2025年10月号|特集 作曲家で聴く松田聖子

【Part1】財津和夫スペシャル・ロングインタビュー

インタビュー

2025.10.1

インタビュー・文/栗本斉 写真/山本佳代子


松田聖子のデビュー45周年を記念して、“Composer Series” というコンピレーション・アルバムが4タイトルリリースされる。この企画は彼女に楽曲提供した主要な作曲家4人、財津和夫、大瀧詠一、細野晴臣、呉田軽穂(松任谷由実)にフォーカスした作品集で、あらためて松田聖子のスタッフワークのぜいたくさを実感できる内容でもある。

ここでは、財津和夫作曲の作品集『Seiko Invitation -Kazuo Zaitsu Works-』のライナーノーツ用に取材した、財津本人へのインタビュー取材の完全版を掲載。「チェリーブラッサム」、「白いパラソル」、「野ばらのエチュード」といったシングルヒットの他、ファンに人気の高いアルバム曲など多数の名曲を提供した彼が、当時どのような想いで松田聖子に関わっていたのかをじっくりと語ってもらった。



松田聖子
『Seiko Invitation -Kazuo Zaitsu Works-』

2025年10月15日発売
▲1981年〜1984年に財津和夫が作曲した松田聖子集



聖子ちゃんに関してはすべて曲先でした。だから、三浦(徳子)さんや松本(隆)さんといった作詞家の方は、本当に苦労されたと思います(財津)


── まずはここから聞かなければと思うのですが、財津さんと聖子さんの馴れ初めというか、財津さんへの楽曲提供依頼の経緯を教えていただきたいのですが。

財津和夫 なんてことはないんです。スタッフから「曲提供の話が来たよ」って聞いただけ。僕は主にTULIPというバンドで活動していましたが、昔からいろんな人に曲を作って歌ってもらうのは好きだったので、一も二もなく引き受けました。しかも聖子ちゃんはすでに売れていたから、これはもう最高の話をもらったなと思って(笑)。後から聞いた話だと、プロデューサーだった若松(宗雄)さんが「財津に曲を書かせよう」っておっしゃっていただいたようですね。若松さんには本当に感謝しています。

── 聖子さんのデビュー当時からしばらくは小田裕一郎さんが曲を書かれていて、その後、財津さんに白羽の矢が立って、そこから曲のイメージがガラッと変わったという印象がありましたが、意識的に “松田聖子にはこういう曲を書きたい” という気持ちはあったのでしょうか。

財津和夫 そんな余裕はなかったですね。とにかく自分の好きな曲、自分でも歌いたくなるような曲を書いてみようっていうくらい。

── 聖子さんの歌声はすでに聴いていらっしゃいましたか。

財津和夫 もちろん聴いていましたし、すごく伸びやかな声という印象だったので、それも手伝って、僕も自由にやってもいいかなっていうのはどこかにあったと思います。

── 最初に提供した「チェリーブラッサム」は’81年のリリースですが、その時点ですでに他の方への楽曲提供はされていたわけですよね。

財津和夫 あまり覚えてないんですが、木之内みどりさんやあべ静江さんなどに書いていました。ただ、聖子ちゃんに楽曲提供してからは格段にオファーが増えたのは間違いないですね。そういう話があったらすぐ飛びついてしまうので(笑)。


松田聖子
「チェリーブラッサム」

1981年1月21日発売シングル


── TULIPとソロでの活動でお忙しかったと思うのですが、ソングライターとしての活動も積極的だったと。

財津和夫 そうですね。依頼があるとやっぱり嬉しいですよ。バンドのための曲作りだとある程度限られたことしかできないじゃないですか。僕はいろんなジャンルの音楽が好きなので、提供する方には申し訳ないんですけど、自分の趣味の延長みたいな感じでやらせていただいていました。

── TULIPは’80年にメンバーチェンジがあって、いわゆる第2期TULIPがスタートし、そのメンバーで初のアルバム『THE LOVE MAP SHOP』を発表したのが「チェリーブラッサム」と同じ’81年です。その前には、財津さんはソロ・アーティストとして「Wake Up」(’79年)が大ヒットした直後ですし、財津さんにとっての転機の時期とも言えますよね。そのタイミングで聖子さんから依頼があったわけですが、何か影響はあったのでしょうか。

財津和夫 そういうこちら側と聖子ちゃんとの因果関係は、もしかしたらあるのかもしれませんが、僕には気付くようなことはなかったですね。

── でも、TULIPに関して言えば、宇宙をテーマにし始めたり、プログレッシヴ・ロック風の大作を作ったりと、作風としても大きな変化の時期だったと思うんです。当然、他の人に書く曲にも影響はあったのではないでしょうか。

財津和夫 無理やり言うとそうかもしれない(笑)。ただ、僕はいろんな音楽、とくに洋楽を聴いて育ったので、大好きな音楽がたくさんあるんですよ。TULIPはビートルズの流れでやっていたので、違うところでそういうものも発表できればなってずっと考えていて、聖子ちゃんからいただいた話はいいチャンスだと思ったことは確かです。自分の中の隠し持っていた新しいチャレンジをしてみようという気持ちでした。



── 隠し持っていたということは、常にストックはされていたわけですか。

財津和夫 引き出しはたくさん持っていて、楽曲提供などの話が来たらどんどん活動しようという気持ちはありました。TULIP以外では、身軽になんでもやってやろうって。何しろ九州の福岡から出てきた田舎者ですから、東京でとにかく食っていかなきゃいけないし(笑)。

── 財津さんって意外と貪欲なんですね。

財津和夫 そうですね。生活のためって言ったらあれですけど、TULIPだけが自分の活動じゃないぞっていうのは、どこかで思っていたのかもしれませんね。

── 実際、楽曲提供される場合は、デモテープを作られるわけですよね。財津さんは曲先なんですか。

財津和夫 基本は曲先ですね。聖子ちゃんに関してはすべて曲先でした。だから、三浦(徳子)さんや松本(隆)さんといった作詞家の方は、本当に苦労されたと思います。作詞家の気持ちを考えながら作ってらっしゃる作曲家もいらっしゃると思いますが、僕はまったくそういうのはなくて(笑)、自分が楽しいと思うことを好きなようにやっていましたから。「ここは5文字だけど、同じようなメロディなのに次は6文字になっているな」とか、そういうこともあったんじゃないかなと思います。でも、きちっとはめていただいたので、作詞家の方はすごいと思います。

── どのようにしてデモテープを作られるんですか。ピアノかギターを使って歌うんでしょうか。

財津和夫 基本はキーボードですね。それにちょっとリズムを付けていく感じです。「ラララ~」で仮歌のようなものも入れて。本当に簡易なスタイルですけど、自宅で全部作っていました。小さいおもちゃみたいな8chのミキサー卓があって、デモテープを作るにはちょうどいいんです。それで、デモを作ってお渡しした記憶があります。

── じゃあ、そのデモテープがおそらくどこかに存在しているってことですよね。聴いてみたいです。

財津和夫 たぶん、どこかに存在すると思いますよ(笑)。でも、あんなデモテープでよくぞ若松さんも我慢して受け取ってくれたと思いますよ。それと、アレンジャーの方も本当にすごいなと思いましたね。当時、大村(雅朗)さんがメインでしたが、ちゃんとした形にしていただいて。僕のデモなんてその辺の石ころぐらいの感じなのに、もう磨かれた宝石のようになっていましたからね(笑)。

【Part2】に続く)




財津和夫 (ざいつ・かずお)
1948年2月19日 福岡県出身

1971年にバンド【TULIP(チューリップ)】を結成。’72年「魔法の黄色い靴」でデビュー。3作目の「心の旅」(’73年)が週間シングルランキング第1位を獲得後、「青春の影」(’74年)、「サボテンの花」(’75年)、「虹とスニーカーの頃」(’79年)等のヒット作を発表。アルバム35枚、シングル34枚を発表、’89年に18年間の活動の歴史に幕を下ろす。

【TULIP】の活動と並行して’78年からソロ活動をスタート。自身が作詞・作曲した「切手のないおくりもの」(’78年)は、NHK『みんなのうた』で放送され大きな反響を呼び、多くのアーティストにカバーされている。その後「Wake Up」(’79年)はCFソングとなり大ヒット、’93年には「サボテンの花〜ひとつ屋根の下より〜」がドラマの主題歌となりリバイバルヒットした。’97年【TULIP】を期間限定で再結成し、全国ツアーを行なっている。

作曲家として1000曲以上の楽曲提供、アーティスト・プロデュース、ミュージカル音楽制作、さらに俳優などとしても幅広く活躍している。

松田聖子への提供楽曲は、シングル曲「チェリーブラッサム」(’81年)「夏の扉」(’81年)「白いパラソル」(’81年)「野ばらのエチュード」(’82年)や、松田聖子初の映画主演作品「野菊の墓」の主題歌「花一色 ~野菊のささやき~」(’81年)の他、人気のアルバム収録曲など数多くの作品を手掛け、松田聖子のヴォーカリストとしての飛躍の一翼を担った。

財津和夫オフィシャルサイト▶
http://www.zaitsukazuo.com/