
- HISTORY 佐野元春ヒストリー~ファクト❸1990-1994
- DISCOGRAPHY 佐野元春ディスコグラフィ❸1990-1994
- INTERVIEWS 佐野元春サウンドを鳴らした仲間たち❸西本明
HISTORY●佐野元春ヒストリー~ファクト❸1990-1994

プリミティヴなロックンロール・アルバム『TIME OUT!』 ――「ぼくは大人になった」
1989年12月25日、神戸国際会館。<Napoleon Fish Tour>最終日、そして佐野元春にとって80年代最後のライヴとなった夜。ステージ上のスクリーンには「Good-bye 80’s Don’t look back」の文字が映し出されていた。1989年と1990年。12月31日を挟んだわずか一日の違いだが、この80年代と90年代の境界には数字以上の意味があった。ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結。アメリカ一強体制が強まる中で、湾岸戦争が勃発。グローバル資本主義と地域紛争の時代へと突入していく。そして佐野のデビューと歩調を合わせるように急激な経済成長を遂げてきた日本経済も、’90年1月4日の株価暴落をきっかけにバブル景気の崩壊が始まった。
80年代と90年代。この10年における音楽産業の変化も大きかった。
ヒットチャートの主役はかつての演歌、歌謡曲からバンドブームを背景としたロック、そしてJ-POPへとすっかり顔ぶれを変えた。ロックは今や先鋭的なアートではなく、音楽産業における主力製品となっていた。佐野はこの変化を主導したひとりであることは間違いないが、商品としてのロック/ポップ・ミュージックが並ぶメインストリームに、彼の居場所はなかった。デビューから10年、依然として佐野はオルタナティブな存在のままであった。
そして1990年においては、まだロックンロールにおけるDon’t Trust Over 30の呪縛は健在であった。’86年に傑作『Don’t trust over thirty』をリリースしたムーンライダーズは以降5年間にわたって活動を休止した。山下達郎が、30過ぎてロックなんて出来るわけがない。30歳から先の展望なんて全然なかった、と語っていたように、ロックはまだ、若者の、若者による、若者のための音楽だった。東京、ニューヨーク、ロンドンを飛び回り、シーンを切り拓いてきた佐野も34歳。ひとりの人間として成熟していく中で、ロックンロールのイノセントをいかに燃やし続けていくべきかを考えるべき時期を迎えていた。
そんな中、転機となった出来事が、ニール・ヤングとの邂逅である。
’90年4月、<Napoleon Fish Tour>の演出を担当したジェイムズ・マジオの紹介によって佐野はサンフランシスコ、サンタクルーズにあるヤングの農場を訪れた。
若き日の佐野が大きな影響を受けた名曲「Heart Of Gold」に、“僕は黄金の心を求めて旅を続けている”という一節がある。その歌詞の想いがまだ続いているのか? という佐野の問いに、ヤングは「自分は常に革新している。ただ、マスコミがそれを受け入れない」と答えたという。その言葉に佐野は、アーティストとして活動する以上、セールス、パブリックイメージとのせめぎ合いからは逃れられないということを悟る。しかしあのニール・ヤングですらもその葛藤にいるという事実は、佐野を勇気づけるものでもあったという(*1)。
’90年、5月のコンピレーション・アルバム『MOTO SINGLES 1980-1989』のリリースを経て、6月にリリースされた90年代最初の、そして7枚目のオリジナル・アルバム『TIME OUT!』。佐野自身が本作を “ホームアルバム” と呼ぶように、80年代中盤からの海外三部作のような冒険的野心やコンセプチュアルなアプローチを抑制し、音楽そのものにフォーカスした地に足の着いた作品である。制作期間はわずか1か月。デジタル・レコーディングが主流となっていった時代にあえてアナログ機材にこだわり、ザ・ハートランドのメンバーと共に東京でレコーディングされた。

佐野元春 with THE HEARTLAND
『TIME OUT!』
1990年11月9日発売
プロデューサーに前作『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』に続きコリン・フェアリーを迎えたことからも分かるように、アルバムの軸となるのはパンク、ニューウェーブによってモダナイズされたロックンロールのビート。今作はさらにニューオリンズ・ジャズやアンビエントのスタイルも折衷したサウンドへと拡張されている。
モッドR&B風の力強いビートにハモンド・オルガンの咆哮が重なる「ぼくは大人になった」、ブルージーなギターリフがボーカルに絡みつく「ビッグタイム」。UKレゲエのリズムを解釈した「クエスチョンズ」、肉体的なファンキービートにクールなシンセサイザーを大胆にフィーチャーした「彼女が自由に踊るとき」。そして初期の名曲「彼女」を彷彿とさせるピアノバラード「君を待っている」や先行シングルにもなった「ジャスミンガール」も収録されている。
これだけの音楽的フックに溢れた、デビュー10周年という節目にリリースされた作品でありながら、佐野のディスコグラフィーにおいてやや異色の存在となっているのは、歌詞の変化に戸惑いを感じたリスナーが多かったからかもしれない。
これまでの都市を舞台にした三人称視点のストーリーテリング的な手法、あるいはボヘミアンの精神を現代に甦らせるイマジネイティヴな言語感覚から離れ、佐野自身の心境の変化や、彼が抱えるジレンマを率直に投影した歌詞が多く見られる。1曲目の「ぼくは大人になった」は「ガラスのジェネレーション」に対するビターなアンサーソングと言えるだろうし、「クエスチョンズ」の、“誰かここに来て救い出してほしい 部屋の壁際に追い詰められているのさ 傷が深すぎて何も感じられない”という歌詞には、デビュー当初は強い信頼関係にあったレコード会社との関係性の変化が影響しているとも言われる。

佐野元春 with THE HEARTLAND
「ぼくは大人になった -A Big Boy Now-」
1991年4月10日発売
また、“Baby Baby 誰もが気づいているのにおかしな夢の続きに夢中さ”という歌い出しから始まる「サニーデイ」も、バブル経済の幻想から抜け出せない社会をシニカルに見つめているかのよう。同じくニューオリンズ・ジャズのリズムがフィーチャーされた「ガンボ」のアウトロに耳を澄ますと「誰か、ここに来て救い出してほしい」という佐野の声が収録されていることに気付く。ニューオリンズ・ジャズが彼の地における葬儀、セカンドラインと呼ばれる葬列で演奏される音楽であるという事実と照らし合わせると、陽気なビートとは裏腹のシリアスなメッセージが浮かび上がってくるようでもある。
本作はアルバムチャートで3位を記録。「暗さや諦観が漂う」とも評される面も確かにあるが、佐野は「(80年代の作品にフォーカスされがちだが)90年代の僕の作品こそが佐野元春の本質をついているのではないか」と語っているように(*2)、深い内省と音楽の本質をポップ・ミュージックへと昇華していった90年代の佐野元春の、大きな第一歩として記録されるべきだろう。なお、バレアリックなギター・サウンドを背景に、嵐の中、家路を急ぐ男の姿を描いた「空よりも高く」は次作となる『SWEET16』の序章とも言える仕掛けがあった。しかし、この時点ではその未来はまだおぼろげにも浮かんではいなかった。なお、この作品のトラックダウンはロンドンで行われ、佐野は単身渡英。かの心理学者のジークムント・フロイトも滞在していたというコロネイド・ホテルの17号室を常宿とし、’90年4月から’91年9月までTOKYO FMを中心に放送されていたラジオ番組『テイスティ・ミュージック』でのロンドン・レポートの収録もこの部屋で行った。
先鋭的なポップを究めた『SWEET16』の誕生!
リリース・ツアー<Time Out! Tour>は’90年11月10日北海道厚生年金会館を皮切りにスタートした。約1か月半、全15公演という佐野のキャリアの中では最も短いスケジュールに、当時の難しい状況が伺われる。そのツアーの最中、佐野はオノ・ヨーコが主催したジョン・レノン生誕50周年記念イベント<Greening Of The World>へ参加した。ビートルズの「レボリューション」、そして「音楽を通じて地球環境を考える」というテーマに共鳴して作ったテーマ・ソング「エイジアン・フラワーズ」をオノ・ヨーコ、そして息子のショーン・レノンと共に披露した。そしてヨーコとショーンはツアー最終日、12月28日の大阪公演に飛び入り参加。ボブ・ディラン「Knockin’ On Heaven’s Door」のカヴァーと共に「エイジアン・フラワーズ」を演奏した。この時レコーディングされた同曲はアルバム『SWEET16』にも収録され、世界の中の日本、アジアにおける日本というアルバムのテーマを象徴する一曲となる。
1990年12月の<Time Out! Tour>大阪公演に飛び入りしたオノ・ヨーコと共演
翌’91年は、佐野のキャリアの中で最も静かな年となった。いや、ならざるを得なかったというのが正確なところだろう。年初からニュー・アルバムの計画はあったものの、ペースをつかむことができずに中断。レーベル側の要請により、過去のアルバムからラヴ・バラードを選曲したコンピレーション・アルバム『SLOW SONGS』が制作された。いわゆる企画盤ということもあり、顧みられる機会の少ない作品ではあるが、ファースト・アルバム『BACK TO THE STREET』に収録された「情けない週末」と「バッド・ガール」の二曲を、日本を代表する作曲家/編曲家・前田憲男がアレンジした。フル・オーケストラの演奏により生まれ変わった二曲は、佐野のメロディ・センスがフランク・シナトラやビング・クロスビーにまで遡る、良質なアメリカン・ポップスに由来していることを改めて示している。コンピレーション盤のリリースに当初は乗り気ではなかった佐野自身も「作業をするうちに、いいな、と思うようになった。オーケストラと一緒に唄えたのがうれしかった」と振り返っている(*3)。ロック・ミュージシャンとオーケストラの共演作品として名高い、エルヴィス・コステロとバート・バカラックによる『ペインテッド・フロム・メモリー』がリリースされる7年前のことである。

佐野元春
『SLOW SONGS』
1991年8月28日発売
そして同年10月、佐野は父親を亡くす。まだ59歳。早すぎる別れだった。悲しみの中、会社を経営していた父親が手がけていた事業を整理するため、佐野は髪を短く切り、スーツを着て、弁護士と共に一年にわたって奔走したという。音楽活動は休止せざるを得なかった。
肉親をなくした悲しみと実務的な問題が山積する中、ほとんど音楽も聴けない状態だった佐野だが、「パフォーマーとしてのカンを取り戻す」ために’92年1月から<See Far Miles Tour PartⅠ>を開始した。デビュー当初の新宿ルイード、80年代中盤の日本青年館での東京マンスリー。彼の創作意欲の源泉は常にライヴにあった。約3か月、29公演にもおよぶツアーだった。
ニュー・アルバムを伴わないツアーということもあり、オールタイム・ベストの選曲、聴き馴染みのあるアレンジというセットリストも功を奏したのかもしれない。約十年にわたって佐野がバンドと共に築いてきたものの確かさを確認し、未来に向けたエネルギーを交わし合うような充実したパフォーマンスは、各地のファンの熱狂で迎えられた。
’92年3月23日、神奈川県民ホールでのライヴは『SWEET 16 30th Anniversary Edition』に収められたCDで聴くことができるが、その圧倒的なパフォーマンスからは、内側に抱えた苦悩など一切感じさせない。しばらくバンドを離れていたキーボードの西本明が復帰したザ・ハートランドとのコンビネーションはもはや万能感すら漂っており、アンコールの「愛のシステム」の自在なアンサンブルは圧巻というほかない。またこのライヴの中では「誰かが君のドアを叩いている」と「レインボー・イン・マイ・ソウル」という、この時点ではアルバム未収録の新曲も披露されている。

佐野元春
『SWEET 16 30th Anniversary Edition』
2023年3月29日発売
デビュー以来、佐野はソングライターとしてのアティテュードを問われると常に「私小説的な叙情や自己憐憫を排すること」を表明している。その言葉通り、佐野の楽曲の中に、佐野のプライベートな心情がそのまま反映された楽曲は、45年のキャリアの中でも存在しないと言ってもいいだろう。佐野元春という個人と作品の間には強固なファイヤーウォールがあり、その歌を完全に独立したものとしていることが、彼の楽曲が時代を超えて新鮮さを保っている理由の一つだろう。
この日披露された「レインボー・イン・マイ・ソウル」について佐野は「敢えて悲しい歌にはしなかった。そうして出来た曲こそが本当に傷ついた人たちにとっての武器になるはずだから」と語っている(*4)。
“「さよなら」と言えないで 夜明けまで過ごした”という愛する父親を喪った時の心境が透けて見えるフレーズを、“失くしてしまうことは悲しいことじゃない 輝き続ける いつまでも There’s rainbow in my soul”という希望へと昇華させていくところに、佐野元春のソングライターとしての矜持を見ることができる。
この曲から、“君がいない” というリフレインを軽やかに歌う「ジュジュ」へと続いていくこの日のパフォーマンスは、人間としての、そしてパフォーマーとしての佐野元春が交錯する瞬間のように思えてならない。
<See Far Miles Tour PartⅠ>の成功に手応えを感じた佐野は、すぐに中断していたニュー・アルバム『SWEET 16』の制作を再開する。制作にあたってのテーマは “メイド・イン・ジャパン”。80年代にニューヨーク、ロンドンで培ってきたレコーディングの技術とノウハウの全てを、東京のスタジオの中で注ぎ込んだ作品を作りたいという思いがあったという(*2)。それはミュージシャンとしてのチャレンジであると同時に、高度経済成長、バブル景気を経て経済大国と呼ばれるようになった日本と重ね合わせる批評的な試みでもあったと言える。佐野は『SWEET 16 30th Anniversary Edition』に寄せた文章の中で、本作を「思春期を迎えた戦後民主主義日本をスケッチした “時事的なアルバム”」と振り返っている。オノ・ヨーコ、ショーン・レノンをゲストに迎えた「エイジアン・フラワーズ」をはじめ、アジアの中で孤立しつつある日本という意味も込めた「ミスター・アウトサイド」といった楽曲で、世界における日本の姿をソングライティングにおいても反映させた。
そして当時はまだ「渋谷系」という言葉もインターネットも発明されていない時代ではあったが、当時の東京は、世界中の音楽や情報が集積される都市になりつつあった。『SWEET 16』における最先端のムーブメントを積極的に取り込もうという音楽的アティテュードは、より都市としての機能を高度化させていった東京、現代日本の描写というコンセプトとも重なるのかもしれない。
そのインスピレーションのひとつは、当時ワールド・ミュージックと呼ばれていた、アフリカや中南米のリズム、ハーモニーである。’86年にポール・サイモンが南アフリカのミュージシャンとコラボレーションして制作した『Graceland』がヒット、デヴィッド・バーンもラテン音楽に傾斜した作品を多数発表し、非英米圏を含めた世界規模の音楽イベントWOMADを主催するピーター・ガブリエルがアフリカ音楽に接近したアルバム『US』を発表。日本においても、坂本龍一がアルバム『BEAUTY』でセネガル出身のユッスー・ンドゥールと共演するなど、ロック、ポップ・ミュージックに(西洋側から見れば)未知の音楽を取り入れていく動きが活発化していた。「ハッピーエンド」で聴かれる越智義朗、越智義久のパーカッションによるポリリズム的なリズムアプローチ、西アフリカ出身のシンガーChome、Manysto、Frantal & Benitaによるコーラスはそうした動きに対する佐野からの回答だろう。

1992年5月、箱根にて。『SWEET 16』の宣伝用フォト・セッション
そしてもうひとつはイギリス・マンチェスターを中心に興ったマッドチェスター・サウンドだ。ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズに代表されるハウス・ミュージックとロックを融合させたサウンドに呼応したのが「ミスター・アウトサイド」のダンサブルなビート。さらに「廃墟の街」におけるチルアウトなサウンドは、それと深く結びつくクラブ・カルチャーからの影響を感じさせる。
ちなみに佐野は、このアルバムの冒頭で聴かれる雷の音が、『TIME OUT!』の最終曲「空よりも高く」の歌詞の中で、家路を急ぐ男が巻き込まれた嵐と同じものであるという設定を明らかにしているが(*5)、この曲の背景として聴こえてくるストーン・ローゼズを彷彿とさせるバレアリックなギター・サウンドもまた『TIME OUT!』と『SWEET 16』の世界を繋ぐリンクとして機能している。

佐野元春
『SWEET 16』
1992年7月22日発売
こうした新しい音楽を取り込むことで、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』、『TIME OUT!』で追求してきたロックンロールやソウルのモダナイズというテーマにも瑞々しい生命力がみなぎった。タイトルトラックの「スウィート16」は、佐野が少年時代から愛してきたバディ・ホリーのジャングルビートと甘いメロディ、ビーチ・ボーイズのようなコーラス。しかしここには、ノスタルジーのかけらもない。ビートは太く、ギターは荒々しく、アティテュードはワイルドに。16歳の果敢さだけを切り取り、タフな人生を切り拓こうという姿勢はパンク的であり、そのサウンドは後のケミカル・ブラザーズにも通じるようなダイレクトな肉体性がある。
そして「ボヘミアン・グレイブヤード」つまり「ボヘミア主義の終わり」と名付けられた、今までの自分を支えてきた哲学に別れを告げるテーマの楽曲にバグパイプの音色とチアフルなビートをあてたところにも彼の強靭なオプティミズムが表れている。
ブックレットの巻末に「父に捧ぐ」と記したアルバムで、センチメントを胸に秘め、冒険心に満ちた作品を作り上げる。これこそが佐野の表現者としての真骨頂と言えるだろう。
1992年7月にリリースされた8枚目のオリジナル・アルバム『SWEET 16』は、カラフルなポップセンスが全開になると同時に、最先端のオルタナティブ・ミュージックにアクセスした先鋭性を備える90年代を代表する名盤となり、第34回日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞。佐野にとって90年代最大のヒット作ともなった。

WOWOW開局記念番組『Goodbye Cruel World』のアンプラグド・セッション
『SWEET 16』の制作およびプロモーションの時期も含めた90年代前半のトピックとして「テレビに出ないアーティスト」として知られていた佐野のマスメディアに対する対応の変化がある。
まず’90年12月24日、テレビ朝日系の特別番組『ディズニーの魔法の国のメリー・クリスマス』に出演。東京ディズニーランドから「クリスマス・タイム・イン・ブルー」を演奏した。’91年4月には、日本初の民間衛星放送WOWOWの開局記念番組としてスタジオ・ライヴ『Goodbye Cruel World』が放送された。佐野とザ・ハートランドは、いわゆるアンプラグド・セットで全10曲を演奏。佐野はこの日のパフォーマンスを、60年代のキューバ危機に対するニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの詩人たちのアクションになぞらえ、’91年1月に勃発した湾岸戦争、ソ連崩壊後のバルト海諸国の混乱へのメッセージとした。この日のテイクから「99ブルース(Unplugged Version)」はコンピレーション・アルバム『NO DAMAGEⅡ(GREATEST HITS 84-92)』で聴くことができる。

佐野元春
「また明日...」
1992年1月12日発売
さらに’92年1月に矢野顕子をボーカルにフィーチャーしたシングル曲「また明日...」は、筑紫哲也がキャスターを務めるTBSの報道番組『NEWS23』のエンディング・テーマに起用。そして同年3月にはTDKのカセットテープのCFに出演した。「誰かが君のドアを叩いている」に合わせてエピフォンのギターを弾く佐野をフィーチャーした映像は、ミュージック・ビデオさながらの質感。佐野の映像に対するこだわりと共に、広告が一つの文化であった豊かな時代を感じさせる。
テレビやコマーシャルへの出演について佐野は、自らの音楽を聞いて育った世代がマスメディアで働くようになり、佐野の音楽やイメージに合う映像を前提としたオファーがあったためと振り返る。
「(レコードを売るために)清涼飲料水を持って “うーん、うまい” とカメラに向かって言う役割を、引き受けられなかった。それだけのことなんだ。僕の音楽を本当に愛してくれている人たちとコラボレーションする気持ちはいつも持ってきたし、今もまったく変わらないよ」(*6)。
フジテレビの音楽番組『SOUND ARENA』への出演もそうしたスタンスの延長線上にあるものだったのであろう。とはいえ、全国ネットのテレビ放送はスタッフの人数も桁違い。制約も多い。アーティストとして音楽性やイメージを十分にコントロールできないことを危惧した佐野はオファーに対して慎重だったものの、EPICソニーの宣伝チームの意見を踏まえて出演を承諾。ザ・ハートランドと共に「誰かが君のドアを叩いている」と「SOMEDAY」を演奏した。佐野本人がセットやカット割にまでこだわり抜いた映像は大きな反響を呼び、放送翌日にEPICソニー本社をたまたま訪れた佐野を、社員全員がスタンディング・オベーションで迎えたという。

1992年5月、フジテレビ系音楽番組『SOUND ARENA』=テレビ初の演奏時
こうした活動もあり、『SWEET 16』はヒットチャートで2位を記録。トータル30万枚を売り上げ、同年12月にリリースされたコンピレーション・アルバム『NO DAMAGEⅡ(GREATEST HITS 84-92)』と共に、日本レコード協会のゴールド・ディスクを受賞。さらにフジテレビ系月9ドラマ『二十歳の約束』の主題歌に起用されたシングル「約束の橋」はプラチナ・ディスクを受賞した。

佐野元春
「約束の橋」
1992年10月28日発売
『SWEET 16』の実質的なリリース・ツアーは’92年9月12日戸田市文化会館からスタートした。<See Far Miles Tour Part Ⅱ>と銘打たれ、前回のツアーの続編のような形となっているが、ニュー・アルバムを挟んだ佐野とハートランドのパフォーマンスは、わずか数ヶ月前のPartⅠとは別のバンドのようになっていた。その最終公演は’93年1月24日横浜アリーナ。巨大モニターに映し出されるコンピュータ・グラフィックをバックに、プログラミングされたビートに乗って演奏されるマッドチェスター仕様の「ぼくは大人になった」は、アリーナ全体を巨大なダンスフロアに変えていった。
ちなみに横浜アリーナでは後の’99年に電気グルーヴの石野卓球が日本初の大型屋内レイブ「WIRE」を開催するが、この場所で最初に四つ打ちのダンスビートを鳴らしたのは、電気グルーヴから最も遠いイメージのあった佐野元春だったのかもしれない。
思いがけないハプニングは、7曲目に演奏された「彼女の隣人」の中で起きた。2番のサビに入るところで、感極まった佐野が突然涙を流し歌うことができなくなってしまったのである。前述の通り、佐野元春はプロフェッショナルとして、常に自らの感情を律してきた。それゆえにバンド・メンバーの驚きも相当なものだったはずだが、コーラスのメロディ・セクストンはさりげなく佐野の身体を抱きかかえ、長田進はボーカル・パートまでも引き受けるようにギターソロを弾き続けた。その姿にオーディエンスも温かい拍手を送りながら、音楽に集中した。次作『THE CIRCLE』に収録されることになるこの時点での未発表曲は、父親を亡くし、病床にいる母を気遣っていた佐野の妹を励ますために書かれたものだった。
決して順風満帆とは言えず、否応なしに「大人になる」ことを迫られた90年代最初の3年間。しかし<See Far Miles Tour PartⅠ><See Far Miles Tour Part Ⅱ>はそのブルーを吹き飛ばすようなツアーとなった。
ライヴの手ごたえは佐野に新たなインスピレーションをもたらし、’93年1月24日の横浜アリーナ公演を終えて自宅に帰る車の中で佐野は、すぐ次のレコーディングを始めることをマネージャーに告げる。それぞれが一流のミュージシャンであるザ・ハートランドのメンバーのスケジュールと制作費の都合から、まず佐野がコンピューターでプリプロダクションを行った上で、バンドの生演奏に置き換えていくという手法で『THE CIRCLE』のレコーディングは始まった。

1992年~1993年<See Far Miles Tour Part Ⅱ>にて
サークル・オブ・イノセンス(無垢の円環)アルバム『THE CIRCLE』
佐野は「『SWEET 16』が太陽ならば『THE CIRCLE』は月のようなアルバム。『THE CIRCLE』が無垢の終わりなら、『SWEET 16』は無垢の始まりがテーマだ。人生の中で循環(サークル)する無垢な精神について考えていた」と語るように(*7)、そのサウンドも対照的だ。『SWEET 16』がマッドチェスター・ムーブメントやハウス・ミュージックの楽天的なサウンドと強く結びついていたのに対して、『THE CIRCLE』のベースにあるのは、当時アメリカを席巻していたオルタナティブ・ロックのざらついたギター・サウンド、そしてリズム&ブルースやソウル・ミュージックの重心の低いヘヴィなビートである。そしてその歌詞もサウンドに呼応するように重く、時にシニカルで辛辣なほどの鋭さがある。90年代の日本を襲った象徴的な厄災=阪神・淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件も、大手証券会社の倒産もまだ起きておらず、J-POPブームに沸く日本の音楽産業は生産金額の記録を毎年更新し続けていたが、アーティストとしての鋭敏な嗅覚がやがて深まっていく霧の存在を感じ取っていたのだろうか。
“地下鉄の窓に映る 欲望 欲望 ふくれてゆくだけの欲望”
“グッド・ラックよりもショットガンがほしい 君を撃ちたい”
長田進のグランジ・ギターと大海原へ漕ぎ出していくような雄大なビート、そしてバブル崩壊によって失われた富の行方に翻弄される人間の絶望が浮かび上がるような歌詞で幕を開ける「欲望」が、アルバム全体のトーンを象徴する。
しかし本作が傑作とされる所以は、やがて訪れる絶望の予感と同時に、それでも失われることのない希望も提示している点にある。タイトルトラックである「ザ・サークル」では
“さがしていた自由はもうないのさ 本当の真実ももうないのさ”
“もう僕は探しに行かない 時間のムダだと気づいたのさ”
と言う歌い出しから始まりながらも
“君を愛してゆく 今までのように君を愛してゆく
少しだけやり方を変えてみるのさ”(「ザ・サークル」)
というサジェスチョンがなされる。もう十分に大人になっていた佐野のリスナーも、ティーンエイジャーのナイーブさで、自分自身のイノセントを守れるはずもないことは十分に分かっていたはずだ。もっとしたたかに、もっと賢く、厳しい現実をサヴァイヴするヒントを共有したかったということなのだろう。
本作を語る上で忘れてはならないトピックは、1964年のヒットナンバー「Yeh, Yeh」やヴァン・モリソンとのコラボレーションなどで知られるイギリス出身のミュージシャン、ジョージィ・フェイムの参加だ。彼は「新しいシャツ」と「エンジェル」の二曲でハモンド・オルガンと味わい深いボーカルを聴かせている。佐野よりもひとまわり以上も年上のロック・ミュージシャンとの生き生きとしたセッションは、30代の後半に入りつつあった佐野に大きな勇気を与えたことだろう。と同時に、佐野よりも若いミュージシャン、DJが中心となって過去の音楽的遺産を再発見していた「渋谷系」が全盛だった当時、日本人アーティストがロック史におけるレジェンドと共演したという事実は夢のあるものだったはずだ。
そして本作はザ・ハートランドと共に作る最後のオリジナル・アルバムとなった。「ザ・ハートランドが目指したサウンドの完成形が『SWEET 16』『THE CIRCLE』」(*8) 。佐野の言葉の通り、プリミティヴなロックンロール・アルバム『TIME OUT!』から始まり、先鋭的なポップを究めた『SWEET 16』、そして哲学的なソウル・アルバム『THE CIRCLE』。これだけスタイルの異なる発明品を、わずか3年間で作り上げたバンドとのコラボレーションは驚異的と言うほかない。

佐野元春
『THE CIRCLE』
1993年11月10日発売
’93年10月17日の新聞朝刊に「本日、ストリート・ライヴ決行。教会の脇、パーキングエリアで待つ。・・・MOTO」という暗号めいた広告が掲載された。アルバムの完成を記念したゲリラ・ライヴを告げるメッセージである。たったそれだけの言葉をヒントに渋谷公園通りに集まった満場のファンの前で、ニュー・アルバム『THE CIRCLE』の存在が明かされた。熱狂するオーディエンスを前にステージで歌う佐野の視線の先には、コーネリアスこと小山田圭吾のデビューを告げる大きなビルボード。このライヴ写真は当時の音楽シーンの豊潤さを象徴する一枚と言えるが、このふたりのアーティストがそれから30年後も第一線で活躍し続けるとは誰も想像ができなかっただろう。『THE CIRCLE』は11月10日に発売。アルバムチャート6位、12万枚を超えるセールスを記録した。

1993年10月、渋谷・公園通りのPARCO脇のパーキング・エリアで行われた伝説のフリーライヴ
『THE CIRCLE』のアルバム・ツアーを始動させる直前の’93年12月1日。世界エイズ・デーに合わせて、日本でもAAA(Act Against AIDS)が開催された。複数のチャリティー・コンサートが同日に行われた中で、佐野は横浜アリーナで開催された<ロックンロール コミットメント>に出演者と総合プロデューサーとして参加。佐野が自ら呼びかけて出演したアーティストは、東京スカパラダイスオーケストラ、ビブラストーン、CHARA、吉田美奈子 with 清水靖晃、バブルガム・ブラザーズ、ソウル・フラワー・ユニオンといった面々。
佐野がこのイベントの中で最も心を砕いたのは、会場に集まるオーディエンスに正しくイベントの意義を感じてほしいということだったという。そのために佐野は出演アーティスト一人ひとりに手紙を書き、スタッフにもコンセプトを説明した。思えば、佐野がニューヨークに滞在した’83年はエイズが大きな社会問題化する直前の時期。そしてエイズウィルスとそれに対する社会の無理解は、アルバム『VISITORS』の音楽性に強い影響を与えたセクシャル・マイノリティが多く集うクラブ・ミュージックのシーンに壊滅的なダメージを与えた。エイズの問題に対する当事者意識は人一倍強かったはず。この日のライヴで佐野はザ・ハートランドと共に『VISITORS』から「NEW AGE」と「Shame ~君を汚したのは誰」を演奏している。

イベントの総合プロデューサーも務めた<Act Against Aids ’93>より
1994年、佐野元春 with THE HEARTLAND解散
<The Circle Tour>は’93年12月4日戸田市文化会館を皮切りに全国で42公演が行われた。このツアーにあたり、佐野はある決意を胸に秘めていた。それは’80年のデビュー以来、活動を共にしてきたザ・ハートランドの解散である。この決断がバンド・メンバーに伝えられたのは、ツアーの終盤、’94年2月21日の倉敷公演の楽屋だった。メンバーたちは佐野の言葉を静かに受け入れたという。佐野は’94年4月にファンに届けた「ハートランドからの手紙#73」の中で、“僕らは話し合いました。そして決めました。爽やかなものです。僕らはともにある決意をもって出発し、全力で何か大事なことをやりとげ、そして今また元に帰ってゆくのだと、そんなふうに思っています” と綴った。
佐野と同世代以上で一時代を築いたアーティストたち、例えば大瀧詠一、山下達郎、桑田佳祐、矢沢永吉、浜田省吾。その多くがバンドの一員としてデビューしているが、佐野だけは最初からソロ・アーティストの「佐野元春」だった。そしてはっぴいえんど、シュガーベイブ、CAROL、愛奴。サザンオールスターズを除く全てのバンドが長くない活動期間で解散する中、佐野元春 with THE HEARTLANDは14年間にわたり活動を共にした。自らを “がんばれベアーズ” と称した若者たちは、横浜のサンドイッチ店、新宿ルイードからライヴ活動を始めて、ついに横浜スタジアム、武道館や横浜アリーナまで辿り着いた。佐野元春がソロ・アーティストと同時にバンドマンという印象があるのは、彼のパフォーマンスがステディなバンドなくしては成り立たないものであること、そしてバンドとしての物語があることを、ファンが感じていたからだろう。
ツアーの最終公演は’94年4月24日、日本武道館。この日の約3時間にわたるパフォーマンスは2024年12月にリリースされた『THE CIRCLE 30th Anniversary Edition』の中で映像作品として、あるいは2025年3月に配信された音源『The Circle Tour Final 日本武道館ライヴ 1994.4.24』として確認することができるが、佐野元春 with THE HEARTLANDが日本最高の演奏力と創造性を持ったバンドであると言い切りたくなる圧巻のパフォーマンスである。「ナイトライフ」から始まるライヴの前半はデビューからの軌跡を振り返るような80sクラシックが並ぶセットリスト。実はこの日の朝から全く声が出なくなるというアクシデントが佐野を襲っていた。

佐野元春 with THE HEARTLAND
『The Circle Tour Final 日本武道館ライブ 1994.4.24』
2025年3月配信
それを逆手に取るようにロングトーンを避けつつ、即興的な節回しでハートランドのグルーヴをドライヴさせていく佐野のボーカル。メロディとバンドの演奏が一体となった彼らのサウンドだからこそできる芸当と言えるだろう。そして最新作『THE CIRCLE』をメインにした中盤以降の、時にアブストラクトで時にアーシーな、人生の光陰を抱きしめていくようなパフォーマンス。佐野の喉はすでに限界を超えていたと思われるが、メロディとポーラ、ふたりの女性コーラスが支えることで、楽曲の切実さが際立っていく。この完成されたチームワークのなかに、解散の理由を見出すことは全くできない。しかし惰性の気配が芽生える前に、たとえ痛みが伴っても表現者としてなすべきことをなすのが、佐野のアーティストとしての行動原理であり、誠実さなのかもしれない。この日のライヴ終了後、ザ・ハートランドの解散が発表された。
ザ・ハートランドとの最後のステージは武道館公演から半年後の9月15日。彼らの出発の地、横浜に設けられた。イベントタイトルは<LAND HO!>。海賊が陸地を見つけた時の合言葉。このライヴが終わりではなく新たな始まりであることを端的に伝えるタイトルである。
この日のステージに立ったのは、古田たかし(dr)、小野田清文(b)、長田進(g)、西本明(key)、阿部吉剛(key)。それにTokyo Be-Bopのダディ柴田(Sax)、石垣三十郎(Trp)、ボーン助谷(Trb)、コーラスのメロディ・セクストン、ポーラ・ジョンソンの面々。佐野の苦境を救い、表現力のピークを示した<See Far Miles TourⅠ><See Far Miles TourⅡ>から不動のメンバー。
「僕とザ・ハートランドが何年間かに渡って集めた心の宝石を最高の形でみなさんと分かち合う、そんな祝祭――フェスタのようなものであってくれたらなあと思っています」。

1994年9月15日、佐野元春 with THE HEARTLAND最後のステージ<LAND HO!>
佐野がコンサート・パンフレットに寄せた言葉の通り、湿っぽさとは無縁のムードで、代表曲でオーディエンスを沸かせていく。そして『VISITORS 』からの「カム・シャイニング」「ワイルド・オン・ザ・ストリート」では、当時のツアーを支えたギターの横内タケ、パーカッションの里村美和がゲストとして呼び込まれ、当時さながらの熱のこもったプレイを披露。さらに初期の代表曲「彼女はデリケート」ではハートランドの初代ギタリストにして共同プロデューサーとして佐野を支えた盟友・伊藤銀次が登場。上半身裸でステージ上を駆け回る佐野を、兄のような眼差しで見守る赤いスーツを着こなした伊藤の姿にデビュー当時の関係性を見たファンも多かっただろう。
約3時間半にもおよんだライヴは、巨大スクリーンに映し出された「THANK YOU FAREWELL THE HEART LAND」という文字と共に終了した。
この日のライヴには、長く闘病生活を送っていた佐野の母も看護師と共にホスピスから駆けつけていた。お気に入りのデザイナーに洋服を新調するほどにこの日を楽しみにしていたという。体力の問題でライヴを最後まで見届けることはできなかったが、大観衆を沸かせる我が子の姿を目に焼き付け、ライヴから二週間後に息を引き取ったという。

佐野元春 with THE HEARTLAND
『THE GOLDEN RING
MOTOHARU SANO WITH THE HEARTLAND LIVE 1983-1994』
1994年8月26日発売
ザ・ハートランドとの14年にも及ぶ長い航海は、<LAND HO!>の1か月前の8月にリリースされたCD3枚組ボックスセット『THE GOLDEN RING』としてコンパイルされた。彼らの人気に火をつけた’83年の<Rock & Roll Night Tour>から’94年の<The Circle Tour>までのテイクが収録された本作は、“イノセンスの循環” そして “グローイング・アップ” という佐野の表現上のテーマにどう向き合ってきたかを示した生々しいドキュメントと言える。長年苦楽を共にした「音楽兄弟のような」バンド、そして最愛の両親。ふたつの大きな別れを経て、佐野はまた新しい航海へと出ることになる。
(【Part3】佐野元春ヒストリー~ファクト❹1995-1999に続く)
発言出典一覧(発売元は当時表記)
1)ぴあニュース(ぴあ)『佐野元春を成立させるクリエイティブのかけら』第7章
2)『Player』 2021年4月号(プレイヤー・コーポレーション)
3)ニュージェネレーションのための佐野元春CDガイド
https://www.moto.co.jp/works/album/ESCB1230.html
4)『SWITCH』 2021年6月号(スイッチ・パブリッシング)
5)ぴあニュース(ぴあ)『佐野元春を成立させるクリエイティブのかけら』第8章
6)山下柚実・著『時代をノックする音』(毎日新聞出版)
7)ぴあニュース(ぴあ)『佐野元春を成立させるクリエイティブのかけら』第8章
8)『SWITCH』2021年6月号 「佐野元春サウンド、その40年の変遷」
DISCOGRAPHY●佐野元春ディスコグラフィ❸1990-1994
VIDEO
佐野元春 with THE HEARTLAND
ナポレオンフィッシュ・ツアー’89~自由への新しい航海~1990年4月8日発売/EPICソニー
[β]ESUU 3212 [VHS]ESVU 212(1990.4.8)[LD]ESLU 282(1990.4.8)[DVD]ESBB 2028(2000.11.22)
① 新しい航海
② ナポレオンフィッシュと泳ぐ日
③ 愛のシステム
④ おれは最低
⑤ ブルーの見解
⑥ コンプリケーション・シェイクダウン
⑦ 雨の日のバタフライ
SINGLE
佐野元春
SOMEDAY1990年4月21日発売/EPICソニー
[8cmCD]ESDB 3098(1990.4.21)①SOMEDAY ②Bye Bye Handy Love
COMPILATION
佐野元春
MOTO SINGLES 1980-19891990年5月12日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 1064~5(1990.5.12)
DISC 1:1980-1985
① アンジェリーナ Angelina
② ガラスのジェネレーション Crystal Generation
③ ナイトライフ〈Re-Mix〉 Night Life 〈Re-Mix〉
④ サムデイ Someday
⑤ ダウンタウンボーイ〈Re-Mix〉 Down Town Boy 〈Re-Mix〉
⑥ 彼女はデリケート She’s So Delicate
⑦ シュガータイム Sugartime
⑧ ハッピーマン Happy Man
⑨ スターダスト・キッズ Stardust Kids
⑩ グッドバイからはじめよう The Beginning Of The End
⑪ トゥナイト〈Short Edited Version〉 Tonight〈Short Edited Version〉
⑫ コンプリケイション・シェイクダウン Complication Shakedown
⑬ ヴィジターズ Visitors
⑭ ニューエイジ New Age
⑮ ヤングブラッズ Young Bloods
⑯ リアルな現実 本気の現実 What Is The Story Of Will?
⑰ クリスマス・タイム・イン・ブルー−聖なる夜に口笛吹いて〈Original Version〉Christmas Time In Blue 〈Original Version〉
DISC 2:1986-1989
① ストレンジ・デイズ−奇妙な日々 Strange Days
② アンジェリーナ〈Slow Version〉 Angelina 〈Slow Version〉
③ シーズン・イン・ザ・サン−夏草の誘い Season In The Sun
④ ルッキング・フォー・ア・ファイト−ひとりぼっちの反乱〈Re-Mix〉 Looking For A Fight 〈Re-Mix〉
⑤ ワイルド・ハーツ−冒険者たち Wild Hearts
⑥ シャドウズ・オブ・ザ・ストリート〈London Mix〉Shadows Of The Street 〈London Mix〉
⑦ 99ブルース〈7inch Version〉99 Blues 〈7inch Version〉
⑧ インディビジュアリスト〈7inch Version〉Individualists 〈7inch Version〉
⑨ 警告どおり 計画どおり The Warning
⑩ 風の中の友達 Friend
⑪ 約束の橋 The Bridge
⑫ 君が訪れる日 Life Must Go On
⑬ ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 Napoleon Fish Day
⑭ 愛することってむずかしい It’s So Hard(To Fall In Love)
⑮ シティチャイルド City Child
⑯ 水の中のグラジオラス Gladiolus
⑱ 雪−あぁ世界は美しい The World Is Beautiful
Produced by 佐野元春(DISC 1②~⑤,⑦~⑰,DISC 2①~⑰)、小坂洋二&佐藤文彦(DISC 1①)、大滝詠一(DISC 1⑥)、伊藤銀次(DISC 1⑤⑦⑧)、Frank Doyle & John "Tokes" Potoker(DISC 1⑫⑬⑭)、Colin Fairley(DISC 2⑬⑮⑰)
Cover calligraphy by 村瀬稔
SINGLE
渡辺美里 佐野元春 with THE HEARTLAND
Home Planet -地球こそ私の家-1990年8月22日発売/EPICソニー
[8cmCD]ESDB 3131(1990.8.22)① Home Planet -地球こそ私の家-
② Home Planetのテーマ
SINGLE
佐野元春 with THE HEARTLAND
ジャスミンガール1990年10月1日発売/EPICソニー
[8cmCD]ESDB 3155(1990.10.1)① ジャスミンガール
② 空よりも高く(CD Single Version)
STUDIO ALBUM
佐野元春 with THE HEARTLAND
TIME OUT!1990年11月9日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 1111(1990.11.9)[CT]ESTB 1111(1990.11.9)[CD]MHCL
(2016.3.23)
① ぼくは大人になった A Big Boy Now
② クエスチョンズ Questions
③ 君を待っている Waiting For You
④ ジャスミンガール Jasmine Girl
⑤ サニーデイ One Sunny Day
⑥ 夏の地球 Love Planets
⑦ ビッグタイム Big Time
⑧ 彼女が自由に踊るとき When She Danced
⑨ 恋する男 A Man In Love
⑩ ガンボ Happy Gumbo
⑪ 空よりも高く Home
Produced by Moto "Lion" Sano & Colin Fairley、吉野金次③
Recorded by 阿部保広、安倍徹
Mixed by Robin Evans
Recorded at Sound City Studios、音響ハウス、
SEDIC、Sound Sky Studios、一口坂スタジオ
Cover photography by 細川晃
Musicians
THE HEARTLAND
●佐野元春(Vo,G,Organ,Harmonica)●古田たかし(Vo,Ds,Perc)●小野田清文(Vo,B)●長田進(Vo,G)●阿部吉剛(Vo,Key)●西本明(P⑪)/里村美和(Perc⑧)
THE TOKYO BE-BOP(Brass②~⑨⑫)
●ダディ柴田(Sax)●ボーン助谷(Tb)●石垣三十郎(Tp)
GUEST
●友田グループ(Strings Ensemble③)
SINGLE
佐野元春 with THE HEARTLAND
ジャスミンガール1990年12月21日発売/EPICソニー
[VSD]ESFU 7210(1990.12.21)① ジャスミンガール
VIDEO
佐野元春 with THE HEARTLAND
LIVE<TIME OUT!>’901991年3月21日発売/EPICソニー
[VHS]ESVU 321(1991.3.21)[LD]ESLU 321(1991.3.21)[DVD]ESBB 2032(2000.11.22)
① ぼくは大人になった
② ビッグタイム
③ ジャスミンガール
④ クエスチョンズ
⑤ 空よりも高く
⑥ 愛のシステム
SINGLE
佐野元春 with THE HEARTLAND
ぼくは大人になった -A Big Boy Now-1991年4月10日発売/EPICソニー
[8cmCD]ESDB 3201(1991.4.10)① ぼくは大人になった -A Big Boy Now-
② Sugartime(Live Version)
COMPILATION
佐野元春
SLOW SONGS1991年8月28日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 1230(1991.8.28)[MD]ESYB 7006(1992.11.1)
① 恋する男 A Man In Love
② こんな素敵な日には On The Special Day
③ 情けない週末〈Full Orchestra Version〉 Rainy Day Weekend 〈Full Orchestra Version〉
④ ふたりの理由 Soulmates
⑤ 真夜中に清めて Midnight Tripper
⑥ バルセロナの夜〈Re-Mix Version〉 A Night In Barcelona
⑦ 週末の恋人たち〈Re-Mix Version〉 Lovers For The Weekend
⑧ バッド・ガール〈Full Orchestra Version〉 Bad Girl 〈Full Orchestra Version〉
⑨ 彼女〈Re-Take 1991〉 She 〈Re-Take 1991〉
⑩ 君を待っている Waiting For You
⑪ 雪−あぁ世界は美しい The World Is Beautiful
⑫ グッドバイからはじめよう The Beginning Of The End
Produced by佐野元春(③,⑤~⑨⑫)、Moto "Lion" Sano,Colin Fairley(①,④,⑪)、大滝詠一(②)、吉野金次(⑩)
Recorded & Mixed by 坂元達也
Cover photography by 大塚努
SINGLE
佐野元春
また明日...1992年1月12日発売/EPICソニー
[12cmCD]ESCB 1276(1992.1.22)① また明日...
② ナポレオンフィッシュと泳ぐ日(Studio Live Mix)
③ ジュジュ(Studio Live Mix)
SINGLE
佐野元春
誰かが君のドアを叩いている1992年4月8日発売/EPICソニー
[12cmCD]ESCB 1291(1992.4.8)① 誰かが君のドアを叩いている
② 愛のシステム(Studio Live Mix)
③ 誰かが君のドアを叩いている(‘Let it roll’ Version)
STUDIO ALBUM
佐野元春
SWEET 161992年7月22日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 1308(1992.7.22)[CD]MHCL 30351(1991.7.1)*アニヴァーサリー盤は別途
① ミスター・アウトサイド Mr. Outside
② スウィート16 Sweet 16
③ レインボー・イン・マイ・ソウル Rainbow In My Soul
④ ポップチルドレン(最新マシンを手にした陽気な子供たち)Pop Children(With The New Machine)
⑤ 廃虚の街 The Waste Town
⑥ 誰かが君のドアを叩いている Someone’s Knocking On Your Door
⑦ 君のせいじゃない Cry
⑧ ボヘミアン・グレイブヤード Bohemian Graveyard
⑨ ハッピーエンド Happy End
⑩ ミスター・アウトサイド(リプリーズ)Mr. Outside (Reprise)
⑪ エイジアン・フラワーズ Asian Flowers
⑫ また明日... If We Meet Again
Produced by Moto "Lion" Sano
Recorded & Mixed by 坂元達也
Recorded at 一口坂スタジオ、Sedic、Music Inn Studio、 Studio Take One、Sound Inn Studio
Art direction by 駿東宏
Musicians
THE HEARTLAND
●佐野元春(Vo, G, Mandolin, Bagpipe, Key⑤)●古田たかし(Ds, Perc)●小野田清文(B)●長田進(G)●阿部吉剛(Key)●西本明(P③)
THE TOKYO BE-BOP(Brass②~⑨⑫)
●ダディ柴田(Sax)●ボーン助谷(Tb)●石垣三十郎(Tp)
GUEST
●矢野顕子(Vo⑫)●Yoko Ono & Sean Lennon(Vo⑪)●越智義朗(Perc①⑤⑦⑨⑫)●越智義久(Perc①⑤⑦⑨⑫)●守時龍巳(Hammond Organ②⑥)●Maxayn Lewis(Back Vo③)●Chome(Back Vo⑨)●Manytso(Back Vo⑨)Frantal(Back Vo⑨)●Benita(Back Vo⑨)●堀川満志(Computer & Synthesizer Programming)●佐藤克典(Computer & Synthesizer Programming)●Joe Strings<指揮:福井峻/スコア:吉野金次>(Str⑦)
全文をお読みいただくには〈otonano ID〉会員登録が必要となります。
VIDEO
佐野元春 with THE HEARTLAND
1992 See Far Miles Tour PartⅠ1992年9月22日発売/EPICソニー
[β]ESUU 3365(1992.9.21)[VHS]ESVU 365(1992.9.21)[LD]ESLU 365(1992.9.21)[DVD]ESBB 2033(2000.11.22)
① プロローグ〜テーマ'See Far Miles'
② 彼女が自由に踊るとき
③ ジュジュ
④ ワイルドハーツ
⑤ 約束の橋(Woodstock Version)
[Recorded at 神奈川県民ホール 1992.3.23]
SINGLE
佐野元春
約束の橋1992年10月28日発売/EPICソニー
[8cmCD]ESDB 3339① 約束の橋
② SWEET 16
③ 約束の橋(オリジナル・カラオケ)
SINGLE
佐野元春
彼女の隣人1992年11月21日発売/EPICソニー
[8cmCD]ESDB 3345(1992.11.21)① 彼女の隣人
② レインボー・イン・マイ・ソウル
COMPILATION
佐野元春
NO DAMAGEⅡ(GREATEST HITS 84-92)1992年12月9日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 1342(1992.12.9)[MD]ESYB-7041(1993.1.21)
① ニューエイジ〈The Heartland Version〉 New Age 〈The Heartland Version〉
② スウィート16 Sweet 16
③ 約束の橋 The Bridge
④ ジャスミンガール Jasmine Girl
⑤ ヤングブラッズ Young Bloods
⑥ レインボー・イン・マイ・ソウル Rainbow In My Soul
⑦ 99ブルース〈Unplugged Version〉 99 Blues 〈Unplugged Version〉
⑧ ジュジュ Juju
⑨ ワイルド・ハーツ−冒険者たち Wild Hearts
⑩ シェイム−君を汚したのは誰 Shame
⑪ ぼくは大人になった A Big Boy Now
⑫ ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 Napoleon Fish Day
⑬ インディビジュアリスト Individualists
⑭ クリスマス・タイム・イン・ブルー−聖なる夜に口笛吹いて Christmas Time In Blue
⑮ 新しい航海〈90's Version〉 New Voyage 〈90’s Version〉
⑯ 陽気に行こうぜ〈Short Edited Version〉 Shake It Up 〈Short Edited Version〉
Produced by Moto "Lion" Sano
Recorded by 坂元達也(①②⑥⑮)、John Etchells(③⑧⑫⑯)、阿部保広(④⑨⑪⑬⑭)、吉野金次(⑤)、高橋誠(⑦)、John "Tokes" Potoker(⑩)、
Mixed by 坂元達也
Cover photography by 大塚努
VIDEO
佐野元春 with THE HEARTLAND
1992-1993 See Far Miles Tour PartⅡ1993年6月23日発売/EPICソニー
[VHS]ESVU 383(1992.9.21)[LD]ESLU 383(1992.9.21)[DVD]ESBB 2034(2000.11.22)
① プロローグ〜See Far Milesのテーマ
② ぼくは大人になった
③ コンプリケーション・シェイクダウン
④ シェイム
⑤ ニューエイジ
⑥ ハートビート
⑦ 彼女の隣人
⑧ ボヘミアン・グレイブヤード
⑨ ミスター・アウトサイド
⑩ スウィート16
⑪ レインボー・イン・マイ・ソウル
⑫ 新しい航海
[Recorded at 大阪城ホール ’93.1.16 / 横浜アリーナ ’93.1.23-24]
STUDIO ALBUM
佐野元春
THE CIRCLE1993年11月10日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 1456(1993.11.10)[MD]ESYB 7052(1993.11.10)[CD]MHCL 30352(2016.3.23)[LP]MHJL 373~374(2024.12.25)*アニヴァーサリー盤は別途
① 欲望 Desire
② トゥモロウ Tomorrow
③ レイン・ガール Rain Girl
④ ウィークリー・ニュース Weekly News
⑤ 君を連れてゆく Over The Hill
⑥ 新しいシャツ Brand New Shirts
⑦ 彼女の隣人 Don’t Cry
⑧ ザ・サークル The Circle
⑨ エンジェル Angel
⑩ 君がいなければ If Without You
Produced by 坂元達也 & Moto "Lion" Sano
Recorded & Mixed by 坂元達也
Recorded at 一口坂スタジオ
Cover photography by 平間至
Musicians
THE HEARTLAND
●佐野元春(Vo①~⑩, Ag①④, Key①~⑩,Programming①~⑩)●古田たかし(Ds①~⑩)●小野田清文(B①~⑩)●長田進(G①~⑧,⑩)●西本明(Org③⑦, P⑤, Syn⑦)●阿部吉剛(Key⑦, P⑩)●里村美和(Perc③)
THE TOKYO BE-BOP(Brass②~⑨⑫)
●ダディ柴田(Sax⑤~⑧)●ボーン助谷(Tb⑥⑧)●石垣三十郎(Tp⑥⑧)
GUEST
●Georgie Fame(Hammond Organ⑤⑥⑨, Vo⑨)●越智義朗(Perc⑦)●越智義久(Perc⑦)●Maxayn Lewis(Back Vo①②⑤⑦⑧)●Melodie Sexton(Back Vo①②⑤⑦⑧)●堀川満志(Manipulator)
VIDEO
佐野元春
Visual Expressions of THE CIRCLE1993年12月1日発売/EPICソニー
[VHS]ESVU 393(1993.12.1)[LD]ESLU 393(1993.12.1)
① 欲望[Directed by THE DOUGLAS BROTHERS|From the CD ‘The Circle’]
② THE CIRCLE (Mark McGuire Version)[Directed by THE DOUGLAS BROTHERS|The original version is available on the CD ‘The Circle’]
③ Rain Girl (Making of Visual Expression of ‘The Circle’)[Directed by Mikio Kawasaki|From the CD ‘The Circle’]
Mini ALBUM
佐野元春
Dance Expressions of THE CIRCLE1994年1月21日発売/EPICソニー
[12cmCD]ESCB 1485(1994.1.21)
① The Circle (Mark McGuire Version)
② 欲望 (Rescue Version)
③ Rain Girl (Umbrella Version)
④ Tomorrow (Manana Version)
⑤ Angel (Night Version)
LIVE ALBUM
佐野元春 with THE HEARTLAND
THE GOLDEN RING
MOTOHARU SANO WITH THE HEARTLAND LIVE 1983-19941994年8月26日発売/EPICソニー
[CD]ESCB 1516~8(1994.8.26)
DISC 1
① ガラスのジェネレーション Crystal Generation
② ダウンタウンボーイ Down Town Boy
③ ソー・ヤング So Young
④ 彼女はデリケート She’s So Delicate
⑤ アンジェリーナ Angelina
⑥ 悲しきレイディオ Radio Radio
⑦ 君をさがしている(朝が来るまで)Looking For You
⑧ ドゥー・ホワット・ユー・ライク(勝手にしなよ)Do What You Like
⑨ グッドバイからはじめよう The Beginning Of The End
⑩ コンプリケイション・シェイクダウン Complication Shakedown
⑪ ワイルド・オン・ザ・ストリート Wild On The Street
⑫ カム・シャイニング Come Shining
⑬ シェイム−君を汚したのは誰 Shame
⑭ ヤングブラッズ Young Bloods
DISC 2
① ワイルドハーツ−冒険者たち Wild Hearts
② 99ブルース 99 Blues
③ インディビジュアリスト Individualists
④ ストレンジデイズ−奇妙な日々 Strange Days
⑤ 新しい航海 New Voyage
⑥ ナポレオンフィッシュと泳ぐ日 Napoleon Fish Day
⑦ ボリビア−野性的で冴えてる連中 Bolivia
⑧ ブルーの見解 Vision Of Blue
⑨ ぼくは大人になった A Big Boy Now
⑩ 月と専制君主 Sidewalk Talk
⑪ 愛のシステム System Of Love
⑫ ジュジュ Juju
⑬ ジャスミンガール Jasmine Girl
DISC 3
① 欲望 Desire
② ニューエイジ New Age
③ スウィート16 Sweet 16
④ レインボー・イン・マイ・ソウル Rainbow In My Soul
⑤ 約束の橋 The Bridge
⑥ 彼女の隣人 Don’t Cry
⑦ ロックンロール・ナイト Rock & Roll Night
⑧ ハートビート(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)Heart Beat
⑨ サムデイ Someday
⑩ 空よりも高く Home
Produced by Moto "Lion" Sano、滝瀬茂、坂元達也
Mixed by 坂元達也
Cover drawning by James Marsh
Musicians
THE HEARTLAND
●佐野元春(Vo,Eg,Ag,Hca)●伊藤銀次(G)●古田たかし(Ds)●小野田清文(B)●長田進(G)●横内タケ(G)●西本明(Key)●阿部吉剛(P,Key)●里村美和(Perc)
THE TOKYO BE-BOP
●石垣三十郎(Tp)●ボーン助谷(Tb)
GUEST
●Melodie Sexton(Back Vo)●Paula Johnson(Back Vo)●Maxayne Lewis(Back Vo)
●上記ディスコグラフィ内の記載品番全てを撮影しているわけではありません。ご了承ください。
INTERVIEWS●佐野元春サウンドを鳴らした仲間たち❸

1994年、佐野元春 with THE HEARTLANDラストレコーディング
「ナイトライフ」「ハートビート」……やっと出会えた!っていう嬉しさがありましたね(西本)
── 西本さんは1982年、ザ・ハートランドに正式加入されました。これによってバンドは阿部吉剛さんとのダブル鍵盤編成になり、初期佐野元春の重層的サウンドが固まります。
西本明 そうですね。レコーディングには’81年のセカンド・アルバム『HEARTBEAT』から参加していますし。その流れでライヴを手伝うこともあった。ただ当時は、いろんなミュージシャンの現場で仕事をしてましたので。最初はあくまでサポート的な立ち位置でした。それが’82年秋の<Rock & Roll Night Tour>以降は、完全にバンドと行動を共にするようになって。文字どおり “同じ釜の飯を食う仲間” になった、という感じですかね。
── 今日はザ・ハートランド参加前も含めて、佐野さんとの関わりを伺えればと。まずベーシックな質問ですが、キーボードを弾くきっかけは何だったんですか?
西本明 お、そこからなんだ(笑)。えーとですね、自分の中で大きかったのは中学時代のブラスバンド部かな。僕は千葉の大網(現・大網白里市)という田舎町で育ったんですけど、うちはあまり裕福じゃなくて。家にピアノがあるような環境じゃなかった。だけどフォーク好きだった姉や兄の影響もあって音楽には興味があったんです。小さい頃は地元の鼓笛隊に入ったりして。
── 鼓笛隊ではどの楽器を?
西本明 小太鼓です。で、中学に上がるとブラバンに所属し、トランペットを担当しました。簡単なスコアの読み方もそこで覚えた。そうやって熱心に活動してたからかな。部活の顧問だった音楽の先生がすごく目をかけてくれたんです。初めて弾いたのは学校の足踏みのオルガンでした。女の先生でしたが、ある日、音楽室でバイエルのピアノ譜を渡されて。「西本くん、あなたは楽譜も読めるし、ちょっとオルガンの前に座ってみなさい」といって。二段譜を見ながら、左右両手で弾く簡単な曲を教わった。それが文字どおり、人生初の鍵盤体験です。
── へええ、それでどうなったんですか?
西本明 1日かけて練習に付き合ってもらい、何とか弾けるようになりました。それで自分の中の壁がなくなったというか。「鍵盤って怖くないんだな」って思えた。そこから学校のピアノやオルガンを借りて、自己流で弾くようになったんですね。当時の音楽誌にはよく、ヒット曲のコード譜が付いていたでしょう。それを眺めながら、姉が持ってた安いフォークギターでひとつ1つ音を確認して。見よう見真似で鍵盤に置き換えていったのが、ポップスを弾き始めたきっかけです。発売されたばかりのビートルズ「レット・イット・ビー」とかね、学校で練習した記憶があります。
── そうやって生徒に新しい世界を見せてくれる先生って、本当に素敵ですよね。その方は西本さんがプロで活躍されているのをご存じだったんですか?
西本明 卒業後お目にかかる機会が一度もなかったので……どうだったのかなあ? でも、ものすごく感謝してますね。あの日がなければ、キーボードは弾いてなかったかもしれない。茂原市の高校に通うようになってからも、同じように学校のピアノで遊んでました。防音の練習室が4つあって、そのうちふたつにアップライトが置いてあったのかな。そこで部屋を奪い合ううち仲よくなったのが、江澤宏明。後に浜田省吾さんのバンドでベースを弾く男で、彼と最初のバンドを始めました。最初は僕の兄貴がギター、彼がキーボードで、僕はベースだったかな。
── 当初はパートが逆だったんですね。
西本明 そうそう。あとはふたりでShinoというユニットも組んで、コンテストにも応募しました。話があちこち飛びますけど、2006年に亡くなった下村誠というシンガーソングライターがいまして。僕より3つ年上で、音楽ライターとしても活動した人なんですけど。高校時代、某コンテンストにShinoで出たときの審査員が彼だったんです。その縁で江澤と僕が下村さんのバンドに引っ張り込まれたこともあった。舶来歌謡音楽団という名前で、たしかポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)にも出たはずです。
── その頃にはもう、プロのミュージシャンになろうと?
西本明 ええ。地元のライヴハウスにも出入りするようになり、友だちも増えて。漠然と「卒業後は音楽で食べていきたい」と思うようになってました。それで高3のとき、突然「音大に進みたい」と思い立ったんです。将来、作曲やアレンジの仕事をするためには、専門教育を受けた方がいいだろうと。ピアノひとつない家だったけど、親に頼み込みまして。地元の先生に就いて、基本的な音楽理論を習ったりもしました。高校卒業後も、がんばって1年浪人するつもりだったんです。でも、夏の終わり頃には「やっぱり現実的じゃない」と見切りをつけちゃった(笑)。アマチュアのミュージシャンとしての活動がどんどん楽しくなってきてましたしね。
── 西本さんは後年、ザ・ハートランドで重要なレパートリーのアレンジやプロデュースを任されますよね。また佐野さん以外にも尾崎豊、稲垣潤一、渡辺美里、大江千里など多くのアーティストの作・編曲を手がけています。若い頃、短期間とはいえ音楽理論に打ち込んだ経験は大きかったのでは?
西本明 それはめちゃくちゃありますね。今に至るまで、自分の仕事のベースになってると思います。ブラバンの顧問の先生と並んで大恩人ですね。県の音楽振興事業などにも携わり、地元の学校の校歌も作っておられた小沼正人先生。この方には一応、プロになったことをご報告しています。「ほほう、すごいね」と喜んでくれました。
── 高校を卒業されたのが’76年。佐野さんのファースト・アルバム『BACK TO THE STREET』が出る4年前ですね。その間はどういった活動を?
西本明 高校を卒業後、いろんなライヴハウスに出入りする中で、板倉雅一という同世代のキーボーディストと知り合いまして。すぐ意気投合し、市川にあった彼の部屋で共同生活を始めたんですね。
── 板倉雅一さん。『BACK TO THE STREET』にも4曲参加されてますよね。
西本明 そうそう。70年代の後半、結局3年くらい一緒に暮らしてたのかな。彼はすでにプロの現場とコネクションがあったので。この板さん起点で僕の仕事も広がっていきました。甲斐バンドのツアーにふたりして参加してプロとしてギャラをもらったのも、もともとは彼が持ってきてくれた話だったし。逆に僕が板さんを紹介したこともありました。THE FUSE(ザ・ヒューズ)という浜田省吾さんのバックバンドは、たぶんそっちのパターンですね。詳しい経緯は忘れましたが、ライヴハウスで知り合ったドラマーの滝本季延くんを介して、まず僕が浜田さんと繋がって。板さんを引き込んだ後、先に抜けたんだと思う。で、その後、さっきお話しした同級生の江澤がベースで入ったんじゃないかな。ちなみにこのふたりとは今も千葉トリオというユニットで活動中なんですよ。
── 同世代の若いミュージシャンによる、緩やかなコミュニティが機能していたんですね。ちなみに20代前半の西本さんは、どういった音楽が好きだったんですか?
西本明 いろいろありますが、一番よく聴いたのはジャクソン・ブラウンかな。ちょうど板さんと共同生活を始めた頃、アルバムの『プリテンダー』(’76年)が出たんですよ。この名盤はもう擦り切れるほど聴きました。当時のジャクソン・ブラウンのバンドは本当に素晴らしかった。クレイグ・ターギーっていう鍵盤奏者がいまして。「THE FUSE」という1曲目の演奏が、とにかくかっこよかったんです。板さんとふたりで「いつか俺らもこういうピアノを弾きたいね」と熱く話し合ったのを覚えてます。
── 挙げられた「THE FUSE」って、浜田省吾さんのバンドの名前ですよね。
西本明 そうそう(笑)。板さんが付けたのか、浜田さんの発案なのか僕は知りませんけど。あの曲から取ったのは間違いない。僕自身クレイグさんの演奏をたくさんコピーしましたし。深いところで影響も受けたと思います。
── 輪郭のキリッとした、推進力のあるピアノですよね。影響というのは、たとえばどんなところでしょう?
西本明 強いて技術的な部分を挙げると、左手の使い方ですかね。彼のプレイスタイルって、左手で10度をカヴァーしてることが多い。普通はせいぜいオクターブ(8度)なんですけど、手が大きいから自然に弾けちゃうんでしょうね。僕も指をギリギリ限界まで開いて、必死で真似しました。ただ本当に大きかったのは、シンガーの「歌」に寄り添う演奏ってことかもしれない。なかなか言葉にしにくい、感覚的な領域なんですけれど……。
── キーボードの旋律そのものが「歌う」のではなくて。
西本明 そうです、そうです! あくまでもヴォーカルを気持ちよく聴かせるための鍵盤。この点は、僕が好きなキーボーディストはみんな共通してますね。同じ『プリテンダー』に参加したビル・ペイン(リトル・フィートの創設メンバー)もそうですし。Eストリート・バンド(ブルース・スプリングスティーンの盟友的存在)のロイ・ビタンもそう。基本的にギターの印象が強いけど、実はバックで明瞭なピアノの音がずっと鳴ってるじゃないですか。あんな音楽に自分も参加してみたかった。ただ、それが発揮できる場所って意外になかったんですよ。少なくとも僕の周辺では。
── アーティストの持ち味とか、サウンドとの兼ね合いもありますもんね。
西本明 そうなんですよね。当時は少しずつ、レコーディングやライヴの現場にも呼ばれるようになっていたので。若いなりにそういうテイストを生かそうと模索した時期もあった。でも、やっぱり曲全体のアンサンブルとはまらなかったというか……。自分的にはしっくりきませんでした。そうやってモヤモヤを抱えてる時期、たまたま佐野くんの『BACK TO THE STREET』のレコーディングを見学する機会があって。前置きが長くなりましたが(笑)、あれは人生最大級の衝撃だった。

佐野元春
『BACK TO THE STREET』
1980年4月21日発売
── どういう流れでスタジオを訪れたんですか?
西本明 板さんに誘われたんじゃないかな。彼は当時、松原みきさんのバックでキーボードを弾いていて。その流れで(伊藤)銀次さんから、佐野くんのレコーディングに呼ばれたんです。ある晩、一緒に住んでた部屋に興奮気味で帰ってきて。「佐野元春ってめちゃめちゃ面白いから、絶対に見た方がいいよ」と言われたんだと思う。最初は「アンジェリーナ」の歌入れかリズム録りか何かだった気がするんですけど、ぶっ飛ばされました。楽曲も歌詞も、サウンドも、すべて「何じゃこれ!?」って感じだった。
── 『BACK TO THE STREET』では、演奏はされなかった?
西本明 ごめんなさい、じつはそこら辺の記憶が曖昧ですが(笑)、「これぞ自分のやりたい音楽だ」と直感しましたね。ちょっと偉そうな言い方ですけど、佐野くんの曲に僕の演奏スタイルが呼ばれている気がした。
── 実際、時間を置かずにそれが実現したわけですね。
西本明 ええ。何だかんだと理由を付けては、佐野くんのいるスタジオに出入りするようになって。「ちょっと弾いてみない?」って流れになったんでしょうね。約1年後にリリースされたセカンド・アルバム『HEARTBEAT』にはめいっぱい参加しています。振り返っても、このレコーディングは最高でした。それまでに出会ったアーティストとは違って、自分から合わせにいく必要が皆無だったといいますか……。思いきり自分のスタイルを出し切っても、まるで違和感がなかったんですよ。
── たしかに西本さんのエモーショナルで躍動的なキーボードが、全体のアレンジにすんなり馴染んています。
西本明 44年前の演奏だけど、そう言っていただけると嬉しいですね(笑)。自分の中では2曲目「ナイトライフ」とか最後の「ハートビート」なんかが特にそうだった。イントロも途中のリフも、基本的なフレージングはすべて佐野くんのアイデアなんです。だけど、彼が「こんな感じで」とメロディーを口ずさめば、どう弾けばいいかってイメージがすぐ浮かびましたし。だからこそ要所では自分なりの味付けもできた。「やっと出会えた!」っていう嬉しさがありました。
── 擦り切れるほど聴いたアメリカのシンガーソングライター。そのバックのキーボードと同じ感覚で演奏できる日本人アーティストに、ようやく巡り会えたと。
西本明 まさにそんな感じです。
── この『HEARTBEAT』で西本さんは、THE HEARTLAND名義の6曲に加えて、THE OMURA SELECTED BAND名義の2曲にも参加しておられます。
西本明 はい。アレンジャーの大村雅朗さんにも、僕はすごく可愛がっていただきました。佐野くんのレコーディングで親しくなったのかその前から面識があったのか、今となっては前後関係が曖昧なんですけど。いずれにしても『HEARTBEAT』の後、大村さんとは一時期たくさんお仕事させていただいて。編曲のノウハウやスタジオワークまど、本当にいろいろ学ばせてもらった。僕が松田聖子さんや辛島美登里さんの楽曲に関わるようになったのは、実はその流れなんですよ。

佐野元春
『HEARTBEAT』
1981年2月25日発売
── セカンド・アルバム『HEARTBEAT』から4か月後には、シングル盤「サムデイ」がリリースされ、翌年3月には大瀧詠一さん主導の企画盤『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』が発売されました。西本さんは両方に参加されていますね。でもこの時点では、まだバンドには加わっていなかった。
西本明 そうですね。もちろん、佐野くんとの仕事はめちゃめちゃ楽しかった。こんなアーティストと仕事できるのは最高だと思っていました。’82年の<Welcome to the Heartland Tour>からはちょくちょくステージにも出ていましたが、ライヴはあくまでワンショットのお手伝いっていうのかな。ザ・ハートランドにお邪魔する感覚だったんですよね。
── 何か理由があったんでしょうか?
西本明 その頃、スタジオミュージシャンやアレンジの仕事がけっこう増えてきてまして。自分ひとりでどこまでやれるか試してみたい時期でもあった。あとは僕、こう見えて気が弱いところもありまして(笑)。お客さん前で演奏するより、スタジオで音楽を作る作業の方が向いている気がした。それである時期までは「ツアーはちょっと」みたいなスタンスだったんだと思います。
── それがなぜ、’82年9月からの<Rock & Roll Night Tour>で正式メンバーに?
西本明 おそらく、ある時点でガマンできなくなったんでしょうね(笑)。今ここで一緒に行動しないと、後で絶対に後悔するぞと。そういう直感が働いた。
── なるほど。
西本明 それであるとき、ライヴ終わりだったと思うんですが、僕の方から切り出しました。正確な言葉は忘れちゃったけど、要は「今後はメンバーとしてちゃんとやりたいんだけど、どうだろう」。佐野くんの反応は……いつもの「OK! ウェルカム」みたいな調子だった気がします(笑)。僕の中では、そういうアーティストと出会えたのは人生初だった。

1983年<Rock & Roll Night Tour>楽屋にて(鏡の前に座っているのが西本明)
佐野くんから突然、アキラ、「ヤングブラッズ」のストリングスを書いてみてくれないか?って(西本)
── 西本さんが正式加入した<Rock & Roll Night Tour>が大団円を迎えた直後に、今度は佐野さんがアメリカに渡りますよね。そして翌’84年、ニューヨーク録音の歴史的名盤『VISITORS』を引っ提げて帰国します。
西本明 初めて聴かされたときは、めちゃめちゃかっこいいと思いました。と同時に「これ、一体どうやってライヴで再現するんだ!?」って困惑もした(笑)。
── 前回お話を伺った古田たかしさんも、まったく同じことを仰ってました。そしてバンド内の変化としては、佐野さんの渡米中に伊藤銀次さんが自分の道に進まれます。初期ハートランドの実質的バンマスであり、佐野さんの相談相手でもあった伊藤さんが抜けたことで、西本さんの役割りにも何か変化はありましたか?
西本明 細かいスタジオワークの手順については、前よりもっと話すようになったかもしれませんね。というのも佐野くんがニューヨークに行ってた間に、僕は僕でスタジオ関連の仕事が増えてましたので。たとえば尾崎豊くんとか白井貴子のアレンジを引き受けたりして。そこで積んだ経験値を、ザ・ハートランドの現場にフィードバックする部分はあった気がします。でもやっぱり、銀次さんみたいなポジションではなかったですよ。相談相手ということなら、それこそ百戦錬磨のドラマー古田たかしもそうだっただろうし。どちらかというとメンバー全員で、銀次さんの役割りを分担するイメージに近いかもしれません。何より『VISITORS』以降は、佐野くん自身の音のヴィジョンが、どんどん明確になっていった。これが大きかったと思います。

1984~1985年<Visitors Tour>楽屋にて(最後列一番右が西本明)
── ’85年2月には15枚目のシングル「ヤングブラッズ」がリリースされています。<国際青少年年>のテーマソングとして注目を集めたこの名曲で、西本さんは初めて共同プロデュースおよびストリングス・アレンジでクレジットされていますね。これはどういった経緯で?
西本明 たぶん制作中に、佐野くんから突然言われたと思うんですよね。「アキラ、この曲のストリングスを書いてみてくれないか」って。驚いて「え、どんなふうに?」って聞き返したら、それこそ彼の中にはっきり設計図ができていた。導入部のあのフレーズも、全体の流れもすでに見えてましたので。僕はそれを整理してパート譜に起こし、ところどころちょっぴり自分の味付けを加えてみました。たとえば中盤の〈♪木枯らしの時も 月に凍える時も〉の直前に入る東洋風のカウンターメロディー。あのパートなんかもそうかな。
佐野元春 with THE HEARTLAND「YOUNG BLOODS」【1985年版】
── 10代の頃、音大を目指して勉強した経験がここで生きてきたと。
西本明 ええ、何事も経験とはよく言ったもので(笑)、それは大いにありました。いろんなアレンジャーの方とお仕事をできて、スキルを盗めたのも幸運だったと思います。そう言えば80年代初頭って、まだ写譜屋さんという職業があったんですよ。作曲家やアレンジャーの手書きスコアを清書したり、パート譜に直す仕事なんですけど。僕は大村(雅朗)さんの現場に入るうちに、写譜を担当されていた丸山恵市さんという方ともすごく仲よくなりまして。ご自分でも松田聖子さんのライヴアレンジなんかを手がけていた売れっ子でしたが、気軽にスコアを見せてくださった。これが非常に為になったんですよね。
── たとえば、どういったところが役立ったんですか?
西本明 レコーディングの場で意図を正確に伝えるための、実践的記譜法かな。要は「なるほど、弦パートをこう鳴らしたいときは、こう書けばいいのか」というシンプルな驚きです。作曲家によって違うそのやり方を、現場でたくさん盗み見ることができた。だから尾崎豊さんのレコーディングで、須藤(晃)プロデューサーに突然「西本、ちょっとここに弦を入れてよ」と無茶ぶりされても、経験不足を隠して何とか切り抜けられましたし(笑)。たぶんその延長線上に「ヤングブラッズ」もあった気がする。10代の頃からずっと、作曲やアレンジの仕事に憧れてきましたから。いろんな紆余曲折を経つつ、佐野元春というメインフィールドで夢が実現できたのは、やっぱり嬉しかったな。
── ただ、’89年6月に6thアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』がリリースされた直後、西本さんはバンドを一時脱退。アルバムのツアーには参加されませんでした。
西本明 ですね。これにはいくつか理由がありまして…まず1つは、ライヴのプレッシャー。もちろん、佐野くんやザ・ハートランドの仲間と一緒に駆け上がっていくのは楽しかったんですよ。ただ、さっきもお話ししたように、当時の僕はライヴよりスタジオワークに興味があったので。ものすごい数のお客さんを前に演奏するのが少しずつ重荷になってきた。もう1つそれと付随して、自分自身の世界がどんどん広がっていった時期でもありました。依頼を受け、いろんなアーティストの作品をプロデュースする作業がとにかく楽しくてね。そういう現場だと、ザ・ハートランドと違ってすべて自分でコントロールできるじゃないですか。
── 年齢的にも30代前半。誰しも自分のキャリアを改めて考える時期ですよね。
西本明 そう。自分の方から正式メンバーになりたいと言っておいて勝手なんだけどね。いったんバンドから離れて、アレンジとかプロデュース業に専念してみたくなった。それで佐野くんには無理を言って。
── でも面白いのは、曲数こそ少ないものの、その後もアルバムには必ず参加されてるじゃないですか。たとえば’90年11月リリースの7thアルバム『TIME OUT!』では、ラストの「空よりも高く」でピアノを弾いていますし……。
西本明 うん。1曲だけだけど、声をかけてもらって素直に嬉しかった。

1986年<東京マンスリー>バックステージにて(前列右が西本明)
「レインボー・イン・マイ・ソウル 」のデモ音源を聴いたとき、これは90年代の「サムデイ」かもしれないと感じた(西本)
── ’92年7月の8thアルバム『SWEET16』では「レインボー・イン・マイ・ソウル」でピアノを弾きつつ、共同プロデュースも務めておられます。ファンの間でも非常に人気の高い、90年代を代表するナンバーですが、これはどういう経緯だったのでしょう?
西本明 これも「ヤングブラッズ」と似ていて、けっこう突然だったんですよね。佐野くんから「こういう曲があるんだけど、一緒にプロデュースもしてくれないか」って連絡があって。その時点でもう、アレンジの骨格はほぼ仕上がっていました。僕が担当したのはどちらかというと曲全体のトリートメント。より具体的に言うと、シンセサイザーの音色とかテクスチャの部分ですね。当時はちょうど、音楽業界で「マニピュレーター」という新しい職業が出始めた頃で……。
── ライヴやレコーディングでコンピュータや電子機器を制御する専門職ですよね。
西本明 はい。僕もその頃、自分のスタジオワークでそういう新しいプロフェッショナルと仕事をする機会が多かったんですね。あるいは佐野くんはそれも知ったうえで、僕がやりやすい状況を作ってくれたのかもしれない。今になってみると、そんな気もします。いずれにせよこの楽曲のレコーディングでは、堀川満志くんという優秀なマニピュレーターを僕がアレンジして。スタジオで一緒にシンセの音色を作りながら進めていきました。たぶん佐野くんにとっても、初のパターンだったんじゃないかな。たしかこれをきっかけに、彼はマニピュレーターとして佐野元春&ザ・ハートランドのツアーにも参加するようになるんですよ。
── 目論見がうまく当たったと。現場の印象はいかがでしたか?
西本明 よく覚えているのはやっぱり、音色作りのプロセスかな。たとえばイントロから、浮遊感のあるフレーズがふわふわ鳴ってるでしょう。阿部(吉剛)ちゃんがエディットしたあのオリジナルな音もそうですし。僕自身が弾いたシンセサイザーもそう。ああいう独特のテクスチャはすべて、佐野くん、堀川くんと3人で意見を出し合いながら作っています。ちょっと乱暴な表現ですが、最初に「レインボー・イン・マイ・ソウル 」のデモ音源を聴いたとき、これは90年代の「サムデイ」かもしれないと感じたんですね。誰もが自分の人生に引き寄せてメッセージを受け取ることができる、間口の広い曲。それに相応しい、全体を包み込むようなサウンドがほしかったんですよね。

佐野元春
『SWEET 16』
1992年7月22日発売
── この’92年、西本さんはザ・ハートランドに復帰されます。メンバーとして再度ツアーにも参加されますが、きっかけは何だったんですか?
西本明 ’89年にバンドを抜けた後も、ライヴには足を運んでいました。僕が参加していないアルバムも聴いて、やっぱり素晴らしいアーティストだなと思っていた。で、ある日のメンバー紹介で、佐野くんがステージにいない西本明の名前を呼んでくれたんですね。「いつでも戻ってきてほしい」みたいな一言を添えて。
── ああ、なるほど。そうだったんですね。
西本明 自分で話すのはちょっと恥ずかしいですけど(笑)。あれはグッときたというか、やっぱり心揺さぶられました。そういうとき、彼はすごく素直で優しいんですよ。変に構えたりせず、思っていることを正直に、丁寧に伝えてくれる。たぶんその直後、久しぶりにちゃんと話したんです。たしかうちに遊びにきてもらって、一緒にご飯を食べながら。で、僕の方から「やっぱり一緒にやりたいね」という話をしました。
── バンドから離れたことで、かえって視点が変わった部分もありました?
西本明 うん、あったと思います。大前提として喧嘩別れじゃないし、佐野くんやメンバーとの人間関係もちゃんと続いてましたから。その上で、佐野元春というアーティストをちょっと俯瞰で見られたのも大きかった。要は、自分にとって佐野くん以上に好きなミュージシャンっていなかったんですよ。アルバムも相変わらず素晴らしいし、僕が一番ピアノを弾きたいと思うのも、やっぱり佐野くんの曲だった。なのでシンプルに、この繋がりをなくすのはあまりにもったいないなと。
佐野元春 with THE HEARTLAND「レインボウ・イン・マイ・ソウル」1993ライヴ
── 西本さんの復帰後、佐野さんは’93年11月に9thアルバム『THE CIRCLE』をリリース。約半年にも及ぶ大規模な「The Circle Tour」を経て、翌’94年4月にザ・ハートランドは解散しました。
西本明 はい、そうですね。
── その後、多くのミュージシャンとのセッションで作られた10thアルバム『FRUITS』(’96年7月)を通じて、佐野さんはジ・インターナショナル・ホーボー・キング・バンドを結成。西本さんはザ・ハートランドのメンバーでは唯一、この新バンドに参加されました。
西本明 たぶん最初は、ある種の “橋渡し” を期待されてたと思うんですよ。ちょっと乱暴な表現だけど、リスクヘッジと言えばより伝わりやすいかもしれない。初めてのメンツでレコーディングやツアーを行うのは、やっぱり大変ですし。まだ新曲も少ないから、ライヴではどうしても昔のレパートリーも演らざるをえない。だったらザ・ハートランド時代から佐野くんのやり方を熟知している人間がいた方が、何かと安心だろうと。ちゃんと確かめたわけじゃないけど、自分に課せられた役割りをそう捉えていました。実際、最初のツアー前は、譜面も用意したんですよね。でも、いざ始まってみたらまったく必要なかった(笑)。
── 西本さんの予想とはまるで違っていたと。
西本明 うん、まったく。もともと面識のあったギターの佐橋(佳幸)くんと、ドラムの小田原(豊)くん。このときが初顔合わせだったピアノのキョン(Dr.kyOn)さんと、ベースのトミー(井上富雄)くん。ご存じのように、皆さん百戦錬磨の凄腕ミュージシャンじゃないですか。テクニックも経験値も申し分ないし、しかも全員人柄がいい(笑)。実際にセッションしてみても、ものすごい柔軟性があって。佐野くんのアイデアにぱっと反応して、演奏がどんどん広がっていくのがわかった。ザ・ハートランド時代とは音楽のあり方がまったく違っていて。「あ、佐野くんは新しいフェイズに自分を解放したんだな」と思いました。
── そして’97年12月、新しいバンドで録音された11thアルバム『THE BARN』が発表されます。本作はアメリカのルーツロックの “聖地” とも言えるニューヨーク州ウッドストックで、メンバー全員が合宿しながら制作されました。
西本明 いろんな意味で得難い経験でしたね。自由なセッションを通じてアレンジを固めていくジャムバンドっぽいアプローチも新鮮でしたし。何より、ゲスト参加された元ザ・バンドのガース・ハドソンさんの演奏を垣間見られたのが、僕的にはすごく嬉しかった。残念ながら今年1月に亡くなられましたが……自分にとってあの経験は、一生の宝だなと。

佐野元春&THE HOBO KING BAND
『THE BARN』
1997年12月1日発売
── ザ・バンドの音楽もお好きでした?
西本明 ファーストの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(’68年)は死ぬほど聴きました。それこそ、最初に話した下村誠くんに教わったんじゃなかったかな。自分も若かったですし、最初は「ふーん、地味だな」くらいの感想しかなかったんですよ。ピアノやオルガンの音もどこか土臭いというか、モコモコしててね(笑)。それこそジャクソン・ブラウンの「ヒューズ(The Fuse)」的な、パキッと明瞭なサウンドとはまるで違ってましたので。「レイト・フォー・ザ・スカイ」もモコモコしていますね。でも聴き込むうちにどんどん引き込まれていった。あと、これはザ・バンドじゃないんですけど、カーラ・ボノフっているじゃないですか。
── はい。いわゆる西海岸サウンドを代表する女性シンガーソングライターですね。
西本明 はい。彼女が70年代末に「哀しみの水辺(The Water Is Wide)」っていうトラッドソングを録音してまして。その間奏のアコーディオンがめちゃめちゃ渋くて、しかも天才的な閃きもあって、とにかくかっこよかった。それこそ駆け出しの頃、同居していた板倉雅一とふたりで盛り上がってたんです。で、ずっと後になって知ったんですけど、それを弾いていたのもガース・ハドソンさんだった。
── へええ、そうだったんですね。そういえば『THE BARN』に収録された「7日じゃたりない」でガースさんがゲスト参加されたのも、アコーディオンでした。
西本明 そうそう。前にもお話ししましたが、あのとき僕、ガースさんのレコーディングを覗かせてもらったんですね。セッションではなく、すでに録音されたバンド演奏に1人でダビングする形で。正直、気軽に近づける雰囲気じゃなかったんですけど、スタジオの片隅でこっそり見せてもらった。これがもう、ワンテイク目から素晴らしい演奏でした。何ていうか、すべての音がキラキラときらめているようで。月並みな表現ですが、音楽の魔法を目の当たりにしてるようでした。
── それもすごい経験ですね。
西本明 ね。自分が二十歳そこそこの頃、レコードで聴いて感激した人が、目の前で同じ楽器を弾いている。時空がぐるっと回ってつながったような、ちょっと不思議な感覚でした。佐野くんと一緒に長い旅をして、ここにたどり着いたんだなって。まあ彼は、今も変わらず新しい旅を続けてるわけですけど(笑)。

佐野元春 & THE COYOTE BAND
『HAYABUSA JET Ⅰ』
2025年3月12日発売
── 佐野元春&ザ・コヨーテ・バンドの最新作はいかがでしたか?
西本明 『HAYABUSA JET Ⅰ』ですね。聴きましたが、佐野くんらしくてすごくよかった。どの曲も今のサウンドになっててお洒落だし、演奏するミュージシャンも優秀。何より、本人が楽しんで歌ってるのが伝わってくる。未だにエッジを緩めず、自分のやりたい表現を追求しているのは素敵だなって思います。個人的に気に入ったのは、最後から2曲目の「君をさがしている - 朝が来るまで」かな。他はオルタナっぽい感じを受けましたが、この曲はちょっとオールドアメリカンロックの匂いがして(笑)。そういうところがグッときました。
── アルバム冒頭を飾るのは、かつて西本さんがストリングスを手がけた「ヤングブラッズ」です。
西本明 僕が書いたフレーズをさりげなく残してくれてるパートもあって。そういうところもニヤッとしちゃいました。そんな楽しみ方をしているのは、たぶん僕だけだと思いますけど(笑)。
佐野元春 with THE HEARTLAND「YOUNG BLOODS」【2024年版】
(了)
※記事をクリックすると拡大します。
▲『MOTOHARU SANO THE COMPLETE ALBUM COLLECTION 1980-2004』ブックレットより
西本明(にしもと・あきら)
●1957年10月6日生まれ。’80年ごろからキーボードプレイヤーとして活動を始め、甲斐バンド、浜田省吾、佐野元春らのツアーに参加。その後、アレンジャー、プロデュースにも活動の幅を広げる。以降、キーボードプレイヤー、アレンジャー、音楽プロデューサーとして現在までに数多くのレコーディングに参加している。おもなライヴ、レコーディング参加アーティスト:佐野元春(THE HEARTLAND/THE HOBO KING BAND)、尾崎豊、渡辺美里、鈴木祥子、白井貴子、伊豆田洋之、大江千里、江口洋介、吉田栄作、ちわきまゆみ、稲垣潤一、南佳孝ら。
nishimotoakira.com/
佐野元春コラボレート
STUDIO
1981『HEARTBEAT』(Keyboards)
1982『SOMEDAY』(Keyboards)
1986『CAFÉ BOHEMIA』(Keyboards)
1989『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』(Keyboards)
1990『TIME OUT!』(Keyboards)
1992『SWEET 16』(Piano, etc.)
1993『THE CIRCLE』(Organ, Piano)
1997『THE BARN』(Organ, Keyboards, Wurlitzer, Percussin)…and so on
LIVE
Rock & Roll Night Tour(1982年9月~1983年3月)
Visitors Tout ’84-‘85(1984年10月~1985年5月)
東京マンスリー(1986年4月~9月)
Café Bohemia Meeting(1986年10月~1987年9月)
Piscec Tour(1987年12月~1988年5月)
See Far Miles Tour PartⅠ(1992年1月~4月)
See Far Miles Tour PartⅡ(1992年9月~1993年1月)
The Circle Tour(1993年12月~1994年4月)
Land Ho!(1994年9月)
International Hobo King Tour(1996年1月~2月)
Fruits Tour(1996年9月~12月)
全国クラブ・キャラバン・アルマジロ日和(1997年10月)
The Barn Tour ’98(1998年1月~4月)…and so on
▲ウェブマガジンotonano別冊『Motoharu Sano 45』記事内のEPICソニー期の作品表記は2021年6月16日発売された『MOTOHARU SANO THE COMPLETE ALBUM COLLECTION 1980-2004』ブックレットに基づいています。
-
【Part2】1984-1989|Motoharu Sano 45
2025.5.27