2026年7月号|特集 渡辺美里

【Part1】|渡辺美里ヒストリー

解説

2026.7.1

文/兼田達矢


Part1:生い立ち~1stアルバム『eyes』


 渡辺美里が敬愛するロック・ヴォーカリスト、ジャニス・ジョプリンの1stアルバム『コズミック・ブルースを歌う』のタイトル・チューンとも言うべき曲「コズミック・ブルース」で、ジャニスは“答えなんて期待しないで”と歌っている。

“歳をとったからって、答えが手に入るわけじゃないから”

 渡辺美里が10歳になった頃にはもうシンガーになると思い定めていたことはよく知られている。夢を追うことと年齢は関係ないのだ。彼女がデビューしたのは18歳の時。その時点でシンガーになるという夢は達成されたと言っていいのかもしれないが、自分が本当に求めていたものはもっと遠くにあって、デビューとはそこへと向かう最初の扉を開けたに過ぎないことを彼女自身すぐに気づいたはずだ。だから、彼女にしてみれば、18歳という年齢が若過ぎるというふうにはおそらく考えなかっただろう。繰り返すが、夢を追うことと年齢は関係ないのだから。

 もっとも、夢を思い定めた時点からその準備は彼女なりに着々と進められていたようで、『きれいな歌に会いにゆく』(長谷川博一著・大栄出版刊)のインタビューによると、12歳からヴォーカル・レッスンに通い始めたという。それ以前からピアノも習っていたが、「途中でイヤになっちゃって、そして12歳の時から歌うことのほうに集中していったんですよ」(『きれいな歌に会いにゆく』より。以下同)。

 ヴォーカル・レッスンは、同時に二人の先生のもとに通った。一人は女性の先生で、そのレッスンの内容は声楽を学ぶことよりも情操教育に近いものだったという。音楽のみならず映画や学校生活に関する内面的な話をすることも多く、「歌を歌うというのは、もっと感情から沸き起こる行為なんだということを教えてもらった気がします」。もう一人の先生は男性で、発声について学んだ。イタリア語の発声を教えてもらったり、腹式呼吸を毎朝繰り返すことで呼吸法が身につくと教えられ、それは忠実に実行した。特に印象に残っている教えは二つ。「自分の声を音として見なさい」ということと「眉間に音を響かせて歌いなさい」ということ。自分の身体を器楽的に鳴らし、そこから発せられる声の音色をクールに吟味して自在に操る現在の彼女のヴォーカル・ワークを思えば、その教えが随分と有効に生かされていることがわかる。

 デビューの直接のきっかけとなったのが“ミス・セブンティーン・コンテスト”というアイドル・オーディションだったこと、そして彼女が受賞したのは特別に設けられた歌唱賞だったことも有名だが、そのコンテストのグランプリ受賞者がシブがき隊の主演映画のマドンナとしてデビューできる権利を得たのに対して、歌唱賞の彼女がこのコンテストで受け取った賞品はソニーのウォークマンだった。

 しかし、そこでコンテストを共催していたソニーミュージックのスタッフの目に止まり、デビューへの道が開けていくことになったのだから、その意味では彼女の目論見通りだったわけだ。コンテストの数ヶ月後、ちょうどその時期に佐野元春の女性バック・コーラス・グループの新しいメンバーを探していたハートランドという音楽事務所の社長、春名源基を紹介されることになり、’84年10月にラフォーレミュージアム飯倉で開催された佐野のライヴ・コンベンションで春名と会った。さらに、その数日後、井の頭線のホームで偶然出くわした春名から、ハートランドの所属アーティストだった白井貴子のライヴに誘われ、それに応じて出かけた渋谷LIVE INNでEPIC・ソニーのプロデューサー小坂洋二や、デビューから現在に至るまでマネージャーを務めている関野一美を紹介され、彼女のキャリアの礎を支える体制はこうして一気に整っていったのだった。


渡辺美里
「I’m Free / タフな気持で (Don’t Cry)」

1985年5月2日発売


 年が明けて、’85年3月にはデビュー曲となる「I’m Free」がドラマ主題歌に決定。美里本人は、デビュー曲がケニー・ロギンスのカヴァーであること、そしてドラマ・タイアップが付いていることをまとめて知らされたそうだが、オリジナル曲でのデビューではないことに最初は戸惑ったという。しかし、マスコミ関係者は少し違う受け取り方だったようだ。大ヒット映画『フットルース』の主題歌を歌って再ブレイクを果たしたケニー・ロギンスと’82年にアルバム・チャート全米1位を獲得したバンド、エイジアという、当時のソニー・ミュージック洋楽部門を代表するヒット・アーティストのシングル曲のカヴァーを託されてデビューする新人ということで、多くの人がレコード会社の期待感の大きさを感じ取っていた。さらに、デビュー翌月に国立競技場で開催された歴史的なイベント“All Together Now”に白井貴子のコーラスとして参加し、このイベントを中継した全国のラジオ局スタッフの間で「あのコーラスの女の子は誰?」と大いに話題を呼んだ。


渡辺美里
『eyes』

1985年10月2日発売


 10月2日、1stアルバム『eyes』リリース。小室哲哉、木根尚登、大江千里、岡村靖幸、そして白井貴子。それぞれに自身もアーティストとして成功を収めた才能が楽曲を提供しているだけでなく、作詞で参加した神沢礼江や戸沢暢美も含め、全員が20代でまだ手垢に塗れていないその新鮮なセンスがニュー・ヒロインの誕生を後押しした。その一方で、編曲には後藤次利や大村憲司、西本明、そして清水信之といったすでに実績のある気鋭のアレンジャー陣を配しているのも見逃せない。

 こうしたスタッフィングは、プロデューサーである小坂の見識に因るものだろうが、’16年に行われたこのアルバムの再現ライヴに併せて制作されたドキュメンタリーブックでの彼のインタビューを読むと、彼が何よりも美里自身の意識や感覚を大事にしていたことがわかる。同じブックに収められたインタビューで小室が、「“渡辺美里”というものを知らせるということをいちばん重きに置いていたんじゃないのかなと思います」と分析している通り、早くも1stアルバムにして渡辺美里というアーティストのイメージは、くっきりとした輪郭でファンに届けられた。加えて、丁寧な楽曲選びや入念なレコーディング、アルバム作りを中心におく考え方など、その後の美里の活動の基本となるスタイルがここですでに確立されたのは間違いない。

 ただし、彼女のイメージということで言えば、坂西伊作の手になる「きみに会えて」のミュージックビデオが果たした役割は大きなものだったし、このアルバムのリリースとほぼ同時にFM横浜で彼女の番組がスタートし、その後もずっといろいろな局で彼女の番組が続いている通り、FMラジオのパーソナリティとしての彼女の魅力がその人気を押し上げる要因の一つになったことも忘れてはいけない。



渡辺美里 【MV】「きみに会えて」


 また、このアルバムのリリースより早く、9月から全国7カ所を回るライヴハウス・ツアーを行っており、アルバム作りとライヴが活動の両輪であることはまさにキャリアのいちばん最初の時点から意識されていたのだろう。ちなみに、今や“伝説のライヴ”とも言われる、新宿ルイードでのデビュー記念ライヴが開催されたのはジャニス・ジョプリンの命日である10月4日。一瞬の閃光のようにキャリアを終えたジャニスのパッションはここで引き継がれたというのは言い過ぎとしても、ジャニスの歌う「コズミック・ブルース」のこんな一節がいつでも美里の歌と響き合っているように思える。

“誰だって、身のうちに火が燃えている/私はそれを抱えて生きていく/死ぬ日までそれを使い切るんだ”

 さて、翌年の年明け早々にリリースされたシングル「My Revolution」が大ヒットして、美里はトップ・アーティストの仲間入りを果たす。そして、身のうちの炎をいっそう掻き立てるように、活動のスピードをさらに速めていく。

【Part2】に続く)



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