2026年3月号|特集 日本シンセサイザー音楽の曙

【Part1】日本シンセサイザー音楽ヒストリー

解説

2026.3.2

文/小暮秀夫


Part1:日本シンセサイザー音楽黎明期


 日本におけるシンセサイザー音楽の源流を辿ると、戦後の現代音楽と実験音楽の現場へと行き着く。高度経済成長の入り口に立った1950年代、日本は敗戦の痛手から立ち直りつつあったが、同時期のヨーロッパではすでに「音」そのものを素材とする革新的な作曲実践が始まっていた。

 西ドイツ・ケルンのWDR(西ドイツ放送)電子音楽スタジオでは、カールハインツ・シュトックハウゼンらが純粋電子音による作曲を推進。電子音の変調や合成などで従来の楽器に依存しない音楽を構築した。一方フランスでは、ラジオ局の音響技師であったピエール・シェフェールが提唱したミュージック・コンクレートにおいて、列車の走行音や日常音を録音・加工し、テープ編集を作曲行為へと転換させた。電子技術は単なる録音手段ではなく、「音楽の思考法」そのものを変える契機となったのである。

 この潮流は日本にも波及する。NHKは1954年に電子音楽制作の実験を開始し、1956年にNHK電子音楽スタジオを設立した。ここはアジアにおける電子音楽制作の重要拠点となり、黛敏郎、諸井誠、湯浅譲二、武満徹、一柳慧らが参与した。彼らは当時最先端の機材を駆使し、音色そのものを構造化する作品を発表していく。そうした実験によって創出されたテープ音楽作品や電子作品には、音響空間を彫刻するような発想が見られ、後年のアンビエント的感性の萌芽も感じられる。


V.A.
『湯浅譲二:ピアノ作品集/テープ作品集』

1995年4月21日発売


 しかし、これらの電子音楽は主にラジオ放送や現代音楽の演奏会という限定的な場で発表されたこともあり、大衆には「コンセプチュアルで難解な音楽」という印象を持たれ、大衆文化へ広く浸透するには至らなかった。その状況を大きく変える転機となったのが、’64年にアメリカで誕生したモーグ・シンセサイザーである。開発者のロバート・モーグは、電圧制御によって音程・音色・音量を自在に操るモジュラー方式を採用。それらを鍵盤で演奏可能な楽器として実用化した。この革新を決定的に世に知らしめたのが、ウォルター・カルロス(現在はウェンディ・カルロス)が’68年に発表したアルバム『スイッチト・オン・バッハ』である。同作は全米アルバム・チャートにトップ10入りし、クラシック部門で長期チャートイン。グラミー賞では3部門を受賞した。バッハ作品を多重録音で精緻に再構築したこのアルバムは、シンセサイザーを実験装置からポピュラー音楽市場へと押し出す決定打となった。そしてモーグ・シンセサイザーでクラシック、ポップス、映画音楽、イージーリスニングなどをカバーした多数の企画アルバムが市場にあふれることとなったのである。

 この新しい楽器をいち早く日本へ本格導入したのが冨田勲である。’74年発表の『月の光』は、ドビュッシー作品をモーグで再創造したアルバムだが、その意義は単なるクラシックの電子化にとどまらない。冨田は音色設計、アレンジ、多重録音、ミキシングまでを一人で手がけ、シンセサイザーを「個人のオーケストラ」として機能させた。これは音響空間そのものを再設計する試みだった。


冨田勲
『月の光』

1974年8月25日発売


 同作はアメリカでも’74年に発売され、ビルボードのクラシカル・チャート上位にランクイン。グラミー賞にも複数部門でノミネートされるなど国際的評価を獲得した。冨田の成功は、日本の電子音楽が世界市場で通用することを示した象徴的出来事である。

 同時期、日本のシンセサイザー音楽の可能性を多面的に押し広げたのが、田崎和隆、神尾(有島)明朗、初期メンバーの鈴川元昭から成るバッハ・リヴォリューションだ。日本最初期のシンセサイザー・グループである彼らは実験的電子作品「我が心いまだ安らかならず」をパリで開かれたISCM(国際現代音楽協会)主催の音楽祭に出品し、’75年度の大賞を受賞するという快挙を成し遂げた。この成功を受け、冨田の推薦により’76年にアルバム・デビュー。実験性と東洋的精神性を併せ持つ作風は、後年のアンビエントやニューエイジ的潮流とも響き合うものだった。


バッハ・リヴォリューション
『我が心いまだ安らかならず』

1976年発売


 さらに彼らは、シンセサイザーの教則レコードや企画物レコードの制作、ヤマハのシンセサイザー教室の運営にも関与し、シンセサイザーの音作りのノウハウを普及させた。これは単なるアーティスト活動にとどまらず、文化的インフラの整備と言える。

 同様に、冨田のアシスタントを経て独立し、70年代終盤から80年代に「第4のYMO」として注目される松武秀樹は、音色設計を専門職として確立し、日本におけるシンセサイザー・プログラマーという職能を可視化した重要人物である。

 こうした流れの中で、シンセサイザーは「未来」「宇宙」「精神世界」を描写する楽器としてのイメージも帯びていく。その象徴的存在が喜多郎である。彼が在籍していたファー・イースト・ファミリー・バンドは、ドイツの電子音楽家クラウス・シュルツェ(元タンジェリン・ドリーム)のプロデュースで’76年に『多元宇宙への旅』を発表。コズミックでサイケデリックなプログレッシヴ・ロック・サウンドを展開していたが、ソロ転向後は’80年放送開始のNHK特集『シルクロード』の音楽を担当したことで全国的知名度を獲得。ニューエイジ音楽の代表的存在として今や国際的成功を収めている。


ファー・イースト・ファミリー・バンド
『多元宇宙への旅』

1976年発売


 冨田が西洋近代音楽を電子的に再解釈したのに対し、喜多郎は自然や宇宙、精神性を描く音響世界を提示した。バッハ・リヴォリューションは実験精神と教育活動を通じて土壌を整えた。そしてスペースの関係で省略させていただいたが、同時期に同様の役割を担ったアーティストは他にもたくさんいた。これらの基盤の上に、やがてテクノポップとニューウェイヴの波が押し寄せることになる。シンセサイザーはもはや特殊な研究装置ではなく、ポップ・ミュージックを変革する主役へと変貌していくのである。本稿で辿ったのは、その壮大な展開の前史にあたる。未知の楽器だったシンセサイザーが、日本においてどのような実験と試行錯誤を経て、一般大衆に受容されていったのか。この過程こそが、後の爆発的発展を準備した最初の(それも相当、端折った形での)歴史なのである。

(【Part2】に続く)



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