は、広島時代に「グルックス」の名で活動していた。彼らの演奏は、吉田拓郎も在籍したことで知られる広島フォーク村が制作したアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』にも収録されている。そこで披露したのが、フォークソング・スタイルによる「波よけさないで」だった。
まず、町支寛二、山崎貴生、浜田省吾の3人でバンドを結成した。演奏していたのは、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングやスリー・ドッグ・ナイトなど、当時彼らが憧れていたアメリカン・ロックのコピーである。もともと町支と山崎は、グルックス時代から美しいコーラス・ワークを得意としていた。その練習を見に来ていた高橋信彦が加わると、バンドは次第にその輪郭をはっきりとしたものにしていった。
グループ名を「愛奴」と名づけたのは浜田省吾だった。この名は、フランス文学者・美術評論家の栗田勇の戯曲『愛奴』に由来する。宇野亞喜良の装丁による単行本も出版されており、浜田はそのタイトルに強く惹かれたという。栗田勇は、日本で初めてロートレアモンの作品を本格的に紹介した一人としても知られている。
やがてバンドに大きな転機が訪れる。ヤマハの合歓音楽院で学んでいたギタリスト・青山徹がメンバーに加わることになったのだ。定評のあるコーラス・ワークに加え、これまで町支寛二が一人で担っていたギターに青山徹が加わり、念願だったツイン・ギター体制が実現した。
この頃には、大学に進学していたメンバーも相次いで学業を離れ、広島へ戻っていた。音楽だけで生きていくという明確な覚悟があったのかどうかは分からない。しかし、少なくとも彼らは誰一人として遊び半分ではなかった。来る日も来る日も練習を重ね、地元のイヴェントやコンサートにも出演するようになる。
そんな彼らの演奏に目を留めたのが、NHK広島放送局のディレクター・津尾満良だった。この出会いが、愛奴、そして浜田省吾の運命を大きく動かしていくことになる。津尾は彼らをスタジオに呼び、5曲をレコーディングした。このテープを携えて、浜田はもう一度神奈川へと向かう。
向かった先は、蔭山敬吾の自宅だった。蔭山は広島フォーク村のメンバーであり、古くからの顔見知りだった。高校生だった浜田省吾をフォーク村のライヴに出演させたのもこの蔭山であった。当時の蔭山敬吾はCBS・ソニーに就職していて、広島から東京の本社の制作部に異動したばかりだった。
レコード会社との縁を求めるなら、蔭山以上に頼れる人物はいなかった。蔭山敬吾も制作担当として新しい才能を探していた。すぐに六本木のソニースタジオでのオーディションが決まった。このオーディションには、同郷の吉田拓郎も見学に来ていた。
数か月後、蔭山敬吾を通じて、吉田拓郎のバックバンドを務めないかという話が持ち込まれた。愛奴にとって、それはプロへの扉だった。広島のデパートの屋上で演奏していた若者たちは、やがて全国ツアーで何千人もの観客を前に演奏することになる。そして、そのステージこそが、浜田省吾というアーティストの本当の出発点となるのである。
ここまでの歩みを振り返ると、一つの出会いが次の出会いを呼び、偶然が重なり合っていたようにも見える。そんな追い風の中、愛奴にはファースト・アルバム制作の話が持ち込まれた。当時は、地方のロックに注目が集まっていた。九州・博多のめんたいロック、北陸・小松出身のめんたんぴん、名古屋から登場したセンチメンタル・シティ・ロマンスと、地方発のロックが新鮮に感じられていた時代だ。
こうした時代の機運に加え、「二人の夏」という楽曲の存在も大きかった。この曲は、NHKのスタジオでも録音されていて、ディレクターの蔭山敬吾の耳にも届いていた。その蔭山の初ディレクション作品として、愛奴のレコーディングがスタートした。録音はモウリ・スタジオ、エンジニアは吉野金次であった。
AIDO「二人の夏」
(デビュー50周年復刻シングル「二人の夏 / 恋の西武新宿線」より)
「二人の夏」は初期の作品で、大学前の四畳半の下宿で作った。この曲は三連のピアノが先導し、ファルセット・コーラスが印象的な曲だ。コード進行もコーラスのアレンジもブライアン・ウィルソン的でありながらも、どこか新鮮な響きをもっている。当時の日本のロック・シーンでは珍しい、ビーチ・ボーイズを思わせるコーラス・ワークが印象的な作品だった。
アルバム『愛奴』と同時期の1975年5月1日にシングル盤としてリリースされた。シングルチャートでは結果を残せなかったものの、ラジオでは比較的よく取り上げられ、浜田省吾の名を初めて耳にしたリスナーも少なくなかった。季節商品であり、ラジオのDJ受けする曲だったのだろうか。

AIDO
『AIDO』
1975年5月1日発売
愛奴のドラマー/ヴォーカリストとしてプロ・デビューした浜田省吾だが、ファースト・アルバムが出た4カ月後には、グループから離れている。最初の前兆は、浜田がドラマーを辞めたことだ。もともとが自分の技量に自信がないと話していたが、青山徹の合歓音楽院時代の後輩であった岡本あつおが、新たにドラムの椅子に座ることになった。
簡単に言ってしまえば、音楽性の違いになるだろう。それも他のメンバーとの音楽性ではなく、浜田の音楽的な志向が愛奴というバンドから次第に離れていったのではないだろうか。彼自身も予想していなかった展開だったのかもしれない。そして浜田省吾は、ソロ活動へと突き進んでいく。
22歳の最後の日に、「路地裏の少年」は書き上げられた。生まれた街を離れ、見知らぬ土地で生きていく一人の青年の決意が、その歌には刻まれていた。あの日、広島を旅立った青年は、ようやく自分自身の歌を手に入れたのである。
■参考資料:『浜田省吾辞典』(東京FM出版)、『青空の行方〜浜田省吾の全軌跡』(ロッキング・オン)、『陽のあたる場所: 浜田省吾ストーリー』田家秀樹・著(KADOKAWA)ほか
(【Part2】に続く)

AIDO
「二人の夏/恋の西武新宿線」
2025年5月7日発売
浜田省吾オフィシャルWebサイト : https://shogo.r-s.co.jp/
浜田省吾公式アカウント :
https://www.youtube.com/user/shogohamadaSMEJ
https://x.com/ShogoHamadaInfo
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