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2026年6月号|特集 THE MODS
【Part1】衝撃のファースト『FIGHT OR FLIGHT』発表|THE MODSストーリー ~45 Years~
解説
2026.6.1
文/本田隆

1981年6月、シングル「崩れ落ちる前に」、アルバム『FIGHT OR FLIGHT』でデビュー
今からちょうど45年前、1981年6月21日にシングル「崩れ落ちる前に」、アルバム『FIGHT OR FLIGHT』でデビューしたTHE MODS(以下:モッズ)。この時のメンバーは森山達也、北里晃一、苣木寛之、梶浦雅弘。博多最後の大物と噂された彼らに与えられた称号は “不退転のロッカー” だった。その言葉通り、自らの信じた道を現在に至るまでの45年間を歩み続けてきた彼らの軌跡は、’76年、ベースの北里晃一が第2期モッズに加入したことから本格的に始まったと言っていいだろう。デビューにあたり、森山は、北里との個人的な物語を「TWO PUNKS」という曲に託した。同曲はデビュー1年後に行われた日比谷野外音楽堂公演(註:THE MODS IN 日比谷)を経てファンのアンセムとなった。集中豪雨の中、誰ひとりその場所を離れることなく大合唱が起こったのだ。極めて個人的な歌は、この出来事から、ファンひとりひとりの歌になり独り歩きをしていった。そして、モッズの代表曲になった。森山は、ステージで「TWO PUNKS」を演奏する時のMCでは、必ず “みんなの歌” という言葉を添える。シングルカットすらされていない楽曲が代表曲になったことも、彼らのアティテュードを象徴した出来事のひとつだ。

THE MODS
「崩れ落ちる前に」
1981年6月21日発売

THE MODS
『FIGHT FOR FLIGHT』
1981年6月21日発売
そして、モッズを語る上で外せないのが、博多という豊潤な音楽的土壌のある場所で生まれたバンドだということだ。博多では、鮎川誠、柴山俊之を擁し、’70年に結成されたサンハウスを起点に、地域性の強い音楽シーンが形成されていく。ここでは、ブルースやR&B、ブリティッシュビートといった、東京のシーンではなかなかキャッチすることができなかった音楽を吸収し、独自性を高めていったバンドが次々と生まれていった。その渦中、森山は、のちにシーナ&ロケッツに加入する浅田孟と結成した “開戦前夜” を経て’74年に第1期モッズ(註:THE MOZZ)を結成。以降、幾度かのメンバーチェンジを経たモッズは北里の加入と、当時台頭してきたパブロック、パンクの波に大きな影響を受け、現在の礎になる音楽フォーマットを確立。九州全土をツアーし、数々のコンテストに出場。’78年に行われたアマチュアバンドコンテスト、第5回L-モーションではグランプリを獲得。翌年に発行された音楽雑誌『BLUE JAG』の7号と8号ではモッズの大特集を組んだ。
80年代を迎えると、博多、北九州のシーンを賑わせていたTH eROCKERS、THE ROOSTERSが次々とレコード・デビューを果たす。この時期にモッズは石井聰亙(現:岳龍)監督作品『狂い咲きサンダーロード』のサウンドトラックに参加、これが大きな転機となり、翌’81年の1月にモッズは東京進出を果たした。数々のレコード会社からの誘い、紆余曲折の中、彼らが選んだカードはEPIC・ソニーだった。同社のファウンダーである丸山茂雄氏が直接博多に赴き、モッズは、当時博多のホームグラウンドであったライヴハウス、80’s FACTORYで数曲を披露。これがレコード・デビューを決定的にした出来事だった。

’81年1月に上京したモッズはデビュー前にもかかわらず、TVK(テレビ神奈川)の音楽番組『ファイティング80’s』にレギュラー出演。2月には、新宿ロフトで上京後初のワンマンライヴを開催。ロフトのフロアは噂を聞きつけたロックフリークたちで満員になった。4月には英国CBS・UKとも契約を結び、ロンドンのマトリック・スタジオでファースト・アルバムのレコーディングが行われている。EPIC・ソニーとの契約の際、ロンドン・レコーディングが条件であったモッズにとって、この経験は後の活動においても大きな影響を及ぼすことになる。
同年の5月にはTHE JAM2度目の来日に際しオープニングアクトを務める。この時のステージの盛り上がりがTHE JAMを凌ぐものだと危惧され、演奏中にもかかわらずシールドを抜かれてしまうというハプニングも起きた。翌月には、ライヴハウス、目黒鹿鳴館で最高動員記録を樹立。森山をはじめとするメンバーは、慌ただしい日々の中、しっかりとした手応えを感じながら、デビュー日の’81年6月21日を迎える。そして翌日には、初の全国ツアーとなる〈COUNTER ACTION GIG〉を横浜教育会館よりスタート。6月27日は上京後初のホールワンマンとなる久保講堂公演を大成功に収める。

THE MODS
『NEWS BEAT』
1981年10月21日発売
そして、デビューから2ヶ月後には早くもセカンド・アルバム『NEWS BEAT』のレコーディングに突入。オーディエンスひとりひとりと真摯に向き合うライヴアクトを重ね、短いインターバルでレコードをリリース。モッズはロックバンドのあるべき姿として、着実にキャリアを重ねていく。『NEWS BEAT』はファースト・アルバム『FIGHT OR FLIGHT』以上にパンク的なアプローチを加速させたアルバムとなった。このアルバムには東京進出後の短い期間で彼らが体現したライヴ感が凝縮されていた。本作は、デビューからちょうど4ヶ月後の’81年10月21日にリリース。このアルバムを引っ提げモッズは、2度目の全国ツアーとなる〈NEWS BEAT GIG〉を展開。同時期には再度ロンドンに渡り、ブリティッシュロックの歴史において最も重要な場所とされるマーキークラブで3日間にわたるライヴが行われた。
〈NEWS BEAT GIG〉、そして熱狂した観客のヒートアップにより急遽会場を新宿ACBから目黒鹿鳴館に移した〈BEAT PARADE GIG〉、果敢なステージを重ねながら、’82年6月20日、今も “雨の野音” として語り継がれるデビュー1周年のアニバーサリー、日比谷野外音楽堂公演を迎える。
この日の東京は集中豪雨に見舞われた。気象庁のデータベースで、この日の降水量を調べてみると、60.5mmという記録が残されている。これは気象庁の定義において “非常に激しい雨” と分類される。しかも1時間の最大値は52.5mmという数字だった。このような状況の中、この日野音に集まったファンは誰もその場所を離れず、激しい雨の中で伝説は生まれた。当時の野音のステージには屋根がなく、豪雨のため電気経路は遮断され、楽器の音は鳴らなくなった。最後には雨の音に掻き消されそうになりながら、原始のリズムの如く、ドラムを叩く音と肉声だけが響く。そして観客から「TWO PUNKS」の大合唱が巻き起こった……。この出来事は、この場所いたファンのみならず、伝説として語り継がれ知ったファンの心の深い部分で共有され、“雨の野音”はモッズの代名詞となった。

THE MODS
『LOOK OUT』
1982年9月22日発売
そして、この伝説のライヴの翌月には土屋昌巳をプロデューサーに迎え入れ、サード・アルバム『LOOK OUT』のレコーディングに入る。これまでのモッズは、森山が紡ぐ憂いを帯びた湿り気のあるメロディーとストレートなパンク的なアプローチが最大の魅力だった。しかし、『LOOK OUT』は彼らにとって、さらなる新境地を拓く作品となった。1曲目に据えられた「I WANT YOU BABY, TONIGHT」はブラスセクションを加えたファンク・チューン。それだけではなく、スカ、ロカビリーなど多様なレベルミュージックを吸収したジャンルミキシングの趣を見せた。このサウンドは、スペシャルズやストレイ・キャッツをはじめとするロンドン、ポストパンク期に見られた温故知新型ともいえる最新型のサウンドでもあり、ファースト・アルバムレコーディング以降、この地から受けた影響が大きく反映されていた。『LOOK OUT』のサウンドの変貌には、賛否両論があったのは確かなことだが、現在に至るまで常にアップデートを怠らず自身の音をクリエイトしてきた彼ららしい英断だったといえよう。’82年9月のアルバム『LOOK OUT』リリースに伴い、翌月からは〈B-29 TOUR〉がスタート。初日の渋谷公会堂は瞬時でソールドアウトとなった。このツアーでは、英パンクバンド、ザ・クラッシュの来日公演でも同じステージに立った女性ロカビリーシンガー、パール・ハーバーとも共演。パールはモッズの面々をバックに日本でもクラブヒットとなった「フジヤマ・ママ」をはじめとする数曲を披露。

THE MODS
『GANG ROCKER』
1983年4月21日発売
モッズとロンドンの密接な繋がりは、このようなライヴでも顕著に表れ、’83年4月にはミニ・アルバム『GANG ROCKER』はファースト・アルバム以来、現地でのレコーディングを敢行。そして、これを総括するような “FILEプロジェクト” がモッズと一風堂を中心として始動。「FILEとは、過去の遺産を食いつなぐのではなく、時代に爪を立てて新しい音楽を追及していく」という意義のもと、EPIC・ソニー内にはFILEレーベルが立ち上げられ、品川プリンスホテルのゴールドホールでライヴを開催するなど、新しい試みを次々と実践。ロンドン直系の空気感を醸し出していた。また、この時行われたFILEツアーの協賛であり、時代を切り取る最先端であった写真雑誌『写楽』には、頻繁にモッズのグラビアを掲載。時には、少年犯罪の推移のグラフと共にライヴフォトが掲載され、ザ・モッズの音が時代を映す鏡であることを強烈にアピールしていた。

THE MODS
「激しい雨が」
1983年9月21日発売
そして同年の9月21日、モッズ4枚目のシングルとなる「激しい雨が」をリリース。同曲は、「音が言葉より痛かった。」という鮮烈なキャッチコピーと共にメンバー4人全員がカセットテープ(マクセルUD-1)のCMに出演。’81年のデビュー以来着実にライヴの動員数を増やしていったモッズの知名度が全国区に浸透していく。そして、さらなる事件が起こる。日本テレビ系ランキング音楽番組『ザ・トップテン』への出演だ。
ゴールデンタイムにお茶の間に放送される音楽番組の中継場所として、彼らが選んだのは、デビュー当時に拠点としていたライヴハウス、目黒鹿鳴館だった。今以上にアンダーグラウンド的な印象が強かったライヴハウスの熱狂がブラウン管に放たれたのだ。ステージに向かう階段に映し出された森山の背中は、戦場に向かう兵士のような佇まいだった。そしてオーディエンスの熱気で曇ったカメラは捉えたライヴハウスのリアルは圧巻だった。拳を振り上げステージに押し寄せるオーディエンス、そして強靭なビートを刻むステージから発せられる熱量は、何もかもが変わり始める音楽シーンを体現しているようだった。
この放送を見た全国の数多くのティーンエイジャーはギターを手にしてバンドを組んだ。これが数年後に巻き起こるバンドブームの嚆矢となった。そしてモッズは「激しい雨が」が収録されたアルバム『HANDS UP』のリリースを翌11月に控えていた。
THE MODS「激しい雨」
(【Part2】に続く)
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