2025年6月号|特集 ジャパニーズ・フュージョン

【Part3】 ジャパニーズ・フュージョンの発展と多様化|ジャパニーズ・フュージョンSTORY

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解説

2025.6.18

文/金澤寿和


【Part2】からの続き)

ロックやポップスの影響を受けながら独自の進化を遂げたジャパニーズ・フュージョン


 ’77年頃から加速度的に注目度を上げてきた日本のクロスオーヴァー。その呼称がフュージョンへと推移したように、音楽的にもジャンル・ミックスの幅を拡大させつつ、同時に融合の度合いを深化させた。その背景を探ってみると、この新潮流を推進させる様々な動きが、同時多発的に発生していたことが分かってくる。

 ひとつのキッカケが、’77年8月にオープンしたライヴハウス、六本木ピットインだ。ジャズで成功した新宿ピットインの姉妹店として開店。同年10月に渡辺貞夫のサポートで来日したリー・リトナー&ジェントル・ソウツが単独出演すると、これが大盛況に。翌月のラリー・カールトンも大人気で、これを機に日本のフュージョン・アーティストも続々ブッキングされるようになった。フュージョンの聖地“六ッピ”の誕生である。また荻窪や下北沢、新宿などに展開していたロフトは、元々ロックやポップスのハコだったが、ここにもその手のアーティストが多数出演。深町純、渡辺香津美、サディスティックス、カシオペア、プリズム、ザ・スクェア、クロスウインドなどが出演リストに載った。

 ライヴ・シーンが活況となれば、創作面を支える所も必要になる。逸早く対応したのは、’77年のフライング・ディスク(ビクター)とベターデイス(日本コロムビア)、翌年のエレクトリック・バード(キング)、更にオープンスカイ(CBS・ソニー/当時)といったレーベルだ。フライング・ディスクが渡辺貞夫と日野皓正の2枚看板を擁し、アーティスト・レーベルを標榜したベターデイズは若い渡辺香津美や坂本龍一をプッシュ。それこそYMOデビュー直前に発売された坂本の『千のナイフ』は、当初実績500枚にも届かなかったそうだから、シーンの成長はまさにライヴとレコードの両輪と共にあった。



渡辺香津美
『LONESOME CAT』

1977年録音


 日本のクロスオーヴァー/フュージョンが、海外のそれと違ってロックやポップスの影響が強いことは前に触れた通り。これは単に音楽的源流というだけでなく、創作面やマーケット拡大でも歩みを同じくしたと言える。現在は“シティポップ”として親しまれるが、当時は“ニューミュージック”。昭和歌謡の分業制とは違って自作自演のシンガー・ソングライターを中心とし、中でも特に洗練度が高く洋楽ポップスに近い者たちが、今般シティポップと呼ばれる。ユーミンとキャラメル・ママ〜ティン・パン・アレー(細野晴臣、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫)、五輪真弓とエントランス(大村憲司、村上ポンタ秀一、高水健司)の関係性、サディスティック・ミカ・バンドとインスト指向の後継サディスティックス(加藤和彦、ミカ+高中正義、高橋ユキヒロ、小原礼、今井裕、後藤次利)、りりィ率いるバイバイ・セッション・バンド(坂本龍一、伊藤銀次、吉田建、斉藤ノブ、井上鑑、土屋昌巳ほか)については既に触れたが、ニューミュージックのサポート陣には、後々フュージョン方面で重要な役割を果たすミュージシャンが少なくなかった。

 ジャズ側からロックやR&Bに接近した洋楽フュージョンにとって、ヴォーカル導入は主にポピュラリティを得る手段と言える。しかし国産フュージョンでは両者の距離感が極めて近く、表裏一体だった。SHOGUN(芳野藤丸、長岡道夫、大谷和夫、山木秀夫ら)、スペクトラム(新田一郎、奥慶一、渡辺直樹、岡本郭男ら)、小林泉美&フライング・ミミ・バンド(清水靖晃、土方隆行、渡嘉敷雄一ら)、スクール・バンド(ジョン山崎、高橋ゲタ夫ら)などは、歌モノ中心でフュージョン扱いされる機会が少ないものの、演奏のプライオリティは高く、まさに若手ミュージシャンの登竜門的ポジションにあった。あくまでシンガーを立てたバンドだったが、大橋純子&美乃屋セントラルステーション(土屋昌巳、菊池ひみこ、見砂和照ら)や金子マリ&バックスバニー(鳴瀬喜博、難波弘之ら)の存在も忘れがたい。