2026年3月号|特集 日本シンセサイザー音楽の曙
第1回:ウェンディ・カルロス|日本に影響を与えた五大シンセサイザー音楽家
解説
2026.3.2
文/中野泰博

第1回:ウェンディ・カルロス
シンセサイザーはじめの一歩。シンセサイザーが“タンスのように”大きく、価格は60年前で一千万円もして、その全てを使って出せる音は「ピー」という単音だけで和音は演奏できず、作った音をメモリーすることも出来ない、そんな時代にオーケストラ楽曲を電子音で再編した作品を作ったパイオニア人物。つまりとんでもない人。
出世作『スウィッチト・オン・バッハ(Switched-On Bach)』は’68年に発表された作品で、それはその「ピー」という一音一音を、加工し、磨き、重ね、多重録音を繰り返すという、途方もない手間と作業の末に作られたアルバムだった。
この作品、ひいてはウェンディ(ウォルター)・カルロスの音の性質を「クラシック、既存楽器のシミュレート」とする解釈が見受けられるが、カルロスは決してシンセをありものの楽器に似せようとはしておらず、非常に純度の高い電子音を創出してリ・アレンジをしていたことを指摘しておきたい。

Walter Carlos
『Switched-On Bach』
1968年10月発売
ともすれば大コケしたかもしれない前代未聞のこの音楽は好意的に受け取られ、Billboard 200の10位、クラシカル・アルバム・チャートの1位を記録し、グラミー賞の3部門を受賞した。この作品以前にも電子音=初期のシンセサイザーを音楽に使用した例は沢山あったものの、それらはほとんどが「ピューン」とか「シュワーン」といった効果音というかギミック的な使用で、この装置をコントロールしまっとうな音楽を構築したのはカルロスが初と言っても過言ではなく、以降への影響は多大なものがあった。
我が国では冨田勲が’69年に大阪市の輸入レコード店で『スウィッチト・オン・バッハ』を購入したことがきっかけで、2年後、モーグ・シンセサイザーを日本で初めて個人輸入したものの、楽器とみなされず税関でストップしたとか、マニュアルが無かったために音を出すまで悪戦苦闘し、音が出たら出たで今度は止め方がわからず電源を抜いたなど、様々なエピソードが語り継がれている。その冨田作品『月の光』も当初は国内レコード会社に見向きもされなかったためにアメリカRCAからリリースされ、結果的にビルボード全米クラシカル・チャートで第2位のヒットとなった。
翌’69年にはセカンド・アルバム『スウィッチト・オン・バロック(The Well-Tempered Synthesizer)』を発表、’72年には映画『時計じかけのオレンジ』のサントラにヴォコーダーを施した唄を導入したベートーベンの「第九」などで参加した。このサントラは14分近いオリジナル曲「Timesteps」で幕を開けるものの、カルロス曲だけではなく、オーケストラで演奏したエルガーの「威風堂々」やジーン・ケリーの「雨に唄えば」も収録されており、当初カルロスが用意していた音楽は一部しか使用されていなかったため、それらは『Wendy Carlos’s Clockwork Orange』としてリリースされた。

Wendy Carlos
『Wendy Carlos’s Clockwork Orange』
1972年発売
70年代はクラシック・モチーフの作品=アルバムとして『スウィッチト・オン・バッハ第2集(Switched-On Bach II)』(’73年)や『シンセサイザー大騒動(By Request)』(’77年)と題してチャイコフスキーやメンデルスゾーンを扱っていた。こんな人がメカマニアで無い筈がなく、’92年の『新スウィッチト・オン・バッハ(Switched-On Bach 2000)』はコンピューターやデジタル録音を駆使して制作された。
サントラも’80年に『シャイニング』 、’82年には『トロン』といった話題作も担当し、同時進行でオリジナル曲によるアルバムもコンスタントに制作を続けた。
さて、カルロスを語るさい、避けて通れないのが「性転換」の逸話で、Wikiや公式媒体では「幼少期からそれを意識し、’68年からホルモンを投与し、’72年に性別適合手術を行った」と記されている。
以下は私の私見になり、確固たる確証は無い見解を述べさせていただきたい。この人、どうも一般的な性同一性障害と思えないフシがあるのだ。カルロスの音楽およびテクノロジー、電子楽器へのアプローチは微細にして偏執的なまでのこだわりがあり、例えるならオーディオ・マニアのケーブルの太さ素材や電流にまでのこだわりや、数週間にコンマ一秒の狂いも妥協せず微調整を続ける時計職人のような、そういった姿勢は極めて男性的だと思うのだ。なのでカルロスの性転換は性同一性障害が主原因ではなく、たとえその要素があったにせよ「音楽同様に自身をシンセサイズする」欲求に抗えなかったからのように思えるのだ。

Wendy Carlos
『Secrets Of Synthesis』
1987年発売
あまり取り上げられることの少ないリリースで’87年のCD作品に『Secrets Of Synthesis』というアルバムがあり、これは既発表の楽曲を例にカルロス自身がその制作方法、オーケストレーションやヴォコーダーの効果、多重録音方法などを解説する企画もので、楽曲は再収録ながら特筆すべきはそのナレーションの声。見事な女性声で、それは凡百の性転換者のどこか男性のトーンが残るものではなく、誰が聞いても正真正銘の女性声になっており、何のエフェクトもかけていないその「完璧に作られたオバサンの声」がカルロスの音楽クオリティと人となりを体現しているので是非耳にされることをお勧めします。
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