文/田中久勝

ロックを歌っているときの秀樹さんはもう本当にかっこよかった。時間を置いてまたもう一度一緒にロックアルバムを作ることができたらどれだけ楽しかっただろうと思います
西城秀樹の22枚目のオリジナルアルバム『MAD DOG』が復刻リリースされた。ヒットメーカー・織田哲郎のプロデュースによるこの作品は、歌謡界の大スターに新たな光を当てたロックアルバムとして、今も多くのファンの記憶に刻まれている。同時発売されたシングル「走れ正直者」は、テレビアニメ『ちびまる子ちゃん』(フジテレビ系)の2代目エンディング曲として大ヒットし、日本で初めてスカがチャートを席巻した曲として音楽史にも残る。あれから30余年。2026年アルバムの復刻が実現したことを機に、当時の制作の舞台裏、西城秀樹という稀代のロックシンガーへの思いを織田が語ってくれた。
コンセプトはシンプル。秀樹さんの新しい可能性を提示すること、つまり“Another Side of 西城秀樹”を見せることだった
── 織田さんが最初に西城秀樹さんのことを意識したのは、中学生の頃だったそうですね。
織田哲郎 当時僕は父親の仕事の関係で中学時代の2年間をイギリスで過ごして、中3の時に帰国したばかりの時期で、テレビで秀樹さんが「薔薇の鎖」(1974年)を歌っているのを観たのが最初だったと思う。もう、とにかくマイクスタンドをあんな風に振り回して歌う人が日本にいるのかってすごい衝撃だった。イギリスのロックシーンを肌で感じて帰ってきたばかりで、向こうではT-REXのようなロックバンドやデヴィッド・ボウイみたいに自分達で音楽を作って、ファッションもトータルでプロデュースする人たちがスターとして存在していました。そういうアーティストがティーンエイジャーを熱狂させてヒットチャートの中心にいて、アイドル雑誌の表紙がT-REXだったりするわけです(笑)。ところがその感覚のまま日本に帰ってくると、当時のロックはまだアンダーグラウンドで、ヒットチャートは歌謡曲時々フォークという感じでした。そんな中で秀樹さんをテレビで観て、「こういう声もルックスもカッコイイ人がロックのボーカルをやってくれればいいのにな」って思ったことを今でも覚えています。
── 当時の「新御三家」の中でも、秀樹さんの存在感は強かったですか?
織田哲郎 御三家でいえば、郷ひろみさんは驚異的な美男子でアイドル然としていて、野口五郎さんはオーソドックスな歌唱が魅力的で、でも秀樹さんは歌謡曲を歌っていたけどロック感がとても強かった。
── 秀樹さんは手足が長くて、日本人離れしたスタイルで、しかも歌唱力はケタ違い。佇まいはまさにロックスターでした。織田さんはその後織田哲郎&9th IMAGEというバンドを結成し、1980年に発表したデビューアルバム『DAY&NIGHT』に収録されている「Dreamer」をのちに秀樹さんがカバーするという『MAD DOG』へとつながる縁ができました。今思うと9th IMAGEはものすごいメンバーが揃っていたバンドですね。
織田哲郎 なかなか面白いバンドでしたけど、ものすごく時代を逆行してしまって無視されましてね(笑)。ギターの北島健二君はFENCE OF DEFENCE、ベースの松井恒松君はのちにBOØWYのメンバー、ドラムの小沼俊明君は後のBARBEE BOYS、サックスの古村敏比古君は色々なアーティストのレコーディングやバンドに参加して、浜田省吾バンドには欠かせない存在と、今思うと本当にすごいミュージシャンが揃っていましたね。
── 活動は実質半年でした。
織田哲郎 キーボードの鈴木Jun1君が病気で入院して、急遽私がキーボードを弾きながら歌うことになって、無理な練習をしたら両手とも腱鞘炎になってしまって。それが40代まで尾を引きましたよ(笑)。結局、アルバム1枚で解散してしまいました。

織田哲郎 & 9th IMAGE『DAY&NIGHT』
1980年9月21日発売
── そのアルバム『DAY&NIGHT』の一曲目に入っている「Dreamer」を秀樹さんがカバーしました。
織田哲郎 秀樹さんが音楽番組で「Dreamer」をカバーしていたというのを人から聞かされて、嬉しかったですね。これにまつわる話で「バンドが解散して打ちひしがれていた織田が、秀樹さんが自分の曲を歌ってくれているのを知って、再び音楽をやる勇気をもらった」なんて美談になっていますが、はっきり言いますけど、あれは嘘です(笑)。全然そんな感動的な話じゃない。当時秀樹さんが歌ってくれたという事実を聞いた時、もちろんあの曲を選んでくれたことへの感謝はあった。秀樹さんのアンテナの鋭さには驚いたけれど「ああ、あんなに売れているトップスターが、僕らが一生懸命作っても全然売れなかった曲を、あんなにさらっと歌いこなしちゃうんだ…」ってむしろ、自分の力のなさを思い知らされたというか、音楽業界という場所の厳しさを再認識させられる出来事だった。
── そんな苦い記憶から年月を経て、1991年ついに織田さんが秀樹さんのシングルとアルバムを全面プロデュースすることになります。
織田哲郎 本当に嬉しかったです。きっかけはさくらももこ先生が秀樹さんの熱烈ファンで、『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマを秀樹さんに歌って欲しいということで、私が「走れ正直者」を書くことになって、それが縁でアルバムのプロデュースを、という話をもらって『MAD DOG』の企画がスタートしました。
── タイミング的には織田さんの曲がチャートを席巻している時で、多忙を極めていた時期だったのでは? 大スターのプロデュースということで、プレッシャーのようなものは感じましたか?
織田哲郎 確かに忙しい時期ではあったけど、中学時代から憧れていたスターと一緒に音楽を作れるなんて、それも自分が秀樹さんにこういう音楽をやって欲しいと思っていたものをプレゼンできるチャンス、しんどいもへったくれもないですよ(笑)。プレッシャーなんてなかったし、とにかく楽しみで仕方なかった。
── 『MAD DOG』は結果的に秀樹さんの最後のオリジナルアルバムになりましたが、やはり織田さんが言っていたようにロックが鳴り響いている作品になりました。
織田哲郎 コンセプトはシンプル。秀樹さんの新しい可能性を提示すること、つまり“Another Side of 西城秀樹”を見せることだった。当時の秀樹さんは大人のシンガーとして、バラードやAORっぽい路線の曲が中心になっていた。でも僕はさっきも出てきたけど「それだけじゃもったいない! もっとかっこいいロックが歌える人なんだから」ってずっと思っていたので、だから、作家陣にもこういう曲が欲しいというより、“あなたが思う、秀樹さんが歌うロックってどんなの?”という、あえて自由度の高いテーマで楽曲を依頼しました。
── それがアルバム全体の瑞々しさに繋がっているんですね。
織田哲郎 秀樹さんと同郷の奥田民生さんにも声をかけて、参加した全員が秀樹さんの新しい扉を一緒に開こうという熱意を持っていたからだと思う。そのイメージを最大限大切にしたので、それが瑞々しさに繋がっているのかもしれません。このアルバムは秀樹さんにとっても周りの人たちにとっても、可能性が広がるものにしたいという思いが強かったと思います。
きっとご自身も新しいことに飢えていたのだと思うし、一人のロックシンガーとして声を張り上げることを、誰よりも楽しんでいたと思います
── 一曲目の「Rock Your Fire」からまさに織田さんがイメージするロックボーカリスト西城秀樹をロックが“炸裂”しています。
織田哲郎 まさに1曲目から炸裂させたかった。特にボーカルの録音にはこだわって、秀樹さんの声の良さを最大限に引き出すために時間をかけました。コンプレッサーを強めにかけたり、今までの歌謡曲の録り方とは違うアプローチを試して、秀樹さんの声はこういう録り方をすると、より凄みが出るんだというのを見せたかった。
── 失礼な言い方かもしれませんが、当時ヒット曲を量産していた織田さんが“ヒットの方程式”を無視して、どこかブルージーで荒々しい手触りの、それまでの秀樹さんの楽曲にはなかったイメージの作品になっていると感じました。
織田哲郎 そうですよね(笑)。今思うとこの曲に限らず、もうちょっと売れることを考えて作れよって自分に言いたい(笑)。でも圧倒的な固定ファンもいるし、日本中に名前が知られているわけだから、言い訳に聞こえるかもしれないけど、その先に何かが繋がる形が作れたらいいという思いが強かったです。だからとにかく尖ってみようと。
── 「Rock Your Fire」と「蒼い月の悪戯」「Bad Angel」の3曲はサエキけんぞうさんが歌詞を手掛けていますが、サエキさんを起用した経緯は?
織田哲郎 一番“ぽくない”人が新鮮だったのかな……自分の中でそんな感じだった気がします。あえてそういう組み合わせにしたかったというか。そういう意外性みたいなものも、このアルバムには必要だと思っていたのかもしれません。
── 奥田さんが作った「きみの男」を最初に聴いた時はびっくりしました。ボサノバテイストで始まって、ロックになって、またボサノバに戻るというすごく複雑でユニークな構成でした。織田さん的にはいかがでしたか?
織田哲郎 秀樹さんと同じ広島出身で、奥田さん自身も秀樹さんに憧れを持っていたと聞いていたので、声を掛けて書いてもらって、上がってきた曲を聴いた時は、正直1ミリくらい悩みました(笑)。「走れ正直者」を書いたのは私だけど、アルバムとしては“二枚目な方向”のロックアルバムを作ろうと思ってたわけで(笑)。でも奥田さんの歌詞も曲もとにかく良くて、これはこれで面白いと思いました。秀樹さんが歌うことで大人の色気と遊び心が同居した、完成度の高い奥田民生作品になったと思う。
── タイトル曲の「MAD DOG」は、織田さんのアルバム『New Morning』に収録されている作品のカバーで、作詞・曲・アレンジが全て織田さんです。
織田哲郎 そうなんです。秀樹さんも気に入ってくださってアルバムに入れることになって、でも秀樹さんが歌うと見事に「西城秀樹の世界」になっていて、プロデューサーとしてその光景は本当に感慨深かったです。

織田哲郎『New Morning』
1984年5月21日発売
── 作家陣には葉山たけしさんや明石昌夫さん、寺尾広さんといった、当時のいわゆるビーイングサウンドを支えていたソングライターが参加しています。
織田哲郎 たぶんこのアルバムがなければ、秀樹さんとは出会うことがなかったであろう作家さんたちが集まってくれました。みんなやっぱり秀樹さんには憧れとリスペクトの気持ちを持っていました。「Bad Angel」は明石君のアレンジで当時のB’zなんかにも通じるようなパターンの完成度の高いロックで、秀樹さんのポテンシャルの高さを証明できた曲だと思う。「Good-By My Girl」は葉山君が曲とアレンジを手掛けてくれて、確か「思い切りギターを鳴らしてくれ」とリクエストしたと思う。
── イントロのギターのカッティングがカッコイイですよね。
織田哲郎 彼は当時から職人気質だったけれど、秀樹さんのボーカルを前にしてかなり気合の入ったトラックを作ってくれました。
── ラストは「走れ正直者」ですが、意外な方向の楽曲という意味ではアルバムのコンセプトと合致していますが、やはりバラードの「潮騒」で締めくくったという意識ですか?
織田哲郎 そうです。アルバムの締めくくりとしてあえて“鉄壁のバラード”を用意しました。
── 作詞は織田さんと黄金コンビと言われた亜蘭知子さんです。
織田哲郎 アルバム全体でロックを爆発させた後に、最後はしっかりと大人のシンガーとしての深みを見せて終わる。僕の中では、この曲でアルバムは完結しているんです。だから「走れ正直者」はボーナストラック的な捉え方で、秒数もだいぶ空いているはずです。「走れ正直者」はどうせ注目されるわけだから、それ以外は秀樹さんの新しい側面を提示することだけに集中しようという考え方だったので、結果的に一番大きなヒット曲がおまけ的な扱いっていう、なかなか面白いことになりました(笑)。
── レコーディングでの秀樹さんはどんな様子でしたか?
織田哲郎 とても真面目な方でした。私は「もっとこうしてみませんか」と細かいことをごちゃごちゃ言ううるさいタイプなんですが(笑)、秀樹さんは嫌な顔ひとつせず、「やりましょう!」って応えてくれました。きっとご自身も新しいことに飢えていたのだと思うし、一人のロックシンガーとして声を張り上げることを、誰よりも楽しんでいたと思います。スタジオでの秀樹さんは本当に生き生きとしていて、正真正銘のロックスターだった。
── 「走れ正直者」は「おどるポンポコリン」の後を受けての制作でしたね。かなりプレッシャーがあったのではないですか。
織田哲郎 本当にきつかった(笑)。「おどるポンポコリン」はあんなブームみたいになるとは思っていなかけど、その次のエンディングテーマがポンポコリンに比べてしょぼくなったって言われるわけにはいかない。でも何をやったって比べられるわけだから、逆にいえば斬新なことをやるチャンスじゃないかと。そこで、あえて開き直ってスカのリズムにしたんです。当時日本ではスカやレゲエはヒットしないっていうのが業界の定説だった。でも盆踊りで流れる曲にも裏アクセントな曲はあるし、沖縄民謡だってもともと裏打ちでレゲエ調の音楽ともすごく相性がいいけど、不思議なことに当時はなかなか裏打ちの曲は大きなヒットには結びつかなかった。でも、僕にとってスカはイギリス時代に日常的に聴いていた馴染みのあるリズムだったし、何より秀樹さんという稀代のボーカリストが歌うなら、この斬新なアプローチこそが、ポンポコリンの破壊力に対抗できる唯一の手段だと思った。『ちびまる子ちゃん』のパワーと秀樹さんのパワーが合わさって、正直売れないはずがないという状況だったとは思いますが……。
── さくらももこさんの歌詞についてはどう感じましたか。
織田哲郎 「走れ正直者」が曲先だったか詞先だったか……さくら先生と作ったものはいつもそれがわからなくなるんですが、あれは曲先だった気がする。でも先生の詞はメロディを決めてからでも、ちゃんとそこにはまってくる。グルーヴが詞自体に生まれているんですよね。よく秀樹さんがあの企画を受けてくれたなとは正直思いました(笑)。でも秀樹さんが熱唱してくれた。あれはすごいです。
── あの早口で畳みかけるような熱唱は、秀樹さんにしかできない芸当でした。結果として「走れ正直者」は日本でスカが最初にヒットした曲とも言われています。
織田哲郎 あの熱唱も照れずに、真面目に、本当に圧巻でした。秀樹さんの情熱が加わって、唯一無二の曲になったと思います。
── 結果的に「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」と並んで、幅広い世代まで訴求できた秀樹さんの代表曲になりました。
織田哲郎 さすがに「おどるポンポコリン」には及ばなかったですけど、ちゃんと注目を集める作品になってくれました。ヒットチャートにも入ったし、その後の日本のスカシーンにも繋がっていると思うと、音楽的な意味でも意義があった一曲だったと感じています。
── 改めてアルバムを聴き直してみて、いかがですか?
織田哲郎 秀樹さんが本当に生き生きしていると感じます。次のオリジナルアルバムに繋がって欲しかったってそれはすごく思います。ぜひ続きをやらせて欲しかったです。大スターはこんなにかっこいいロックもできるんだという事実が、この1枚にちゃんと残っています。1991年に秀樹さんがコンサートのゲストに呼んでくださって1本のマイクで一緒に歌ったことは忘れられません。ロックを歌っているときの秀樹さんはもう本当にかっこよかった。時間を置いてまたもう一度一緒にロックアルバムを作ることができたらどれだけ楽しかっただろうと思います。私も向こう行った時は秀樹さんがボーカル、私がギターで一緒にバンドをやれたらいいって思っています。

織田哲郎(おだ てつろう)
1979年、プロデュースユニットWHY(織田哲郎・北島健二・長戸秀介)でデビュー。翌年、織田哲郎&9thIMAGEで再デビュー。1983年、織田哲郎としてソロデビューする。デビュー当初からCMやアーティストの音楽制作に携わり、「シーズン・イン・ザ・サン」「負けないで」「世界が終るまでは…」など次々とヒット曲を生み出す。B.B.クイーンズに提供した「おどるポンポコリン」はレコード大賞を受賞。自身のシングル「いつまでも変わらぬ愛を」はミリオンセラーとなった。これまでに4,000万枚を超えるCDシングルセールスを記録し、日本音楽史上歴代作曲家売上げランキング第3位。その後もKinKi Kids、AKB48など多くのアーティストに楽曲を提供。さらにアニメの主題歌や劇伴制作などにも活躍の場を広げ、多忙な制作活動の中、自身のライブ活動も精力的に行っている。2015年にダイアモンド✡ユカイらとROLL-B DINOSAURを結成。2018年~2024年に上杉昇、NoBらと中国各地でアニメファン向けの公演を開催。2019年からYouTubeチャンネルを開設し、現在登録者数は約14万人超。
▼織田哲郎オフィシャルサイト
https://t-oda.jp/
https://ameblo.jp/oda-tetsuro/
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https://www.facebook.com/tetsurooda.tscorp#
https://www.youtube.com/@tscorporation7582

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