2025年7月号|特集 女性アイドル1985

【Part1】南野陽子スペシャル・ロングインタビュー

インタビュー

2025.7.1

インタビュー・文/原田和典 写真/山本佳代子


1985年にデビューし、今年で40周年を迎えた南野陽子。「楽園のDoor」、「はいからさんが通る」、「吐息でネット。」などを筆頭に数々の大ヒットを放ち、80年代を代表するアイドルのひとりであることに異論はないだろう。彼女の足跡を辿ることは、80年代のアイドルシーンを知ることでもある。ここでは南野陽子ご本人にデビューから当時のこと、そして今後の活動までじっくりと語ってもらった。

上京したときは、夏休みの東京旅行のような感覚でした。


── 本日は「南野陽子さんと音楽」というテーマでお話をうかがえたらと思います。4歳でピアノとバレエを始めたそうですが、そのきっかけは何だったのでしょうか?

南野陽子 実家の隣がピアノの先生の家だったので、毎日ピアノの音が聞こえてくるような環境でした。ピアノの音色も好きでしたし、「私も習いたいな」みたいなことを母親に言ったら、「それなら早い方がいいわよ」ということで4歳からピアノのレッスンを始めました。バレエ教室に通うようになったきっかけは覚えていませんが、こちらも4歳から始めました。両方とも短期間でやめましたけどね。

── そうだったのですか。

南野陽子 発表会がないと張り切らないタイプの子だったんです。「披露する場所がないのに、何で練習するんだろう」という感じで。だから発表会の3ヶ月ぐらい前とかから、またちょっと行き始める感じで、あとは休む。一応そこに所属はしているけど、幽霊部員みたいで、ピアノもバレエも全く身につかずでした。

── ピアノはバイエルから始めたのでしょうか?

南野陽子 バイエルもやりましたけど、何が最初だったかは覚えていません。昔のピアノ教室ですからクラシックをベースにしていたと思います。

── 家ではよく音楽が流れていたのでしょうか?

南野陽子 はい。仕事先から帰ってきた父親がご飯を食べ終えて、ウイスキーを一杯だけ飲みながら、その間にLPを1枚かけるんです。それが何十年もの日課でした。(ヘルベルト・フォン・)カラヤンのクラシックのレコードを聴いていたことを覚えています。時代ですね(笑)。車ではラジオのほかに、8トラックのテープがかかることも多かった記憶があります。「ジェットストリーム」で流れるようなイージー・リスニングや映画音楽が繰り返し再生されて(※8トラックはエンドレスループ構造のため)、何度も同じ曲を聴きました。洋楽がメインでしたね。

── 南野さん自身もレコードを買いましたか?

南野陽子 小学生の頃のお小遣いでは、自分でレコードを買うところまではいかなかったですね。ただ音楽は好きなので、高学年というか4年生、5年生、6年生くらいは本当にラジオやレコードをカセットに録音した記憶があります。中1の時には、初めて自分で音源を編集しましたね。学校の体育祭の出し物に仮装行列がありまして、そのテーマが百姓一揆(笑)。

── すごい中1ですね(笑)。

南野陽子 お侍さんと貧しい農民が争ってケンカして最後は手を組んで仲良くするというのがあらすじです。よく考えるとちょっと変なストーリーなんですが……。その仮装行列のために、「太陽にほえろのテーマ」、ABBAのライヴ・アルバムに入っていたインスト曲とタンゴの曲をつないで音楽を作ったことがあります。

── いわゆるDJ的なことをなさっていたわけですね。

南野陽子 曲と曲をつなぐ機械とかは持っていませんから、何度もステレオやラジカセのスイッチを押して、何かいろんなものを徹夜で作りました。誰も教えてくれる人がいなかったので、「ここでこの音が欲しいんだけど、どこから前の曲に重ねたらいいんだろう」とか思いながら失敗を重ねて。中学校に入ってからは貸レコード店にも行くようになりました。

── その頃にはもう音楽に関連する職業を志していたのでしょうか?

南野陽子 いやいやいやいや、小学校6年生の時の文集には、社長秘書と中国語の通訳(になりたい)と書きました(笑)。社長秘書が何の仕事をする人かもよくわかっていませんでしたが、イメージとしては「ケルドセンのバタークッキー」。タイトスカート姿で「社長、3時のおやつです。ココアが入りました」みたいな感じ(笑)。

── 中国語の通訳というのは?

南野陽子 そう文章に書いたんですが、どこからの受け売りだったのかわからないんですよ。中国には未だに行ったことがないですし……。ただ、小学6年生の私はどういうわけか「英語はしゃべれて当たり前」と思っていたんですよ、実際は今もしゃべれないですけど(笑)。



── そして、中学3年生から上京直前までフォークソング部に所属なさいます。

南野陽子 はい。フォークソング部に入る前、中学校1年生のときにはモダンダンス部にいました。ジャズダンスのような感じで、マイケル・ジャクソンとか、「ホテル・カリフォルニア」みたいな曲に合わせて踊っていましたね。ただ私は同級生の中では少し背が高い方で、フォーメーションバランスが崩れる感じがあったのでやめました。その後はGFSというボランティア活動をする部に入って、老人ホームに行って肩をもんだり、子供の施設で紙芝居をしたりしましたが、中3のときに仲が良い友達から「ナンノ、このまま学生時代を終えてええの? ちゃんとみんなの前で “私がいましたよ” ということを表現せんでええの?」と言われまして、フォークソング部に入ることになりました。

── 素晴らしい友達です。

南野陽子 学校には器楽部もあって、そこに入りたかったんですが、その中のバンドには欠員がなかったんです。フォークソング部に関しては、ギターを習ってみようかなという気持ちもありました。フォークソングといっても当時はもうニューミュージックやロックの時代。私はユーミン、NOBODY、財津和夫さんのソロ、THE ALFEE等をコピーしたことを覚えています。

── おひとりで、ですか?

南野陽子 フォークソング部の部員には中1から高2までがいるんですが、1学年1人ずつみたいな感じで5~6人のバンドを組まされるわけです。だからひとりでやることはありませんでしたが、とても出席率の悪い生徒だったので割と怒られていました(笑)。高校生の部長から「そんなにギターが欠席ばかりしていたら、ダメじゃないの。後輩も困っているでしょ」と。

── コンサートでも披露されたギター弾き語りの原点は、部活の日々にあったわけですね。

南野陽子 私は左利きなので、何年か前に卒業した先輩から左利きのギターを借りて、弾き方も教えてもらいました。今もギターは左利きですね。ウクレレと三味線は右利きですが。

── 三味線もなさるんですか。

南野陽子 時代劇で、三味線が弾ける人の役などが来るんです。お師匠さんの役とか、女郎、芸者さん、置屋の人とか。練習するようになって、家には三味線があります。しばらく弾いていないので弦を張り替えなきゃいけないんですが。

── そして高2のときに芸能界入りしますが、役者や歌手などの目標はあったのでしょうか?

南野陽子 志望はなかったです。お芝居がしたいとも思っていなかったし、人前で歌ったこともなかったし、何となくちょっと友達に自慢話ができればな、ディズニーランドに行けたらな……というくらい。夏休みの東京旅行のような感覚でした。

【Part2】に続く)





●南野陽子 (みなみの・ようこ)
1985年、18歳のバースデーにデビュー。CBS ソニーよりシングル「恥ずかしすぎて」をリリース。歌手活動と並行してドラマ『時をかける少女』、『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』に主演し、CM出演や多くのグラビアなどを飾るなど一躍トップアイドルの座を獲得する。歌手として、「楽園のDoor」「はいからさんが通る。」「吐息でネット」等でシングルチャート9作連続1位を記録。女優としても、ドラマや舞台など今までに250作以上の作品に出演し、映画では『寒椿』『私を抱いてそしてキスして』(1992年)で日本アカデミー賞優秀主演女優賞、『三たびの海峡』(1995年)で助演女優賞等を受賞。2025年にデビュー40周年を記念し、3枚組アナログ・レコード『Yoko Minamino 40 th Anniversary Records』を7月23日にリリース。7月27日より、全国5都市を廻るデビュー40周年記念コンサート・ツアー「YOKO MINAMINO 40th Anniversary ~ALL singles~ “楽園のDoor”」も開催。

https://www.southern-field.net/
https://yoko-minamino.com/
facebook.com/nannoclub.three/
instagram.com/yokominamino__