2026年1月号|特集 ガールズ・ロック

【Part1】白井貴子スペシャル・ロングインタビュー

インタビュー

2026.1.5

インタビュー・文/大谷隆之 写真/山本佳代子


80年代から急激に増え始めた女性ロックシンガー。その最前列で突っ走っていたのが白井貴子であることに異論はないだろう。「Chance!」「FOOLISH WAR」「NEXT GATE」といったエモーショナルなナンバーやライヴでのパフォーマンスが話題になり、“学園祭の女王”や“ロックの女王”と称されるほどになった。ここでは80年代の盛り上がりを軸に、生い立ちから現在の活動まで、45年に渡るキャリアを振り返ってもらった。

曲作りが私を助けてくれたっていうか、次の人生を与えてくれた感じがありました。


── 1981年11月1日、白井さんのファーストシングル「内気なマイ・ボーイ」が発売されました。2026年はデビュー45周年。率直にどんな感じがしますか?

白井貴子 何だろう……他人事みたいにびっくりしちゃいますね(笑)。45年という時間って、ひとりの人間にとってはやっぱり膨大じゃないですか。その間、本当に山あり谷ありで。「いろいろやってきたなぁ」という感慨はもちろんありますし。一方で「あっという間だった」と感じている自分もいたりして。月並みだけど時間って不思議だなと思います。

── 今月24日には“盟友”のTHE CRAZY BOYSを率いて、1986年の名盤『RASPBERRY KICK』を再現する一夜限定のライヴも開かれます。

白井貴子 2024年以降、毎年この時期に当時のメンバーで演奏しているんですよ。春坊(2022年に亡くなったベースの春山信吾さん)がいないのは寂しいけど、ピンチヒッターで参加してくれた岡部(晴彦)くんが新しいパワーを注入してくれて……。自分で言うのも何だけど、今のTHE CRAZY BOYS、すごくいい状態だと思う。何より、40年以上経っても同じ楽曲でお客さんと盛り上がれるのが嬉しいなって。

── 6枚目のアルバム『RASPBERRY KICK』がリリースされた80年代の半ば、白井さんは多くのメディアで「ロックの女王」「学園祭の女王」などと呼ばれていて……。

白井貴子 はははは、ありましたねえ、そんな時代も。まあ今と違って、女性のロックシンガー自体が少なかったからね。マスコミ的にはもの珍しさもあったんじゃないかな。

── 私は10代でしたが、当時の邦楽シーンにおける白井さんのフレッシュな存在感はよく覚えています。熱いステージングに加えて、キャッチーな曲を生みだす才能も際立っていた。デビュー以降、ほぼすべての楽曲をご自身で書いておられるでしょう。

白井貴子 ええ。

── 最初に、ロックとの出会い。ソングライター白井貴子にとっての原風景というのはどの辺りにあるんですか?

白井貴子 最初はやっぱりビートルズですね。私は神奈川県の藤沢出身なんですけど、小学校の頃、家に叔父が同居していまして。年齢がひと回り上なので、当時はまだ大学生。この叔父がビートルズの大ファンで、いつもレコードをかけていたんです。それで完全に刷り込まれちゃった。ちょうど彼らが来日した時期で、きっと日本中で大フィーバーだったんだと思います。本棚にアルバムが飾ってあったのを覚えています。

── ビートルズ来日は1966年夏。白井さんは7歳です。ちなみに飾られていたのは?

白井貴子 『ミート・ザ・ビートルズ』です。でも実をいうと私、家で流れているのがビートルズの曲だって知らなかったんですよ。子ども心に「調子のいい曲だな」と感じるだけで、誰が演奏しているかまでは意識しなかった。その頃、叔父さんの部屋に大学のクラスメイトがよくたむろしていたのね。学校から帰ると「よう! オタカ、踊ってみろよ」なんてからかわれて。こっちも調子に乗ってね、流行りのゴーゴーダンスを披露したりしてました(笑)。

── ははは、想像すると微笑ましいです。じゃあ性格的にはかなり活発な方だった?

白井貴子 だと思いますね。特に小さい頃は。4つ年下の弟としょっちゅう取っ組み合いのケンカをしていましたし(笑)。小学校5、6年のときは藤沢市の水泳大会で連続優勝もしたんですよ。だからその頃は、音楽よりむしろスポーツで身体を動かしたりする方が好きだった。本当の意味でビートルズに目覚めたのは中学に入ってから。

── 何かきっかけがあったんですか?

白井貴子 ’72年なので、中学2年のときかな。ビートルズのデビュー10周年を記念する大々的なフェアがあったんです。その頃、私は父親の仕事の都合で京都に引っ越していたんだけど、テレビ、ラジオの特番から街中まで、至るところでビートルズ・ナンバーが流れていた。で、不思議なことに、それをぜんぶそらで歌えたのね。初めて出会ったはずなのに、かかる曲かかる曲、イントロから口ずさめちゃった。

── なるほど。叔父さんによる刷り込み教育の効果が。

白井貴子 そうそう。まるで記憶喪失から回復したみたいで、あれは面白い体験だったなぁ。そこからハマるまでは早かったですね。最初に買ったアルバムは『ラバー・ソウル』です。理由は大好きだったジョージ(・ハリスン)が可愛く写っていたから。いわゆるジャケ買いですね。それもわざわざ彼の誕生日に買ったんですよ(笑)。

── ははははは。白井さん、今でいう“ジョージ推し”だったと。

白井貴子 韓流アイドルを追っかけている今の若い子と同じ感覚ですよね。そこから『アビイ・ロード』とか他のアルバムもいろいろ買って、隅から隅まで聴き込みました。あとは映画だよね。八坂神社のお向かいにある祇園会館で、特集上映があったんです。たしか『ハード・デイズ・ナイト』『ヘルプ! 4人はアイドル』『イエロー・サブマリン』『レット・イット・ビー』の4本立てじゃなかったかな。午前中から始まって、映画館を出るともう辺りは真っ暗。中学のクラスメイトの男女グループで行ったんですけど、終わった頃にはお尻が痛かった。クラスメイトの男の子と交換日記を始めても、お互い書くのはビートルズの話題ばかりだったりしてね(笑)。ほんと、あの頃はビートルズに夢中だった。

── 聴くだけでなく、歌うことも多かったんですか?

白井貴子 うん。生徒手帳に「オー! ダーリン」の歌詞を書いて、休み時間に校舎裏で歌ったりしていましたよ。特に中学生活の前半はうまく関西弁の輪に入れず、孤独を感じることも多かったので。歌うことで心を慰めていた部分もあったと思う。音楽ってそういう力があるじゃないですか。ずっと後年になりますが、両親の介護問題に直面したときもそう。寝ても覚めても心が休まらず、しんどい思いをしていた時期、久しぶりにライヴがあったんですね。それで思いがけず自分が癒やされたというか、歌に救ってもらった。やっぱり音楽って素晴らしいなって心から思いました。



── きっと中学時代の白井さんも、同じ力をビートルズの曲によって感じたんですね。ちなみに歌以外にも、何か楽器はされていました?

白井貴子 7歳のとき、父がアップライトのピアノを買ってくれて。非常に封建的な考え方の人で、「女の子はピアノ、男の子は野球」みたいな思い込みがあったんでしょうね。ごく普通のサラリーマン家庭でしたが、毎週ピアノの先生が自宅に来ていました。でも私、レッスンが嫌で嫌でしょうがなくて…。

── 当時はスポーツ少女だったから。

白井貴子 マンガみたいな話ですけど、父は、押し入れに逃げ込んだ私の首根っこを捕まえて、無理やりピアノの前に座らせるような人でした。庭の垣根を裸足で飛び越えたこともあります。そしたら背後から“ドッドッドッ”っていう大きな音がして。振り返ると父も裸足で追いかけてきていたという(笑)。

── それもまた、すごいエピソードですね……。

白井貴子 でしょ(笑)。でも小さい頃は苦痛でしたけど、結局そのとき習っていてよかったんですね。中学に入ってからは、それこそ「レット・イット・ビー」とか、あとはラジオでよくかかっていたシカゴの「サタデイ・イン・ザ・パーク」とか。好きな曲を一生懸命覚えては、遊びで歌うようになったので。サラリーマンのお給料でずっとピアノを習わせてくれた父に、今となっては感謝です。高校に上がる頃には京都のディスコにも通うようになって。ビートルズ以外にもデヴィッド・ボウイ、T. Rex、グランド・ファンク・レイルロード、アリス・クーパー。ポップでキャッチーなロックを、広く浅くいっぱい聴いていました。

── そういえば白井さん、高校時代に週刊誌のグラビアを飾ったことがあったとか。

白井貴子 よくご存じで(笑)。そう、あれは高1の夏、福島県の郡山で「ワンステップフェスティバル」っていう大きな野外音楽イベントがあったのね。日本のロックミュージシャンがこぞって参加する中、オノ・ヨーコさんも出演されていて。ビートルズ・ファンの私はどうしても彼女を生で見たくて、親に頼んで京都から行かせてもらったんです。で、いよいよ会場のゲートが開いて、最前列を取りたくて全力疾走しているところを「週刊文春」にパシャっと撮られちゃった。

── 当然そのときは気付いてないわけですよね。発売された雑誌を見て驚いたんじゃないですか?

白井貴子 そりゃあもう。自分でカットしたジーンズに、緑色のストッキングを履いた写真で。しかも不良少女っぽい扱いで「ロック・イベントに群がる女の子たち」みたいな見出しまで付けられちゃった。今は大型フェスも当たり前に開催され、親子連れのお客さんも多く良い時代になりましたが、’74年頃のあの頃はロックコンサート=不良 、エレキ持ったら不良という、まだまだ日本はそんな時代でした。。

── でも白井さんは、中学・高校とどんどんロックに夢中になっていったと。ご自分でも曲を書いてみようと思われたのは?

白井貴子 うーん、いつ頃だったかなぁ。それこそ「ワンステップフェスティバル」の少し前ですかね。小坂明子さんの「あなた」という曲がすごく流行ったんです。いわゆるシンガーソングライター的な、飾り気のないシンプルな曲調で。今にして思えば失礼な話なんだけど、「あ、これなら私にも書けそう」って思ったのね。でも当然、やってみたら全然ダメだった。頭の中にメロディーは浮かんでいるのに、それを譜面にできないことに気がついたんです。で、そのときは諦めて投げ捨てちゃった。

── なるほど。おそらくそれが15歳くらい。

白井貴子 それくらいかな。で、それからしばらくたって、高3になって進路を決めなきゃいけなくなったとき。せっかく努力するなら、好きな音楽がいいんじゃないかと思って。夏あたりから音大を目指して勉強を始めたんですね。1日10時間くらいピアノを練習し、本腰を入れて譜面の勉強もして。ふと気が付くと、頭に思い描いたメロディーを楽譜に起こせるようになった。

── へええ、面白いですね。捨ててしまった最初の曲もスコアにしたんですか?

白井貴子 したと思います。というか、スラスラ書けるから自分でも面白くなっちゃって(笑)。そこからですね、自分で曲を作るようになったのは。結局、受験の方は1年間浪人して。フェリス(女学院短期大学)の音楽科というところに入りました。クラシックを本気になって勉強したのが遅かったので、 課題曲をまともに弾けるようになるのに一苦労しました。だからキャンパスライフを満喫することもなく、2年間ほぼピアノ漬けの日々だった。ただ、この時期から友だちに誘われてバンド活動は始めていました。といってもメインのヴォーカルではなく、コーラスのお手伝いという感じですけど。あと、細々と曲作りもしていたみたいですね。というのも最近、当時もらった「ポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)」の申し込み用紙が出てきたの。完全に忘れていたので、自分でもびっくりしたんですけど(笑)。

── ということは、その時点ですでにプロ志向が芽生えていた?

白井貴子 いえ、まだ全然。自分の曲が通用するかどうかという、腕試しみたいな感覚だったんじゃないかな。ポプコン以外に「原宿音楽祭」にも応募しました。そっちの曲は今も何となく覚えていますよ。

── じゃあ音大に2年間通った後は?

白井貴子 つてを頼ってインテリアデザイン関係の会社に就職しました。通っていたのが「幼児教育ピアノ科」だったので、順当にいけばピアノの先生になるはずだったのね。実際ヤマハから内定もいただいたんですけど、直前になってもうちょっと広い世界で仕事がしたくなって。で、OLとして働きだしました。ところがこの職場で、けっこう大きな転機があったんですね。入社半年後ぐらいに、その会社がショールームを兼ねて喫茶店を始めまして。「女子はそっちを手伝って」とばかりに私が配属になっちゃったのね。

── へええ。けっこうショックですよね、希望に溢れた新人にとっては。

白井貴子 まあこっちも若かったですしね。せっかく世界を広げようと思ったのに、むしろ狭い厨房に閉じ込められた感じがしちゃった。逆にいうとそれが起爆剤になって外に目が向いたというか。お遊び感覚だったバンド活動にどんどん熱が入っていきました。コーラスだけじゃなく、自分からソロのマイクも持たせてもらうようにして。曲も意識的に書くようになった。

── なるほど。そこでモードチェンジがあって、’81年のデビューに繋がっていったわけですね。実は今回、デビューアルバムの『Do For Loving』をじっくり聴き込んでみまして。22歳のときの作品ですが、ソングライティングの水準の高さに改めて驚かされました。

白井貴子 ああ、ありがとうございます(笑)。


白井貴子
『Do For Loving』

1981年11月21日発売


── 作詞家の竜真知子さんが入った数曲を除いて、ほぼ全曲が白井さんのオリジナルです。まだ経験も少なかった当時、曲はどんな感じで作っておられたんでしょう?

白井貴子 そこは15歳の頃からほぼ変わっていません。とにかく頭の中でメロディーが聴こえてきて。それを口ずさんでいるうちに「あ、これは誰の曲でもないな」と思って譜面に書きとめる。今に至るまで、ほぼすべてこのパターンです。

── たとえばリフとかコード進行から曲を作っていくことは?

白井貴子 うーん……ないんじゃないかな。そんな知識もテクニックもないですし。

── やっぱり天性のメロディーメイカーなんですね。

白井貴子 どうでしょうね(笑)。でもそれで言うと私、実はデビュー前に大失恋をしちゃったんです。で、その後、自分で自分の身を守るみたいな感じで、ぶわーっと曲がたくさん浮かんできた。ですから、よくよく聴いていただくと、ファーストアルバムの収録曲ってほぼ失恋ソングなんですよ(笑)。今にして思えば、あの経験はものすごい突破口になった気がする。

── 1曲、2曲ではなくて、後から後から出てくる感じだった?

白井貴子 ええ。そういえばつい先日、フォーククルセダーズのきたやまおさむさんとライヴでご一緒したんですね。北山さんは長年精神科医のお医者様をやられていることもあって、この話をしたらすごく興味を持ってくださって。人間ってすごくショックなことがあると、それを修復するために別のエネルギーが一気に噴き出したりする。もともと脳にそういう自然治癒の働きが備わっているみたいなんですね。で、私の場合はそれが音楽だった。曲作りが私を助けてくれたっていうか、次の人生を与えてくれた感じがありました。

── それぐらい自然な流れだったと。

白井貴子 はい。その一方、歌詞の面ではいろいろ苦労も多くて。プロの作詞家の方に補作してもらったり、ときには自分の書いたものが全ボツになったりね。デビュー後もけっこうしんどい思いをしたんですけど……。ことメロディーに関しては、最初に降りてきたインスピレーションをうまくキャッチできるかどうかが勝負。あれこれ考えて悩むこと、実はあまりないんです。

── そう考えると、ビートルズをはじめ白井さんの中で蓄積された何かが、デビュー前の大失恋をきっかけに一気に開花したのかもしれませんね。

白井貴子 そうね。あの失恋は、神様が遣わしたハレー彗星だった気がします(笑)。

【Part2】に続く)




●白井貴子 (しらい・たかこ)
シンガーソングライター。1984年「Chance!」のヒットを機に「渋谷ライブイン10DAYs」「西武球場ライブ」を成功させ「ロックの女王」と呼ばれ、女性ロックの先駆者的存在となる。1988年、ロンドンに移住。帰国後、ロンドンでの自然豊な生活をきっかけにエコロジックな生活を実践すると共に音楽活動再開。2016年フォーククルセダーズの北山修氏から「次世代に北山修作品を歌い継ぐ歌手」に抜擢され、北山氏との共作3曲を含むアルバム『涙河 白井貴子「北山修/きたやまおさむ」を歌う』をリリース。2019年京都佛立ミュージアムにて初個展「母 TSUNAGU 未来展」開催。2022年「NEXT GATE 2022」初配信。2023年長年、難病の母を介護し、看取り〜葬儀までを家で執り行った体験を綴った初執筆本『ありがとう Mama』を母の故郷「豊中」にて「母の日」に出版。楽曲「Mama」とMVも配信。2023年11月1日、1985年発売の大ヒットアルバム、白井貴子&THE CRAZY BOYS『FLOWER POWER』のアナログレコードが38年の時を経て復刻リリース!2026年1月7日1986年発表の通算6枚目、白井貴子&CRAZY BOYS名義となって2枚目のアルバム『Raspberry Kick』を当時の【未発表ライブ音源(ジャパンエイドのPRイベントととして全英に放送された渋谷でのライブ)7曲をボーナストラックとして収録し、復刻発売。2026年1月24日Zepp Yokohamaにて白井貴子&THE CRAZY BOY『Raspberry Kick再現ライブ&SDGsカーニバル』ライブ開催。90年代の楽曲も次々配信スタート!2026年11月1日にデビュー45周年を迎える。神奈川県環境大使・GREEN×EXPO 2027応援団長に就任。

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白井貴子の名盤アルバム『Raspberry Kick』が2026年1月に復刻!