
- HISTORY 佐野元春ヒストリー~ファクト❹1995-1999
- DISCOGRAPHY 佐野元春ディスコグラフィ❹1995-1999
- INTERVIEWS 佐野元春サウンドを鳴らした仲間たち❹Dr.kyOn
HISTORY●佐野元春ヒストリー~ファクト❹1995-1999

1995年、アルバム『FRUITS』への布石
佐野元春がザ・ハートランドを解散した翌1995年は、彼が佐野元春 with THE HEARTLAND名義最後のアルバム『THE CIRCLE』でその気配を予見した日本を覆う黒い雲が顕在化した年である。そしてそれらの多くは、2025年現在も形を変えてこの社会に留まり続けている。1月17日に起きた淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の阪神・淡路大震災は、1923年の関東大震災以来の都市部を直撃する大地震となった。死者6434人、ライフラインの断絶という甚大な被害の前に、日本各地で様々な支援活動が行われた。中川敬率いるソウル・フラワー・ユニオンがソウル・フラワー・モノノケ・サミットとして被災地慰問を行い、その活動の中からヒートウェイヴの山口洋との共作で名曲「満月の夕」を生み出したことはよく知られたエピソードである。佐野は’95年3月7日から9日の三日間にわたって日本武道館において開催された大規模なチャリティー・コンサート<March of the music>に参加。佐野と同日の出演者には氷室京介、布袋寅泰、米米クラブら、日本を代表するアーティストが名を連ねた。ザ・ハートランド解散後、自らのバンドが存在しない佐野をサポートしたミュージシャンは、藤井一彦率いるスリーピース・バンドとして再出発したばかりのザ・グルーヴァーズに、バイオリンの後藤勇一郎、キーボードでハートランド時代からの盟友・西本明が加わった5人編成。このメンバーで「ストレンジ・デイズ」、「君を連れていく」、「コンプリケイション・シェイクダウン」の3曲を演奏した。戦後、大きな地震の被害がなかった日本だが、この大震災以降、新潟、東日本、熊本そして能登半島と、2020年代にかけていくつもの大地震に見舞われ続けることになる。
そのわずか2か月後、3月20日にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。東京メトロの車内で化学物質を散布するという無差別テロにより、死者14名、負傷者6300人という被害がもたらされた。巨大災害に続く、世界でも類を見ないテロ事件により日本社会の空気は一変し、重苦しい緊張感に包まれた。佐野は’92年発表の『SWEET 16』に収録された「誰かが君のドアを叩いている」でインスタントな新興宗教が街にあふれている様を描写したが、その終着点のひとつがこの事件だったと言えるだろう。しかしカルト信仰の危うさは、SNS上に存在するフェイクな教祖と盲信する信者という関係に形を変えて、2020年代の世界を裏側から揺るがし続けている。
この年に起きた大きなトピックとして、マイクロソフト社からWindows95が発売されたことが挙げられる。画期的なユーザー・インターフェイスに加え、インターネット接続機能を標準搭載した基本ソフトの登場により、インターネットの世界が一気に身近なものとなった。佐野はミュージシャンとしてはいち早く、自らのファンサイト<Moto’s Web Server>を彼の誕生日である3月13日にIT技術に精通した有志のメンバーと共に立ち上げて大きな注目を集めた。今、こうして彼の軌跡を精緻にたどることができるのも、インターネットの可能性とデジタル・アーカイブの重要性にいち早く気付いた彼らの貢献によるところが大きい。佐野は音楽制作においてもテクノロジーの導入に貪欲だったが、黎明期のインターネット文化は60年代以降のカウンター・カルチャーからの影響を強く受けており、その思想にも惹かれるところがあったのだろう。’94年に再々復刊した季刊誌『THIS』の’95年夏号の特集テーマは「インターネットの海原にて」である。また復刊にあたって彼が記した「記事中に含まれた精神の無断転載を禁じません」というメッセージは、彼が継承してきたカウンター・カルチャーのアティチュードであると同時に、初期のインターネット・カルチャーに漂っていたサイバー・コミューン的なムードを象徴しているようでもある。インターネットとの関わりは、90年代後半から2000年代初頭にかけて彼の活動におけるひとつのキー・ファクターとなっていく。

『THIS SUMMER.1995 Vol.1 No.3』
1995年6月10日発売
(佐野元春事務所/扶桑社)
ザ・ハートランド解散後初となるレコーディングは、’95年の春から開始。バンド解散後もソングライティングへの意欲は衰えることなく、デモテープとしてたまっていた楽曲をスタジオでバンド・サウンドとして作り上げていくという形で行われた。そのセッションに招かれたミュージシャンは、小田原豊、井上富雄、佐橋佳幸、Dr.kyOnといった後のザ・ホーボー・キング・バンドのメンバーとなるミュージシャンに加え、吉川忠英、窪田晴男のような実績のあるスタジオ・ミュージシャン。そして西本明や里村美和にセクストン姉妹といったハートランド・ファミリーも参加することがあった。特筆すべきは、そうした実績のあるメンバーに加えて、東京スカパラダイスオーケストラのホーンセクションであるスカパラホーンズ、ザ・コレクターズのドラマー・阿部耕作、そして深沼元昭を中心としたスリーピースバンド・プレイグスなどの気鋭のアーティストが参加していることだろう。この背景として、当時の音楽シーンを振り返っておく必要がある。
90年代の半ばから後半にかけて、日本の音楽産業は活況を極め、’90年に3878億円だった音楽ソフトの生産金額は’93年に5000億円の大台を突破。ピークとなる’98年には6075億円もの売上を記録した。その中心となっていたのは言うまでもなく、小室哲哉がプロデュースを手がけたtrf、華原朋美、globeや安室奈美恵などのTKファミリー。Mr.Children、My Little Loverなどを手がけた小林武史、モーニング娘。を担当したつんくなどの台頭もあり、音楽プロデューサー・ブームのような様相を呈していた(経済産業省データに詳しい)。こうしたメインストリームで生まれた利潤が次なる才能の発掘に充てられたこともあり、渋谷や下北沢のライヴハウスやクラブを中心に活動する新しい感性を持ったアーティストがメジャー・カンパニーへ次々とフックアップされた。
インディー・ロックではサニーデイ・サービス、くるり、ミッシェル・ガン・エレファント。ヒップホップ・シーンからはECD、ブッダブランド、TOKYO NO.1 SOUL SET、ジャズやソウルの分野からはU.F.OやUAなど、現在もそれぞれのシーンにおいて影響を与えているアーティストが次々と登場。佐野は’96年8月号の『ミュージック・マガジン』の今井智子氏によるインタビューで「ここ2〜3年、国内のバンド、ソングライター、素晴らしい人たちがたくさん出てきていると思う。(中略)そうした連中がヒット・チャートをにぎわしているという状況ではないけれども、共感できるクリエイターたちがたくさん生まれてきていて、素晴らしいなと思っている」と語っている。この中にはもちろん、ザ・コヨーテ・バンドのギタリストである深沼元昭のプレイグスはもちろんのこと、同じくギターの藤田顕が所属するプレクトラム、ベースの高桑圭のGREAT3、ドラムの小松シゲルのNONA REEVESも含まれていただろう。そうした新しい才能を佐野は「同じ列車に乗っている仲間」と表現していたが、デビューから15年近くが経過し、ようやく日本の音楽シーンに同じ音楽言語で通じ合えるミュージシャンが現れたということだったのかもしれない。

1996年<International Hobo King Tour>にて
1996年夏、傑作アルバム『FRUITS』誕生
こうした流れの中で生み出された10作目のオリジナル・アルバム『FRUITS』は、17もの異なるタイプの楽曲が並ぶ、ポップ・フリークとしての佐野元春の資質が同時代の新たな才能に反応することによって生まれた傑作である。アルバムの幕を開けるのは、新たなバンド名ともなった「インターナショナル・ホーボー・キング」。レコーディングの開始と同時期の’95年4月、佐野はジャック・ケルアックの墓を訪れている。ビートニクの精神を象徴する、“Hobo=放浪” という言葉をアルバムの1曲目に用いたのは、そこで得たインスピレーションと決意を込めたからなのだろう。サイケデリックに加工された鐘の音とシンセサイザーの電子音が融合したイントロダクションは、ビートニクの精神はサイバー空間で生き続けるという予見であり、地を這うような太いリズムはこれからも魂のロードを止めないという宣言のよう。自分たちが何者で、何をなそうとしているのかを聴き手の精神と肉体に叩き込んでくる、完璧なオープニングである。

佐野元春
『FRUITS』
1996年7月1日発売
アルバムの前半で鳴らされるのは、快活でアップテンポなブルービートやニューウェイブのリズム。しかし、そこに初期作のようなヒリヒリとした感覚はなく、成熟した大人が青春期を回想するような甘やかさが漂う。そしてその美しい記憶は相次いで亡くなった父母の結婚式をイメージして作ったワルツ「天国に続く芝生の丘」、そして最愛の母が最期を過ごしたホスピスの名前からとったというインストゥルメンタル「夏のピースハウス」でピークに達する。この中で聴けるエンニオ・モリコーネを彷彿とさせる流麗なオーケストラ・アレンジは井上鑑によるもの。’91年のコンピレーション・アルバム『SLOW SONGS』以来のコンビである。
中盤には「ワイルドハーツ」の続編とも言うべき「ヤァ!ソウルボーイ」から、青年期を通過したいっぱしの男としての歌が並ぶ。若きプレイグスの3人をバックバンドに据えた「水上バスに乗って」では、「日の出桟橋」という言葉が出てくるが、常にコスモポリタンとしての視点で言葉を綴ってきた佐野が具体的な地名を入れるのは初めてのこと。この意表をついた言葉遣いが、東京に暮らす一人の生活者としての実在感を高め、アルバム全体のムードを引き締めている。
そして後半のクライマックスとなるのは、ミクスチャー・ロックやビッグ・ビートの影響を感じさせる「メリーゴーランド」。暴力的なビートの上で「mama mama mamaが行っちゃった どこか知らないところに」という子供のように悲嘆する様は、佐野自身の母親との別れを背景に人生において決して避けることができない喪失の瞬間を描いている。しかしこの混沌としたサウンドが、ウーリッツァーが全てを受け入れるような「経験の唄」につながっていき、深い静けさが広がる。この流れはまるで心理学でいう「グリーフ(悲嘆)の5段階」の中で、初期の<否認>と<怒り>がやがて<受容>へと向かっていく過程そのもののようにも思える。’94年9月に発行された『THIS』において佐野は「自分自身を表現するという行為はセラピーでもある。自分の個を解放するというのは、自分を治癒していくことと同義ではないか」と語っている。
“僕の庭ではじまる。” “僕の庭で終わる。” とブックレットに大きく書かれたこのアルバムは、ポップソングを通じて成長を表現してきた佐野の創作活動が、長く共にしたバンドとの別れ、愛する家族との死別を経て、また新たな領域に入ったことを示した。カラフルなポップネスと哲学的なメッセージを両立させた本作は高い評価を獲得。『ミュージック・マガジン』’97年2月号で発表された<1996年度年間ベストアルバム>において第一位に選ばれた。

アルバム『FRUITS』ブックレットより
多くのミュージシャンを招いて行われたスタジオ・セッションを経て結成された新バンド、インターナショナル・ホーボーキング・バンドの初めてのツアー<International Hobo King Tour>は、『FRUITS』が発表される半年前、’96年1月からスタート。北海道から福岡まで、全国8か所の大都市ツアー。メンバーはドラムの小田原豊(元レベッカ)、ベースの井上富雄(元ザ・ルースターズ、ブルートニック)、ギターの佐橋佳幸(元UGUISS)、キーボードのkyOn(元ボ・ガンボス)という新たなメンバーに、ザ・ハートランドからの盟友・西本明とコーラスのセクストン姉妹。そこに東京スカパラダイスオーケストラのホーンセクションであるSKAPARA HORNSが加わった大規模な編成。新たなメンバーに共通する点は、それぞれが名うてのスタジオ・ミュージシャンであることと、元バンド・マンであること。様々なミュージシャンとセッションを重ねる中で、「この先もできるだけ一緒にいられるミュージシャンたちと約束を交わして、その親密さの中から出てくる音楽がやはり僕の音楽なんだ」という思いに至った佐野の「バンド」という共同体に対する思い入れが表れた人選と言える。ツアーの様子は’96年6月にWOWOWで放送された特別番組『IHK ―ROAD MOVIE』としてロード・ムービー風のドキュメンタリー映像として作品化されたが、佐野の言葉を裏付けるように、メンバーと同じ楽屋でオフ・ステージの時間を共にしながら毎日のように新しいアレンジにトライする様子が多く残されている。

1996年<Fruits Tour>にて
そして本格的なアルバムのリリース・ツアーとして、同年9月から12月まで約4か月におよぶ<Fruits Tour>と特別編の<フルーツ・パンチ>が行われた。その中から10月の渋谷公会堂と12月の横浜アリーナ公演の模様が映像作品『THE INTERNATIONAL HOBO KING BAND FEATURING MOTOHARU SANO IN FRUITS TOUR ’96』として残されているが、リズム・ミュージック、あるいはロック・ショーとして完璧に構築された後期ハートランドの演奏とは異なり、ジャム・セッション的な要素や楽曲が現在進行形で変化していく過程をも観客と共に楽しむような様が印象的。ゲストで後にコヨーテ・バンドのギタリストとなるプレイグスの深沼元昭が参加していたが、新しい才能が次々と表れた90年代中盤において、自らも最前線のロック・バンドとして原点回帰しようという意思が感じられる。

佐野元春
『THE INTERNATIONAL HOBO KING BAND FEATURING MOTOHARU SANO IN FRUITS TOUR ’96』
1997年7月30日発売
一方『ローリング・サンダー・レビュー』のボブ・ディランのような帽子を身につけて臨んだ横浜アリーナ公演では、井上鑑が指揮するオーケストラも参加。佐橋佳幸のギターをフィーチャーした「夏のピースハウス」、中期以降のビートルズを思わせるサイケデリック感のある「空よりも高く」などで、彼らがライヴハウスのスリルと共に、アリーナ級の表現力を両立できる稀有なロック・バンドであることを示した。なおこれに先立って行われた12月16日・17日の日本武道館のライヴはMIPS (Motoharu Internet Project Systems) のボランティア・メンバーが中心となってインターネット配信が行われた。まだ電話回線接続が主流だった時代における画期的な出来事と言えるだろう(MWSに詳しい)。そしてこのツアーの道中、メンバーそれぞれ手に入れたレコードを持ち寄る通称 “楽屋喫茶” での音楽談義が、次作『THE BARN』のウッドストック・レコーディングへと繋がっていくことになる。
アルバム『FRUITS』のリリース時期における佐野の活動として、日本の音楽シーンとの同時代性を高めたことが挙げられる。それは作品制作以外にも及び、’96年8月に若手バンドを集めたライヴ・イベント<THIS! - New Attitude For Japanese R&R>を開催した。参加したのは佐野のバックバンドを務めたTHE GROOVERSをはじめ、ソウル・フラワー・ユニオン、ヒートウェイヴ、プレイグス、UA、エレファントカシマシ、かせきさいだぁ、GREAT3、ホフディラン。30年後も日本の音楽シーンを牽引しているアーティストたちが名を連ねた。イベント開催に際して寄せた詩の中で佐野は「オレは二番目の扉を開ける鍵を持っている。もしオマエが三番目の扉を開ける鍵を持っているなら、交換してもいい。オレは無条件に、無責任にオマエの背中を後押ししてしまいたい」と綴り、新世代の台頭を熱烈に歓迎した(ハートランドからの手紙#96)。
そうした佐野の思いと呼応するように、同月には佐野のトリビュート・アルバム『BORDER -A Tribute to MOTOHARU SANO-』がリリースされた。アルバムのプロデューサーを務めたのは、佐野のデビュー前からの同志であり、写真家としても活躍する佐藤奈々子。彼女の呼びかけにより、後のコヨーテ・バンドのメンバーが在籍するプレイグス、GREAT3をはじめ、THE GROOVERS、b-flowerといったバンドが参加。さらにザ・ハートランドのメンバーであった古田たかし、長田進が結成したユニットDr.Strange Loveも「ストレンジ・デイズ」をカヴァーした。そしてこの時期、音楽活動を本格的に再開した佐藤自身もnanaco名義で「99ブルース」をカヴァー。ちなみにコヨーテ・バンドの高桑圭がGREAT3を脱退後、後任のベーシストとして加わったのは彼女の愛息janである。当時はロンドンを拠点に音楽活動を行っていた佐藤は、現在も気鋭の若手アーティスト・想像力の血のアルバムに鈴木慶一と共に名を連ねるなど、世代を超えたコラボレーションを行っている。

Various Artists
『BORDER - A Tribute to Motoharu Sano -』
1996年8月31日発売
そしてこの時期におけるもうひとつのトピックは、テレビ番組への出演が活発化したことだろう。特に’96年8月に出演した当時人気絶頂の音楽番組『HEY!HEY!HEY!』でのダウンタウンとのトークは大きな話題を呼び、当時のキッズにとってはロック界の重鎮と見られていた佐野元春を一気に身近な存在とした。なお、この時に佐野が、旅行先で出会った野生動物に「こっちに来いよ」と声をかけたというエピソードを受け、翌’97年に放送された『HEY!HEY!HEY! Music Award』にて「動物愛護賞」を受賞した。またダウンタウンと人気を二分した人気お笑いコンビ、とんねるずが司会を務める日本テレビのバラエティー番組『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』には’96年7月に初出演。翌年には石橋貴明のリクエストによって、彼が番組内で結成したバイク・ツーリング・チーム「アンディーズ」にテーマ曲「フリーダム」を提供した。
’97年4月。佐野の表現に大きな影響を与えてきた偉大なビート詩人・アレン・ギンズバーグが逝去。佐野は「安らかで明快な気持をもってご自身の出口を見つけられたと信じます」と追悼のメッセージを送った。そして時を同じくして、ギンズバーグが表紙を飾ったこともある第三期『THIS』が’97年5月号を最後に休刊されることが発表された。ギンズバークやケルアック、バロウズといったビートニク・カルチャーが90年代のオルタナティブ・カルチャーへ与えた影響をテーマにした全12号。「佐野元春のアーティスト・ブックを超えるものを作りたいという想いがあった」と第二期・第三期で副編集長を務めた新井敏記が振り返るように、ビート精神をベースにしながら、ヒップホップ、テクノ、インターネットという新しい時代の潮流に切り込むエッヂィな特集が並んだ。そしてビジュアルには写真家・佐藤奈々子の他に、藤代冥砂、若木信吾、ホンマタカシ、HIROMIXといった気鋭のカメラマンを次々と起用。書き手としても北沢夏音、山崎二郎、野田努、中原昌也などの名前が連なる、まさに最先端のサブ・カルチャーを貫くペーパー・メディアであった(’97年3月号では中原と小山田圭吾、砂原良徳、常盤響がロサンゼルスに買い物ツアーに出るという企画もあった)。「(佐野は)自分が取材者として、どの現場にも立ち会って、その呼吸を読者へ伝えていく姿勢があった」と新井は振り返っているが、この文化に対する深い洞察と実践主義は後のウェブ・メディアや作品そのものに強く反映されていくことになる。

『THIS March 1997 Vol.3 No.2』
1997年4月10日発売
(佐野元春事務所/スイッチ・パブリッシング)

『THIS MAY 1997 Vol.3 No.3』
1997年4月10日発売
(佐野元春事務所/スイッチ・パブリッシング)
1997年、語り継がれるロックンロール名盤『THE BARN』発表
次作『THE BARN』のレコーディングは、’97年7月からアメリカ・ニューヨーク州のウッドストックにある、べアズヴィル・スタジオで行われた。べアズヴィル・スタジオは、ボブ・ディランやジャニス・ジョプリンなどのマネージャーを務めたアルバート・グロスマンが’69年に設立した滞在型の名門スタジオ。70年代にかけてはザ・バンドやトッド・ラングレン、NRBQなどが、90年代以降もR.E.M.やフィッシュ、ジェフ・バックリーなどが数えきれないほどの名盤を残している。佐野にとっては『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』以来の海外レコーディングとなったが、単身でニューヨーク、ロンドンへと渡った80年代と異なり、今回はザ・ホーボー・キング・バンドのメンバーとの三週間にわたる合宿レコーディング。レコーディングの地をウッドストックに求めた理由について佐野は、萩原健太氏のインタビューにおいて(*1)「ザ・ホーボー・キング・バンドのメンバーそれぞれの音楽的背景の中で、70年代初頭の米国のポップ・ロック音楽は非常に重要なものとして位置づけられる」と語り、バンドとしての音楽性を重んじた結果としている。またソロアルバムの色合いが濃かった前作『FRUITS』の制作の中で多くのミュージシャンをスタジオに招きセッションを重ねる中で「バンド生活への強いあこがれを断ち切れない、ということに気付いた。ひとりで仲間たちとつるんで立ち向かっていく、その魅力」とも語っており(*2)、ザ・ホーボー・キング・バンドとのメンバーシップというものがこの作品の方向性を定める大きな要因であったことが見てとれる。ある意味では当たり前のことのようにも思われるが、デビュー以来、時にエゴイスティックなまでにパーソナルな創造性を作品に落とし込んできた佐野にとっては大きな変化であり、バンドに対する強い信頼が伺える。

1997年、ニューヨーク州ウッドストック、べアズヴィルにて
共同プロデューサーとして招聘されたのはジョン・サイモン。ザ・バンドの名盤『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(’68年)、ブラッド・スウェット&ティアーズ『子供は人類の父である』(’68年)などをプロデュースしてきた名匠。渡米前に彼を東京の一口坂スタジオに招いて制作の方向性をすり合わせた結果、設備の整ったメイン・スタジオではなく、スタジオの敷地の中にある納屋(=Barn)のようなリハーサル・スタジオで、アナログ24チャンネルの一発録りメインにして行われることが決まった。そのためレコーディングの初日は、メンバーも総出でレコーディング環境を整えるための大工仕事から始まった。ギターの佐橋佳幸はそのセッティングを終えて試し弾きした時の音の良さに感動したことを鮮明に覚えているという(*3)。レコーディングにはザ・バンドのガース・ハドソン、ラヴィン・スプーンフルのジョン・セバスチャンといったレジェンドもゲストとして参加。音源にはならなかったものの、ザ・バンドのリヴォン・ヘルムが訪れたこともあったという。小田原豊はその時に一緒に吸ったタバコの吸い殻を「今でも大事に保管している」という(*4)。
こうして録音された作品は、当然のことながらアメリカン・ルーツ・ロックを掘り下げた作品になっている。佐野がこれまでの作品の多くで追求してきたプログレッシブな構築主義から離れ、リラックスした雰囲気の中で繰り広げる、百戦錬磨のバンド・メンバーの豊潤な会話のようなセッションを楽しむような作品。佐野のヴォーカルもアーシーなサウンドに導かれるように、時に枯れた味わいのあるという表現を使いたくなるほどに、自然体の歌声で新たな境地を拓いている。

佐野元春 and THE HOBO KING BAND
『THE BARN』
1997年12月1日発売
これまで見てきたように、多くの若手ミュージシャンと交流を深めていた時期の佐野が、懐古主義とも捉えられるような作風へ舵を切ったことは意外にも思える。しかし渋谷系を通過した若い才能がソウル、AOR、ブルーズといった音楽を再解釈・再構築した新しい表現を生み出していく姿に刺激を受けたからこそ、本物のルーツ・ミュージックを追求しようというのは経験豊かなアーティストとして自然かつ誠実な態度と言える。また90年代中盤、アメリカのオルタナ・カントリーのシーンからウィルコがデビューし、オルタナティブ・ロック界のゴッドファーザーであるR.E.M.もべアズヴィル・スタジオで録音したアメリカーナ回帰の傑作『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』(’92年)をリリースするなど、新しいアメリカン・ロックの潮流が生まれている時期でもあった。後のフリート・フォクシーズやビッグ・シーフにも繋がっていくような流れを、佐野もまた感じ取っていたのだろう。
’97年12月に発売された本作はアルバム・チャート初登場17位。決してコマーシャルな内容ではなく、ポップ・ミュージシャンとしてのキャリアにひとつの区切りをつけた作品とも言えるかもしれないが、ロック・ミュージシャンとしての佐野元春が、その後の30年近くも第一線で活躍するために不可欠な足場を固める作品であることは間違いない。
アルバムのリリースに先立ち、’97年10月から<全国クラブキャラバン・アルマジロ日和>が開催された。第一部はウッドストック・レコーディングのドキュメンタリー映像の上映、第二部がまだ発売前の『THE BARN』からの楽曲を全て演奏するという変則的な編成。最終日10月18日の赤坂ブリッツ公演はインターネットでも中継された。

1998年<The Barn Tour>にて
そして本格的なリリース・ツアー<The Barn Tour ’98>は’98年1月7日のよこすか芸術劇場を皮切りに3か月・25公演にわたって行われた。3月の大阪公演は『THE BARN TOUR ’98-LIVE IN OSAKA』として映像作品化されているが、スーツに身を包んだ佐野とホーボー・キング・バンドの姿はアーシーなサウンドは、前作『FRUITS』から見ればかつての『VISITORS』期と同じくらい大きな変貌ぶりだったはずだが、オーディエンスが骨太の演奏を受け止めて楽しむ姿に、10年余りの間の関係性の成熟が感じられる。またこの日のライヴにはゲストとしてジョン・サイモンとガース・ハドソンが参加。阪神タイガースのキャップを被り、用意してきた日本語で丁寧にMCを披露するサイモンとバンドは、佐野が詩を提供した彼の楽曲「So Goes The Song」(’98年リリースのアルバム『HOME』に収録)を演奏。そしてHOHNERのアコーディオンを担いで登場したガース・ハドソンの姿は音楽の妖精のよう。アメリカのルーツ・ミュージックが凝縮されたような彼のピアノソロに、西本明は「僕自身が「こういうプレーヤーになりたい」と願うイメージの、もっと先を見せてくれた」と振り返る。ちなみにハドソンはウッドストックでのレコーディングが終わり、バンドが帰国する直前、それまで書き溜めてきた自筆の楽譜をコピーし、「煙草のお礼として」Dr.kyOnにプレゼントしたという。2025年に惜しくも亡くなったハドソンだが、その音楽の一端はザ・ホーボー・キング・バンドへと引き継がれた。そして折坂悠太、岡田拓郎、田中ヤコブ、優河など、アメリカーナ、フォークロア、オルタナ・カントリーからの影響を進化させていくミュージシャンが台頭してきた2020年代。この『THE BARN』の意義はより深いものになっていると言えるだろう。

佐野元春 and THE HOBO KING BAND
『THE BARN TOUR ’98-LIVE IN OSAKA』
1998年7月18日発売
セルフ・レコーディングのパーソナル・アルバム『STONE AND EGGS』
<The Barn Tour ’98>終了後の’98年夏以降はイベントやトリビュートへの参加が続いた。8月23日には3回目となるショーケース・ライヴ・イベント<THIS!>を開催。青森からの新星・スーパーカー、今なお「佐野元春症候群」であることを自認する山中さわお率いるザ・ピロウズ、そして大ブレイク寸前のドラゴンアッシュなどが名を連ねた。この日の模様は佐野のボランティア・チーム「MIPS」がインターネット配信を行ったが、8月30日にはソニーミュージックが主催した国内初の有料オンラインライヴ<The Underground Live ’98 “地下室からの接続”>へ出演。このイベントはインターネット中継のためだけに行なわれるライヴであることや、様々なネット決済システムを利用するなど、先進的な取り組みとして注目を集めた。なお料金は回線に応じた映像に合わせて300円から500円に設定。佐野は「(有料オンラインライヴは)やってみる価値があると判断した。新たな音楽ソフト流通の可能性を見てみたい」と語り、約1時間のパフォーマンスを行った(INTERNET Watchに詳しい)。さらに9月25日にはカントリー・ロックの魅力を再発見しようという音楽評論家の萩原健太・能地祐子両氏の呼びかけのもとに渋谷クラブクアトロで開催されたライヴ・イベント<カントリー・ロックの逆襲’98>に参加。2025年に逝去した日本屈指のカントリー・ギタリスト、Dr.Kこと徳武弘文が所属するカントリー・バンド、ラストショウとザ・ホーボー・キング・バンドを中心に、細野晴臣、鈴木慶一、かまやつひろし、中野督夫(センチメンタル・シティ・ロマンス)、鈴木祥子、直枝政太郎(カーネーション)といった錚々たる面々がボーカリストとして出演した。佐野はボブ・ディランの「I’ll Be Your Baby Tonight」のカヴァーと共に、『THE BARN』から「ロックンロール・ハート」を披露した(MWSに詳しい)。

佐野元春
「僕は愚かな人類の子供だった」
1999年3月1日発売
11月26日にリリースされた日本マンガ界の巨匠・手塚治虫のトリビュート・アルバム『アトム・キッズ -トリビュート・トゥ・ザ・キング “O.T.”』に新曲「僕は愚かな人類の子供だった」を提供。幼い頃の佐野が鉄腕アトムに自己投影するほどのめり込んでいたというのは有名なエピソードだが、未来的なブレイクビーツと美しいコーラスを組み合わせたトラックに乗せられたスポークンワーズは、アトムへの私信であると共に、現代社会へのメッセージでもあった。この曲は翌’99年にCMJK(元電気グルーヴ、cutemenなど)、DJ CELORY(SOUL SCREAM)という気鋭のトラック・メーカーによるリミックスを加えてCDとデジタル・アート・ピースとしてネット配信でリリースされた。これはサイトからダウンロードしたプログラムをPC上で実行するとビデオ・クリップが視聴できるというものだったが、曲間にクリックするとアニメーションや写真が次々と画面に現れるというインタラクティブなつくりとなっていた。このように作品を通じてデジタル・メディアに対して積極的にコミットする一方、新しい時代における著作権のあり方についてアーティストとしての意見を発信すべく、’99年2月に設立されたメディア・アーティスト協会(Media Artists Association)の発起人として、ゲーム作家の飯野賢治、CGアーティストの河口洋一郎、そして坂本龍一、冨田勲、松武秀樹と名を連ねた。当時の佐野らが懸念した違法コピーなどの問題は、2000年以降に音楽業界の脅威として顕在化することになる。
そして’99年3月13日、自身の43回目の誕生日に赤坂ブリッツで開催された初のファンクラブ会員限定のライヴ・イベント<Driving For 21st Monkeys>を経た’99年4月、次作『STONES AND EGGS』のレコーディングへ突入する。
バンドによるアナログテープ一発録りだった前作とは対照的に、プライベート・スタジオでのハードディスク・レコーディング。この変化の理由について佐野は「『THE BARN』レコーディングの制作バジェットが大きくなりすぎて、新しい予算が十分に取れなかった。経済的な負担を軽くするために、性能が向上してきた自宅録音用機材を活用することにした」と語る(*5)。もちろんそれはひとつの事実ではあるが、90年代に入ってからの佐野とスタッフによるインターネットへの先進的な取り組み、そしてエッヂィな若手アーティストとの積極的な交流という大きな動きを踏まえれば、2000年代に入る前にイノベーティブ・サイドの佐野作品を残しておきたいという表現上のモチベーションがあったと見るのが自然だろう。

佐野元春
『STONES AND EGGS』
1999年8月25日発売
全ての楽曲で佐野はプログラミングを担当。楽曲によってはザ・ホーボー・キング・バンドのメンバーが参加しているが、「驚くに値しない」「GO4」「石と卵」の3曲は、すべて佐野によるプログラミングによって構成されている。「GO4」がアシッド・ジャズ的な音像とラップの組み合わせ、「驚くに値しない」がディアンジェロにも通じるクールなR&Bのリズムを主体とした楽曲であることから考えると、佐野の中にはゼロ年代以降に隆盛するネオ・ソウルのイメージがあったのかもしれない。そして「GO4」はドラゴンアッシュのボーカル・ギター降谷建志とDJのBOTSからなるユニットSteady & Co.によるリミックスも収録。これまでも12インチシングルなどで先鋭的なアーティスト、DJによるリミックス作品は数多く収録されてきたが、オリジナル・アルバムに収められるのは異例。佐野のドラゴンアッシュという新しい才能に対する信頼の深さが感じられる。軋轢を恐れずロックやヒップホップといった枠を越境していく降谷の姿勢に、自らの軌跡を重ね合わせる部分もあったかもしれない。
実験的なアプローチが際立つ本作だが、グッド・メロディを持つ楽曲が多いことにも注目したい。プロデューサー秋元康のオファーを受けて猿岩石に提供した「昨日までの君を抱きしめて」の歌詞とタイトルを改めた「シーズンズ」や「君を失いそうさ」。そして翌年リリースされたコンピレーション・アルバム『GRASS』でボニー・ピンクとのデュエットで生まれ変わることになる「石と卵」、最新作『HAYABUSA JET Ⅰ』で再定義された「だいじょうぶ、と彼女は言った」など、佐野のソングライターをしての幅広さを感じられるアルバムとなっている。

佐野元春 & THE COYOTE BAND
『HAYABUSA JET Ⅰ』
2025年3月12日発売
佐野にとって90年代最後のリリース・ツアー<STONES and EGGS Tour ’99>は9月2日の戸田市文化会館を皮切りに全国で全19公演が行われ、最終公演の10月19日の神奈川県民ホールのライヴは衛星放送チャンネルViewsicで生中継された。「コンプリケイション・シェイクダウン」「ニュー・エイジ」といった『VISITORS』期のヒップホップ・ナンバーと最新作を組み合わせた、佐野の先進性を再確認するセットリストをザ・ホーボー・キング・バンドと共に演奏し、オーディエンスを沸かせた。

佐野元春
「INNOCENT」
1999年12月20日発売
’99年12月からは翌年に控えたデビュー20周年アニバーサリーの制作に入った。リスナーへの感謝を歌った新曲「INNOCENT」をCDとインターネットでのダウンロード形式でリリース。それと同時にウェブサイト<eTHIS>を立ち上げた。「知る」「買う」「体験する」をテーマに、20年の活動をまとめた<Now & Then>、ハガキの代わりにインターネット掲示板を利用した新しいDJプログラム<レイディオeTHIS>など双方向的なプラットフォームとすると共に、ソニーのインタネット・サービス・プロバイダSo-netと連携したショッピングサイトも運営するなど、新しい時代の音楽ビジネスのあり方も模索する取り組みであった。
相次ぐ厄災が日本を襲う一方、インターネットが新たな社会を築きはじめた90年代後半。佐野はその変化を積極的に取り込んでいった。音楽産業の構造変化は2000年以降、より急激なものとなっているが、その先取の精神と行動力がそれを生き抜くための鍵となったことは明白である。2025年の佐野元春を語る上で重要な5年間と言えるだろう。
(【Part5】佐野元春ヒストリー~ファクト❺2000-2004に続く)
発言出典一覧(発売元は当時表記)
1)『ミュージック・マガジン』1998年1月号(ミュージック・マガジン)
2)『時代をノックする音 佐野元春が疾走した社会』 山下柚実・著(毎日新聞社)
3)『THE BARN DELUXE EDITION』佐橋佳幸インタビュー(otonano PORTAL)
4)『THE BARN DELUXE EDITION』小田原豊インタビュー(otonano PORTAL)
5)『SWITCH』 2021年6月号(スイッチ・パブリッシング)
DISCOGRAPHY●佐野元春ディスコグラフィ❹1995-1999
VIDEO
佐野元春 with THE HEARTLAND
They called the band 'THE HEARTLAND'1995年1月21日発売/EPICソニー
[VHS]ESVU 427(1995.1.21)[LD]ESLU 427(1995.1.21)[DVD]ESBB 2035(2000.11.1)
Vol.1 The Circle Tour 1994.4.24 BUDOKAN LIVE
● 欲望
● 新しいシャツ
● ザ・サークル
● ストレンジ・ディズ-奇妙な日々
● ロックンロールナイト
● 約束の橋
● スターダスト・キッズ
● 悲しきレイディオ
● サムディ
Vol.2 Land Ho! 1994.9.15 YOKOHAMA STADIUM LIVE
● プロローグ~ガラスのジェネレーション
● 'See Far Miles'のテーマ
● アンジェリーナ
● ハッピーマン
● ワイルド・オン・ザ・ストリート
● カム・シャイニング
● ジュジュ
● ナポレオンフィッシュと泳ぐ日
● スウィート16
● ソー・ヤング
● 彼女はデリケート
● 新しい航海~エピローグ
SINGLE
佐野元春
十代の潜水生活 -Teenage Submarine1995年11月11日発売/EPICソニー
[12cmCD]ESCB 1680(1995.11.11)① 十代の潜水生活 -Teenage Submarine
② 経験の唄
SINGLE
佐野元春
楽しい時 -Fun Time1996年1月21日発売/EPICソニー
[12cmCD]ESCB 1715(1996.1.21)① 楽しい時 -Fun Time
② 楽しい時 -Fun Time (千客万来バージョン)
③ 楽しい時 -Fun Time (Instrumental)
SINGLE
佐野元春
ヤァ!ソウルボーイ -Yah! Soul Boy1996年5月22日発売/EPICソニー
[12cmCD]ESCB 1734(1996.5.22)① ヤァ!ソウルボーイ -Yah! Soul Boy (Original Version)
② ダンスが終わる前に
③ ヤァ!ソウルボーイ -Yah! Soul Boy (Up-Soul Version)

STUDIO ALBUM
佐野元春
FRUITS1990年11月9日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 1741(1996.7.1)[MD]ESYB 7118(1996.7.1)[Blu-spec CD2]ESCB 1741(2016.3.23)
① インターナショナル・ホーボー・キング International Hobo King
② 楽しい時Fun Time
③ 恋人達の曳航 Lovers Sailing
④ 僕にできることは Things I Could Do
⑤ 天国に続く芝生の丘 (インストゥルメンタル) Grass Valley To Heaven
⑥ 夏のピースハウスにて At The Peace House In Summer
⑦ ヤァ!ソウルボーイ Yah! Soul Boy
⑧ すべてうまくはいかなくても The Night
⑨ 水上バスに乗って Water Line
⑩ 言葉にならない I Can’t Say Anything
⑪ 十代の潜水生活 (アルバム・バージョン) Teenage Submarine
⑫ メリーゴーランド Mama - Like A Merry-Go-Round
⑬ 経験の唄 Song Of Experience
⑭ 太陽だけが見えている −子供たちは大丈夫 Be Twisted - Kids Are Alright
⑮ 霧の中のダライラマ DalaiLama
⑯そこにいてくれてありがとう −R・D・レインに捧ぐ Thank You For Being There - Dedicated To R.D. Rain
⑯ フルーツ −夏が来るまでには Fruits - Summer Come We Will
Produced by 坂元達也 & Moto "Lion" Sano
Recorded & Mixed by 坂元達也
Recorded at 一口坂スタジオ、音響ハウス
Cover photography by 若木信吾
Musicians
●佐野元春(Vo, G, Noise, Key, Org, Wurlitzer, P, Blues Harp)
GUEST
●小田原豊(Ds①~⑤⑦⑧⑩~⑫⑭~⑯)●後藤敏昭【Plagues】(Ds, Vo, G⑨)●阿部耕作【The Collectors】(Ds⑬)●井上富雄(B①~⑤⑦⑧⑫~⑰)●高水健司(B⑥)●岡本達也【Plagues】(B⑨)●有賀啓雄(B⑩⑪)●窪田晴男(G①③~⑤⑩⑪)●佐橋佳幸(G②⑦⑧⑮⑯, Ag③)●吉川忠英(Ag①②)●安田裕美(Ag①②)●Dr.kyOn(P①⑪, Mandolin⑤)●西本明(Wurlitzer②③⑦⑨, Org⑦⑨⑪, P⑧⑮⑯)●斉藤有太(P②)●里村美和(Perc①~③⑤⑦⑧⑩⑪⑭~⑯)●スカパラホーンズ【NARGO(Tp)●北原雅彦(Tb)●冷牟田竜之(A.Sax)●GAMOU(T.Sax)●谷中敦(B.Sax②⑦⑪⑭)】●佐藤潔(Tub⑤)●Melodie Sexton(Back Vo①④⑦⑪⑬)●Sandi Sexton(Back Vo①④)●Rosalyn Keel(Back Vo⑪⑬)●金原千恵子グループ(Str②④⑨)●金子飛鳥グループ(Str⑥)●朝川朋之(Hp③⑥)●苅田雅治(Vc③)●堀沢真己(Vc③)●菊地和也(Vc③)●長谷部一郎(Vc③)●十亀正司(Cl⑥)●相馬充(Fl⑥)●福井蔵(Fagotto⑥)●久永重明(Horn⑥)●大隈雅人(Tp⑥)
VIDEO
佐野元春
FRUITS1996年7月1日発売/EPICソニー
[VHS]ESVU 446(1996.7.1)[LD]ESLU 446(1996.7.1)[DVD]ESBL 2145(2003.12.17)
● ヤァ!ソウルボーイ
● 十代の潜水生活
● 経験の唄
● 楽しい時
● インターナショナル・ホーボー・キング
VIDEO
佐野元春
THE INTERNATIONAL HOBO KING BAND FEATURING MOTOHARU SANO IN FRUITS TOUR '961997年7月30日発売/EPICソニー
[VHS]ESVU 471~2(1997.3.31)[LD]ESBB 2036(2000.11.1)
VOL.1 THE DOCUMENT
VOL.2 THE LIVE
● 約束の橋
● バニティーファクトリー
● 欲望
● ポップチルドレン(最新マシンを手にした陽気な子供たち)
● 水上バスに乗って
● 君を連れてゆく
● 99ブルース
● コンプリケーション・シェイクダウン
● 夏のピースハウスにて
● 空よりも高く
● すべてうまくはいかなくても
● 太陽だけが見えている-子供たちは大丈夫
● 霧の中のダライラマ
● そこにいてくれてありがとう-R.D.レインに捧ぐ
● Do What You Like-勝手にしなよ
● ダウンタウンボーイ
SINGLE
THE HOBO KING BAND featuring 佐野元春
ヤング・フォーエバー1997年11月1日発売/EPICソニー
[8cmCD]ESDB 3791(1997.11.1)① ヤング・フォーエバー -Young Forever
② フリーダム -Freedom

STUDIO ALBUM
佐野元春 and THE HOBO KING BAND
THE BARN1997年12月1日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 1849(1997.12.1)[MD]ESYB 7151(1997.12.1)[LP]SYUM 0039(1999.1.21)[Blu-spec CD2]MHCL 30354(2016.3.23)*アニヴァーサリー盤は別途
① 逃亡アルマジロのテーマ (インストゥルメンタル) Theme Of ‘Armadillo On The Run’
② ヤング・フォーエバー Young Forever
③ 7日じゃたりない Seven Days (Are Not Enough)
④ マナサス Manassas
⑤ ヘイ・ラ・ラ Hey La La
⑥ 風の手のひらの上 The Answer
⑦ ドクター Doctor
⑧ どこにでもいる娘 An Ordinary Girl
⑨ 誰も気にしちゃいない Nobody Cares
⑩ ドライブ Drive
⑪ ロックンロール・ハート Rock And Roll Heart
⑫ ズッキーニ - ホーボーキングの夢 (インストゥルメンタル) Zucchini - The Hobo King Dream
Produced by John Simon&Moto "Lion" Sano
Recorded by John Holbrook
Mixed by John Holbrook(③④⑨)、
Noah Evans(①②⑤~⑧⑩~⑫)
Recorded at Bearsville Sound Studios
Cover photography by 宮本敬文
Back photography by Elliot Landy
Musicians
THE HOBO KING BAND
●佐野元春(Vo, G, Key)●佐橋佳幸(G, Back Vo)●Dr.kyOn(G, P, Org, Acc, Mandolin, Back Vo)●井上富雄(B, Back Vo)●小田原豊(Ds, Perc)●西本明(Org, Key, Wurlitzer, Perc)
GUEST
●Bashiri Johnson(Perc③④)●Garth Hudson(Acc③)●John Simon(Tambourine③)
●John Sebastian(Hca, Vo⑪)●Eric Weissberg(Pedal Steel⑨)
SINGLE
佐野元春 and THE HOBO KING BAND
ドクター1998年4月22日発売/EPICソニー
[8cmCD]ESDB 3833(1998.4.22)① ドクター
② 誰も気にしちゃいなさい
③ ヤング・フォーエバー (アコースティック・ヴァージョン)
VIDEO
佐野元春 and THE HOBO KING BAND
THE BARN TOUR '98-LIVE IN OSAKA1998年7月18日発売/EPICソニー
[VHS]ESVU 500(1998.7.18)[DVD]ESBB 2033(2000.11.22)
● ヤング・フォーエバー
● 風の手のひらの上
● ヘイ・ラ・ラ
● どこにでもいる娘
● 誰も気にしちゃいない
● ドライブ
● ドクター
● So Goes The Song(Love Planets)
● 7日じゃたりない
● ロックンロール・ハート
SINGLE
佐野元春
僕は愚かな人類の子供だった1999年3月1日発売/EPICソニー
[12cmCD]ESCB 1945(1992.11.21)① 僕は愚かな人類の子供だった (Original version)
② 僕は愚かな人類の子供だった (CMJK version)
③ 僕は愚かな人類の子供だった (DJ CELORY version)
SINGLE
佐野元春
だいじょうぶ、と彼女は言った1999年7月23日発売/EPICソニー
[12cmCD]ESCB 2001(1999.7.23)① だいじょうぶ、と彼女は言った
② No surprise at all -驚くに値しない (Audio Active remixed version)

STUDIO ALBUM
佐野元春
STONES AND EGGS1999年8月25日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 2022(1999.8.25)[Blu-spec CD2]MHCL 30355(2016.3.23)
① GO4 Go4
② C'mon C’mon
③ 驚くに値しない No Surprise At All
④ 君を失いそうさ I’m Losing You
⑤ メッセージ The Message
⑥ だいじょうぶ、と彼女は言った Don’t Think Twice It’s Over
⑦ エンジェル・フライ Angel Fly
⑧ 石と卵 Stones And Eggs
⑨ シーズンズ Seasons
⑩ GO4 Impact Go4 Impact
Produced by Moto "Lion" Sano
Recorded by 坂元達也、飛沢正人(⑩)
Mixed by 坂元達也(②~⑦)、河合十里(①③)、佐野元春(⑧)
Recorded at M’s Factory Studio、Bunkamura Studios、Sedic Studios、一口坂スタジオ、Baybridge Studios
Cover photography by 村越元
Musicians
THE HOBO KING BAND
●佐野元春(Vo, G, Key, Programming)●小田原豊(Ds)●Dr.kyOn(G, P, Acc, Org)●井上富雄(B)●佐橋佳幸(G)
GUEST
●Pekker(Perc②)●里村美和(Perc⑦)●Melodie Sexton(Back Vo①)
SINGLE
佐野元春
INNOCENT1999年12月20日発売/EPICソニー
[12cmCD]ESCB 1923(1999.12.20)① INNOCENT
② INNOCENT (Remix)
③ INNOCENT (Instrumental)
●上記ディスコグラフィ内の記載品番全てを撮影しているわけではありません。ご了承ください。
INTERVIEWS●佐野元春サウンドを鳴らした仲間たち❹

1997年、ニューヨーク州ウッドストック、べアズヴィルにて(右からニ番目がDr.kyOn)
忘れたらアカンのが大阪国際フェスティバル。後に棟梁と一緒にザ・ホーボー・キング・バンドで同じ会場に立つことになるんだけど(Dr.kyOn)
── 以前『THE BARN』のインタビューでも伺いましたが、kyOnさん、育ちは大阪なんですよね。
Dr.kyOn はい。生まれは熊本ですけど、3歳からずっと大阪。天王寺というターミナル駅から、歩いてそう遠くない住宅地でね。近所に花菱アチャコさんが住んでました。
── え? 「近代漫才の元祖」で有名な、あのエンタツアチャコの?
Dr.kyOn そうそう。子ども心に「ごっついお屋敷やなあ…」って思ってました。うちらの界隈って、他にも古い芸人さんがチラホラ住んではったんですよ。(劇場のある)道頓堀から距離的にもちょうどよかったんでしょうね。地下鉄でお見かけすることもよくあった。今にして思えば、タクシーで通わないのには彼らなりの美学もあったんと違うかな。「そんなもったいないこと、なんでせなアカンねん!」みたいなね(笑)。まあ、もうだいぶ昔の話ですけども。
── いわゆる大衆芸能が身近な土地柄だったんですね。そういう芸人気質みたいなものって、やっぱり今でも共感とか親しみを覚えますか?
Dr.kyOn うん、それはあるかもね。「俺らミュージシャンは、ライヴでお客さんを楽しませてナンボ」とか、あるいは「センスいい反則技を思い付いて、いかにリスナーの意表を突くか」とかね(笑)。そこはしっかり身に付いてると思います。十代の頃から、周りにかっこいいアニキたちもたくさんいてましたし。
── たとえば?
Dr.kyOn わかりやすいところだと、憂歌団。木村(充揮)さんと勘ちゃん(内田勘太郎)はたしか、僕より3つ年上なんかな。おふたりが出会った工芸高校(現・大阪府立工芸高等学校)と僕の高校って、めちゃくちゃご近所なんですよ。当時の天王寺界隈には「モア」とか「マントヒヒ」とか、ディープな店がたくさんありまして。そういう場所でツレとたむろしながら、ライヴ観たり。
── 高校時代に、デビュー前の憂歌団! それもすごい経験ですね。いわれてみれば憂歌団にも、どこか昔の芸人さんっぽいたたずまいが感じられます。
Dr.kyOn でしょう。もちろんコピーを演っても凄いんだけど、当時のブルースバンドにありがちな深刻さが微塵もなくてね。大阪で生まれた自分たちオリジナルの音楽で、お客をびっくりさせたろと(笑)。最初からそんな心意気が強かった。自分のリアルタイム体験でいうとサウス・トゥ・サウスもそうですね。ヴォーカルのキー坊(上田正樹)の印象が強いけど、あのバンドもいわゆる本格派とはちょっと違っていて。
── といいますと?
Dr.kyOn コテコテの “関西弁そうる” のキー坊を中央に、片方には戦前のブルースからラグタイムまで巧みに弾きこなすギタリストの有山じゅんじがいて。もう片方には当時最新のファンク/R&Bに精通したもうひとりのギタリスト、クンチョウこと堤和美がいた。3人のトライアングルが醸し出すガンボ(ごった煮)な音こそが、真の魅力やったと思うんです。要は、とにかくお客さんに「オモロイ!」と言わせたい人たちね。
── なるほど。kyOnさんの中では、そのスピリットがそのまま、BO GUMBOSの活動(’87〜’95年)へと繋がっているのかもしれませんね。
Dr.kyOn まあ、見方によってはそうかな。っていうか、90年代後半からはじまった棟梁との付き合いでも、その部分はまったく変わってない。もちろん今に至るまで同じです。たぶんミュージシャンとしての根っこが、そんな感じなんでしょうね。あ、そうそう、いつも佐野元春のことを「棟梁」と呼んでますので。今回もそれで行かせていただきます(笑)。
── わかりました(笑)。佐野さんは’56年3月生まれで、kyOnさんは’57年12月生まれ。年齢でひとつ、学年でふたつ違いますが、完全に同世代ですよね。東京と関西という対照的な場所で育ったおふたりのキャリアがどう交わっていくのか知るために、kyOnさんのバックグラウンドをもう少し伺えればと。
Dr.kyOn どうぞどうぞ!
── マルチプレーヤーのkyOnさん、そもそもいつ楽器を始めたんですか?
Dr.kyOn 4歳の頃、家の近所にヤマハ音楽教室ができまして。そこでオルガンを習ったのが最初ですね。あの事業ってひとつの社会的事件やったと思うんです。前回にインタビューされていた(西本)明と同じで僕の家にもピアノなんてなかったからね。そういう一般の子たちと楽器との距離が、あれで一気に近くなった。僕も、教室ではみんなと「♪小鳥がね〜お窓でね〜」とか歌いつつ、自宅では紙製の鍵盤で練習してました。とはいえ小学校に上がるとね、男の子のツレはだいたい辞めていくわけ。やっぱり野球やってる方が面白いわって。
── でも、kyOnさんはそうじゃなかった。
Dr.kyOn あそこが運命の分かれ道ですよね。6歳か7歳の頃にはピアノ科みたいなコースに移って、個人レッスンを受けだした。両親も「どうやらこれは続きそうや」と思ったんでしょうね。高学年になる頃には、がんばって家にアップライトのピアノを買うてくれました。あれはなかなか嬉しかったなぁ。
── その頃に取り組んでいたのは、いわゆるポピュラー系ではなく?
Dr.kyOn ええ、クラシックですね。ピアノレッスンは結局、先生を替えながら高3くらいまで続けたんかな。作曲家でいうと、バッハが圧倒的に好きでしたね。有名なグレン・グールドの「ゴールトベルク変奏曲」とか、めちゃくちゃ衝撃的でね。僕がその頃に聴いてたのは’55年の録音版ですけど、アヴァンギャルドな解釈にしびれたのを覚えてます。もうひとつ忘れたらアカンのが、<大阪国際フェスティバル>ですね。これは毎年、大阪フェスティバルホールで開催されていた文化イベントでして。後の僕自身、棟梁と一緒にザ・ホーボー・キング・バンドで同じ会場に立つことになるんだけど。
佐野元春&THE HOBO KING BAND「ロックンロール・ハート」(1998年大阪フェスティバルホール)
── ジョン・サイモンさん、ガース・ハドソンさんがゲスト参加した<The Barn Tour ’98>の伝説的なステージも、この会場でした。
Dr.kyOn そう、初代フェスティバルホールね。そこに年1回、世界中からクラシックの超一流アーティストが招かれていた。で、当時うちの父親が百貨店の宣伝部みたいなところに務めてまして。このイベント関係の仕事をがっつり担当してたんです。おかげで僕は子どもの頃から、ものすごい数の生演奏に接することができた。大学に入って実家を離れた後も、このフェスにはずっと通ってました。
── そうだったんですね。何か印象に残っているコンサートはありますか?
Dr.kyOn '70年、カラヤンが指揮するベルリン・フィルを筆頭に、主要な公演はほぼ見てるのと違うかな。なかでも僕はアレクシス・ワイセンベルクっていうピアニストが大好きでね。一時期はファンクラブにも入って、ほぼ追っかけ状態になってました。だから僕の「ゴールトベルク変奏曲」の楽譜には、彼の直筆サインが入ってるんですよ。今でもまだ、大事に持ってます。
── 凄いですね。そういう経験って、演奏家としてはかけがえのない財産になったのでは?
Dr.kyOn うん。振り返ってみるとホンマ、えげつないほど豪華なラインナップでした。まぁ本当の意味でその貴重さが理解できたのは、けっこう後になってからですけどね。それでいうともうひとつ、脳裏に焼き付いて離れない光景があって。あれは小学校3年生の頃かな。人気絶頂だったサンソン・フランソワさんっていうピアニストを聴きにいったんです。そのときのお客さんの熱狂が、もう半端やなかった。隣の席に座ってた普通のおっちゃんが、曲が終わった瞬間「ブラボー!」と絶叫したりして。会場の端から端まで、文字どおり「ドカーン!」って感じの受け方なんですよ。あのとき「ライヴってこんなに人の心を動かせるもんなんや」と実感した。間違いなく、今の自分へと繋がっていく原体験やと思いますね。
── だからといって、本格的にクラシックの道に進もうとは思わなかった?
Dr.kyOn まったくなかったです。っていうのも、あのレベルの演奏に触れると小学生でもわかるわけですよ。どう頑張っても、自分はああはなれへんなって。と同時に、小学校も高学年になってくるとクラシック以外の音楽にも興味が出てくるじゃないですか。まずグループサウンズから始まって、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン。忘れもしない中学時代、NHKで『ヤング・ミュージック・ショー』という画期的なプログラムがスタートするんですよ。
── 海外ロックバンドのライヴ映像を長尺で紹介する、伝説的な番組ですね。
Dr.kyOn まさにそれ! 中学2年か3年のとき、その枠でストーンズのハイドパーク・フリーコンサートを見まして。’69年の、ラストで「悪魔を憐れむ歌」を演奏する有名なやつね。自分の中ではあれが決定的やった気がします。その頃から文化祭があるたびに、楽器のできるツレと集まって即席バンドを組んだりするようになって。まず最初はストーンズなんかのコピー。あとはだんだん、ロックンロールやブギウギなんかを我流でコピーするようになっていった。
── なるほど。つまりクラシックピアノの練習を続けるkyOnさんと、ロックンロールのコピーに励み天王寺周辺のロック喫茶に入り浸るkyOnさん。ふたつの柱が同時に存在していたと。
Dr.kyOn まあ、そこまで分けて考えてなかったんと違うかな。もっと単純に、「ぜんぶ引っくるめてグッドミュージック」って感じやったと思います。そして自分は、音楽は一生付き合っていくんだろうなと。そんな感覚はもうすでにありました。プロデビューするとかしないとか、そういう生々しい話じゃないですよ。でも、たとえば学校を出て先生になっても「バンドなんて普通にできるやん」と(笑)。当時の関西ってまだ、そういう緩い空気があったんですよね。要は、メジャーデビューだけがすべてじゃないっていうか。
── そういう感覚は、東京とまた違ったかもしれませんね。高校を卒業後、kyOnさんは京都大学の工学部に進まれて。軽音楽部に入部します。
Dr.kyOn はい。当時の京都ってある種、時間の経過が螺旋的というか、あくまで僕の印象だけど、英国におけるカンタベリーロックみたいな雰囲気があったんですよね。実際、村八分を筆頭にどっしり構えた先輩方がたくさんおられた(笑)。僕も授業にはほとんど出ないで、西部講堂にある部室に入り浸ってました。
── そこでkyOnさんは、どんとさんと出会ったわけですね。
Dr.kyOn そうです、そうです。僕が4回生で部長になってエラそうなこと言うてるとき、1回生で入ってきたのが彼やった。当然その時点では本名の久富(隆司)くんでしたけど、ルックスはすでに、皆さんがご存じのイメージそのものでしたよ。色白で、西洋人みたいに鼻筋がビーンとしてて。背もめっちゃ高くてね。そんな青年が思いっきりサイケな服装で部屋に入ってきたので、最初はびっくりしました(笑)。で、ほどなく彼とバタードッグスというセッションバンドを組んで、一緒に遊ぶようになった。どんとが自分のバンド(ローザ・ルクセンブルグ)でレコードデビューする、ずっと前の話です。
── そしてローザ解散後の’87年に、いよいよBO GUMBOSが始動します。ニューオーリンズの伝統音楽をはじめ、ロック、ソウル、ワールドミュージックまでまるごと “ごった煮” にしたような強烈な日本語ロックは、音楽マニアに衝撃を与えました。
Dr.kyOn どんとが25歳、僕が30歳になる年ですね。あのバンドで僕たち4人がやりたかったのは、簡単にいうと “お祭りミュージック” だったと思う。バンド名のもとになったボ・ディドリーのジャングル・ビートがまさにそうだけど、とにかくグルーヴ命。好きな音楽は何でも節操なく採り入れてね。それを強引に消化して、みんなが理屈抜きで踊り狂えるようなね。そういうパフォーマンスを目指していた。アルバムでいうと後期に作った『JUNGLE BEAT GOES ON』(’94年7月)というカヴァー集が、一番やりたかったイメージに近いと思う。まあそこに至るまで、70〜80年代の京都音楽シーンについても、それだけで1冊の本になるほどいろんな話があるんですけど……。
── それはそれで、ぜひ伺いたいです! さてあらためて時系列で整理すると、BO GUMBOSのファースト・アルバム『BO & GUMBO』がEPICソニーからリリースされたのが、’89年7月。このときkyOnさんは、佐野さんとレーベルメイトになったわけですね。
Dr.kyOn そうか、言われてみればそうですね。ようやく今日の本題にたどりついた(笑)。

1996年<Fruits Tour>にて
僕は、棟梁が歌う「君」の響きに強く惹かれるんですよ(Dr.kyOn)
── BO GUMBOSの解散ライヴが’95年6月。その後、kyOnさんはアルバム『FRUITS』のレコーディングセッションに参加されて。翌’96年1月から、その選抜メンバーによる<International Hobo King Tour>が始まるわけですね。佐野さんとは、そのレコーディングが初対面だったんですか?
Dr.kyOn そうです。もちろん棟梁のおもだった楽曲は知ってましたけど、接点らしい接点はなかった。音楽的なスタイルもわりと正反対ですしね。同じレーベル所属でも、ほとんど世界が重なってなかった。棟梁から僕に声がかかったのは、たぶんサカゲンの繋がりじゃなかったかな。
── なるほど。レコーディングエンジニアの坂元達也さんですね。
Dr.kyOn ’92年のアルバム『SWEET 16』からしばらく、棟梁のアルバムの録音とミックスはサカゲンが手掛けていたでしょう。BO GUMBOSのデビュー・シングルはサカゲンなんです。で、制作スタッフのなかでプレイヤーのことを一番よく知ってるのは、実はエンジニアなんですよ。実際に音を録るわけですから、誰がどういう演奏をするか熟知している。棟梁は『FRUITS』を作成するにあたって、ものすごい数のミュージシャンとセッションしてるじゃないですか。そのなかで棟梁から相談されたサカゲンが、僕の名前を出してくれたんじゃないかなと。あくまで僕の想像ですけど。
── でもたしかに、そう考えると筋が通りますね。
Dr.kyOn あのセッションではピアノだけじゃなくマンドリンも弾いてるんですよ。棟梁が亡くなったご両親に捧げた「天国に続く芝生の丘」という穏やかな曲。細かい経緯は忘れましたけど、たぶんスタジオに持ってきてほしいとオーダーがあったんだと思う。昔からブルーグラスとかは大好きで、いろんな現場に呼ばれてマンドリンを弾く機会はありました。でもBO GUMBOSのアルバムではあまり使ってないんですね。ライヴでも鍵盤とギターがほぼ半々やった。じゃあ、なんで棟梁が知っていたかと考えると、これもサカゲンだったんじゃないかと。彼が棟梁に「kyOnって男はマンドリンも弾けますよ」ってね(笑)。

佐野元春
『FRUITS』
1996年7月1日発売
── kyOnさんが参加したのは1曲目「インターナショナル・ホーボー・キング」、5曲目「天国に続く芝生の丘」、そして11曲目「十代の潜水生活」の3つですね。レコーディング自体の印象はいかがでしたか?
Dr.kyOn 終始リラックスした雰囲気だった気がしますね。場所は一口坂スタジオだったかな。3曲ともセッションではなくダビングだったので、そのときスタジオにいたのは棟梁とサカゲンと僕。基本的には3人だけの作業でした。棟梁は今と変わらずコントロールルームの中を右に左に行ったりきたりして(笑)。僕の演奏を聴いては、的確なオーダーを出してくれた。何度もテイクを重ねることもなかった。終始ニコニコ嬉しそうにしてはったので、自分も嬉しくなったのを覚えてます。
── あくまでワンショットのゲスト参加だと。
Dr.kyOn うん。でもすぐに「楽しい時」のMV撮影に呼ばれたんですよね。ビルの屋上かどこかで、棟梁のバックでバンドメンバーが演奏するやつ。あの曲のレコーディングには入ってないんですけど、いわゆるアテブリでビデオを撮って。そこに集まったメンバーが基本、<International Hobo King Tour>に参加することになった。その時点で、棟梁の中ではツアーの構想が固まってたんでしょうね。西本明とはじめて会ったのも、その撮影やったと思うな。
── この<International Hobo King Tour>から、佐野さんのライヴは大きく変わりましたよね。細部まで構築されたザ・ハートランド時代に比べて、個々のプレイヤーの裁量がぐっと広がって。より自由度の高いスタイルになっていきます。
Dr.kyOn 棟梁自身が何か新しい展開を求めてはったんでしょうね。リハの段階からそういう雰囲気はありました。まだニューアルバムが出る前ですから、セットリストの半分以上はどうしてもザ・ハートランド時代の曲になるじゃないですか。そういうファンにとって馴染の深いレパートリーにも、新しいアイデアをどんどん採り入れていった。たとえばオープニングの「約束の橋」では、僕はアコーディオンを弾いてますしね。
── ああ、そうでしたよね。あれはkyOnさんの発案だったんですか?
Dr.kyOn だったと思います。それこそリハーサル中に思い付いたんじゃなかったかな。あのときのThe International Hobo King Bandには、ご存じ、西本明という鍵盤奏者がいましたから。彼がピアノでメインのフレーズをぴしっと弾いてくれるなら、僕の方はもっと自由に遊んだ方が面白い。特にライヴの1曲目ですからね。何か仕掛けがあった方が、お客さんも盛り上がるじゃないですか。だったらアコーディオンがギターと並んでフロントに立つのが、見栄え的にもいいかなと。
── kyOnさんのなかでは,見せ方も含めてのライヴ・アレンジなんですね。
Dr.kyOn そう。最初の話に戻るけど、ライヴはやっぱりお客さんに喜んでもらってナンボですから。棟梁を見にきたファンに、とにかく満足して帰ってもらう。それしかないわけです。だったら採用するしないは別として、思いついた発想はどんどん試してみようと。そのためにリハがあるわけですからね。もちろん、あまりアレンジを変えない方がいいタイプの曲もあります。「サムデイ」なんかはそうだよね。でももう一方には、かなりイジリがいがあるというか。ある種の余白、糊しろのある曲もあるわけで。そういうレパートリーでは僕とか佐橋くんが率先してアイデアを出していった。「こういうのどうですかね?」みたいな感じでね。
── たとえばアコーディオンのフレージングで、何か意識されたことはありましたか?
Dr.kyOn これはシンプルな話でね。最初のツアーはけっこう大所帯で、東京スカパラダイスオーケストラのホーンセクションが入ってたじゃないですか。(西本)明のピアノがあって、管楽器もびしっとテーマを吹いてくれる。だったらそこには、何も重ねなくていい。僕に求められるのはむしろ、その間の誰もいないスペースを埋めていく作業ですよね。もう少し細かくいうと、コード進行に合わせてメロディーを弾くんじゃなく、気持ちいいリフレインをいかに編み出すか。要はある種のアルペジオ的なフレーズを、少しずつバリエーションを付けながらひたすら繰り返すというね。
── それこそバッハにおける通奏低音のような?
Dr.kyOn まさにそれ(笑)。ワンコードの反復で盛り上げる部分は、ニューオリンズ発祥のザディコという音楽にも通じますよね。アコーディオンの音色ってカキカキ尖ったところがないから、ぴったりなんですよ。
── ただ古くからの佐野元春ファンの中には、変化の大きさに戸惑いを感じた人もいたようです。そういったプレッシャーを、kyOnさん自身が肌で感じたことはありましたか?
Dr.kyOn うーん、どうやったやろう…。ステージに立って演奏してても、そこは正直わかんないですよね。それに俺はいつだって、今この瞬間の演奏が歴代一番かっこいいと思いながらやってますから(笑)。真面目な話、そうじゃなかったら目の前のお客さんにも失礼でしょ。
── たしかに。まったくその通りです。
Dr.kyOn むしろ忘れられないのは、このツアーで僕、オリジナルのギターを注文したんですよ。SGのボディーにInternational Hobo Kingって刻印してもらった。棟梁とのツアーがめっちゃ楽しくて、手応えもあって。このバンドで頑張るぞって、気持ちが盛り上がったんでしょうね。ところがファンの方々から「バンド名が長すぎる」という声がけっこう届いたらしくて(笑)。少ししたらバンド名から「International」だけ取れてしまったという。
── はははは。ショックでした?
Dr.kyOn ショックってほどじゃないけど、まあ、吉本新喜劇のガクッとはなりました。
── 佐野さんとバンドを組んでみて、すごく新鮮だったことは何ですか?
Dr.kyOn これは別のところでも話したと思うんですが、一番は「君」という人称。もちろんすごく個性的で意外性にとんだコード進行とか、音楽的な魅力も山ほどあります。でも僕は、棟梁が歌う「君」の響きに強く惹かれるんですよ。大前提として、自分の語感としては「君」や「僕」はありえないんです。関西人は相手を指す人称に「自分」を使うでしょう。「自分、昨日は何してたん?」みたいな感じで。
── そう。とりわけ大阪エリアではすごく一般的な用法です。
Dr.kyOn 今の若い子たちはだいぶ変わってきたのかもしれないけど。少なくとも僕らの世代は、「君」なんて照れくさすぎてまず使えない。でも棟梁と演奏していると、不思議とすんなり耳に入ってくるんですよね。何ていうか、佐野元春にしか表現できない唯一無二の「君」があるなって強く感じる。それは単なる作詞のテクニックじゃなく、バックの和音とか楽曲のアレンジも含めた何かだと思いますけど。
── すごく興味深い。ソングライターとしての佐野さんは、そこは意識されてるんでしょうか?
Dr.kyOn どうでしょうね(笑)。ただ棟梁が歌う「君」って、ちょっと突き放したような独特の距離感もあるじゃないですか。生身の佐野元春というアーティストが、聴き手に直接呼びかけるんじゃなくてね。それとは別に、歌の主人公がちゃんといて。どちらかというとそのキャラクターの目線を通して、「君」のストーリーが語られていく。前にNHKの『ザ・ソングライターズ』でも、ちょっとそんな話をしてはった気がしますけど。これってすごく大事なことやと思うんです。だから棟梁の最新アルバム『HAYABUSA JET I』を聴いたとき、個人的にはすごく腑に落ちました。

佐野元春 & THE COYOTE BAND
『HAYABUSA JET Ⅰ』
2025年3月12日発売
── 「HAYABUSA JET」というアバターを立てることで佐野さんの独自のストーリーテリング、叙景詩的なソングライティングがより際立っていると。
Dr.kyOn それでいて印象的には、どの再定義ヴァージョンを聴いても生身の棟梁がより迫ってくるでしょう。ちょっと変な言い方ですけど、アバターを介することで、これまでのどのアルバムよりも素っ裸の佐野元春が出てる気すらする。こういう矛盾を平気で体現しちゃうところも、いかにも棟梁らしいなと(笑)。
「NEW AGE」は僕が関わっただけで10種類以上のライヴヴァージョンがありますから(Dr.kyOn)
── さて、’96年7月にアルバム『FRUITS』がリリースされ、同年9月からは3か月間の<Fruits Tour>が始まります。このサーキットを通じて第一期ザ・ホーボー・キング・バンドの演奏はより有機的に噛み合い、メンバー間の信頼関係も深まった。それがアメリカ、ウッドストック録音の’97年の傑作『THE BARN』のレコーディングに繋がっていくわけですね。
Dr.kyOn うん、そうですね。
── 詳しい経緯についてはぜひ2017年『THE BARN DELUXE EDTION』のインタビューを読んでいただければと思うのですが……kyOnさんから見て、ザ・ホーボー・キング・バンドの特徴はどういうところだと?
Dr.kyOn やっぱり自由度と決まりごとのバランスじゃないかな。言葉にすると平凡やけど、結局はそれに尽きると思う。どのメンバーも基本的な演奏能力が高いし、音楽的な引き出しも多いですからね。新曲のレコーディングでも、既存曲のライヴアレンジを考えるときも、まず棟梁が弾き語りで歌うんです。ギターで作った曲ならギター、ピアノで書いた曲ならピアノで。で、口頭で説明を受けたら、あとはメンバー各自がどんどんアイデアを出していく。棟梁と誰かのちょっとしたやりとりで、一気にアレンジが固まることもあるしね。

佐野元春&THE HOBO KING BAND
『THE BARN』
1997年12月1日発売
── 具体的には、どういった流れなんでしょう?
Dr.kyOn たとえば棟梁が、サックスの山本拓夫くんに「ここにこんなメロディーがほしい」と示したとするでしょう。他のメンバーも当然、2人のやりとりは見てますから。自ずと「じゃあ自分はこんなコード感でいってみよう」とイメージが湧いてくる。それを棟梁に投げると、「もっとこうしたら面白いんじゃない?」とキャッチボールが始まるわけです。
── なるほど。
Dr.kyOn で、そういう場合には大抵、僕か佐橋(佳幸)のどっちかが走り書きのメモを取ってますからね。棟梁が突然「やっぱりふたつ前のアレンジをもう一度試してみよう」と言い出しても、すぐ対応できる(笑)。ザ・ハートランド時代を知る明に聞くと、それで作業がけっこう効率化されたそうです。『THE BARN』を作ってツアーに出たあたりからは、その流れが確立した気がします。だから、ライヴで過去のレパートリーをやる際も、リハをするたびにアレンジがどんどん変わっていく。棟梁自身、昔のアレンジをライヴでそのまま踏襲することがほとんどない人やからね。どの曲をやるときも、必ず何か新しい要素を入れてきはるでしょう。「NEW AGE」なんて、僕が関わっただけで10種類以上のライヴヴァージョンがありますから。

<The Barn Tour ’98>の楽屋にて
── それがさらりとこなせるのもザ・ホーボー・キング・バンドの懐の深さだと思います。まだたくさん伺いたいことがありますが、最後にもうひとつ。2012年に始まった<Smoke & Blue>についても教えてください。これはライヴレストランBillboard Liveを舞台に、新旧さまざまな元春ナンバーをジャズ、ブルース、フォークなどルーツ志向のアレンジで再解釈して届ける企画で。
Dr.kyOn 今も続いてますけど、個人的にはすごく手応えを感じてます。まあ、言ってしまえばアコースティック編成のザ・ホーボー・キング・バンドなんですけどね。他のバンドではなかなか得られない、何ともいえない充実感がある。そのフィーリングを掴むまで、最初はけっこう苦労したんですよ。
── そうですね。席によってはお酒や食事を楽しみながらのお客さんもいますし。
Dr.kyOn そう。そういうハコと客層に一番しっくり馴染んで、気持ちよく聴いてもらえるのはどんな演奏なのか。選曲、アレンジから最適なボリュームまで、最初はけっこう試行錯誤がありました。ドラムの古田たかしなんて「こんなに弱音で叩くのは生まれてはじめて」と言ってましたから(笑)。ただ<Smoke & Blue>って、棟梁が鍵盤を弾く曲がけっこう多いんですね。回を重ねるうちにだんだん、棟梁のエレピの柔らかい音にみんながよりそうような演奏になってきて。そうすると不思議と、ある程度小さい音量でもダイナミクスが表現できるようになった。緩急のメリハリがついて表現がより広がったというか、ホールライヴとはまた違った面白さがありますね。

佐野元春
『STONES AND EGGS』
1999年8月25日発売
── この「Smoke & Blue」シリースで、個人的に思い出深いナンバーはありますか?
Dr.kyOn 棟梁、1999年にほぼひとりで『STONES AND EGGS』というアルバムを作ったでしょう。プライベートスタジオにプロ・ツールスを導入して。僕たちメンバーのクレジットも一応入ってますけど、基本的なプリプロダクションはすべて自分でやっている。棟梁のディスコグラフィーのなかでも、もっともデジタル的な手法で作られた1枚です。ただ、そこに収められた「C’mon」という曲は、「Smoke & Blue」の定番曲でもあるんですよ。ビルボード流で演奏すると、また違った魅力が浮かんでくる。
── なるほど。90年代から続く佐野さんの盟友バンドとして、表現の可能性はまだまだありそうですね。
Dr.kyOn そうですね。さっきも話したように、棟梁を見にきたお客さんにどれだけ満足して帰っていただけるか。その重責を担いつつ、機会があるかぎり一緒に楽しいことをやっていきたいなと。
(了)
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▲『MOTOHARU SANO THE COMPLETE ALBUM COLLECTION 1980-2004』ブックレットより

Dr.kyOn(どくたー・きょん)
●1957年熊本生まれ、大阪育ち。京都大学卒。1980年代半ばまで京都で活動、1987年~1995年はBO GUMBOSのメンバーとして活躍、同時に仲井戸“CHABO”麗市、高橋幸宏、泉谷しげるなどのサポートを始める。以降佐野元春、Char、小坂忠、吉田拓郎、リップスライム、ケツメイシ、銀杏BOYZ、元ちとせ、堂珍嘉邦、辻仁成、Diamond Shakeなど世代・ジャンルを超え幅広いアーティストをサポートしている。佐橋佳幸とのユニット“Darjeeling”としてもアルバム4作を発表、また串田和美演出のコクーン歌舞伎「切られの与三」「天日坊」、音楽劇「もっと泣いてよフラッパー」などの音楽監督も務めている。
https://x.com/grisgrisoffice
佐野元春コラボレート
STUDIO
1996『FRUITS』(Piano, Mandolin)
1997『THE BARN』(Guitar, Piano, Organ, Accordion, Mandolin, Back Vocal)
1999『STONES AND EGGS』(Guitar, Piano, Accordion, Organ)
2004『THE SUN』(Piano, Hammond Organ, Wurlitzer, Guitar, Mandolin)…and so on
LIVE
International Hobo King Tour(1996年1月~2月)
Fruits Tour(1996年9月~12月)
全国クラブ・キャラバン・アルマジロ日和(1997年10月)
The Barn Tour ’98(1998年1月~4月)
Driving For 21st. Monkeys(1999年3月)
Stones and Eggs Tour ’99(1999年9月~10月)
The 20th Anniversary Tour(2000年1月~3月)
Rock & Soul Review(2001年6月~7月)
Plug & Play ’02(2002年9月~10月)
THE MILK JAM TOUR ’03(2003年5月~7月)
THE SUN TOUR 2004-2005(2004年10月~2005年2月)…and so on
▲ウェブマガジンotonano別冊『Motoharu Sano 45』記事内のEPICソニー期の作品表記は2021年6月16日発売された『MOTOHARU SANO THE COMPLETE ALBUM COLLECTION 1980-2004』ブックレットに基づいています。


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【Part5】2000-2004|Motoharu Sano 45
2025.8.22
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【Part3】1990-1994|Motoharu Sano 45
2025.6.27